【5】夜に彷徨う〜エルメリンダ・ヴェルドーネ

 お風呂って巨人の食器みたいね──それが母の口癖だった。この島特有といわれる白く艶やかな流線型の浴槽で湯浴みをするたびに母はわたしにそう言った。「巨人ってどこにいるの?」。幼いわたしが訊ねると、母は色々なことを言った。母の回答は訊ねるたびに変わっていた。魔王と共に地上から去ったといわれるいにしえの種族の行く末について想像を巡らせ、語って聞かせてくれた人ももうこの世にいない。足首の擦り傷が湯にしみる。重い枷が肌にこすれて小さな傷ができていた。

 湯船の中で足を伸ばすと、風呂桶から溢れ出した湯水がモザイクタイルの床に音を立てて流れ落ちる。

 一人用の浴槽と洗い場があるだけの、狭い浴室だった。ここには今、わたししかいない。ランプの灯りの投げかける柔らかな光が反射して、きらきらと儚げに水面が暗く輝く。浴槽の傍らの壁には水瓶を持った女性の彫像。絶え間なく流れ落ちる温水が水音を奏でていた。窓から流れ込む穏やかな夜風が上気した素肌にはひときわ冷たく感じられて、胸の奥を切り裂かれるような、言いようのない寂しさを覚える。

 自由な入浴はこれが最後。これからはアヴァローネ島の温泉の記憶を残したまま、大陸特有の不便な入浴設備を使わなければならない。わたしの育ったこの島は温泉の宝庫だった。市街地には様々な規模の公衆浴場が点在し、有力者の邸宅だけでなく大半の個人宅にも真新しい湯水を掛け流しで使える浴室が備わっていた。それは島の中央に火山があるからだった。火山の近くでは温泉が涌く。だからアヴァローネ島の人々は湯浴みには不自由しない。だけど大陸では人々は火山を避けて集落を作ってきたから、温泉の湧き出すような街も存在しないのだとか。入浴の習慣は国や地域によって違うとわたしは教わったけれど、これから赴くフラマステラ共和国の入浴事情は何も知らない。

 わたしは立ち上がり、湯船を出る。濡れた身体を拭きながら、もう思い出さないようにしよう、そんなことを思った途端、先ほど目にした儚げにきらめく水面が脳裏に浮かんでは消えた。

 そのまま一糸纏わずに、衣類と武器の安置された小部屋へと向かう。


「暖かい格好をしなさい。空の旅は冷えるから」

 簡素な椅子に腰掛けて長旅に適した靴を履き、編み上げ状に交差した靴紐リボンを結んでいると、頭上からビザンティーナの無機質な声が降ってきた。怪訝に思い、手を止める。年間を通じて温暖なここアヴァローネ島には、大陸北部で使うような防寒具は存在しない。わたしの着ている尼僧服シスタードレスは盛夏用のもの以外は長袖で、特に寒期用のものは厚手の生地で縫製されているけれど、それでも大陸北部の冬服に比べると薄く、異邦人であるビザンティーナの言う“暖かい格好”と一緒にしてもいいのかどうか、疑問を払拭できずにいた。それ以前に、空の旅、なんて言われても何のことなのかわからない。わたしの知っていることといえば、フラマステラ共和国は雲よりも高い山の上にあって、そういう高い場所はとても寒いということくらい。

 わたしは手を止めたまま、顔を上げてビザンティーナに言った。

「ここには暖かい服はないわ。大陸に着いてから買う」

「寒期用の長袖服があるでしょう? それを重ね着なさい。大陸に着く前に必要になるわ」

「どういうこと……?」

 わたしは怪訝に思いながら、軽く首を傾げる。

 大陸への船旅は日差しがきついと聞いているけれど、寒期よりも寒いなんて話は聞いたことがない。

 ビザンティーナはそれ以上何も語ろうとはせず、私の傍を離れると、隣室でカルディナーレ修道院長に何事かを囁いていた。二人のやり取りはわたしにはよく聞き取れない。わたしは椅子から腰を上げ、尼僧服を手早く脱ぐと、露わになった下着の上に薄手の肌着を重ね着し、真新しい寒期用の尼僧服に身を包んだ。ビザンティーナの元に行く前に椅子の上に片足を載せ、スカートの裾をまくり上げる。そして太腿を包むガーターストッキングに鞘のついたベルトを巻き付け、短刀ダガーを忍ばせる。これはいつもしていること。投獄されたときに武器を奪われてしまったけれど、解放されたから関係ない。太腿に食い込むベルトが落ちないことを確認していると、アリーチェの泣き顔が不意に脳裏によみがえる。もう、みんな過去のこと。椅子に載せた足を下ろし、スカートの皺を整えた。隠し持った短刀は、服の上からは目立たない。尼僧服の上から羽織ることになるかもしれないケープを折り畳んだまま腕にかける。

 修道院の外に出ると、湖上を渡る夜の風が思いの外冷たく感じられた。

 すでに終わったはずの寒期が今も続いているみたい。

 手にしたケープを慌てて羽織ると、桟橋に立つビザンティーナが虚空に手を翳すのが見えた。薄い雲の切れ間に浮かぶ薄紅色の半月と薄蒼色の三日月がそれぞれ別の方向から彼女を淡く照らしている。異邦の騎士は何かを呟く。聖書の一句に似ているようでまったく違う古い言葉。目の前の光景が揺らぎ、黒い湖面に幻影のような巨獣が現れる。ドラゴンを思わせる獣だった。魔王と共に地上を去り、いにしえの伝承の中に消えた聖なる魔獣が絵画の中からこの世に迷い出たかのよう。だけど竜でないことはすぐに理解できた。獣自身の放つ淡い燐光が異質なその姿を闇の中で浮き彫りにする。伝承に聞く竜の背には蝙蝠のものに似た巨大な羽が生えているけれど、目の前の獣の背に生えた三対の羽はどれも半透明で、その形状は蝙蝠ではなく蝶や蜻蛉のものに近い。幻想的な獣だった。妖精フェアリーと竜のあいの子だと言われればすんなりと納得するような。

 ビザンティーナは振り返り、わたしの顔を見た。

「エルメリンダ、乗りなさい」

 小舟のように桟橋の先に佇む幻獣の背には豪奢な鞍があり、轡から伸びる手綱はすでにビザンティーナが握っていた。わたしは彼女に言われるまま獣に近づくと、無言でその背に飛び乗った。ビザンティーナが後に続く。曲線的な装飾の施された白い鞍は女二人が相乗りをしても充分すぎるほど大きかった。わたしは白く長い幻獣の首を見つめたまま些細な懸念を口にする。

「……目立ちそうね。夜は特に」

「いいえ。魔導迷彩のお陰で人目にはつかないわ」

 魔導迷彩。初めて耳にする言葉だった。言葉の意味はわからないけれど、フラマステラ共和国が失われた魔導技術の研究で成果を上げていることを知っていたから、わたしの懸念など杞憂に過ぎないのだと理解することはできた。そしてビザンティーナの言っていた“空の旅”の意味も。

 背後から伸びるビザンティーナの腕がわたしの胴を抱き込んだかと思うと、わたしたちを乗せた幻獣が夜空に舞い上がった。みるみるうちに離れてゆく地上を見下ろすと、大粒の星をちりばめたような市街地の灯りが見えた。アヴァローネ島の市街地は統治国家が変わるたびに外部へと拡張され、そのたびに街を囲む城壁が新たに建造された。そうして成長した都市は、旧い市壁に仕切られた街区を幾つも抱えていた。大空から眺める街。光と闇しか見えなくなっても壁の場所ははっきりとわかる。だけどわたしの暮らしていた第三街区がどこにあるのか、一目で見出すことはできず、あの辺りかな、と思ったときには街の灯りはすでに視界から消えたあとだった。

 海を越えて大陸に渡り、見知らぬ街で宿を取る。街並みも建物も人々の様子も、何もかもすべてがアヴァローネ島とは違う。夜の闇の中でもそれははっきりと見て取れたけれど、わたしの身体は冷え切っていて、周囲の様子を注意深く観察している余力はなかった。そして朝になれば寝ぼける暇すら与えられない。

 時刻を告げる鐘の音がアヴァローネ島のものとは違う。視界に映る天井もアヴァローネ島の建築物には用いられない建材のもの。室内を見回すと、隣のベッドにいたはずのビザンティーナが部屋の隅で身支度を整えているところだった。わたしは自分が何者で、どこに向かっているのかを否応なしに思い出す。

 宿を出ると商店で冬物の外套を購入し、再び空の旅に出る。日中の飛行は夜間とはまったく違っていた。緑色の絨毯のような草原や森林、豆粒よりも小さく見える人や家畜や獣を上空から眺めていると、この世界はわたしのもの、ビザンティーナと手を組めばわたしはいつでもこの世界を手に入れられるに違いない、そんな根拠のない確信に高揚せずにはいられなかった。それはあの日からずっと忘れていた感覚だった。母や兄と共に死んだはずの感覚がわたしの中に戻ってきた。嬉しいけれど、そんな楽しさは自分には相応しくないような気がした。

 やがて空に雲がかかり、切り立った崖が眼前に迫る。

「しまった……」

 ビザンティーナが息を呑み、わたしの胴を抱く腕に力がこもるのがわかった。気付いたときにはすぐ傍まで黒い影が接近していた。魔導迷彩。それを使用できるのは幻獣だけではなかったのか。魔王と共に滅んだはずの翼竜ワイバーンによく似た空飛ぶ巨体とそこに騎乗する人影が見える。しかも一体や二体じゃない。わたしたちはすっかり包囲されてしまっていた。

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ロストレクイエム 〜男子校に通う男の娘の僕は異世界の美少女アサシンの夢をいつまで見ていられるのか〜 砂倉夢摘 @yumewotsumitoru

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