【2】持たざる者〜貴村唯人

「貴村(きむら)。俺の家に来ないか?」

「え、あ……、わ、綿辺(わたなべ)君……?」

「来いよ。貴村の好きな格好でいいから」

 いつものおどけた演技も忘れて間抜けな顔でどもる僕にクラス一の秀才は相手のキョドりぶりなど見えていないかのようにナチュラルに声をかけてきた。それは一日の授業が終わり、教室から出ようとしたときのこと。成績優秀者として名高い優等生の綿辺洸一(わたなべこういち)がほとんど話したことのない僕の肩を叩いたのだった。

 放課後の教室には解放感が充満している。ある者は自宅へ、ある者は部活へ、またある者は友人の元へ。幼い頃にどこかで見たダムの放水を思わせる迷いのない足取りで目的の場所へと向かうため、家柄の良い秀才とはみ出し者が話していたところで注意を向ける者はいない。だけど僕は知っている。本来ならば、周囲の生徒に好奇の視線を向けられたとしても文句など言えない立場、それが今の僕だということを。何故ならこの学校は、金持ちの息子でなければ通えない名門男子校であり、しかしここにいる僕はそういった家の子供ではない。物心つく前に父親を亡くした僕は、パート勤務の母親に女手一つで育てられた。比較的裕福な父方の祖父母の援助があり、食べ物、服、おもちゃ、いずれも周囲の子供と比較して見劣りすることはなかったが、再婚相手を探している母親を持つ環境は決して多数派などではなく、僕は同世代の子供との間にいつも溝を感じていた。そんな僕が名門私立おぼっちゃま学校に通うことになったのは、やはり祖父母の計らいだった。地元の小学校にとけ込めなかった僕を見て、電車で三十分の地域にある中高一貫制の名門男子校に入ってはどうかと言ってきた。僕に選択権はなかった。学童保育で知り合った家庭環境の悪い子供と僕の関わり合いを嫌がっていた母は、一も二もなく僕に中学受験の準備をさせた。塾の費用や学費は祖父母が工面してくれたため、入学まではスムーズだった。しかし入学二日目で僕は自分の存在が場違いだったことを思い知る。周囲は金持ちの息子ばかり。制服や鞄は同じでも、靴下、ハンカチ、文房具、持ち物を見れば生活レベルが違うことは一目瞭然。飛び交う話題に入ろうとしても、まったく話についていけない。僕は明らかに浮いていた。いや、沈んでいた、と言うべきか。

 僕の知る限りでは、中等部の三年間、クラス内でいじめはなかった。彼らのほとんどは生まれついての上位者だから、わざわざ格下の人間を作って安心する必要などないのだろう。それにそんなことをする暇があれば一つでも多くの学びを得て上を目指そうとする人ばかりだった。簡単に言うと、意識が高い。いじめなどしない代わりに、劣った人間に優しさを振りまき自らに箔をつけようともしない。エリートであることをナチュラルに自覚している彼らはわざわざ僕のような“沈んでいる奴”と関わり合おうとはしなかった。彼らは僕を意図的に無視することはしなかったが、こちらから話しかけない限り、基本的に存在しないものとしてスルーしていた。

 とはいえ僕はいつまでも“沈んだ奴”のままでいるつもりはなかった。第一、場違いなことを自覚しながら学校に通い続けるようなタフな精神は僕にはない。かといって学校に行きたくないと言えるような度胸もない。登校拒否をすることは、母親だけでなく父方の祖父母も敵に回すことを意味する。学校でも孤立、家でも孤立、そんな自分を受け入れることも、環境のせいにして暴れることも、僕にはできそうになかった。だから浮くことにした。自分の弱さを知っているのに、浮いた人間などという、四方八方から打たれかねない“出る杭”になろうとするなんて考えてみれば変な話だけど、僕にはそれくらいしか考えつかなかった。僕は女装男子になった。そういう人がいることは、テレビを見て知っていた。そしてそういう人を含めた多様な性の在り方を否定したり笑うことは、時代遅れで差別的だと見なされつつあることも。僕の女装はあくまでも“浮いた奴”になるための奇をてらったキャラ付けで、僕自身には女性化願望も同性愛的な嗜好もない。僕は自分を守るために女装趣味者を利用しているだけで、僕自身の着想は差別する側のものなのだろう。でも、僕には何もない。僕のものだと言えるものは、小柄で線の細い自分自身の身体だけ。僕はそれを利用した。自分の人生をつまらなくしないために自分の持ち物を利用して、いったい何が悪いんだ。

 そうして女装街道に入ったものの、学校の制服は男物のみ、女装男子キャラとして浸透するまで時間がかかった。手始めに文房具やハンカチを女子の好むようなものに変え、入学時とは違った意味で浮くように工夫する。すると僕の方をチラ見する生徒が現れるようになった。僕は自分から彼らに話しかけた。気持ち悪いと思われれば、いくら品行方正なおぼっちゃま学校でもいじめに発展しかねない。だからネガティブなことを言いにくい空気を自ら作っていった。でも価値のない僕自身のキャラクター性なんてたかが知れている。近い将来に起きかねない差別や迫害から自分自身を守るには、浮いたキャラだけでは力不足だと断定せざるを得なかった。僕は女装男子としての自分に箔をつけることにした。演劇部に入部して、本校唯一の女優になる。女の役を進んで演じる新入部員の登場は先輩たちに歓迎されたし、舞台に立つことで僕の可愛らしさも認知された。こうして場違いな僕は学校内に居場所を作った。居場所と呼ぶには少し、作り物じみているものの、僕が自分のポジションを確立したことに代わりはない。

 高等部に進学した僕は、学年で一、二を争う成績優秀者の綿辺と同じクラスになった。

 彼のことは知っていた。名前だけなら誰でも知っている。定期テストが終わるたびに階段の踊り場に彼の名が掲示されるからだった。この学校では定期考査、つまり中間テストや期末テストや学期末テストの成績上位者の名前を公開する慣わしがある。綿辺洸一はどの科目でも学年別三位以内にランクインする秀才として知られており、彼に関する情報は著名人のプロフィールのように生徒間で共有されていた。曰く、彼は医師の名家の生まれ。小学生の頃からずっと父親とは離れて暮らしている。姉もまた才媛で、医大に現役合格を果たした。……

 自身の立ち位置について彼がどう思っているのか、僕には想像することすらできない。

 生まれや家族に関することからテストの結果に至るまで、騙しの利かない部分について日々接する人たちに注目されているなんて窮屈そうだと思うものの、彼はいつもマイペース、人目を気にしているような素振りなど見せないから、エルフや異星人のような、何もかも全てが自分とは違う別の種族のように見える。

 そんな彼が自分から僕に話しかけてきて、しかも開口一番で自宅に来ないかと切り出したものだから、僕の頭は混乱した。女装男子、男の娘キャラ、そういう対外用パーソナリティの設定書は頭から消え、間抜け顔でどもるだけの無力な自分が露わになった。綿辺はそんな僕に澄ました顔で追い討ちをかける。

「……話は聞いているよ。貴村、プライベートでも女装してるんだってな」

「あ……、うん。女装っていうか。好きな服を着てるっていうか」

「一番好きな服で来いよ。他の奴は呼ばないから」

 綿辺はにこりともせずに、どこか深刻な面持ちで僕の顔を見ずに言った。

 混乱が消え、余裕が生まれる。ああ、そういうことか。女の子のような男子に興味があるってことか。生まれも育ちもエリートで異種族のような綿辺の中にも俗っぽい、そして一昔前であれば差別を受けていたであろうスケベ心があるのだと思うと、卑屈にならずに対等に立ち回っていけるような気がした。僕は綿辺の顔を見上げ、無邪気に笑ってみせた。

「綿辺君も僕みたいな男子に興味があるんだね」

「興味を持つなと言う方が無理だ」

「えー。そうかなー。見向きもしない人の方が多いけどな」

「いや。注目は、されているだろう」

「そうだけど。でも遊びに誘ってくれる人はそんなにいないよ?」

「だろうな。大抵の人間は君の女装した姿にしか興味を示さないものだよ」

「え、それってどういう……」

 自分の顔から笑みが消えていくのがわかる。

 綿辺は僕の顔をまっすぐ覗き込んでいた。ここで目を逸らしてはダメだ。僕は自分に言い聞かせる。こういうときに目を逸らすのは、捕食される側の人間だ。自分の在り方に対して迷いの生じた者が、先に目を逸らす。それは自分自身に対する決定権を放棄するということ。だから彼から目を逸らすな。大丈夫。僕は最強の萌え男子。僕の作った女装男子キャラのペルソナが敗れることはない。そう自己暗示をかけて、自分の視線を綿辺に固定しようとするものの、彼の発した一言で僕の視界は落ちていった。

「怒ったのか?」

「え……、僕は別に……」

「誤解のないよう言っておく。俺は君と交際したくて声をかけたわけじゃない。……興味があるんだよ。君がどんな人間なのか」

「どんなって……、見たままだよ。他に何があるって言うんだ」

 苛々した。自分の家に土足で上がり込まれたような気分だった。とはいえ彼の言動に非難すべき点はなく、僕の抱いた嫌悪感は、文化の違い、その一言で片付けるべきものだった。まさに異種族。やはり異種族。僕は綿辺洸一に対して強い苦手意識を抱いた。僕の不機嫌そうな顔が見えているのかいないのか、それとも気にする価値などないのか、綿辺の声は冷静なままだった。

「何があるかわかっているなら、それ以上知ろうとは思わない」

「……そろそろ行っていいかな。部活があるんだ」

 綿辺の返事を聞かず、逃げるように教室を出る。

 この日、僕は夢を見た。映画のように鮮やかな異世界の夢だった。夢の中で僕はエルメリンダという名の少女になっていた。僕と同じ年頃の、鮮やかな金髪に翡翠色の瞳を持つ華奢な少女だった。彼女は地下の独房で自らの命運が尽きる時を待っていた。そんな彼女の元に思わぬ客人が訪れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る