ロストレクイエム 〜男子校に通う男の娘の僕は異世界の美少女アサシンの夢をいつまで見ていられるのか〜
砂倉夢摘
第一章「空に落ちる」
【1】あとは死のみ〜エルメリンダ・ヴェルドーネ
暗がりを見つめると、己の内に潜むものに蝕まれそうになる。
恐怖。未知なるものに対する畏れ。そのような感情はわたしの中から消え失せた。あの日を境に希薄になり、気づいたときには死に絶えていた。恐怖とは、自分自身の未来に対する期待の裏返しに過ぎないのだから、“彼ら”の道具となってから恐怖を感じなくなったのは、何も不思議なことじゃない。“彼ら”のものになることで、わたしは未来を失った。わたしはわたしのものではない。どれほど理不尽なことがあっても受け入れなければならないと知ったとき、わたしの中から不安が消えた。そしていつしか恐怖も消えた。現に今、自身の処刑をひとり待つわたしは何も感じない。怖いとも、嫌だとも、寂しいとも思わない。目に映るすべてのもの、記憶に残るすべてのものと永遠に分かたれてしまうことに名残り惜しさを感じない。苦痛に対する警戒心や嫌悪感はあるけれど、ううん、やっぱり大丈夫、“彼ら”が麻薬で苦痛を消してくれることは知っているから、処刑はどこか他人事。ただ、胸の奥が重い。言葉にならないものだけが胸の奥に沈み込む。
胸の淀みに逆らうように顔を、そして顎を上げ、暗がりを凝視する。壁と天井の境目にある、濃密な闇がわだかまる場所。鉄格子の向こうで揺らめく灯火、壁に掛かった燭台の上で踊る橙色の光も牢獄の隅には届かない。石の床に体温を奪われてゆくのを感じながら、黒い尼僧服(シスタードレス)の裾を枷の嵌った生白い素足に巻き付けた。藁の敷物の上にいても、床石の冷たさが身体に染みてゆくのを感じる。片足のみにはめられた金属製の足枷は重く、わたしの足から奪った熱で温もりを帯びることはない。長袖の尼僧服を着ていても寒さに震えそうになる。光の射さない独房に骨まで蝕まれるかのよう。暗がりを眺めていると、闇の中で何かが蠢いているような気がした。じっと目を凝らしていると、蛇のような不気味な何かが音もなく動いているのがはっきりと見えるようになる。だけどわたしは知っている。そこには何もいないことを。幼い頃に夜ごと目にした幻をまた、見ているのだと。
あの頃は暗闇に怯えていた。そこにいるかも知れないものにいつも怯えていた。闇に潜むおぞましいものが突如襲いかかってきて、わたしの何かを損ねることを殊更に恐れていた。だけどわたしは気づいてしまった。損ねられて困るものなどわたしには何もないことに。不安も恐怖も感じなくなり、暗がりを凝視しても幻を見ることはなくなった。だけど今、わたしは幼い頃と同じ幻視を眺めている。自身の処刑を前にしても尚、恐怖を感じることのないわたしのどこに、いったい何に対する畏れが芽生えたのか、不思議に思いながら。
遠くで鐘の音がする。時刻を告げる澄んだ音。市街地の高台に建つ大聖堂の鐘楼で鳴り響く鐘の音が風に乗って森を越え、湖の孤島の修道院の地下室まで聞こえてくる。生まれた日から今日までずっと、一日も欠かすことなく耳にしてきた音だった。人と人でないものの声、それらの立てるあらゆる音の混ざり合った市街の空気を刻むように震わせて時を告げる鐘の音も、ここで聞くとか細くて、だけど窓のない地下室ではこれが時刻を知る唯一の手段。夕暮れの街並みが脳裏に浮かび、わたしの視線は暗がりから落ちる。一日の終わりを告げる音。市街地で暮らす人々の多くは夕刻の鐘が鳴ると仕事を終えて家に帰り、夕餉のあとは夜明けを告げる鐘の音が響き渡るまで眠る。大半の人間は夜に出歩くことはない。だけどわたしは市街地の夜の姿を知っている。暗殺者だったわたしには昼も夜も関係なかった。歩き慣れた庭のように恐れることなく駆け抜けた夜の街並みを思い出す。整然と建ち並ぶ四角い家屋の白い外壁が月明かりを受けて佇み、かすかに漏れる橙色の光が尽きることを知らない生命のように小刻みに揺れていた。記憶の中の街並みを、記憶にはない人影が駆ける。わたしが死んでも替わりはいる。冷えた足をもう一度、黒い尼僧服で包み込んでいると、教会の裏庭の花壇の様子が返り咲くように脳裏を占めた。そこに植わった草花の世話をしていたのはわたしだった。追想の庭の日が沈み、花も葉も蕾もすべて、顧みられることなく枯れ落ちる。
わたしをこの世に産み落としたひとは、花や草木の美しさを愛でることが好きだった。
理解できない感性だった。花の色や形は確かに、絵画や芸術品のような趣を有してはいるけれど、それを見て美しいと感じ入ることはない。わたしが花の世話をするのは、毒薬の元が育つ様を眺めているのが好きだったから。毒薬の元をこの手で育ててゆくのが楽しかったから。顧みられることなく枯れ落ちる草花の幻影に一抹の寂しさを感じるのは、有用な毒素が無駄になってしまうのを惜しむが故のこと。だけどそれはありふれたこと。毒も、無駄になることも、誰にも顧みられることなく消え失せることも全て、この世にありふれているのだから、寂しく思う必要はない。
足元に視線を落とすと、尼僧服の裾から覗く枷の嵌った足が見えた。金属製の足枷には丸い錘がついていて、狭い独房の中であっても歩き回ると疲弊する。だからわたしは座したまま。枷と錘を繋ぐ鎖にそっと手を伸ばす。冷たく重い鎖に触れると、今までのことは全て夢、この感触だけが現実でそれも長くは続かない、そんな確信が立ちこめて幻影が霧散する。
少し離れた場所で石の動く音がした。地上へ通じる石扉の開く音だった。
ここには看守も衛兵もいない。囚人の監視に人員を割く必要がないから。ここは湖の孤島の地下室。正規の手順を踏まずに石扉を開こうとすると地下室全体が水没する仕組みになっているし、たとえ地上に出られても船を手に入れて自力で漕ぐか、足枷を外して泳がない限り、岸まで辿り着くことはできない。修道院に住んでいるのは“彼ら”──周辺諸国の裏社会を牛耳る巨大犯罪組織『円卓』の幹部と直属の部下で、彼らひとりひとりが人間の構造を知り尽くした凄腕の暗殺者だから、見つかったらそれで最後、わたしに勝てる相手じゃない。それにたとえ向こう岸まで逃げおおせたとしても、この島の都市は一つだけ、そこは『円卓』の支配下だから、大陸行きの船に乗らなければいけなくなる。それら全てを成し遂げても、身の安全の保障はない。『円卓』は諸外国の裏社会に通じているから、寄る辺のない身なら尚更のこと、彼らと接する機会が増える。『円卓』は裏切り者を決して許さない。どれほど静かに暮らしても、どれほど市井に紛れても、どれほど成り上がっても、彼らに見つかるだけで凄惨な末路が訪れる。それを思えば処刑なんて慈悲深いことのように思える。痛みを感じることもなく、多幸感の中で死ぬことができるのだから。彼らが麻薬を使うのは、余計なことをわたしに喋らせたくないから。わたしの処刑は罪人に対するものではなく、諸外国を黙らせるための政治的な演目に過ぎない。わたしは『円卓』の命じるままに要人を暗殺し、そのわたしを『円卓』は私情で要人を殺害した大罪人として処刑する。それを知っていても尚、慈悲深いことのように思える。凄惨な末路に怯えながら一日でも長く生きる価値がこの世にあるとは思わない。わたしはこの世界が憎い。神殺しの魔王に祝福されたこの世界がとても憎い。
階段を下りる足音が聞こえる。石の階段を踏みしめる靴音がいくつも響いている。
食事を運んできたにしては人数が多すぎる。それに足音もなんだか違う。“彼ら”のものにしてはどこか迷いがあるように感じる。こんな場所に誰が来たの。怪訝に思い、顔を上げる。徐々に近づく足音のうち一つが早くなり、黒い鉄格子の向こうにわたしと同じくらいの背丈の少女が現れる。彼女は縋りつくように鉄格子を握りしめた。灯火を背に立っているから、その表情はよく見えない。ただ、彼女の髪色と黒い尼僧服だけは薄闇の中でも見て取れた。わたしによく似た癖のある、輝くような金髪に、わたしと同じ尼僧服。わたしは彼女を知っている。市街地の教会で毎日一緒に暮らしてきた、この修道院にはいないはずの少女。
「う、あぁ……、エルメリンダ……」
わたしの名を呼ぶアリーチェの声は小さく掠れ、震えていた。
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