19.その後(終)
33年度が終わり、中京商では吉田や杉浦、明石中では楠本や峯本、山田が卒業した。3校が激しく頂点を争った時代のその後を紹介する。
中京商(現・中京大中京)
吉田、杉浦の卒業した後は、捕手の野口明の弟である野口二郎が頭角を現し、37夏38春と広島商に次ぐ史上二校目の夏春連覇を達成した。37夏は33年以来の夏の大会出場であり、これで夏は19連勝で負けなしである。それ以後戦前は夏の大会に出場していないため、中京商は夏に一度も負けることなく終戦を迎える。戦後もコンスタントに出場を重ね、54夏、56春、59春、66春夏と優勝を重ねている。名前を中京、中京大学付属中京と名前を変えた09夏、66夏以来43年ぶりの夏の決勝へたどり着くと日本文理との打撃戦の末、史上最多となる夏7度目の優勝を果たした。春の優勝回数4回は歴代2位。合わせて11回の優勝を果たしている。勝利数も全国最多である。
中京商の選手
中京商を卒業した吉田は杉浦と共に明治大学へ進学した。当時明大の監督だった岡田源三郎は中京商が優勝する前からコーチをしに来ていた。その関係から、初優勝メンバーの大鹿がまず進学し、続いて恒川・村上、そして吉田と杉浦と続いたのである。ちなみに明大には甲子園で対戦した太田(広島商)、尾茂田(松山商)などもいた。その後も明大には中京商からの入学が続く。その中で、吉田の1学年上の捕手桜井は慶大に進んでいる。
吉田と杉浦は早速1年目から出場を果たす。春季リーグは当時のルールの関係もあり登録されることはなかったが、1934年9月8日の秋季リーグ開幕戦(対法政)には二人そろって出場した。当時の六大学は人気が最盛期であり、この日も定刻前からファンが神宮球場に押し寄せ、超満員。スターティングメンバーの発表で吉田の名前が呼ばれると、三塁側明大応援団を中心として、場内のファンから大歓声が響いた。帽子も新聞も空中に舞う。二十を超えるカメラマンが吉田にレンズを向けた。対する投手はのちの200勝投手若林忠志。得意のドロップが冴え被安打は2に抑え、奪った三振は5。四球やエラーなどもからみ3失点はしたものの、杉浦が初回にタイムリーを打つなど味方が若林から4点を奪い、勝利。吉田はデビュー戦を完投勝利で飾った。甲子園で大歓声の中、多くの大試合を潜り抜けていたが、神宮では独特の圧迫感を覚えたとのこと。このシーズンは立教・慶応からも勝利を挙げ3勝2敗。防御率は3.74。このころは1試合に必ず1度は集中打を浴びることがあり、慶大戦では11四球を与えている。杉浦の成績は10試合に出場し、打率.250 0本塁打5打点。その後、吉田は36年春に7勝をあげるも、肩を壊し外野手に転向。主将にもなり、38年春には.345を記録しリーグ6位になった。この二人が上級生になった1937年・38年に明大は史上初の4連覇を達成している。
大学を卒業後、吉田は藤倉電線に就職。投手に復帰し、39年の都市対抗野球で優勝した。杉浦は大学院に進学し、海草中の監督に就任。39夏の甲子園で優勝している。終戦後に杉浦は中部日本(現・中日)に入団。8年間長距離打者として活躍し、監督にも就任した。
その他、当時の選手では芳賀直一・村上重夫・野口明・鬼頭数雄・加藤信夫・伊藤庄七が選手として、桜井寅二がコーチとしてプロの世界に進んでいる。プロ入りした選手の中では、野口明が37秋に最多勝、42年に打点王を獲得した。また、鬼頭数雄も40年に首位打者を獲得している。
明石中(現・明石)
翌年も25回を投げ切った中田、捕手の福島、一塁手の横内、二塁手嘉藤などレギュラー陣が残り、翌34春にはベスト8に入ったが、夏は兵庫予選決勝で神戸一中と延長21回の激闘の末サヨナラ負け。翌夏1935年も予選決勝で育英商(現・育英)に敗退し戦前は夏の大会に出場することはできなかった。戦後は横内が監督になり47春(0勝)、50年には延長25回の33年以来となる夏の甲子園出場を果たした(0勝)。横内退任後も60夏(ベスト8)、84夏(1勝)、87春(1勝)夏(0勝)と甲子園に出場をしている。平成に入ってからは出場がなく近年の最高成績は12春季近畿大会ベスト4。
明石中の選手
楠本は慶大に進んだ。投手としてではなく外野手として活躍した。剛球楠本は19歳の夏で終わっていたのである。中田も慶大へ進学し、二人共に慶大の中心として活躍。39年・40年と上級生の頃には主将も務め、39年秋は優勝、40年春も3校同率ではあるが1位に輝いた。楠本は通算85試合に出場し66安打。打率.232。中田は大学でも投手としてプレーし、中京商の主将だった桜井とバッテリーを組むなどして通算15勝を挙げた。
部長だった竹山は35年に異動。竹山と選手との交流は晩年まで続き、87年の明石高選抜出場の際にも共に観戦しに行った。95年1月に99歳没。プロへは山田と松下繁二が進んでいる。
松山商
34年は春夏ともに出場がなかったが35夏、32年にベンチ入りをしていた菅利雄、筒井良武、亀井巌に加え、のちにプロ入りする千葉茂(巨人)、中山正嘉(金鯱他)、伊賀上良平(タイガース他)、筒井修(巨人)、高久保豊三(金鯱)らを擁して悲願の夏優勝を果たした。その後は夏将軍の異名をとり、50夏、53夏、69夏、96夏と優勝し、公立校として最多の勝利数を誇っている。一方、春は戦後5回の出場にとどまっており、優勝もない。最後の甲子園出場は01夏(ベスト4)である。近年の最高成績は18夏県大会ベスト4。
松山商の選手
エースの三森秀夫は卒業後、法政大学へ進学。六大学へは他にも高須、岩見(早大)、尾茂田、藤堂(明治大)、景浦(立教大)などが進んでいる。このうち高須は35春に首位打者を獲得し通算打点65は現在でも歴代10位である。高須・尾茂田・景浦などがプロへと進み、高須・尾茂田がイーグルス、景浦がタイガースへ入団した。タイガースへ進んだ景浦は4番を打ち、投手も兼任して36秋に最優秀防御率と最高勝率。37春と38春に打点王、37秋に首位打者を獲得するなどタイガースの看板打者として活躍した。三森も在学中に巨人と契約したが、周囲から反対され、入団はしなかったようである。亀井は戦後松山商の監督となり53夏には全国制覇を果たしている。
とある野球部の伝説の3年間 ジラフ @jirahu
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