月夜の晩に

中村ハル

先生の話

狸と狐といえば、とかく狐の方が騙し方の質が悪いという印象がある。

それに対して狸といえば、どことなく愛嬌があり、抜け目があり、憎み切れないという印象だ。


高校の時分、日本史の先生は、何かにつけて話を脱線させるのが好きだった。

教科書の内容から少しばかり逸脱して、小話のような、本筋とは関係のない豆知識を話してくれた。

それが大層面白く、私はとても好きだったのだが、進学校の所為か、生徒の人気は半々だった。


今にして思えば、日本史に興味がない生徒や、ただ受験のために覚える「勉強」ではなく、歴史そのものに興味を覚えてもらおうという、先生なりの歴史への愛だったのだと思う。

おかげでどの時代のことも、それは面白く聞いていたのだが、先生の話した小話ばかりをよく覚えていて、肝心の「受験対策用歴史」は私の頭に微塵も残っていない。


そんな先生が、一度だけ、授業とは全く関係のない話をしたことがあった。

何からそんな流れになったのかは、記憶していない。

もしかすると、山越えの話だったのかもしれない。戦国時代辺りに、敵に奇襲を仕掛けるために峠で待ち伏せしたり、というやつである。


先生は小学校に通っていた頃、自然豊かな田舎に暮らしていたそうだ。

周りには生憎と子供が少なく、学校へ行くのに、山を一つ、越えなければならない。

夏の間はいいが、季節が変わり冬ともなると、帰り道は陽が落ちた中、山を越えたという。

今とは違い、山道も舗装はされていない。土がむき出しの、道である。当然、街灯はない。


月のある日は、月明かりを頼りに道を行くのだが、細い三日月の時や新月の時などは、懐中電灯がないと、足元もおぼつかない。

早く帰ればいいのだが、そこは子供のこと、同級生と遊びまわって、気が付けば日が暮れているという。

大人の足で行けば、さほど遠い道行きでもないらしいが、遊び盛りの小学生だ。

あっちを覗き、こっちで藪を突きして、夕暮れがいつしか夕闇に変わる。


その日は、月もない、昏い夜だったそうだ。

まだ幼い少年は、すっかり遅くなったことに気が急いて、小走りに山道を進んでいた。

風で木の枝が、ざわざわと鳴る。下草の闇が凝ったあたりで、何かが動く気配がする。

懐中電灯をあちこちに向けるのも恐ろしく、ただただ前を照らしながら、一心に歩いていた。


ようやく山のてっぺんにつき、少し視界が開ける。

暗いながらも、まだ宵の口である。足の先も見えぬほどではない。

藍色に冷めた空の中に、木の影が見える。山の稜線がくっきりと浮かぶ。

いつもの景色だ。

少し歩調を緩めて、少年は一息ついた。

家までは、あと半分。道を下っていけばいい。

そう思って、ゆっくりと歩き始める。


目の前は蒼く帳の下りた夜の空。

その中に、何かが、ぶらり、ぶらり、と揺れている。


なんだろう。


少年は、足を止めて首を傾げた。

ぶらりぶらり。

風に合わせて、何かが揺れる。

大きく、縦に長い、影。

びくりと、足が止まる。


ぶらり。

揺れているのは、人だ。

山のてっぺんの、空に向かって開けた辺り。

木の枝に縄をかけて、大人が首を吊っている。


少年は、ぎゅっと目をつぶり、その横を走り抜ける。

走り抜けて、息もつかずに道を下り、一番最初に出会った大人に飛びついて、見たものを伝える。

それから先は、大人たちが集まり、駐在さんが呼ばれ、いつも通り何人かが連れ立って山に登っていく。


「どうしてだか、山の奥じゃなくて、人目に付く広いところにぶら下がっているんだ」


見つけてほしいんだろうね、と先生は言った。

そういうことが、年に何度かあったらしい。


「こっちは翌日もまた、その道を通らなきゃならないのに」


まったくねえ、と先生は何でもないことのように、そういう。


それでも、当時は、それはもう、怖かったのだそうだ。

いつもは寄り道しながらの山道を、日が暮れる前に走って帰る。

それでも山を越えるうちに、日は暮れる。

そろそろ、あの場所だ。

昨日見たものが目の前によみがえる、何もないのに、ぶらり、と影が揺れる気がする。網膜に、脳裏に、厭な影がこびりつく。


そんな日が、ひと月くらい、続くのだ。


その時も、少年先生はなるべく前を見ないように、足元だけを見て歩いていた。

山の開けた場所に出る。この場所が、怖くてたまらない。

その日は月の大きな夜だった。

まあるい満月が、すでに空に登り始めている。

それだけで、大分気持ちは楽だった。辺りが、ぼんやりと、明るい。


その明るさが、いつもと違うことに気が付いて、少年は足を止めた。

ちょうど、あの木のあたり。

顔を上げるのが、怖い。

でも、妙に明るく照らされているのが気になって、少年は恐る恐る、顔を上げる。


明るいはずだ。


ぽかんと、口を開ける。


明るい、はずだ。

月が、ふたつ、ある。


空に浮かぶ大きな満月が、ふたつ、ある。

少年は固まったまま、ただただ空を見上げた。


きれいだな。


そう思ったのだという。

明るくて、まあるくて、光っていて、綺麗だ。


しばらくぼんやり眺めているうち、奇妙なことに気が付いた。

月は同じくらいの大きさに見えるのだが、ひとつがやけに、近い。

木の枝にかかるくらい低い。そんな場所に、ぽかりと浮いている。

とすると、さほど大きくはないんじゃないか。


少し、月に近づいてみる。

あかるく、まあるい満月は、木の枝に触れるように、浮いている。


それでも、子供の目線からすれば、やっぱり上には違いない。それに、眩しいほどに輝いている。

だからはっきりとは見えない。

見えないが、月ではない。


何か明るく光るモノがいる。

それは、なんだか、とても一生懸命に光って見せているように思える。

本物の月には見えないのに、ばれていることにまるで気づいてないような。

到底、悪いものには、思えない。

先生は、少しだけほっとして、残りの半分を歩いて帰った。


「あれは狸だと思う。狐なら、もっと利口に化けるから」


先生は、懐かしそうに目を細めて、そう言った。

後にも先にも、先生がそんな話をしたのは、それきりだった。

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月夜の晩に 中村ハル @halnakamura

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