第七章:Please stay with me -1
―第七章・Please stay with me―
*21*
「手つないじゃった、じゃねーよ。高校生かおめーは。」
言うと同時に手の甲が飛んできた。だがそう言わざるを得なかった。
今日びどこの男女にだってある話だ。しかも広樹と松中さんは誰がどう見ても両思いで、おまけにもう二十三歳だ。
俺だけじゃなく誰が聞いても"高校生かおめーは"と言わざるを得ないだろう。
片側二車線の市道を歩きながら、俺は(というか北風が)マフラーの先端で広樹の頬をバシンバシン叩いていた。
――This Moment;21st flet
「実際はもっと複雑じゃんよ。順序とか段階とかいろいろさ。」
「お前絶対そんな事思ってないだろ。」
繰り返すが広樹は高校生ではないし、経験が無いなんてこともちろん無い。
頭が良い奴特有(だと俺は思う)の先読みも、未だ解明されぬ謎の『恋愛』というジャンルの前ではすっ飛ばされがちな物である。
この男は俺がド真ん中を突きつけても、平気な顔で反対側の車線を見ていた。
郊外とはいえここは東京だ。都心まで続く道路沿いを、帰路へと向かう主婦や若者達が支配している。もうすぐ日が傾き始める時間だ。
「ちゃんとタイミングは図ってるよ。」
わかってる事を敢えて言われたからだと思う、不機嫌そうな顔をして広樹は言った。だが俺もここで引けない。
「一度や二度じゃないだろ。学んだことじゃんか。もういっそ襲い掛かったって大丈夫だよ。」
絶対にイケる、と(裏が取れてる事までは言えないが)俺もマサヤも何年も押し続けているのに、こいつはこいつで頑なに慎重な姿勢を崩そうとしない。
同じ説教を繰り返す山本爺さんと山口爺さんがいたずらに疎まれているだけである。思慮深いもここまで来ると犯罪だ。
「お前は親友を牢獄に入れたいのか。」
すぐ隣をやかましいナナハンが通りかかったので後半は正しく聞き取れたかわからないが、俺は親友と言う単語が好きだ。面白い響きだし。
それはどうでもいいとしても、どうせ襲い掛かったところで牢獄どころかバージンロード行きだ。
「いやいや、愛ってスゲーんだぜ。それにさ、このままじゃまたタイミングを逃すことになりかねないって。燃え上がってるうちが勝負だろー。」
「わかってる。」
何年燃え上がってんだとツッコむ対象はこの場にいない。燃え上がるような恋が広樹にないと言えば絶対に嘘だが、十数年程度では見せてくれないようだ。
半笑いの口を見せないように俯く。信号が青になり、ホイッスルの音が聞こえ始めた。
「おい!」
横断歩道を渡っていた俺達の前で突然、男性が軽自動車にはねられた。今の声がヒロキのものだったことも、はねられたのが男性だと認識したのも、軽自動車だと認識したのも後のことだ。
*
俺達――俺と光浩、下校途中の学生や買い物帰りの主婦達、そしてあの中年の男――は確かに青信号の横断歩道を渡っていた。
信号無視ではない。あのネイビーのタントは向かい側から左折してきたからだ。運転手は見えなかったが、確かにその車はたった一人、横断歩道を渡り始めた男をはねた。
はねられてから数秒しか経っていないのに、もう悲鳴と人垣が出来ている。道路は野次馬によって封鎖された。
光浩はもう男に駆け寄って、意識や出血の確認をしている。幸い意識はあるようで、苦しそうにうめいていた。俺は野次馬に向かって叫ぶ。
「車の邪魔だ!横断歩道の端までどいてろ!!俺が救急車を呼びます!」
視線を巡らせようとする前に、この状況でも眼光をなくさない女性が目に入る。最大の理由は、手に持った黄色い傘だ。今日は朝早くに雨が降っていた。何かできるか、と目が言っていた。
「交通整理をお願いします。」
この言葉がきっかけか、人垣が崩れ始めた。早くに落ち着きを取り戻した中年の男性ふたりに野次馬を任せると、スマホの緊急通報ボタンを押した。
男は二車線でない方の道路に投げ出されていて、その頭のそばで光浩が体を仰向けに直している。体位管理だ。
かつて俺はあいつに救急車を呼ばれたことがある。その時は頭部の止血まで任せたらしい。
「広樹、ソレやぶいて!」
自分の名前を伝えながら、俺は指差された自分のシャツを勢いよく裂いた。一歩寄って、電話を切ると同時にそれを奪い去られる。
男は右肩から出血していた。思い切りはね飛ばされたときのものか。苦痛に顔をゆがめている。出血している部位に大雑把にシャツが巻かれる。
「はい仕上げ。ガラス抜こう。」
光浩がいつになく真剣な顔で男の太ももを指差した。右の太ももに、紙幣くらいの大きさはあろうガラスが刺さっていた。ライトか何かだろうか。ぞっとした。
指示されてもう一度シャツを裂いた。お気に入りだとかそういう事は言っていられない。
「そういうの、やっていいのかよ。」
「出来るのならやんなきゃだろ。お茶くれっ。」
声が落ち着き払っていない。ポーカーフェイスを気取るのはやめたほうがいいと思う。俺は肩提げのポーチから、ペットボトルを取り出した。
痛えーぞー、と言いながらガラスの刺さった部分にそれを丁寧にかける。悲鳴をあげて僅かにばたつくが、やがて歯を食いしばってそれに耐えた。
「おっさん安心しろ!任せてくれていいから!」
いつになく、力強く声をかけていた。光浩はもう、ガラスの先端に手をかけていた。
「抜いたらバッ!とな、いい?」
「おう。」
あそこは動脈が通っているはず。どうなるかの予想なんて簡単だ。
「せーの!」
光浩は力を入れて、ガラスを引き抜いた。
男のジーンズに赤色のよどみが広がる。それを隠すように、きつく男の太ももを縛り上げた。
「うええ、えぐい。」
「おっさん、こんだけやったんだ、死ぬなよな?」
出来ることは全てやった、光浩が息をついたので、ようやくそれがわかった。
「まだ…まだ、死ね…ねえ……。」
息を荒げながら、男がうめく。俺たちは顔を見合わせた。
「死ね…ねえよ……むす、娘がっ…いるんだから…まだ…まだな…。」
この人は強い、何故かそう思った。光浩が息を呑む。
救急車のサイレンが聞こえて来はじめると同時に、その男は意識を失った。
救急車が向かうならあそこしかない、と確信していた。
事情聴取を手短に片付けて、病院へ向かったのはどちらの提案でもない。二人とも気になって仕方がないのだ。
『娘がいるから、まだ死ねない。』
その言い草は事故の痛みを耐えるための気力ではないように見えた。娘を大事にするには歳を食いすぎている気がするし、子供がいるなら奥さんがいるはずだ。その名前も出てこない。
もっと何か、大きな…交通事故さえ『その程度のこと』としかならない何かを隠しているように思えた。
もう日は暮れた。大体七時を回ったところだと思うから、あれからゆうに三時間近くが経ったということか。一般入院患者の面会時間は終わっているだろうが、救急搬送なら患者の容体次第では会わせてくれるだろう。
一人だけでも一緒に救急車に乗ればよかったが、あの時は処置で手一杯でそれどころではなかった。
「面会の方ですか?」
これで二度目だ。一度目は、会計…つまりほぼ入り口で呼び止められた。今は違う。緊急外来の受付へ向かう通路だ。
「いえ、そうではなくて…先ほど交通事故で搬送されてきた方はいらっしゃいませんか?」
不思議そうな私服姿――退勤したとこかな――の看護師に事情と男の身なりを説明する。口元に大きなホクロをつけた彼女は快く案内してくれた。どうやら治療に付き添った当人のようだ。
除菌をすませ救急用の集団病室へと入る。話では全身打撲と右足を骨折したようだが、どうやら命に別状はないらしい。脳を揺さぶってしまったため、意識が戻るには時間がかかるという。
「圧迫止血を頑張ってくれたおかげで、右足の動脈出血も問題なさそう。素晴らしいバイスタンダーだね。」
看護師はそう言ってホクロを隠すように手を当てて微笑んだ。事故や負傷を目撃したりした人の事をそう言うんだった気がする。意味を理解していたのか、光浩も照れくさそうに目を逸らして笑った。
*
じゃ、と言って看護師が廊下を逆戻りしていったので、俺たちは中へと入った。
ベッドが八つあり、そのうちの五つが塞がっている。救急救命はドラマの通りに戦場のようだ。男はすぐに見つかった。
点滴を刺している男を見下ろす。あのまま意識を取り戻していないようだ。しかし生体情報モニタから気持ちの良いテンポで音がするのを聞く限り大丈夫なのだろう。呼吸器も付いてないし。
「娘さんにはもう連絡が行ってるのかな。」
広樹が言った。学生でも社会人でも、一般的にはこの時間ならそろそろ連絡が行ってもいい頃だろう。
男のあの心配の仕方は、遠くへと(独立か結婚かは置いて)出て行った娘ではまずありえない。一緒に住んでいると二人ともふんでいるのだ。
ところが待てど暮らせど、ひとしきり俺たちの話すことがなくなっても娘はやってこなかった。
広樹の時計で一時間半がさらに過ぎた頃、病室のドアが開いた。白衣に身を包んだ、若い女が入って来る。俺たちは(間違いなく俺の方が先だが)立ち上がって会釈をした。
娘か、と思ったが、首に下げた聴診器で思い直した。医者だ、この人は。
「どうも。ご親族か…勤務先の方です?」
思わず広樹と顔を見合わせて苦笑した。
女医は俺のねーちゃんと同じくらい――三十なりたてちょっとに見えた。
スツールを持ってきてもらった。三人で男を囲むように座って、本日三度目の事情説明を行う。彼女は苦笑すると、答えた。
「それでですか。あまりプライバシーに関われることは言えないのですけど、」
と、頷きながら前置いて続ける。
「この方、身元はわかるのですが、親族なしというか…とかく、奥さんも娘さんもいらっしゃらないようですよ。」
「えっ?」
俺はかかとでスツールを蹴り上げて立ち上がった。慌てて他のベッドに目を向ける。そっちは大丈夫そうだが、冷たい視線を感じて肩が小さくなる。ごめん。ごめんって広樹。
「保険証をお持ちでしたのでそちらから身分を確認したのですけど、お一人でお住まいのようです。」
視線を俺から戻して、女医が締めた。俺は確かに聞いたんだ、娘のためにまだ死ねないって。それが、どういうことだ?
「そのお住まいに伺っても大丈夫でしょうかね?俺たち。」
「えっ?」
今度の当惑は女医のほうだった。広樹の提案に肩をすくめる。
「さすがに親族や警察以外の方を患者のご自宅にご案内するのは…。」
「でも、この人はねられた当初は意識があったんです。」
俺が続けた。顔を彼女に向けたまま椅子をひっぱってきて、座りなおす。深呼吸を一つついて、それから言う。
「娘がいるからって、まだ死ねないって一生懸命言ってました。あんな状況で嘘はつけないっすよね?」
「俺たちだって、まだバイスタンダーだと思うんです。」
その言葉はうまい、ていうかちょっとクサい、と思うんだが、柴田さん。
「話がうまいね。ひょっとしてずる賢い?」
女医は白衣のポケットに手を入れて、口の端を釣り上げた。
警戒されたかな、と思ったが、どうやら逆のようだ。彼女は手を入れたポケットから財布を取り出すと、病室の端にあったメモに走り書きして広樹に手渡した。
「私は十時までいるから、一時間半くらいで帰ってきてくれればいいよ。何かわかってもわからなくても、このメモを返しに来てちょうだい。こっちで捨てる。それでいい?」
「「ひょっとしてずる賢い?」」
立ち上がった俺たちは、同時に言葉を返していた。
――忘れもしないこの時、スティービーのisn't she lovelyがオルゴールバージョンで流れていたんだ。
――later we'll find, his song suits on 『This moment』 so much.
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