後編

巳杉の出来事のあとで、麗子はしばらく学校を休んだ。麗子が休んでいる間に夏休みに入った。終業式の日に、真由子を始め5人で麗子の家に行った。麗子はいつも通りの「豚まん」だった。

「ちょっとお腹壊しちゃって」

麗子はこちらの反応を窺うような目をしながら言った。真由子は無表情に聞く。

「ふうん、今はどうなん」

「い、今は大丈夫やけん」

麗子は少し上ずった声を上げる。

「なら、せっかく夏休みにも入ったところやし面白いことしようか」

麗子は少し青くなる。

琴美も里子も遠目でそれを面白そうに眺めていた。

真由子は不意に振り返ると、

「あんたたちも他人事やないばい。これは全員参加やけんね」

断言した。

「なんすると」

珍しく里子が声を出す。

「肝試しばい」

琴美と里子、麗子が顔を見合わせる。

真由子は他の子達は見ずに、じっと深鈴だけを見ながら続けた。

「今日の夜10時に巳様神社に1人ずつ行って、ちゃんと神社に行ってきた証拠を1人1個ずつ持って帰ってくるんよ。そうやなぁ、琴美は献台に置いてある酒、里子はゆで卵、麗子は絵馬やな」

「献台の上のものなんか触ったら、バチ当たるばい」

琴美が微かに唇を尖らせる。里子も頷いて形ばかり抵抗してみせる。真由子が無言で睨みつけると、2人は途端に大人しくなる。

麗子は比較的持ってきやすい絵馬だったためか何も言わず静観している。

「深鈴は……そうやな、巳杉を削ってその破片を証拠にしようか」

真由子はそう言って、自分の彫刻刀を深鈴に渡した。

「なんか、藤原道長の肝試しみたい」

麗子が急に明るい声を出したので、皆が振り向く。麗子は狼狽えてべらべらと続ける。

「昔、藤原道長と2人のお兄さんが帝から肝試しをしようって言われて、道長は御殿の柱を削ってくるようにって命じられたんだって……」

「誰もそんなこと聞いとらんばい」

真由子は興醒めした声を出す。麗子は俯いて黙った。

帝、とはわざとなのだろうかと深鈴は思った。まさに真由子は帝だ。

真由子の命令は絶対だ。じゃんけんで肝試しに行く順番を決める。行き慣れた場所とはいえ、夜1人で行くのは少し違う。1番目は麗子、2番目は琴美、3番目は里子、4番目に深鈴、そして最後に真由子が行くことになった。真由子は社務所の中にあるお札を取ってくるそうだ。

麗子の家で待ち合わせをして、神社から1番近い真由子の家を集合場所にして各々順番を待つことにした。

里子までは順調に帰ってきて、絵馬、酒、ゆで卵が集まった。

「じゃあ次は深鈴の番ばい」

素っ気なく真由子は言い放って、深鈴の背中を押した。

別人のように響いたその声を背に、深鈴は夜の道を静かに歩き出した。



巳様神社までは歩いてすぐだった。辺りに街灯はない。

深鈴は足音を殺しながら彫刻刀を握り締めて巳杉を目指した。生ぬるい風が森の方から吹いてきて、後ろから視線を感じる。振り返って見ても誰もいない。

からからと虚ろに鳴る絵馬の音に背筋を撫でられる。ふと視線をあげると、奇妙な光景を目にした。

賽銭箱の前にある献台の上に、真新しいワンカップ大関とゆで卵が置いてあった。琴美と里子が持ち帰ったはずなのに、つい先ほどまで誰かがいたようだった。

深鈴は不気味に感じて献台に近寄った。まだ温かいゆで卵と、冷たいワンカップ大関に人の気配を感じる。風が一条通り抜けて、絵馬を揺らす。酒の面が奇妙に揺れて、小さな波紋を作る。

深鈴は怖くなって辺りを見渡す。社務所の陰に人の気配を感じて目を凝らすと、真由子がそこに佇んで笑っていた。

「びっくりした、からかってるの?」

真由子は何も言わず首を振った。そのまま滑るように近づいてくる。

「夜になると、やっぱり少し怖いね。社務所の中に入ってたの?」

真由子の手には何も握られていない。真由子の真意が分からず、深鈴は不気味さが胸の中で急速に膨らんでいくのを感じた。

深鈴は早足で巳杉の根元まで行くと、彫刻刀で乱暴にその木の表面を削った。破片を拾うと彫刻刀と一緒にポケットにしまった。

真由子は賽銭箱前の献台の前に佇んで、深鈴を手招きする。

「これって、琴美と里子が取ってきたんじゃないの?」

「そんなんどうでもいいっちゃ」

初めて真由子は口を開いた。乾いた抑揚のない声だった。

そういえば、どうしてこの神社には見るたびに酒とゆで卵が置いてあるのだろう。今更ながら、深鈴は不審に思った。真由子はなんの躊躇いもなく、酒を半分飲み、ゆで卵を剥いて食べ始めた。

「半分食べり」

ここに来たての頃に同じ光景を見た。半分のゆで卵を渡される。あの頃は抵抗のあったこの行為も、今ではそれほど感じるものがない。

半分ずつ食べて飲み込んだ。

「えらい深く幹を抉ったんやねぇ」

真由子は巳杉を指差して、深鈴の手を取る。掌が微かに汗ばんで熱っぽかった。

あぁ、幽霊じゃない。

深鈴は心中で思わず呟いた。

真由子は巳杉についた彫刻刀の傷を眺めて急に笑い出した。

真っ白な首筋が闇の中でも翻る。唇の繊細な潤いまでもが見て取れた。

その笑い声は起こしてはいけないものまで起こしてしまいそうな響きだった。その笑い声自身が、目醒めてはいけないものそのもののようだった。黒い森に視線をやった後で何か言おうと振り向いた途端に、真由子は不意に消えた。笑い声も消えた。

「真由子」

呼んでも誰も答えない。

風が通り抜けて、絵馬が揺れる。あとは乾いた音だけが残るだけだった。



真由子の家に走って帰ると、そこには真由子を始めいつもの4人がいた。呑気にスイカを囲んで食べていた。もう真由子に肝試しへの興味がなくなっていることは明白だった。真由子は巳様神社へは行かないだろう。だが、誰もそれを詰問することは決してない。初めから肝試しなんてなかったように、スイカを囲んでゆらゆらと笑い合いことしかできない。

深鈴はそれでも真由子に言ってみる。

「真由子、神社に先に行ったでしょ」

深鈴が詰め寄ると、真由子は眉根を寄せる。

「行っとらんよ。ずっとここにおったけ。琴美と里子とおったばい」

琴美と里子も頷いた。

嘘をついている気配はなかったが、この3人の言うことはあまり信じられなかった。麗子の視線を捕まえてみる。

「真由子は確かにここにおったよ」

小さな声で麗子も答える。

あれは確かに真由子だった。掌の微かな汗と熱。唇の潤い。

確かに生身の人間だった。それなのに真由子はずっと家に居たと言い張ってきかない。

じゃああれはなんだったのだ。

「皆、知っとる?戦前この辺りで、ちょうど巳様神社の境内で集団リンチみたいなもんがあったっち」

「なんなんそれ、初めて聞いたばい」

琴美と里子が身を乗り出す。深鈴の狼狽を置いてけぼりにして、別の話しで場が盛り上がる。

「軍隊帰りの馬鹿な奴らが調子づいて東京から避暑に来とったぼんぼんを小突いとるうちに殺したっち」

「そんなことあるん」

真由子は不思議なほど澄んだ瞳をして、どこを見るともない目をした。

「人は殺意もなく、人を嬲り殺すことができるっちゃねぇ」

深鈴は体温の感じられない真由子の佇まいに、人間離れしたものを感じた。何かがおかしいと思った。

その様子を琴美が見つけて、いじけているとでも思ったのか、よく通る声でからかう。

「あんた、巳様に化かされたんじゃないとね」

琴美が薄ら笑いを浮かべて、鼻の穴を膨らませた。その間抜け面に無性に腹が立って、深鈴は真由子に目線を送った。真由子はこちらに気がつくと、琴美のアホ面を睨みつける。琴美は間を置かず頰を硬くして無表情になる。

「この、狐女」

真由子が心底軽蔑したような声色で琴美に向かって言う。

ごく小さな声だったのに、里子も麗子もスイカを食べる手を止めてこちらを見た。水を打ったように静かになる。

真由子は満足そうに嗤って、大きな真っ赤に熟れたスイカを手に取って食べ始める。それを合図に、里子も麗子も知らん顔して食べ始めた。琴美だけが、箸でスイカの種をほじくるばかりで口をつけようとはしなかった。

「巳様って、蛇神のこと?」

深鈴はわざと琴美に聞いた。

琴美は青白い顔で頷いて、顔を逸らした。

真由子に化けた巳様にからかわれたのだろうか。それは本当なのだろうか。

深鈴は昨夜の両親の会話を思い出す。秋口にはまた別の地方へ転勤が決まったらしい。すぐについていく訳ではないが、いつまでもこの土地にはいないだろう。


私は地縛霊のようにこの田舎に囚われた人たちとは違う。


深鈴は自分でも気づかないうちに、薄笑いを浮かべながら、甘いスイカを頬張った。真由子のことも、琴美のことも、里子のことも、麗子のことも嫌いではない。でも、好きにもなれない。このいやらしい田舎者根性にはどうしても、芯からは馴染めない。

夏の終わりと共に、この茶番も終わってしまう。

巳様も虐めも全てなくなる。

ふと、真由子と目があった。自然と冷たいものが背筋を撫でる。

爬虫類を思わせる双眸に、深鈴は自分の半身が蛙にでもなったように動かなくなっていることに気がつく。瑞々しいスイカの皮が指先から滑って、真っ赤な果肉が鮮やかな色の畳を汚す。


あれは、蛇だ。蛇の目だ。


真由子はものも言わず、深鈴を見つめた。深鈴も真由子の瞳を黙って見つめ返した。

微かな吐き気を覚えながら、深鈴はあり得ないことを考えた。

真由子こそが巳様ではなかったのか。お供えものへの傍若無人さ、畏れのなさ、巳杉を削った手つきの無遠慮さ。

神も畏れない人間はいない。神以外には。


人は殺意なく、人を嬲り殺すことができるっちゃねぇ。


しみじみと呟かれたあの声色は妙に老成した響きだった。昔戦前に起こったという集団リンチを本当に見てきたようだった。

巳様の神社は江戸時代からある。

真由子は本当にその神の化身なのではないか。この田舎者たちは、それを知って隠している。それだから、真由子の勝手と傲慢を赦していられるのだ。

そこまで考えたところで、真由子が笑った。

「なん、考え込んどると。まさか本当に巳様を信じとるわけやないやろね」

「だって……」

明日からターゲットにされるだろう琴美が青い顔でこちらを振り返る。里子と麗子が仄かな笑みを浮かべてこちらを見る。

真由子は体温の感じられない瞳を向けて笑う。その色は外国人を思わせる碧眼だった。絵馬に描かれた碧眼の白い蛇を思い出す。

「巳様なんて、ただの迷信ばい。あんたが見た私はなんかの勘違いか、白昼夢でも見たんやろう」

真由子は目を逸らさずに深鈴に向かって言った。その語尾の強さは、巳杉に彫刻刀を突き立てた時の音の強さとよく似ていた。

「ねぇ、深鈴。勘違い、勘違いばい」

真由子はただ同じ言葉を繰り返した。

瞳には相変わらず、体温がなかった。深鈴の半身はまだ、動かない。


違う、人じゃない。

真由子は間違いなく、巳様だ。


深鈴ははりついて動かないままの舌を動かせないまま、真由子とだけ視線を合わせ続けた。

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巳様 三津凛 @mitsurin12

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