第七章:Please stay with me -2
*22*
メモの住所はここから五キロほどの距離、病院のある小金井市から三鷹を越えて、調布の端を指していた。
一時間半で帰れと言われたので、やむなくタクシーを使うことにする。
四つ輪に頼ればものの七、八分だ。気さくな運転手の武勇伝(持ち前の推理力で数々の難事件を解決したらしい)を最後まで聞けなかったのが悔やまれる。
――This Moment;22nd flet
中央道のすぐそばでタクシーを降りた。名のある通りとはいえ、車の騒音がひどい。到底俺はこんな所には住めない。
「もし本当に、あのおっさんが親族なしだったらどうする?」
有り得ないと決め付けながら広樹に尋ねた。僅かの間、彼は無表情だった。俺とは桁が違う脳の持ち主だ、可能性として考慮しているのかもしれない。
グルグルマップ(地図アプリといえばこれだ)をランチャーから起動して、路地を探す。幸いにも道路を渡らなくてもよさそうだ。
「行くか。」
目印の自動販売機――同じメーカーの物が何故か三台も置いてある――を指差して俺は言った。難しそうな顔のまま広樹が、口を開く。
「タクシー代、半分出せよ。」
聞こえた舌打ちは俺のものだ。
*
その家は路地を入ってすぐ、建物の数にして三つ目だった。
小さなビルが二つ並んだ先の木造平屋。立ち退きを頑なに拒否する老夫婦の住む家、と勝手に決め付けた。表札はないから、まだ名前はわからないか。
手入れの行き届いていない庭には枯れ掛けた植木鉢がいくつも置いてある。真冬でもなければ光浩では来れないだろう。日常的に蜘蛛やら蜂やら百足やら、わらわら出そうだ。
格子付きの小さな窓――キッチンか風呂か――の電気がついていて湯沸かし器の音がするから、誰かいるとわかる。家の者ではない可能性は捨ててよさそうだ。
光浩と顔を見合わせる。タクシー代をケチろうとしただけでなく、着くなり勝手に赤塗りのポストを覗き始めたこの男は呼び鈴を鳴らすタイミングをはかっている。手を伸ばそうとしたら、押された。笑いそうになる。
「ごめんくださーい。」
中からはーいとリプライ、女性のものだ。小さくてわからなかったが、若い。同い年ぐらいか?そう感じた。娘だと直感が告げる。
本人の訴え通り親族なしではなかったのだ。しかし事故にあったあの男は、自宅に電話を置いていないのだろうか?
「どちら様ですかー?」
かなり古い引き戸のガラス部分に影が映って、間伸びした声が聞こえた。やはり若い。二十代、下手したら未成年だ。それは犯罪ではなかろうか。
「あー、えと…」
思わず言葉に詰まってしまう。横を見ると相方の方はそうでもなかった。予想していたかあまり問題視していないか、オカルトでもない限り後者の方が自然だろう。俺の言葉をひったくる。
「お父さん?のことなんですけどー。」
疑問符をつけたのはわざとだろう。娘と思しき女性は少し間をおいて言う。
「はい…あの人が、なにか?」
ガラス越しの声色が落ちた。警戒されている。問題はそこではない。彼女は確かに今『あの人』と呼んだ。ただの親子関係ではない、そう思った。
「夕方ぐらいに車にひき逃げされました。医者が言うには死ぬ事はないらしい。でもまだ目が覚めない。行こう。」
ガタッ、引き戸に体がぶつかる音がした。一気に言いきったのは懸命だ。ショックな出来事で余計にびっくりさせることはない。
だが光浩、一言足りてないよ。今いるのは女性一人なんだろう。ここまでじゃ犯罪者の手口だ。俺は自分たちの身分、それから男の名前と身なり、病院名を出来るだけ詳しく告げた。
っしゃあ。次の音は引き戸が滑る音だった。中から化粧っ気のない小柄な女性が出てきた。顔に焦りの色が浮かんでいる。
「本当ですか!」
疑っている様子は無い。説明が効いたのかと思ったが、父が病院に担ぎ込まれて冷静でいる家族はいないだろう。犯罪が起きやすいわけだ。そっちの不安を和らげるため、俺がまず歩き出した。
紺色のジャージ姿の彼女を連れ、再び路地から大通りへと出た。
光浩がドライバーの武勇伝に夢中だったので――いや、少し興味があるのは否定しないけど――もしかしたらと思ったが、優しい人だ。タクシーはわざわざ車線を変えて、俺達を待ってくれていた。
空気を読まない奴が一目散に助手席へと跳び乗る。いくら命に別状無し、やましい事もなしとはいえ、お前はこの娘に気を遣ったほうがいい。
スーパードライバーが右ウインカーと共に交通の流れに乗る。事故の影響ではもうないと思うが、戻りの道は軽く混雑していた。流石に歩いたほうが早いとは言わないが、立場的にイライラする。
原因はもう一つある。通りを進む間、娘はずっと膝に手を置いていた。だが震えるでもなく、ハンカチを握るわけでもない。でも、下を向いている。ヒューマンコンサルタントの俺ですら、彼女の心理状態がよくわからない。
「あの――」
声をかけようとして、名前がわかってない事に気付いた。口をぱくぱくさせていたら、運転手との会話をやめた光浩の声が飛んできた。
「菅谷さん。」
びっくりした。知り合いの可能性をつぶして、色々考え――ポストか。それは犯罪ではないのだろうか?彼女も顔を上げていた。
「娘さんはお名前、なんて言うの?」
「愛紗…愛紗(あいさ)と言います。」
「そっか。病院とか警察から電話行かなかった?俺達けっこうすぐ、どっちにも連絡したんだよ。」
光浩が舌を回し始めた。色々聞き出すつもりに違いない。任せることにした。
「…うちは自宅に電話がないので。あの人はお財布しか持って行ってないと思いますし、このままだと私が警察に行くまで気付かなかったかもしれません。」
どうもありがとうございましたと言ってぺこりと頭を下げた。『あの人』の呼び方が露骨すぎて、逆に聞けなかった。恐らくは――
「どうしてこっちの自宅から、あんなところまで行ったんだろ?」
光浩がいつの間にかこっちに向き直って――たぶん、今ドライバーの方を向いて――言った。それなら俺に心当たりがある。
「でかいホールがあるけど、まさか?」
「だと思います。パチスロ、好きですから。」
ちょっとした推測だったのに、当たった。イメージで人を決めるのは悪いことだが、統計学の視点で見ればとても参考になる。
「で、でも一応、残ったお金というか…無職ですけど…生活費を払いきったあとに行ってるんで、別に気にしてないんです。はい。」
緊張が解けると意外とおしゃべりそうだ。おもむろに髪を後ろで縛り始めた。視線がうなじから耳へと移る。耳たぶに大きく絆創膏が張ってあるのに、初めて気付いた。
「なるほど。で、娘さんが就活中かぁ。」
見てんなー、という声が前から聞こえた。化粧っ気のない顔、ピアスを一生懸命塞いでいる痕、染め直した髪。意識した言葉遣い。つい去年の俺たちだ。
俺の視線に気付いた愛紗が、耳を押さえてあぁと頷く。
「保育なので。終わって、もう近くの保育園に決まったんです。もうすぐ研修です。」
研修とは言っても、やる事はそう多くないだろう。あの家の感じで保育ということは四年生の大学ではないだろうし。
「そっか、頑張らないとな。」
「親父のためにもなー。」
車は病院の――もう灯りの落ちた病院の敷地に乗り入れるところだ。
「……はい。」
彼女の返事は、何故かとても小さかった。今まで視線も落としっぱなしだ。
タクシーを降りて真っ先に、ドライバーに武勇伝を語ってくれた事や待ってくれていたことの礼を言った。光浩が金を払って、先を歩く娘に追いつこうとする。
「気にしないでいいよ。一つだけ言わせてもらえるなら――」
光浩のその足が止まった。
「過去の事は、あの子から聞かないほうがいいと思うよ。記憶やトラウマは、刃物よりも人を抉るからね。」
*
運転手は最後まで優しく笑っていた。けれどその言葉は、警鐘のように重く響いた。
広樹が不安そうな顔をしている。俺だってそうだろう。
「ただ交通事故に立ち会っただけじゃ、終わりそうにない気がしてきたな。」
廊下の先を歩く彼女を見ながら小声で言った。さすがの広樹も素直に頷く。
「間に合ったんだ?」
「ええ、おかげさまで。」
口の端を釣り上げて笑うのはプライドの高さの表れなのか。ずる賢い女医さんが病室で待っていた。絶対、目論見どおりなんだろ。俺は心の中で叫ぶ。
「豊さん!」
流石に病室まで来ると愛紗ちゃんは一目散におっさん――菅谷 豊に駆け寄っていた。物凄い違和感と共に。
なぜ、彼女は父を"あの人"とか、名前で呼ぶのだろう。女医でさえ少し肩透かしをくらっていた。
「大丈夫。血圧も戻ってきたから、未明から翌朝には意識が戻るかもしれないです。」
ズレた白衣を直しながら、女医は愛紗ちゃんに向き直る。
「私もあと三十分居られませんので、あとは当直の先生に任せてあなたもお帰りになったら?」
「本当にだいじょうぶなんですか?」
横たわるおっさんに手を当てたまま、彼女が聞き返す。その瞳は冷たく父を見下ろしているようにも見えた。
さっきから感じる違和感の正体はある程度わかっている。もういい加減我慢ができなくなって、口を開けた。
「愛紗ちゃんと親父って、他人なの?」
上手い言い回しが浮かばなかった。広樹も女医も黙っていた。
突然聞いたから驚かせたかもしれない、彼女はベッドから手を離して、結ぶ。
「……はい。わかりますか?」
俺は頷く(広樹も頷いた)。わかりますかはないだろう。本人だって、その線引きを周りへのアピールにしてる筈だ。
「豊さんは、六歳の頃から私を育ててくれています。本当の両親が死んで、もう十四年になります。」
「刑事ゴッコはもうおしまい。」
突然、立ち上がった女医が食い気味に言った。俺も広樹も、あの言葉を思い出さずにはいられなかった――はずだ。
「あんまり人の過去を詮索するもんじゃないですよ。さ、閉めますから出た、出た。娘さんも明日があるでしょう。」
"記憶やトラウマは、刃物よりも人を抉るからね"。
愛紗ちゃんは最後に、かたく親父の手を握った。けれど俺は、諦めきれなかった。元々、そういう性分なんだ。
*
何故か光浩は残ると言って聞かなかったので、俺が一人で愛紗を送ることになった。
あのしつこさは味わったものにしかわからない。最終的に女医も匙を投げた。プライド持ち相手だと妙に躍起になるクセも手伝っただろう。
「変な奴だよな。」
今度はさすがにあのドライバーも待ってはくれなかった(仕事だから当然だ)ので、徒歩で帰ることになった。住宅街を突き抜ければ二十分とかからないだろう。
夜十時を回れば、さすがに艶やかな顔を見せる。スナックが営業を始めれば、八百屋が終わるのだ。この町は二つの顔を持っている。
「二人ともです。」
さくっと返された。義父の無事を確認してから、かなり饒舌だ。安心したようでよかった。目線が上がったのが、何よりの証拠だ。
「今年、成人なんだな?」
「はい、式もちゃんと終わらせました。」
誕生日はまだなんですけどね、と彼女は視線を前に戻した。やっぱり未成年か。
「義理の親父なのはわかるんだが、正直――」
不自然だ、と言いかけて足を止めた。目の前に影が立ちふさがったから――よく知る影が。
「うそ…柴田くん…。」
≪Considering(熟考)≫している時のクセ、目線が下向きになったってわかる。顔が先に見えたか、茶色のレザーブーツが見えたかわからない。俺の―好きな―松中だ。
不覚にも手を繋いだ時の事を思い出してしまった。ホントに俺は高校生か。彼女は俺を見上げたまま呟いた。
「どうしてここに?」
「えっ…あー…。」
突然のことは、やっぱり苦手なんだ。俺は咄嗟に後ろを――愛紗を気にした。いや、気にしてしまったのか。
「お知り合いですか?」
「その子、誰っ!?」
愛紗がこちらを覗いてくるのと、松中がいつにない声を出すタイミングがかぶった。まるで光浩と喋るときみたいな声だ。
「私は"橋本 愛紗"。成り行きで一緒にいまーす!」
意地悪く笑った。そういえば、彼女の笑顔はこれが始めてだ。なんだか悪戯な匂いがした。
「誤解を招く言い方は――はっ、橋本?」
耳を疑った。彼女は確かに、橋本と名乗った。父親は菅谷ではいのか?ため息をついていると、橋本のほうは悪びれも無く言った。
「私、あの人の扶養にも戸籍にも入ってないんだ。形だけ見たら、居候なんだよ。」
「居候って…なんで十四年間も…。」
運良く、電飾に彩られた店の軍団を抜けた。日変わり前の静かな夜が帰ってくる。そこで歩みを止めた。ガードレールに腰掛ける。
愛紗はまた、視線を落とし始めていた。どうやら年上の人の言葉は聞いておくべきだったらしい。
「私の両親は六歳の時に死んで――詳しくはあの人に聞いてくれれば…あんまり話したく、ないです。」
「わかった…。」
とにかく嫌な思いを払拭するよう努力した。彼女は遠くを見ながら、小さく言う。
「『悲しくても泣かないこと、嬉しいときには笑うこと』。これ、父が教えてくれたんです。私の座右の銘です。」
"座右の銘"、その言葉にはとても重みがあった。俺が初めから感じていた冷たさのようなものはそれか。彼女は見事にそれを二十年目の今も実行しているのだろう。
「そうか、いい言葉…いい父親だったんだな。」
そんな家族を簡単に振り切ることはできまい。それが、居候のわけか。
「あのーぅ…。」
横から別の声がかかる。いや、忘れていたわけではないんだ。ただ気まずくて。
松中がジト目で俺を見ていた。こいつのために、わざわざガードレールに腰掛けて高さを落としたのだ。さっきの弁解を始めなくてはいけなかった。
「ああ、実は夕方に交通事故にバッタリ会っちゃって、その被害者の娘さんなんだ。」
事情説明の前に、まず誤解を解くのに苦労した。松中は思い込みが…とくにネガティブな方に激しい。社内研修でボッコボコにされる新卒特有の症状…病気だと、俺は思う。光浩かっ。
そして正直なところ、俺は少し嬉しかった。彼女が不機嫌なのは、この状況のせいな気がしたから。少なくとも、彼女は俺が見知らぬ異性といるのを好まないようだ。マジでそろそろ、いけるんじゃないかな。
俺達三人が菅谷・橋本家に着くのと、ヴーッ、ヴーッと短いスパンでスマホが震えるのは同時だった。"山本 光浩"の文字に素早く反応する。
「ほい?」
「広樹、おっさん気がついた!」
「マジか。」
反動ですっかり上機嫌の松中に愛紗を丸投げして、俺は来た道を駆け足で戻った。今年は何だか走ってばっかのような気がする。
――全部わかってすっぱり解決。そう思っていたのが、間違いだった。
――We cannot find out any things for family. and we didn't know about it『This moment』.
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