【3】異邦の騎士〜エルメリンダ・ヴェルドーネ

 第三街区の教会で共に育ったアリーチェは、鉄格子を握ったままその場にヘたり込んだ。わたしの名を呼んだときのか細く震える声を思えば、わたしと同じ『円卓』の暗殺者であるアリーチェの惨劇に慣れた精神を揺さぶるような出来事が起きたことは察しがつく。だけどわたしは彼女に応えず、その場に腰を下ろしたまま、アリーチェの背後の薄暗い通路へと視線を移す。重く静かに反響する四、五人分の足音が聞こえる。だけど狭い独房の格子越しに見えるのは、地下を横切る長い廊下のほんの一部分だけ。わたしは息を殺し、足に嵌った枷から垂れる冷たい鎖に指を添え、足音の主たちが自身の視界に現れるのを待った。

 鉄格子を握りしめ、アリーチェは嗚咽する。彼女が泣くのはよくあること。喜怒哀楽の区別なく、己を欺き続けることに耐え切れなくなったとき、彼女は決まって涙を流す。幼い暗殺者にとって自己欺瞞は日常茶飯事だから、彼女の涙もまた日常。鉄格子を杖代わりにするかのようなその姿、そして先ほどの震える声は、想定外の出来事が起きたことを意味しているけれど、わたしが今すべきことは自身の消耗を最低限に抑えつつ事態を把握することだけ。自由を奪う枷の重みを武器として、凶器として誰かの体に叩き込まねばならないような局面に備えながら。

 足音が近づくにつれ、格子の向こうに見える廊下の闇が仄かに明るくなる。

 まず、手持ち燭台が現れた。光の反射を妨げる黒い金属の皿の上で蝋燭の炎が音もなく舞い踊っている。そして誰かの手が見えた。ここアヴァローネ島特有の細く長い柄のついた手燭を持っていたのは名前も知らない修道士だった。その後に続くのは、この修道院の長を務める『円卓』の幹部。名をカルディナーレといい、年齢は四十代後半。法衣を纏っているけれど、聖教会の定めるものとは微妙に違っていて、動き易さを優先したつくりになっている。修道院長の後ろには、一目で異国のものとわかる装飾過多な甲冑をつけた若い女の姿があった。修道士らしき人影が二つ、彼女の後ろに見えるけれど、騎士と思しき女の纏う淡い光と煌めきにわたしの目は慣れなくて、背後の影に溶け込む二人の顔はおぼろげだった。

 わたしのいる独房の前で一行は足を止める。

 カルディナーレ修道院長が一歩進み出て、片手を軽く掲げて見せた。白い手袋に覆われた手の中で揺れる鍵の束。初老の修道院長の彫りの深い骨格と刻み込まれた無数の皺を蝋燭の灯が際立たせ、その表情を複雑にする。わたしには彼が薄く笑っているようにも、渋面を作っているようにも見えた。

「エルメリンダ、君の釈放が決定した」

 彼の言葉はその決定が『円卓』上層部の意思であることを意味している。

 わたしは何も言わなかった。身じろぎ一つせず、彼らの次の動きを待った。自身の死に際して何も思うところがないように、自身の延命を告げられたところで思うことは何もない。異国の女の背後に控える修道士二人が音もなく動き、泣きじゃくるアリーチェの両腕を拘束した。鉄格子から引き離されるアリーチェの傍らでは、修道院長が自らの手で独房の鍵を開けている。やがて錠が外れると、アリーチェを捕らえた修道士が彼女を牢に運び込む。修道院長は両目をすっと細めてわたしを見下ろし、感情の読み取れない冷ややかな声で告げた。

「君には新たな任務が与えられることとなった。しかし暗殺者エルメリンダ・ヴェルドーネの処刑は予定通り執行される。その娘が君の身代わりだ」

 わたしは目を見開いてアリーチェの方を見た。

 アリーチェは顔を伏せたまま。石の床にうずくまり、わたしの方など見ようともしない。ただ、その肩が震えているのと、床についた両手が固く握りしめられているのは、影の中でも見て取れた。

 修道院長の言葉は続く。アリーチェを投獄した修道士がわたしに近付いてくる。

「暗殺者の顔を知る者はいない。処刑される咎人……エルメリンダ・ヴェルドーネは金髪の少女だという噂こそ流れてはいるものの、別人と入れ替わっていたとしても誰も気づくまい。君には言うまでもないことだろうがね」

 修道院長の冷ややかな声に嘲弄の響きが混じる。

 わたしは返事をしなかった。アリーチェに向けていた視線を修道院長に戻したとき、わたしの方へと近寄ってきた修道士が一人、足元に屈み込む気配を感じた。一瞬だけ、そちらに目をやる。修道士が足枷に触れるのが見える。

 わたしの代わりに誰かが死ぬ。それは初めてのことではなかった。死刑を宣告されたことすらも生まれて初めてのことではなかった。わたしは九歳のときに、聖教会の法に反した罪で処刑されることになった。だけと『円卓』に拾われた。殺人者としての能力と、暗殺者としての将来性を買われて。そしてわたしの身代わりとして、聖教会の庇護を受けた名前も知らない少女が死んだ。

 金属の擦れる音がして、足首が軽くなる。

 わたしの足から外れた枷がアリーチェの足首に嵌められる気配を視界の外に感じながら、わたしは無言で腰を上げる。尼僧服シスタードレスの裾を踏んで転倒しないよう、長いスカートを両手で押さえながら。視線は修道院長に据えたまま。わたしが立ち上がると、修道院長は苦笑混じりの呆れたような声を出した。

「エルメリンダ。少しは返事をしてはどうかね」

「……言いたいことは何もないわ」

「感想を訊いているのではない。理解できたならその旨を一言でも伝えるべきだろう」

「必要性を感じないわ。これまで『円卓』の決定に逆らったことは一度もないもの。わたしの過去を知っているのに、そういうことは知らないの?」

「これは随分と反抗的だね」

 修道院長の声は苦笑混じりのままだったけれど、こちらを向いた三人の修道士の顔つきは厳しかった。

 警戒されるなんて心外。返事をするよう言われたからそのようにしただけなのに。それに返事をする際には疑問点があるのなら確認するよう教わってきたからそのとおりにしただけなのに、どうしてこんな目を向けるの。そんなことを思ったけれど、わたしが口を開く前に修道院長が鷹揚に言う。

「……まあいい、そのような口が利けるのは健康な証拠だ。牢から出たまえ、エルメリンダ。詳しい話は彼女がおこなう」

 彼女が、と言いながら修道院長は騎士らしき異国の女を顎で示す。

 だけどわたしはそれを無視して、院長の傍らに立つ修道士に声をかけた。

「燭台はわたしが持つわ。この中ではわたしが一番目下だから」

 彼はわたしには応えず、修道院長に目配せする。修道院長は部下と目を合わせ、無言で頷いた。幹部の意思を確認すると修道士は手持ち燭台の柄をこちらに差し出した。わたしはそれを両手で受け取る。蝋燭の灯りが揺らぐ中、異国の女が進み出てわたしと修道院長を遮るような位置に立った。淡い光を発しているように見えた彼女だったけれど、改めて近くで見ると、癖のない白金の髪と細やかな細工の施された甲冑に反射する蝋燭の光がただの人間に過ぎない彼女に幻想的な虚飾を施していただけだと気付く。自分よりも頭半分くらい背の高い彼女の顔を見ながら、わたしは視界の外にある手持ち燭台の柄をゆっくりと握り直す。彼女の顔は端正で、どこか物憂げだった。

「あなたがエルメリンダ・ヴェルドーネね」

 硬質な風貌に反して彼女の声は幼く甘い。

「わたしの名はビザンティーナ。ビザンティーナ・シレア。フラマステラ共和国の政治の中枢を司る十三人委員会直属の守護騎士よ」

 ビザンティーナと名乗った騎士は無表情のまま事務的に語った。

 フラマステラ共和国。その名を聞いて腑に落ちる。ビザンティーナの身を包むドレスや甲冑に施された曲線的な装飾はフラマステラの工芸品を思わせる精緻なつくりだった。猟奇性に通じる美を持つ独特の意匠の甲冑もフラマステラ特有の感性を感じさせる。だから彼女がフラマステラの上級騎士だと知ったとき、彼女の異質な装いに対しては合点が行った。だけど新たな疑問が生じる。そんな彼女が何故ここに。フラマステラ共和国は『円卓』すらも退ける孤高の強国のはずなのに。わたしは怪訝に思ったけれど、ここに彼女を連れてきたのは『円卓』の幹部カルディナーレ。胸に立ちこめる不審な予感を黙殺しながら言葉を選ぶ。

「異国の騎士様がわたしに何の用?」

「あなたを迎えに来たの。空席となった守護騎士に任命するために」

「おかしな話ね。フラマステラ共和国は建国五百周年を迎える大陸随一の強国よ。そんな国が異国の犯罪者を……、よりによって十三人委員会の直属の騎士に登用するなんて、そんな話は信じられない」

「それがフラマステラのやり方よ」

「どういうこと……?」

「フラマステラ共和国を擁するロマリオ山地は不毛の地。作物は実らず、家畜も獣も生きられず、資源と呼べるものはそこに住まう人間だけ。だから彼らは人間を最大限に利用する。十三人委員会直属の守護騎士は諸外国の死刑囚の中から選任される決まりなの。危険な役職だから、共同体から切除された危険な人間を再利用する。だけど守護騎士の数は決まっているの。誰もがなれるわけではないし、優秀な危険人物全員を再利用できるわけでもない。補充されるのは死者が出たときだけ。そんな中でエルメリンダ、あなたは選ばれた。だからわたしと来てもらうわ」

「──断る」

 そう短く吐き捨てながら、わたしは手持ち燭台から柄の部分を引き抜いた。蝋燭の炎が大きく揺れる。柄から外れた燭台を廊下の隅に投げ捨てると、光源が転がり視点が揺らぎ、まるで地下室全体が揺さぶられているかのような錯覚に囚われる。だけどそれは予想済み。修道士が切迫した声を上げる中、わたしは尖った柄の先をビザンティーナの喉の上、首と顎の付け根付近の柔らかい部分を突き上げるように貫いた。間合いを詰める必要はなかった。彼女の胴や首は甲冑で覆われているけれど、兜は被っていないから頭部を守るものはない。わたしの方が背が低く、狙いを定めるのも容易かった。首と顎の付け根にある頭蓋骨の隙間から斜め上の方向に棒状のものを差し込んで、脳を直接破壊する。これまでに何度もやってきた、日用品を使った殺害。ビザンティーナが痙攣する。もはや聞こえていないであろう彼女に向かってわたしは囁く。

「わたしは『円卓』の暗殺者。異国に仕えるつもりはない」

 巨大犯罪組織として知られる『円卓』の存在理由はアヴァローネ人なら誰だって、子供でも知っている。アヴァローネ島とその民は常に奪われる側だった。風光明媚なこの島は年間を通して過ごしやすく、軍事や交易の拠点になり、肥沃な土壌を有しているから、周辺諸国がこぞって奪い合っていた。横暴な征服者に蹂躙されるだけだったアヴァローネ島の民はやがて自らの尊厳を守るべく自警団を組織した。神も法も正義も倫理も、無力なアヴァローネ人には何の恩恵ももたらさない。だから信じる価値のないそれらには決して依らず、自身や同朋の尊厳が傷つけられた際には自らの手で報復する。それが『円卓』の理念だった。『円卓』は、理不尽に耐え続けたアヴァローネ人のための組織。だからわたしは『円卓』が死ねと言えばそれに従う。だけどわたしは自分自身を捨てたわけじゃない。アヴァローネ人のものを奪う異人には従わない。

 ビザンティーナが事切れるのは時間の問題だった。

 わたしは彼女の頭蓋から棒を引き抜こうとした。

 そのときビザンティーナが動いた。彼女の動きは正確だった。わたしの手首を掴んでねじり、腹を膝で蹴り上げる。ドレスの下に隠れた彼女の足は甲冑で覆われていた。わたしは無様に呻きながら冷たい床にくずおれた。ビザンティーナはわたしの髪を掴み、強引に顔を上げさせる。悶絶するわたしを見下ろしながら彼女は顎に刺さった棒を自らの手で引き抜いた。彼女の淡い唇からは血の筋が垂れている。だけど動きは的確で、それに表情にも生彩があって、脳に傷を負っているようには到底見えなかった。ビザンティーナは籠手に覆われた手指を緩やかに開き、てのひらの部分で口元を拭う。塞がってゆく傷跡を見せつけるように顎を上げ、彼女は傲然と吐き捨てた。

「……フラマステラの守護騎士を侮るな」

 彼女はすっと目を細め、棒を無造作に投げ捨てる。

 不死身の化け物。そんな言葉が脳裏を占める。そのような存在は物語や伝承の中にしか登場しないはずだった。現実の化け物は、たとえどれほど異形でも人間と同じように死ぬ。実際に殺したことはあるし、『円卓』でもそのように教えられてきた。だけどわたしが知らないだけで、中には不死身の肉体の持ち主もいるのだとしたら。ビザンティーナが“それ”ならばますます従うわけにはいかない。わたしは彼女を睨みつけ、疑問を口にする。

「ビザンティーナは隔世人かくりよびとなの……?」

 隔世人。魔王が眠りについてから現れるようになった魔物の総称。人間同士の交合で人間の腹から生まれ落ちる、人間型の魔物のこと。この世に生まれたときには既に異形の姿の者もいれば、生まれたときは人間そのもの、成長に伴って魔物としての本性を露わにする者もいる。わたしの問いにビザンティーナは冷笑を浮かべて答えた。

「あのようなヒトモドキと混同してもらっては困る。我らフラマステラの守護騎士は自らの意思で幻獣をその身に取り込み不死となった。生まれながらの欠陥品、それも定命の存在に過ぎない隔世人とは根底から異なる。むしろあの忌まわしきヒトモドキの対極に座するのが我々だ」

 そう語るビザンティーナの傲岸不遜な冷笑が、初めて目にする彼女の笑顔、そう呼ぶには語弊があるけれど、そんな印象をわたしの中に刻みつけるような表情だった。わたしはそこに希望を見た。フラマステラの守護騎士になればわたしも彼女のようになれる。そう思っただけで、張りつめた自分の表情が穏やかになるのがわかった。

 わたしの兄は隔世人だった。異形の魔物として生まれた息子を母親は溺愛した。それは聖教会の影響だった。母はアヴァローネ人でありながら侵略者の持ち込んだ聖教会の教えに救いを求めた。聖教会は隔世人を人間として庇護している。中でも教条的な一派は、隔世人を神の遣わした天使として崇め奉り、人間と魔物の架け橋となる平和の象徴として崇拝していた。だけどどれほど美化しても隔世人の本質は魔物。人間に危害を加え、人間社会を破壊する害悪だから、彼らは魔物と見なされる。古い伝承に登場するオークのような隔世人の息子が周囲の娘を襲っても母は見て見ぬ振りをした。それどころか「この子は天使だから。特別な子供だから」と被害を受けた娘や家族に泣き寝入りを要求する始末。だからわたしは二人を殺した。九歳のときのことだった。当時のアヴァローネ島の統治者は教条的な一派の信奉者だった。天使とその守護者を殺した、としてわたしには死刑判決が下った。だけど『円卓』がわたしを助けてくれた。わたしの代わりに殺されたのは、統治者に監禁されていた隔世人の少女だった。分類上は雌のオーク。だけど雄のオークと違って容姿はとても美しい。古い伝承に登場するエルフのような美貌を持つ。ただエルフとは違うのは、知能がとても低いこと。エルフのように美しく、だけど意思の疎通すらままならない隔世人の少女は統治者の館の奥で慰み者になっていた。そして彼女は自身を天使と奉る聖教会の法によって、咎人として殺された。

 こんな世界をどうして憎まずにいられるの。こんな世界でどうして生きながらえたいと思えるの。ずっとそう思っていた。だけど憎き隔世人の対極の存在になれるのなら、少しは楽しいと感じられるのかもしれない。

 ビザンティーナの顔から笑みがすっと消える。

 再び口を開いたとき、彼女の口調は事務的なものに戻っていた。

「エルメリンダ。あなたのフラマステラ入りは『円卓』の意向でもあるの」

「そういうことだ」とカルディナーレ修道院長。「君はこれまで『円卓』の決定に逆らったことは一度もない。これからもそうであるように願っているよ」

「そういうこと。わたしと一緒に来てもらうわ」

 淡々と告げるビザンティーナ。背後でアリーチェの声がする。「エルメリンダ、フラマステラに行って。わたしのことは気にしないで」──だけど彼女は泣いている。彼女が涙を流すのは自身の欺瞞に耐えられなくなったときだとわたしは知っているけれど、かける言葉は何もない。地下室に響くアリーチェの嗚咽が胸の奥底にまとわりつく。わたしは慎重に立ち上がりながらビザンティーナの顔を見上げ、「いいわ」とただそれだけ、無表情に応えた。

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