第七章:Please stay with me -3

*23*


――This Moment;23rd flet


最初はややくぐもった声だった。

五人から四人に減った病室の誰の声でも不思議じゃなかったし、考え事をしていた最中、不意打ちで聞こえたせいで何か霊的なものかと思ってすげービビった。

「生きてたか…。」

と、まるで自分の運命を確かめたかのような言葉で俺は声の主を理解し、広樹に連絡を入れた。

「あたりめーだ。娘の社会人スタートに水をさすんじゃねーよ。」

堂々と救急救命現場のベッドでスマホで通話をしそれを切ってから、俺は都合よく話がつながるように切り出した。

 幸運か必然なのか大事に至らなかった菅谷豊というおっさんは胸で呼吸をしながら、緩やかなペースでその意味を理解していく。

「連れてきてくれたのか、愛紗を。」

時折、生体情報モニタがエイトビートを刻んだぐらいの間隔で右足をビクンと痙攣させている。傷口が痛むのだろう。

「ずる賢い女医さんのおかげで。おっさんがあんな事言うから気になって色んな人に迷惑かけまくってるよ。」

「そうかい…。」

各患者のベッドの真上の蛍光灯だけは深夜のため消灯している。おっさんの目はそれを見上げたままだ。何かを考えているようだった。頼む、説明しろ。

「俺はまだ死ねないんだよ、」

そうかい俺もだ。あの現場の時から、ただ事じゃないようにそう繰り返しているおっさんに苛立って睨んだ。

「あいつに…愛紗に、殺されるその日までな…。」

 ほんとうにただ事ではなかった。SEのように北風が窓をたたき始める。これは広樹が来るまで待ったほうがいい、二度もしたくない話が始まりそうだ。

黙ってしまったことでおっさんの右足の痙攣の間隔がさっきよりも短いことに気付く。俺は今更になって当直の医師を呼ぶべく立ち上がった。

 バイスタンダー失格だと自分を責めながら。



「もう十四年も前だ。」

ドラマでは味を持たせるため、曖昧な表現を使う。でも現実に起きた悔恨は、人の記憶に強烈に正確に刻まれるようだ。

 医師が痛み止めを打ち、ベッドを離れたのを皮切りにおっさんは会話を始めた。見上げた蛍光灯を年表に見立て辿っているように見えた。

俺は広樹と椅子を並べて続きを待った。偶然居合わせた松中さんに、愛紗ちゃんを任せたらしい。それは根掘り葉掘り聞かれそうだ。

「俺は京王でタクシードライバーをしてた。勤続二十二年だったかな。嫁も子供もいなかったけど、まあそれなりに楽しくやってたんだよ。」

 自嘲じみた笑いを浮かべた。すべて過去形なので、今はタクシードライバーでもなく、楽しくもないということか。

「秋口の台風がまさに東京を直撃して、大雨が降り始めた時だった。指名が入って立川に向かう途中の俺の前に、交差点にいたガキが飛び出してきたんだよ。全部一瞬だった。目の前で傘がぶっ飛んで車体にすごい衝撃がかかって、どっか路肩に乗り上げたと思ってわれに返って車を降りた。乗ってたよ、俺のセドリックがガキじゃねえ別の人間に。ガキの父親が庇ったんだ。もう一人、女が標識にぶつかって背中からもたれるように倒れてた。母親のほうがマリオネットみてえに手足曲げてな。俺は警察と救急車呼んで、なりふりかまわず周りの奴恫喝して車持ち上げて二人の応急処置したけど無駄だった。殺したよ、二人。ガキは、六歳の愛紗はずっと震えてた。」

 頭を金属バットでぶん殴られたような衝撃だった。予想なんてできたわけがない。部外者の俺でさえ、刃物――いやそれ以上のもので心を抉られたような気分だ。

 このベッドの両隣とも無人だったのが幸いだ。こんな話、他人に聞かせられるわけがない。それほど重い。自分の知的好奇心を呪った。けれど当のおっさんは覚悟なのか戒めなのか、俺達に何かを見出してなのか、真上を見つめたまま話を続ける。聞くことが罪深い話を続ける。

「その日で俺はタクシーを降りた。免許を返納して、毎日吐いて泣いて懺悔しまくった。夢であの二人の叱責を、正当な暴力を受け続けた。だって五十万円だぜ?俺があの二人の命と財産、そして愛紗の未来を全部奪った罰が五十万。こんなんおかしいだろうがよ。」

 業務上過失致死傷罪、と広樹がつぶやいた。八年経てば百万円になっていたかもしれないが、どのみち人の命と比較すればあまりにも軽すぎた。

「愛紗は施設に引き取られ、もちろん俺も毎月のように生活費を支払った。でもあいつはすっかり心を閉ざして、笑うことも泣くこともしなかったらしい。それに俺の金は愛紗だけじゃなく、その施設のすべての子供の生活費に使われる。これじゃあ愛紗の正しい未来も俺への罰則も始まらねえ。だから俺は愛紗を引き取ることに決めた。正常な事じゃねえ。でも俺が育てれば、俺のそばにいれば愛紗もあいつについてる両親の加護とやらも遠慮なく俺に復讐できる。俺はあいつの未来を正常化することだけに命を懸けれる。そう考えたんだ。」

「おっさん…。」

「俺はそうやって愛紗を育てた。お前は毎日俺を憎み、好きなだけ復讐をしろと。その代わり嬉しい気持ちになった時は両親に向かって笑って過ごせと。事故にあった時はやっとそれらしい復讐が来たと思ったぜ。かつて人をひき殺した奴が車にひかれる。最高の皮肉だろ?でもそれはまだ一人分の痛みを味わったに過ぎない。俺はあと二人分の罰を受けなくちゃならないんだ。二十になってもあいつが俺を殺せなかったときは、自分で死のうかと思ってるしな。」

 広樹が顔を上げた。何かを頭の中で閃いたようにつぶやく。

「嬉しいときには笑うこと…。」

「聞いたのね。」

 俺が納得するのと同時にガチャリ、という音がしてドアが開いた。精一杯の表情を作って振り向くと、愛紗ちゃんが松中さんの手を引いてきていた。

「豊さん!よかった…。」

 愛紗ちゃんが手をつないだまま駆け寄る。当然松中さんの方が身長が低いので、お姉さんにひっぱられてくる妹のようにも見えた。広樹の安らぎに満ちた表情を見るに、俺だけの想像ではないようだ。


---*---


よかった…という愛紗ちゃんの呟きが、あの独白の後では違う意味に聞こえた。

 今のところ俺の目では、彼女から憎しみの感情をうかがう事はできない。おっさんは事故で死なせてしまった人の子を、罪の意識のために、自分を苦しみから解放するために引き取り育てた。一方で彼女はその仇の言葉を座右の銘としている。二人の関係には溝がある。

 俺は松中と光浩を引き連れて夜間出入口へと移動していた。勤務時間外の自動ドアを手動で開くと、寒空とご無沙汰してた光浩がひゅうううと声を上げる。

「部外者が出しゃばりすぎたかね。」

 缶コーヒーを開けながら、救いを求めるようにつぶやく。茶色の液体は何も答えてくれなかったが、隣で松中は赤子を抱く母親みたいな顔で微笑んだ。

「そんなことないと思うよ。柴田くんはいつだって誰かの力になるために動く。」

 ガラスのドアに寄りかかる俺の隣に、松中は同じ体勢でついてきた。意識した今ではちょっと照れくさいかもしれない。

「柴田くんはお節介は絶対にしない。低俗な困りごとには興味すら持たないし、手を出す必要のない人には目もくれないもんね。だから、動いてるときはそれ相応の大きな、柴田くんの力が必要な時だって思っていいんだよ。」

「褒めてる?」

「褒めてる。」

 そんな褒め方あるの、と俺は缶の中を覗いてみた。茶色の液体は何も答えてくれなかったが、明らかにスピード違反で通り過ぎていくバイクの音が肯定に聞こえた。

「ありがと。」

「ねえ俺もう帰っていい?」

光浩が不機嫌なのかニヤニヤしてるのかわかんない歪んだ顔をしていた。

「広樹から『ありがとう』を引き出すとかもう結婚したほうがいいよお前ら。リア充爆発しろ。」

「けっ――」

「まだ付き合ってないから!」

食い気味に松中に叫ばれた。冬は空気が冷たくて乾燥してるからよく響いちゃうんだよまだって、お前。まだって。

「どうかしましたか?」

 早足でこちらへ戻ってきた愛紗ちゃんがキョトン顔で立ち尽くす。それに十秒近くも対応できなかった。まだってお前。



「就職祝いと退院祝いを一緒にしたらどうかな?」

帰り道、前を歩く松中と愛紗ちゃんに光浩が言った。たぶん、心理学的な提案なんだと思う。

「いいこと考えるね。」

松中が同調する。当の愛紗ちゃんはうーんとうなってから、

「あと一週間すれば退院できるみたいなんですが、あの人と食卓を囲んだことってほとんどなくて…。」

と言った。松中が不思議そうな顔をし始めたのであわてて遮る。

「部外者がしゃしゃり出て申し訳ないけど、これも何かの縁だからさ。」

「来週ってカウンセリングあったよね?」

「松中だけだな。」

「ドンマイ。」

光浩が指を立てた。むっとした松中がくってかかる。

「仕事はちゃんとしてください。」

「祝い終わったらてめーらの家でよろしくやれ。」

「さっきからなんなの!?」

結構ギリギリの煽り方をするのはやめてほしい。さっきの今で俺でさえハラハラしているんだから。

くすくすと愛紗ちゃんが悪戯な笑いを浮かべていた。ほらみろこの子にさえ感づかれている。絶対バレてる。

「じゃ、私鍋食べたいです。鍋しませんか。」

「いいね鍋、俺も鍋推そうと思ってたんだ!」

松中を俺に丸投げして、光浩が愛紗ちゃんの隣をぶんどった。


---*---


もやしが煽る理由もわかるけど!

わたしはさっき腰かけたガードレールに思い切り八つ当たりした。

肩を叩いてなだめてくる柴田くんの手がいつもより大きく感じてやばいやばいやばい。

仕事終わりになんとなくついてきちゃったけど、一体この橋本愛紗ちゃんになにが起こったんだろう。

山本くんと柴田くんのコンビはどうしても能登のことを思い出す。あんな事がまたあるんじゃないかと不安を覚えていた。

柴田くんを追いかけながら、愛紗ちゃんと色んな事を話した。

わたしの恋のこと。彼女の内定先の保育園のこと。短大のことに遺児だったこと。

その中で彼女が放った一言がどうしても、わたしの中から抜けなくて。



『殺したいくらい憎いっていう反抗期もあって…冗談ですけど。』

さっきのように悪戯に笑いながらそう言ってたことが。



---*---


「近頃何か企んでるらしい。」

 背筋が凍った。それを悟られないよう、振り返る。俺には広樹みたいなポーカーフェイスはできないが。

もうおっさんは天井ばかりを見上げることなく、起き上がって前を向いていた。

 あれから今日で七日目だ。ひき逃げたタントのドライバーも無事捕まり、松葉杖が必要な以外はどだい不便のなくなったおっさんの退院の日がやってきていた。

「そろそろ殺しにかかるのかもしれねえな。」

どことなく荘厳な声で笑みを浮かべていた。企みというのは、どうせ今夜のお祝いのことだと思うんだけど。

「そんだけ大事にしてる娘を犯罪者にすんじゃねーよ。」

「ほんとだよ。」

外出用の松葉杖を受け取ってきた広樹もおっさんを嘲笑するように言った。丁度病室に入ってきたあの女医に、二人で頭を下げる。

「おしまいって言ったのに。」

「成り行きで。」

諭すような口調だが、口の端を釣りあげたあのプライドの高そうな笑いは隠していない。意外とこの人も気になっていたんじゃないかとすら思える。

「しっかり家に帰してね。」

「おまかせあれ。」

 俺がしそうな言い回しを広樹がぶん取って窓を開ける。五時をまわってすっかり日が落ちそうだ。きっと長い、濃い夜がくるのだろうと思った。



お祝いに同席するのは理由があった。まかり間違って、おっさんが死んでしまうことがないようにするためだ。

 おっさんが自殺するつもりなのも本気だろうし、愛紗ちゃんは人生に一区切り打つ時期だし、松中さんから聞いた話も気になる。

二人の摩擦が少しでも解消されれば、きっと不幸な結末にはならないだろうと踏んでいた。

 時間稼ぎのために、そしておっさんのトラウマを刺激しないように、俺達は徒歩で菅谷・橋本家へ向かう。住宅街を突っ切って大通りに差し掛かるあたりで、今更だけど、とおっさんが切り出した。

「色々とありがとよ。事故で面倒をかけたばかりか、どかどかと人ん家の事情に入り込んできて娘の面倒まで見てもらって。あんな楽しそうな愛紗を見るのは初めてだぜ。あれが学校での顔ってヤツかね。」

「いんや、ヒマなんで。可愛い女の子と遊ぶのとかご褒美だし気にすんなよ。それより今度は新台打ち行こうぜ。もちろん、俺の金で。二万までな。」

俺は即答した。下心のなさを強調するため、そして『未来の想像』をさせ自殺から思考を背けさせるために言った。本当にこのおっさんと打ちに行くモチベーションはあまりないけど。

「誰がペーペーなんかに金せびるかよ。おごってやる…約束はできねえけどな。」

それっきり会話は途絶えた。スーツ姿の広樹にヒゲだらけの中年、そして俺のトリオを八百屋が怪訝そうな目で見ていた。



---*---


「あ、お父さんおかえり。」

 おっさんが玄関の古びた引き戸を前に中々動こうとしないので、俺が背中を叩いて無理やり入れると同時に、紺ジャージの上にオレンジのサロンを巻いた愛紗ちゃんのカラッとした声がかかった。

「退院おめでとう。私の就職祝いと一緒に、この人たちへのお礼と一緒に、退院祝いもしよ。一緒に鍋食べよう。」

正面に鎮座するこたつの上で、明らかに光浩の家からもってきた七リットルの鍋がそこらじゅうに湯気と出汁の匂いを漂わせている。

 気になって、立ち尽くしたままのおっさんを覗き見た。鳩が豆鉄砲どころか、対重戦車用バズーカを食らったような顔をしていた。

 その前に松中がやってきて、行儀よくお辞儀をする。その表情は俺が一番最初に見たかったな、と思うくらい優しかった。

「お邪魔してます。」

「何…やってんだ?」

かろうじてその言葉だけを振り絞ったおっさんの顔が赤みを帯びてくる。これは…怒って、いるのか?

「就職決まった娘のワガママぐらい聞いてやれよ。」

就職決まった娘のワガママすら聞かなそうな光浩が後ろで聞こえるようにぼやいた。

「お前の望みはこんなんじゃねえだろ?俺はお前のお父さんじゃねえし――」

「お父さんだよ。」

おたまを手に持ったまま、松中と入れ替わって愛紗ちゃんが躍り出た。

「あなたはもう十分苦しんだ。二人分の命と私に釣りあうだけの罪滅ぼしをしたでしょ。もう私は親の仇を取った…十四年かけてあなたを苦しめた。いいんだよ、もうこれからは私に背中を向けて、わざわざ時間をずらしてご飯を食べる必要もない。お風呂を私専用にして、自分は銭湯にでかける必要もない。パチンコに没頭して、家を空ける必要もないの。」

 彼女はさっきからずっと伏し目だ。マニュアル化した言葉ではないが、彼女自身にもこれを口にすることに迷いがあるのかもしれない。でもその言葉は力強いから、きっと嘘偽りを言う迷いじゃないんだろう。

 お前…お前…と繰り返すおっさんのしわしわの手を、みずみずしく小さな手が取った。

「この手は私の両親を奪った。それは変わらない事実だよ。でも、たとえ全世界があなたを裁こうとしても私はあなたを許します。あなたは十四年の間私をこんなに立派に育ててくれた、もう一人の父だから。私の座右の銘は二つある。『悲しくても泣かないこと、嬉しいときには笑うこと』。前者は本当のお父さん、後者はあなたが教えてくれたことだ。だから今は笑ってあなたと話をしたいと思ってます、お父さん。ご飯、できてるよ。」

 そこまで言うとあとは嗚咽になった。化粧っ気のない顔は行き場をなくし、愛紗ちゃんは両手で顔を覆って泣き出した。

 あーと、思わず俺の喉から声が漏れていた。――あれ、二人のお父さんを合わせたものだったのか。この言葉が輝きすぎてか重すぎてか、松中の目からぼろっと涙が落ちて愛紗ちゃんをそっと抱きしめる。光浩もそっぽを向いた。

「俺は…許されたの…か?」

おっさんはその場に座り込んでしまった。収集がつかないので俺も一緒に座り込んだ。

「よかったですね。」

「約束破っちゃダメじゃん。」

あーあと光浩が優しく微笑んでマフラーの先端で彼女の顔を拭う。それは違うな、と俺は思った。彼女のそれは嬉し涙だ。嬉しいときに泣いてはいけないなんて教わってはいない。だからいいんじゃないかな。

 その思考を読み取ったように、彼女が目許をおさえてうんうんと頷いた。彼女――愛紗ちゃんとおっさんはもう大丈夫だろう。一組の父娘として、やっていけるだろう。

『義理の父』という存在は、小説の中ほど冷たい存在ばかりではないのかもしれない。




松中を一人で俺の部屋に上げたのは初めてだ。

靴を脱ぐのに手間取ったことを悟られたくなくて、やや乱暴に玄関の電気をつける。

もともと予定していたから、テーブルも出して"お仕事"の準備はできていた。捗るかどうかは別として。

 松中のオーバーサイズのコートを壁にかけ(俺のは無造作にベッドにぶん投げた)コーヒーを入れ、テーブルに向かい合ってしばらくの間黙りこむ。

「よかったね。」

 ふいに顔を上げた。いつもの穏やかで、そして決して逸らしてくれない彼女の目がそこにあった。

きっと菅谷親子のことを言っているのだろう。俺はつとめて冷静に、できるだけ愛想よく答えた。

「ああ。」

「わたしの言ったとおりになったでしょ?」

「『お節介は絶対にしない。低俗な困りごとには興味すら持たないし、手を出す必要のない人には目もくれない』だっけ。」

「そこじゃないよ。」

薄手のニットの袖で口を隠しながらクスクス笑われた。

「必要な時に、必要な場所で柴田くんの力で、また人が助かってる。ほんとうにすごいよ。」

「人の力になる仕事してますから。」

「うん、わたしも毎日。カウンセリングある日もない日も、助けられてる。」

そこまで言ってあっと声を漏らす。それで彼女は黙ってしまった。

 少しの間沈黙が流れたので、気晴らしにテレビをつける。人気芸人がなんか面白い話をしているようだが、耳に入らない。

 松中の視線は泳いで、何かを求めている気がしている。ぶっちゃけわかっていた。ただ勘違いだったらすごく恥ずかしいしそれは自分がそうだったらいいなって思っているだけだから、言えなかっただけだ。






「こないだ、『まだ』付き合ってないって言った?」


「言ってません。」

下を向いたまま、上ずった声で松中が答える。

「付き合う?」

言っちまった。

「ぎ、疑問形?」

「あいや、」

俺はテレビに視線を向けようとして、

「最後まで言ってよ。」

松中の顔が上がっていた。

「付き合いましょう。」

「はいよろしくお願いします。」

「えっ?」

 上げた顔を再び下げてお辞儀をした。即答すぎて逆に聞き返してしまった。

「今日から彼女になります。よろしくお願いします。」

 夢心地、非現実感が襲ってくると同時に勘違いじゃないから恥ずかしくないし自分だけの希望でもなかったことを冷静な自分が確信して、さっきまでの緊張が体中から熱を放出するように抜けていった。

「ずっと好きだったからさ。」

「わたしも好きでした。」

「マジか。」

「まじだ。」

 ハッキリと告げてハッキリと告げられた。特に何を求めて手を出したわけではないが、松中はちゃんと応えて両手を差し出してくれた。それをぎゅっとつかむ。

 先月つないだ時より暖かい。今度は忘れないようにしっかり感触を覚えた。

「カウンセリングしないと。」

 ふつうに限界だった。一気に進展しすぎるとついていけないしなんか悪い気もしてしまう。朴念仁をこじらせるとこうなるのか、と俺は身をもって学習した。

「よ、余韻にひたっていたいのに…。」

「俺にも休憩が必要なの。後にしよう。」

「後って――」

「深く考えんのやめて!」

 そこまで言ってから、さっきの芸人のネタも遠く及ばないほど笑いあった。今の顔はあまり自分では見たくないなと思った。



――長い濃い夜になりそうだ、という俺の勘は間違っていなかったみたいだ。

――it was as easy as pie we move on 『This moment』together.

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This Moment ―7 years later from that 『Heartful Melody』―― てるふぃー @Guitarvocal

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