【4】喪失〜貴村唯人

 唐突に目が覚めた。見慣れたはずの白い天井。そのはずなのに、ここは一体どこなのか、僕にはしばらくわからなかった。枕元で目覚まし時計のアラームが鳴り響く。亡き父が使っていたという平成初期の液晶時計。単調な電子音を止めるためにはどこをどう押せばいいのか、それは身体が覚えていた。寝呆けていても無意識下でも毎朝こなしている作業。自分は何故ここにいるのか、それすらも思い出せないほどの夢うつつの中にいても、僕の腕は時計に伸びアラーム音を止めていた。

 カーテンの隙間から射し込む朝日が白一色の天井に陰影と彩りを添える。ベッドに手足を投げ出したまま、僕はただぼんやりと視界に映るものを眺める。いつもならここで二度寝するはずだった。でも今日は瞼が軽い。代わりに身体がどことなく重い。手足の先や心臓のあたりに見えない空洞ができたような、言いようのない喪失感に僕はしばし呆然とする。

 あるはずのものが存在しない。それは寂しいことだった。先ほどまでの光景はただの夢に過ぎなかった。エルメリンダは存在せず、エルメリンダ・ヴェルドーネとなって僕自身が体験したこと、思ったことは全て幻だった。僕はエルメリンダだったのに、エルメリンダは存在しないから僕が感じていたはずの彼女の心も意思も感覚も何一つとして存在しない。僕と同化していたはずのものが実は最初からこの世のどこにも存在しなかったと言うのなら、それを寂しいと感じている僕は一体何なんだ。存在しないものには誰も触れることはできないし、その存在を感じ取ることも決してできない、そんな当たり前の状態を僕は何故、寂しいと思う? 夢だった。それが現実。どうして僕は納得できない?

 いてもたってもいられなくなり、僕はベッドから飛び起きた。

 肌寒さを感じる四月の空気を気にも留めずにパジャマを脱ぎ、学校指定の制服に着替える。寒さの苦手な僕にとって朝の着替えは億劫だった。だけど今日は気にならない。むしろ苦手なものに頼ってでもこの嫌な感覚を忘れたい、とばかりに手早く着替えを終え、窓際の青いカーテンを開く。目映い朝日を浴びて輝く新旧様々な住宅が見える。その目映さが今はウザい。まあでも、うん、今日は晴れだ。駅まで自転車で行けるから、ゆっくりしていても問題ない。そのはずなんだけど、僕は通学鞄を持ち、ドアを開けて廊下に出る。階下から物音がする。熱したフライパンの上で何かが弾けるような音、母が食事を作る音。漂う空気も香ばしい。喪失感が少し和らぎ、僕はいつも通りの足取りで階段を下りていく。築浅の中古狭小住宅。中学校に入る前の年に母が購入した自宅。父方の祖父は出ものだと言い、母方の伯父は高すぎると言った。家の値段の相場はわからないけど、僕はとても嬉しかった。物心ついたときから暮らしていた古い団地では、僕がはしゃぎ回ったりすると「物音が響いてうるさい」と階下の住人からクレームが来て、そしたら母に叱られて、楽しい気分が消え失せて、息が詰まりそうだった。ここではそんなことを気にせずに過ごせるから、僕はこの家が好き。まあ、僕も高校生だし、子供みたいにはしゃぎ回ったりすることはもうないわけだけど。

「あれ、唯人ゆいと……、今日は朝練?」

 リビングに入ると、キッチンに立つ母親がこちらに背を向けたまま言う。

 僕はソファに鞄を置き、冷蔵庫から取り出した耐熱ガラスの水差しピッチャーに入ったお茶をコップに注ぐ。

「違うよ。なんか知らないけど目が覚めた」

「何それ。年寄りみたいなこと言わないでよね」

「お母さん何言ってんの」

「年を取ると早起きになるんだって」

「たまたまだよ。今日だけだし。ってか、いきなり年寄りとか言われても意味わかんねーよ。お母さんと話してるとイラっと来る」

「反抗期なんでしょ。唯人はそういう年頃なの。お母さんのせいにしないで」

「そういう問題じゃねーし」

 ガラスのコップにいだお茶を僕は一気に飲み干した。炒め物を作る音が一気に激しさを増し、僕の喉音をかき消した。自宅で淹れて冷やしたお茶は毎日味が微妙に違う。濃い日もあれば薄い日もあるし、酸化しかかっているようなイマイチな味の日だってある。今日はまあ、普通かな。可もなく不可もなく。無難な味のついた水という感じ。だけど僕にはそれで良かった。軽い苛立ちを覚えるような他愛のない日常が喪失感をかき消してくれることに僕は安堵を覚えていた。

 早めに家を出た僕は、いつもより二本早い電車に乗って学校へと向かう。乗車時刻をずらしたんだから通勤ラッシュの電車内も少しは空いているかなと思ったけど、混雑状況は普段と同じ。二本といっても時間にすると二十分程度しか変わらないわけだから、乗車率も大して変わらないものなんだろう。それでもどこか新鮮だった。中一のときから三年以上、同じ時刻の同じ電車に毎日乗っていると乗客の顔を覚えてしまう。もちろん全員というわけじゃないけど、あ、いつもの人だ、と自分の中の無邪気な子供が脳内で騒ぎ出すような見知った顔が幾つもできる。時にはそういう人と目が合ってしまうこともあって、だけど知っているからといって会釈するのも変に思えて、僕にはそれがどうにも気まずい。だからそういう人が一人もいない電車に乗ると、たとえ混雑していても解放感がハンパない。過剰になった自意識から自由になれたような気がする。でもそれは諸刃の剣だ。他人を意識しなくなると、エルメリンダを思い出す。自分の手足や胸にできた空洞を思い出す。

 吊革に掴まって揺れる身体を支えながら、窓の外をぼんやりと眺める。視界の下半分を占める前の座席の男性はスマホの画面を見つめながら時折指を動かして何かの操作をしている模様。途中の停車駅で彼が降り、僕の前に空席ができた。僕はそこに腰掛ける。新たな乗客が流れ込み、電車が停車駅を発つ。動き出した電車がその速度を増す前に僕は眠りに落ちていた。

 夢は見なかった。気付いたときには下車駅を通り過ぎたあとだった。あわてて次の駅で降り、反対側のホームを目指す。その駅のホームからは空がよく見えた。途端に胸が苦しくなる。澄み渡った春の青空を見上げると、ビザンティーナに連れられてエルメリンダが消えていった異世界の空を思い出す。胸にあいた空洞が際限なく広がって、だけど僕は僕のまま、外見上は無傷のまま、エルメリンダのいない世界の駅のホームに立っている。やがて電車が到着し、色鮮やかな車両が僕と空を遮った。そこに乗り込もうとしたとき、満員の車内の隅に立つ見知った顔を発見する。

 僕と同じ制服の、背の高い男子高校生。黒い髪を短く切り、縁のない眼鏡をかけたシャープな印象の同級生。彼は綿辺恍一わたなべこういちだった。僕の視線に気付いたのか、綿辺がこちらに視線を向ける。僕の胸から空洞が消えた。僕は自分の手足や胸に穴があいたことを忘れた。綿辺は片手を軽く上げ、皮肉げな笑みを見せる。昨日の別れ際のやりとりを思うと気まずく感じるところだけど、不思議なことに今の僕にはまったく気にならなかった。僕はただ、嬉しかった。自分の身体にできたはずの空洞の存在を感じずに済むのが嬉しかった。自分の顔が自然な笑顔に変わっていくのがわかる。僕は電車に乗り込んだ。早く綿辺と話したかった。だけど車両はすし詰め状態。僕と綿辺を隔てるほんの数メートルの空間には人が大勢詰まっていて、すぐに綿辺のそばに行くことはできなかった。

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