廃棄図書館
またたびわさび
第1話
五月二日
日記を書くことにした。数日前、たまたま彼と二人で話をする機会があっ た。三年生になって初めて同じクラスになったからもちろん仲良くなんてな かったけど、彼との会話はとても心地が良かった。私の目を見て話してくれ る。熱心に私の話を聞いてくれる。彼の誠実さと真面目さと人懐っこさを目の 当たりにした私は、彼に恋をした。
今のこの感情を忘れたくない。というわけで、今日から毎日日記をつける。 どれだけ続くか分からないけれど、自分のためにも、終わりまで。
■
「この本、私のお父さんが、私をモデルにして書いてくれた本なんだよね」
そう言って
季節は夏。玲奈と付き合い始めて、もうすぐ三か月が経つ。大学入学後すぐに仲良くなった僕と玲奈は、そのまま恋人関係になった。彼女の父が有名な作家であると知ったのは、それから間もなくのことだった。
「父さんがこれ書いてるとき私中三くらいで、そん時しょっちゅう父さんと喧嘩してたんだ。だから、この本をプレゼントされて、玲奈のことを書いたんだって言われた時、全然読みたいって思わなくて—―」
玲奈はじっと見つめていた本から目を離し、僕の方に顔を向ける。
「部屋にも置きたくなくて、読まずに捨てちゃったんだよね」
へへ、と笑いながらつぶやく。後悔の思いが、こっちにまで伝わってくる。
「じゃあ、どうしてそんな本を、今になって読もうと思ったの?」
「『廃棄図書館』を、見つけたから」
「廃棄図書館?」
玲奈は、僕の反応を見ると、何かを企むかのような笑みを浮かべる。たまに、彼女はこういう顔をするのだ。そして決まって、そういう時の彼女は楽しそうに振舞う。
「
「うん、名前も聞いたことない」
「じゃあ、私が教えてあげるから、渡も行ってきなよ。たぶん楽しいから」
そう言うとすぐに、玲奈は僕のメールに廃棄図書館と呼ばれる施設の位置情報を送ってきた。
「この後行ってきなよ」
「ええ……」
「本好きでしょ? きっと気に入るよ!」
残念ながら、この後は授業もバイトもない。玲奈の言葉には、抗えそうにない。
■
五月十日
あの日以来、特に喋ることのなかった私たちだが、今日会話をするには十分 すぎるほどの機会を得た。今日の体育の授業で、私と彼は見学だった。私は体 調不良。彼は、前日部活で怪我をしたため。
何か喋れないかと思っていると、彼の方から話しかけてくれた。趣味や部活 のこと、先生の悪口、友達のこと。いろんなことを喋った。体調不良であるこ とを忘れてしまうくらいには楽しかった。
ただ気になったのは、友人の話をしている時に女子の名前がいくつか出てき たこと。これが、嫉妬なのだろうか。
体調不良であることを忘れてしまうくらい楽しかった。だけどその時だけ は、どうも胸が苦しかった気がする。
■
僕が東京の大学に入学したのは、単純に周りにいろいろな施設があったり、いろいろな人に出会えると思ったからだ。田舎で育った僕の周りには、カラオケも本屋も映画館もなかった。緑で覆われた土地が、見渡せる世界のほとんどだった。
唯一の救いだったのが、図書館があったこと。といっても、この図書館だってさして大きいわけではない。置いてある本の種類も数も、今思えば信じられないくらい少なかった。
それでも、当時の僕にとっては、住んでいる世界よりよほど広い世界だった。緑で囲まれた田舎にある小さな図書館の、その一隅に設置された古びた本棚に並べられた、手に乗る大きさの紙とインクできた世界の方が。
本の世界の広さを知った時、同時に、自分の住んできた世界の狭さを痛感した。確か、それを感じたのは高校に入ってすぐだったはずだ。中学生としての性質が抜け切れていなかった僕は、より大きな世界を知ることを自分の天命だと信じて疑わなかった。世界の全てを、見たいと思っていた。
随分とイタイ考えだったし恥ずかしい。だけどそのおかげで、今僕は東京にいる。そして玲奈と出会った。その玲奈から、新しい世界を教えてもらった。
■
五月二十日
今日は土曜日。私から声をかけて、彼と一緒に映画を見に行った。男の子と 二人で出かけるのは初めてですごく緊張したけど、それ以上にやっぱり楽し かった。その反動かもしれないけど、別れ際の喪失感と言ったらもう……。
ずっと、一緒にいれたらいい、と強く思った。そろそろ、告白のことも考え ないと…。
■
廃棄図書館は、千代田区の駅近くにひっそりと佇んでいた。赤レンガでできたその建物を見て、新品の十円玉みたいだと思った。シンプルな造形で古風なデザインなのに、まるで昨日建てられたように汚れ一つ見当たらない。不思議な場所だった。どの建物と比べても、この建物が纏う雰囲気は異質だった。言ってしまえば、不気味なのだ。東京にある図書館に比べれば随分と小さい建物のはずだが、ものすごい数の人間の気配を感じる。霊感はないはずだけど、何千という人が、この建物に詰め込まれているような感覚を覚える。
そしてもう一つ不思議なのは、これほどまでの異様なオーラを放っているこの建物を、通り過ぎる人間が誰も気に留めないことだ。まるでジャングルにいるカメレオンのように、千代田区の風景に溶け込んでいる。
「玲奈……、よくこんなところ見つけたな……」
玲奈も、この気配を感じたのだろうか。今度聞いてみよう。
ゆっくりと図書館の扉を開ける。入ってすぐ右側にカウンターがあり、そこに灰色のニット帽をかぶり丸眼鏡をかけた六十代くらいの男性が座っていた。おそらく司書さんだろう。
「いらっしゃい。君は、ここに来たのは初めてかい?」
「ああ、はい。わかるもんなんですか? 僕が初めての客かどうか」
「まあね。ここは『矢印の本』が集う場所。大抵、初めて来た人間は戸惑ったような顔をする」
どうやら戸惑った顔をしていたらしい。
「『矢印の本』って、何ですか?」
「まずは、本の世界を楽しんできなさい。狭い図書館だがいろんな本がある。君がこれだと思った本を持っておいで。その後、説明してあげよう」
司書さんの目は、優しい目だった。まるで、さっきの玲奈のように穏やかに僕の顔を見据えている。
「じゃあ、探してみます」
そう言って僕は図書館の奥へと歩いて行く。
奥行きのある空間で、両側に二階へと上がる階段が設置されている。本棚は、壁に沿って一列ずつ並んでおり、他にフロアの真ん中に一列奥まで続いている。
僕は二階に上がった。一階には司書のほかに誰もいないようだったが、二階には三人ほど客がいた。作業着を着た体格のいい男性に、椅子に座って本を読んでいるお腹を大きく膨らませた妊婦さんもいる。一番奥の方には、綺麗な黒髪を伸ばした若い女性の後ろ姿も見える。
そういえば、この図書館に入る前に感じた物々しさを今は全く感じない。むしろ、体の奥まで暖かくなるほど気分がいい。
階段を上ってすぐのところにあった本棚に近づき置かれてある本を眺める。
一番上の段から目を下に動かしていくと一つの本に目が留まった。いや、正確にはそれは本と呼べるような代物ではなかった。
本棚から引き出す。やけに体積の小さいこの本は、大学ノートだった。表紙には『日記』とだけ書かれている。
「なんだこれ……?」
ここは図書館のはずだ。どうして、こんなものがあるのだろう。
人の日記を勝手に覗こうとは思わないし、もしかしたら、誰かが意図的において行ったのかもしれない、と思い中は開かずに本棚に戻した。興味もないし。
僕はその後図書館を一通り見て回り、適当な本を選んで下へ降りた。
■
六月一日
友達から、彼に恋人がいるという話を聞いた。最近付き合ったらしい。信じ たくない。苦しい。油断すると、いつでも涙がこぼれそうになるくらいに。
■
司書さんのところへ戻り、本を差し出す。新聞を読んでいた司書さんは、こちらを見て小さく微笑む。
「持ってきました」
「これが、君の選んだ本?」
じっと、その本を見つめたかと思うと、いきなり僕の顔を見上げる。そしてまた本に目を移す。
「これじゃ、ないね」
一言、そう放った。相変わらず、薄く微笑んでいるのに、その言葉を言った途端に司書さんの纏う空気が変わった気がする。この人もまた、何かおかしい。この図書館と同じように、彼も普通じゃない気がしてきた。まるで超能力者のようだ。人の心を見透かすことが出来る超能力者。僕は今ちょうど、見透かされている。
「もっと素直になっていい。君の視線を引き付けたその本が、君にとっての『矢印の本』なんだ」
「『矢印の本』……。あの、この図書館は一体何なんですか。普通じゃない。ここは……、まるで異世界だ……」
「廃棄図書館……だなんて、誰がつけたんだかねえ。私は、この名前はあまり好きじゃないんだ」
彼は目を細める。変わらない微笑みの中に、暗い表情が垣間見える。
「ここは、日本のどこかで捨てられた本が集まる場所。誰がどうやって集めてくるのかは私も分からないが、いつの間にか新しい本が増えている……」
「捨てられた本……。だから、廃棄図書館」
「安直だと思うよ。ただ、この図書館が存在する意味は、決して再利用ではないと私は思う」
「再利用ではない、ですか」
「確かにここにある本は、誰かによって廃棄された。だがね、捨てられるのは本であって、決して物語ではない。物語はいつだって色あせることなく世界のどこかに存在し続ける。だからね、そういう意味ではこの図書館が存在する意味はない」
難しい話だが、なんとなく言いたいことは分かる気がした。どこかの誰かが捨てた本をここに集めて、どこかの誰かという曖昧な存在に向けて、せっかくだから読まれるべきだという思いのもと作られた図書館ではない。物語は色あせない、朽ちることがない。なら、わざわざ廃棄図書館なんていう図書館を作る必要がない。
「……さっき、日記を見つけました。大学ノートに書かれた日記。あれって、この図書館のものなんですか?」
「日記か……。また、面白いものが置かれていたもんだねえ。全然気づかなかった」
「誰かが置いて行ったものと思って持ってきませんでした。あれも、『矢印の本』なんですか……?」
「君が見つけたのならそうさ。それも、ちゃんと『矢印の本』だよ」
貸出もしていたので、僕はその日記を借りることにした。貸出期間は二週間。その日付が印刷された紙とともにその日記を受け取った。
最後に司書さんは、こうつぶやいた。
「まあ、貸出期間なんてのはどうでもいいんだけどね」
■
六月四日
ショッピングセンターに行った帰り、彼とその彼女が二人で歩いているのを 見かけた。必死になって力を入れていたのが、近くの公園で限界に達した。ベ ンチに座ってずっと泣いていた。泣いてしまっていた。
一か月とちょっと書いてきたこの日記は今日でおしまい。まだ三分の二くら い余っているし、彼への想いでもつづろうかと思ったけど、この余白じゃそれ を書くには少なすぎるというものだ。
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