東京はいつも涙味 vol.5「ロータリー」
Capricorn_2plus5
ロータリー
男は私の数メートル先で、急に歩く方向を変えた中年女性を半身になって避けた。前を開けていたジャケットが翻り、薄っぺらなネクタイの先が宙を舞う。
大袈裟なポーズで鞄を持った右手をさっと持ち上げ、周囲を見回しながら姿勢を整える。そして、衝突しそうになった女性に猛省を促すように、軽微な会釈をしながら歩みを進めた。
私の存在に気付く様子はない。
色も光沢もくすんだような印象のスーツ。型崩れを辛うじて免れている革靴。僅かだがナイロンの角に綻びが見えるビジネスバッグ。秋晴れの緩やかな昼下がりで、それらのみすぼらしさは目立った。
何故あの男がここにいるのかはわからない。だが、男はかつて私の上席として勤めていた時と、何ひとつ変わっていないように見えた。
半ば廃れた地方都市の、廃れた駅の近くにある古びた灰色のコンクリートビル。僻みと妬みで屈折しきった職場を離れて四年になる。
私はあの頃とは違う。今はこうして東京の、輝く高層ビル群の中で毎日を過ごし、駅前で上司の運転する車が横付けされるのを待つような身となった。故郷にいた頃とは、もはや人としてのステータスからして違うといっても過言ではない。
樋口とはいつも、埠頭の方面へ向かう歩行者通路から一番近いバス停近くで待ち合わせる。この辺りは、都内の再開発でも近年最も注目を集めたオフィス街だ。進化を象徴するタワーが立ち並び、今なお建設が進んでいる。
エスカレーターと階段が半々になった歩行者通路の出入口。そこから最初のバス停までは二十メートルほどしか離れていない。悪天候の日を除き、ここを待ち合わせ場所として樋口は指定した。その理由はよく分からないが、詮索はしないことにしている。
私はバス停よりも歩行者通路に近い辺りで樋口の車を待っている。レクサスのベージュのような色をしたSUV。メタリックが眩いほど、車体はいつもきれいに磨かれている。室内はゲランの香りが控えめに、だけどエキゾチックに漂う。
あの男はどうしてここにいるのだろうか。今やこのエリアは時代の最先端をいく洗練された街並みへと変貌を遂げた。群衆のようになった大勢の会社員たちが、毎日この駅と各々の職場とを往復する。昼過ぎでも人が頻繁に行き交う歩道で、男は大袈裟な素振りとともに女性を避けてみせた。そして、まるで自分の振舞いがスマートだと誇示するように歩き去った。確か西崎とか西山とか、そんな名前だった記憶がある。ビジネスマンとして、一言でいえば冴えない人間だった。組織で生きる会社員に必要な能力が欠けていたからだ。
通りには学生の姿も見られる。大学が所有する施設がすぐ近くにあって、その付属高校が隣接している。埠頭と逆側の三田方面には有名私立大のキャンパスもある。都心の主要駅を歩く若者たちは品行方正で、それは彼らが幼い頃から培ってきた素養なのか、それとも最先端のオフィス街という環境に対する謙譲の表れなのかは分からない。
私から一番近くにあるバス停は二十人ほどが並んでいるが、バスはまだ到着していない。代わりに、バス停の少し手前でタクシーが一台停車した。タクシーは止まると同時に後部座席のドアを開けて乗車を促したが、停留所に並ぶ人たちは誰もそちらを見ようとしない。淀んだ感情が浮き上がってくるのを堪えながら、私もそのタクシーを無視した。やがてタクシーは座席のドアを閉じたが、立ち去ることなくその場に停車し続けた。
商談の同行、打ち合わせの同行など、樋口は見え透いた理由を会社に申告しては私の外出許可を取る。その申告は、云わば形式上の手続きだ。決裁権を持つ人事課長は、樋口の推薦で入社し今の役職を得たと聞いた。
だが、そういう意味では私も同じだ。樋口が私に部長付秘書という職務を与えた。それは昨年の十一月という、本来は人事考課など行われるはずのない時期だった。それなのに、辞令は何の問題も軋轢も生まずに淡々と言い渡された。
バスターミナルを兼ねた道路は、車が旋回できる細長いU字状のロータリーだ。もちろん上司と部下という関係を弁明することはできるが、既婚男性との待ち合わせ場所にしては人目を引く。だからいいんだ、と樋口は言った。下手に目立たない所でお前を乗せる方がよっぽど怪しいからな。
私たちの会社が入っているビルは、信号に恵まれればここから徒歩三分で到着できる。しかし、ビルの入口がなぜか裏通りに面している。樋口はそこで私を車に乗せることをあまり好まない。
私は、樋口が垣間見せる欲望との駆け引きを楽しむ。きれいに磨かれたベージュのレクサス。それは大都会の建造物を背景にすると、ひと際見栄えがする。妻帯者の生活感を微塵も感じさせないその車に、樋口の持つエゴイズムと快楽へのストレートな気質が表れている。これまでに何度か樋口と食事を共にした。東京で随一と名高い西麻布のフランス料理店や、知る人ぞ知るという銀座の割烹にも足を運んだ。樋口が行きつけにしているメンバーズバーは赤坂にあり、しばしば芸能人が訪れた。そういう所で発する樋口の言葉には、大人の男性が持つ熱や色香が込められているのだ。私はロータリーの出入口付近を眺め、見栄えのする車の到着を伺った。
早紀はまるで、私とすれ違うシーンを演じるみたいに、本当に不意に私の横を通り過ぎた。その突然さを打ち消すようなゆっくりとした足どりで、両手で押すベビーカーに何か話し掛けながら。私には気がつかず、微笑んで少しベビーカーに顔を寄せながら歩いていた。横顔は幾分ふっくらした感じだが、少し鼻にかかった声は当時のままで、私はそれが早紀だとすぐに分かった。
一つ年下だが、新卒入社の早紀は所属部署で私の二年先輩だった。ただし、リーダー職へ昇格したのは半年しか違わない。私は、新卒入社と聞いたときから早紀のことを意識した。そして二年というキャリアの差を半年まで縮めたが、翌年の年度末で彼女は退職し、その後私は秘書課へと異動になったのだ。早紀が退職してから、彼女を目にしたのはこれが初めてだ。
どちらかと言えば、クリエイティブな仕事の方が早紀には合っていたように思う。彼女は主張するタイプではなかったが、独創的なアイデアを持っていた。しかし私は、その長所が武器にはならないことを知っていた。クリエイティブな要素を持たない組織活動において、独創性や独自性は必要とされない。
その点で、あの西崎だか西山という名前の男はかなりの低レベルだった。あの男は独自性を主張するような仕事のやり方をしていたが、それはクリエイティブですらなかった。
私から一番近くの停留所にバスが到着した。ブレーキがかかり、並んでいた人たちが乗降口へ近づいていく。バスを待つ人たちは先ほどより増えていた。その少し手前には、みんなから無視されて異物と化したタクシーが一台停車している。そこに唯一、早紀の背中が向かいかけた。タクシーは後部座席のドアを半分まで開けたが、またすぐに閉じた。
早紀は手首に掛けた小ぶりのバッグから携帯電話を取り出して応答した。右手でベビーカーのハンドルを掴み、左手の携帯電話を耳に当てながら立ち止まった。何を話しているのかは聞き取れない。だが、私からさほど離れていない距離で、親しげに電話の先とやり取りを始めた。
私はどこか気分が落ち着かなくなって、そこを離れようと思った。樋口の車はまだ現れない。U字ロータリーの対面側に移動して、樋口にそれをメールで伝えようか――
何気なく再び停車中のタクシーへと視線が向いたとき、私は思わず声をあげそうになった。タクシーの左側に装着されたサイドミラーは寸法が大きい。そのサイドミラーに、早紀のベビーカーに座った赤ん坊が映っていた。赤ん坊はミラー越しに、私を見ていた。
赤ん坊と目が合った私は、その視線を外せなくなった。赤ん坊は笑ってもいなければ泣いてもいない。無表情だった。無表情な二つの瞳が、ただじっと私の目を見つめていた。私は全身が硬直した。
ユキエの瞳と同じだ、と私は思った。その瞬間、消滅したはずの記憶が堰を切ったように溢れ出した。その記憶は私の中の奥深いところで未だ生き続けていた。赤ん坊の瞳にはユキエのそれと同じものが宿っていて、私はあの時の痛みが浮かび上がってこようとしているのに抵抗ができなかった。
だってあなたは何も持っていないんだもの。ユキエはそう言った。教室の窓際、夏休み前の放課後。開け放した窓からは西日に変わろうとしている光が立ち込め、風が時々思い出したようにそよいでいた。廊下から賑やかな声が聞こえていたが、私たちの周りには誰もいなかった。
ひんやりとした背中に汗が伝うような嫌な感覚があった。目に力を入れるようにして、それから二、三度瞬きをした。落ち着こう、私は自分にそう言い聞かせたが、言葉が上滑りするみたいになって心へ到達しない。早紀は携帯電話を耳に当てたまま、立ち止まって会話をしている。その横でタクシーが停車している。サイドミラーに赤ん坊の姿はもう見えない。私か早紀が少し動いたのかもしれない。後部座席の自動ドアを閉じたまま、タクシーは早紀の電話が終わるのを待っているのかそこを離れようとしない。その少し前のバス停では発車待ちの路線バスが乗降口を開けていて、列をなした人々が順番に吸い込まれていった。
あの男はどうしてここにいるのだろう。西崎だか西山という男は、会社員として必要な能力に欠けていた。社会という組織に生きる術を見誤っているか、そもそも持ち合わせていないかのどちらかだった。男はかつて、錆びれた町の錆びれた会社で私の上席だった。しかし上司ではない。にもかかわらず、顧客から必要とされる存在になろう、などと私たちに説いた。とても疎ましく、不愉快な人間だった。
だってあなたは何も持っていないんだもの。そう言って、ユキエは私と友人関係になることを拒否した。中学二年の夏だった。転校生のユキエには友達がいなくて、いじめを受けていた私にも全く友達がいなかった。それなのにユキエは私と仲良くなることを拒んだ。私はユキエの瞳に強く惹かれていた。有無を言わせない力を秘めていて、その色はとても深く、それでいて濡れたように輝いていた。私は視線を合わせないように注意しながらユキエの瞳を追った。その瞳の力は、同時に近寄りがたさでもあった。だがある日、私は思い切って話し掛けたのだ。一学期の残りと夏休みを使ってユキエと親しくなれば、学校での自分の立場を変えられる気がした。
早紀は電話を終えてタクシーに乗り込もうとしていた。ベビーカーの赤ん坊を抱いて、運転席から出てきたドライバーと言葉を交わす。ドライバーは白髪を短く刈った初老の男性で、早紀と変わらないくらいの身長だった。折り畳んだベビーカーをトランクにしまうとすぐに運転席へ戻った。早紀が後部座席に乗り込む時、腕の中の赤ん坊と目が合いそうになって私は視線を逸らした。自動ドアが閉まり、右ウインカーを点滅させたタクシーが前方で停車中の路線バスを追い抜いていった。
私は何故かいたたまれなくなって、つい今しがたまで早紀が立っていた場所へ歩いた。バス停で列を作っていた人たちのうち十人くらいが停留所に留まっていた。乗客には座席につかず立ったままの者もいる。数名が車内で立っていて、その全員がどちらかの手でつり革を掴んでいる。バスはまだ乗降口を開けて停車しているのに、立っている乗客は片手をつり革に固定して携帯を見たりイヤホンで音楽を聴いたりしている。
何も持っていないとはどういう意味か、私はユキエに聞かなかった。ユキエの言わんとすることは何となく分かる気がした。だから余計に傷ついた。それからほどなくして一学期が終わり、私はそれ以降ユキエに声を掛けることはなかった。家に引きこもるようにして毎日を過ごし、夏休みが明けて学校へ行くとユキエは再び転校してしまっていた。私が強く惹かれたユキエの瞳は、私から去っていった。
生まれ故郷の錆びれた地方都市から離れる理由を私は求めた。中学でいじめを受けた私は高校でも孤立した。一人の時間を埋めるために勉強をして、やがて大学に進むことを考え始めた。しかし地元以外での進学を親は許さなかった。就職をしても地元を離れる機会は訪れなかった。だがある日気づいた。私には変化が必要だったのだ。それは、所属する組織や社会で自分の居場所を作ることだった。私がそこにいることを誰かが望めば、居場所は確保できるのだ。その誰かは顧客ではない。顧客は私の働きぶりを知らない。私の働きぶりを知る者にしか、私の居場所は確保できない。
西崎だか西山という男は、顧客から必要とされる存在になろう、などと私たちに説いた。どうやってその存在になるかは、ここにいる一人ひとりにかかっていると。そういうことを言う人間を私は軽蔑する。私たちは必要とされるために働いているが、それは顧客からではない。言うまでもなく、そこにいる責任者であり管理者からである。それは、そもそも顧客から必要とされる存在とは何か? を考えればすぐにわかる。そこを決定づけるのは私たちを雇用しているそれぞれの会社であり、責任者や管理者はその代弁者だ。会社が顧客に対するサービスの量や質、温度感といったものを決定し、管理者がそれを管理するのだ。
顧客から必要とされる手段が一人ひとりにかかっているとすれば、それは各々が行うサービスを個々で管理し、マネジメントするということになる。それはつまり、管理者たちの仕事を奪うということだ。そんなことをすれば、自分の居場所をみすみす失うことになる。そんな馬鹿げた真似ができるわけがない。雇われている側の思考や価値観、個々の物差しで、会社が提供するサービスの質を勝手に判断し、行動に起こすなどと厚かましいことを考える人間は、組織で生きる能力が欠落しているのだ。
ここからは遠く離れた地方都市。その町は、大人も学生もふてぶてしい人間ばかりだった。だけど私はその町で居場所を作った。管理者、そして責任者から望まれる努力をし、実現させた。それは仕事の出来だけでは足りない。様々な意味で変化が求められる。変化に適応できた者が居場所を確保でき、次のステップへ進む権利が与えられるのだ。私は勤め先の親会社から評価され、東京暮らしを勝ち取った。故郷の勤め先で責任者だった男による政治力が働いたのだ。私は変化に適応して、その適応力でもって周囲に勝利して、そうやって自分の道を切り開いた。顧客から必要とされる存在を目指していたら今の私はいない。きっと、今でもあの虚ろで荒んだ職場に身を置いていただろう。
お客様のために、などという社訓を純粋に信じ、そして個人の拙い発想で顧客サービスを標榜するような人間は社会を分かっていないし、もう少し大人になった方がいい。そういうタイプの人間は、その奇妙なプライドを企業に利用されていることに気付いていない。お客様に「してあげる」という思想があってそれが認められれば、多少でも自分のプライドを保てる。そう考える人間がいることを企業は見抜いているのだ。
そうだ、私は正しい道を進んできた。誰からも教えられることなく、私は正しい道を選択してきたのだ。社会人として自分の人生を切り拓いていくためには、上司から必要とされる存在にならなければいけない。顧客サービスはあくまでその延長線上のものだ。
やっと気分が落ち着いてきて、安堵のためか私の目から涙がひとすじ流れた。それを軽く手で拭って、私は周囲を眺める。そうだ、あの赤ん坊も泣き顔だったらよかったのだ。それならきっと、私の心が乱れることもなかった。もしかしたら早紀に声を掛けるくらいの余裕も生まれたかもしれない。
一番近くのバス停にいた路線バスがゆっくりと動き出した。入れ替わるように、次の路線バスがU字ロータリーのカーブを旋回して停留所へ向かう。午後の日射しが車体に反射している。停留所に並ぶ人たちが、向かってきたバスの動きを目で追っている。
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