第2話

 結局、『矢印の本』についての説明はしてもらえなかった。

 帰宅してすぐベッドに横になる。上の空のまま、さっきまでのことを思い返す。窓からは西日が差しこんでいて、部屋の中をオレンジ色に染めている。フワフワとした感覚は、いまだに僕の体から離れていかない。

 部屋の電気をつけ、借りてきた日記を開く。捨てられたという割には汚れもあまりなく、買ったばかりのノートみたいだ。

 日記は、一ページ当たり三日分ほど書かれてあった。日付は五月二日から始まっており、一日に書かれる内容はその日によってまちまちでむらがある。

 綺麗な字で書かれた記録を読んでいく。どうやらこの日記を書いたのは女性で、『彼』という人物に恋をしていたようだ。その日感じた感情が、丁寧に記されている。

 

 日記はすぐに読み終わった。約十ページ、一か月間という短い期間にだけつけられていた日記は、淡い失恋で幕を閉じる。

 これが、僕にとっての『矢印の本』。

 すぐに読み終えたような気がしていたけれど、もう外の世界は闇の中だ。遠くの方では、まだ賑やかそうな光が見える。

 日記を読んで思ったのは、意外とどこに行っても世界は狭いのかもしれないということ。広い世界を目指して東京に来たのに、まだ、僕がいるのは狭い世界だ。


「無い⁉」

 翌日、日記も時間をかけず読めてしまったのでさっさと返しに行こうと思っていたのだが……。

「何で……。机の上に置いといたのに……」

 昨日借りて読んだあの日記が無くなっていた。さすがに、図書館という公共施設の図書を紛失というのはまずい。どうしたものか、さっきから冷や汗が止まらない。

「うーん……」

 冷静になろう……。貸出期間は二週間だ。時間はあるし、ぎりぎりまで探してそれでも見つからなかったら素直に謝ろう。


 素直に謝ることにした。二週間、毎日家にいる時間は隅まで探したが一切見つからなかった。いよいよ盗難も考えたが、あんなものを盗む動機が分からないし現実的ではないような気がする。

 というわけで、再び僕は廃棄図書館へとやってきた。

「お久しぶりです」

「おや、久しぶり。今日は何の用だい?」

「あの、借りていた日記……、失くしてしまったみたいで……。あの、すみませんでした」

 頭を下げる。

「ああ、いいのいいの。気にしないで」

「でも……」

「貸出期間なんてどうでもいい。『矢印の本』は、本来そういうものだから」

 そういえば、『矢印の本』について僕はまだ何も知らない。この際だから、聞いてみようか。

「『矢印の本』って、一体どういうものなんですか」

「……そっか、まだ話していなかったか」

司書のおじいさんは一呼吸置いて、穏やかな口調で話し始めた。

「ここにある本は一度捨てられたもの。そして、再利用するために集められたわけではない」

「はい」

「ここにある本は全て、漠然とした誰かに読まれるためにあるのではない。明確な誰かに読まれるために、ここでずっと待ち続けているんだよ」

「明確な、誰か」

 僕はまだ、狭い世界にいる。あの日記を読んでそう思った。どうしてそう思ったのか、自分でも実は分かっていなかった。

 でも、その説明だけで十分だった。僕は、この司書さんが言いたいことを全て、理解できた気がした。そして、あの日記の全てを。

「ここにある本のほとんどは、Aという人間がBという人間にプレゼントとして送ったが、一度も開かれることなく、あるいは途中までしか読まれない状態で捨てられてしまったものたちだ。その本たちはここに集められ、再びBという人間に読まれる日を待ち続けている」

 それは、読み手の都合で起こるものだ。一冊の本を中心としたとき、この場合その作者は無視される。そして――。

「だが稀に、そうじゃないものもここにやってくる。それが、君にとっての『矢印の本』だった」

 そして、それ以外の場合は、作者を無視できなくなる。なんなら、作者こそが重要になってくる。あの日記を書いた人間のような。

「『矢印の本』は、想いを乗せた本。ある特定の誰かから誰かへ向けて、価値を与えられた本、ってことですよね」

 玲奈は言っていた。父親が、自分のことを書いてくれた本を、読まずに捨ててしまったと。そして彼女はあの日、その本を持っていた。廃棄図書館を見つけ、あの本を見つけたのだ。父が娘のために筆を走らせ、想いを乗せたその本を。

 そして僕も同じだった。あの日記に書かれていた『彼』は、僕だ。あの日記を書いた人間には、内容から見て実は心当たりがあった。たぶん、中学の頃書かれたものだ。

 僕はあの日記を見たのは今回が初めてだから、贈り物としてもらったことはあるはずがない。つまりそういうことなのだろう。あの日記は、僕への想いのみで書かれたのだ。そしてそれは、その作者によって捨てられた。

「顔、赤くなってるよ」

 はっと思い司書さんを見ると、これまでで一番いい笑顔でこちらを見ていた。きっとこの人は、僕のような人間をたくさん見てきたのだろう。たぶんこの人は、僕の胸の内をとっくに見透かしている。

「やめてくださいよ……」

「……誰かへの想いなんてのは、簡単に捨てられるもんじゃないのにねえ」

 初めてここに来た時に感じた大量の人の気配の正体は、実に暖かく一途な想いの結晶だった。まるで生霊のようだ。限りなく人間に近いこの生霊たちは、あまりに健気だ。

「自身を読むことなく捨てた人を、ずっと待ち続けている……」

「私は、そんな廃棄図書館が大好きなんだ」

 司書さんが不意に横を向く。つられて僕もそちらに顔を向ける。

 目の前には、お世辞にも広いとは言えない空間に本棚が置かれ、そこに窮屈そうに様々な本が並んでいる。すごくきれいだった。「誰かのために」という意味を与えられた、想いを届ける矢印の形をした世界が広がっている。

「ちなみに、その使命を果たした本は、いつの間にか消えて無くなる」

「え……?」

「一度は捨てられたんだ。役割を果たせば、この世界にとどまる意味はもうないよ」

  貸出期間はどうでもいい、か……。なるほど。

 想いを届けるのに、時間なんて関係ない。この本たちは、きっとそれを証明している。


 ■


  七月二十八日

   いつものように廃棄図書館へ行った私は、なんと、懐かしの彼と出会った。  いや、厳密に言うと出会ったんじゃなくて見かけただけなんだけど……。でも  それは今はどうでもいい。重要なのは、彼が私の書いた日記を持っていたこ   と。確かにあの中二病全開の日記を持っているのが恥ずかしくなって捨てたけ  ど、まさかあそこに置いてあっただなんて……。

  

   彼は、私だって気付いただろうか。別に、気付かなかったならそれでいいけ  れど、でも、届いてほしい。私の想い、届け。

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廃棄図書館 またたびわさび @takazoo13

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