巳様

三津凛

前編

ワンカップ大関とゆで卵だけが、献台の上にあった。

真由子はそれを見ると、なんの躊躇いも見せずにワンカップ大関の蓋を開けてひと口飲んだ。

それは曲がりなりにも神様にお供えされたものではないのか。

深鈴(みすず)は思わず喉元まで言葉が出かかる。真由子は横目で深鈴を見ると、見透かしたように嘲笑った。

「なん、素っ頓狂な顔しとると。どうせ置きっ放しになって腐るだけやけん」

「……でも、それは神様のものじゃないの」

真由子は太陽の熱を全く感じさせない真っ白な首筋を巡らせて、黒くなった森を見渡す。木立ちの群れは、まるで大きな熊がうずくまったように見えてどこか不気味だった。東京から父の転勤に着いてきたのは1週間前のことだ。夏休み前の中途半端な時期の転校だった。来年度で廃校になるという転校先の中学校は極端に生徒数が少なくて、男女比も歪だ。深鈴の転入した3年生のクラスは4人しかいなかった。そしてその全員が女の子だった。

「大都会から来たくせに、神様とか祟りとか信じとるとね」

真由子は薄く形の良い唇を酷薄に歪めて鼻を鳴らした。

深鈴はちょっと黙って、真由子の唇を見つめた。

「例えばさ、何も信じてなくても道端のお地蔵さんを蹴ったりはできないじゃない?それと同じような感覚だよ」

真由子は少し目を見開いて笑う。

「ふうん、なんとなく言いたいこと分かるかもしれん。やっぱり都会から来た人は言うことが違うばい」

ねぇ、だからお供えものに口をつけるのはやめようよ。

舌の上にまで、その言葉が転がり出てくる。でも真由子は当てつけのように、ゆで卵を木製の献台の角に打って殻を破っていく。

「私は神様も祟りも怖くないけん、お地蔵さんも蹴ったくれるばい。やけん、平気でこれも飲んで食べれるとっちゃ」

真由子はぱらぱらと軽い殻を散らす。色の白い真由子の肌とよく似た白が夜闇に映える。

「深鈴も食べり、半分やるけん」

「私は……」

真由子が白眼を向ける。内側の血管が透けそうなほど白いそこは言葉にできないほどの凄味があった。神か悪魔が宿ってでもいるような、人間味の感じられない空気があった。

こんな残酷な白色は見たことがない。

「食べるわ」

真由子は半分ほど食べて、深鈴にゆで卵を渡した。塩も何もつけていないゆで卵を深鈴は初めて食べた。それは禁忌の味がした。

ちっとも美味しくはない。

真由子は共犯の笑みを浮かべる。深鈴はその頰の膨らみで悟る。

「琴美にも里子にもこういうことは教えとらん。深鈴にだけ、教えちゃっとる」

真由子には不思議な色気がある。深鈴が転入してくるまでは、4人の同級生の中で女王のように振舞っていたことは想像に難くない。琴美も里子も、そしていつも虐められているデブの麗子だってどこか熱に浮かされたような瞳で真由子を見上げている。何が彼女たちを黙らせるのか、深鈴には今なんとなく分かったような気がする。

真由子には、不思議な色気があるのだ。だらしのない男が女の真っ白な胸元に自然と吸い寄せられるように、真由子の残酷さと色気に皆吸い寄せられていくのだ。

お供えものをこんな風に食べるのは、真由子にとって初めてではないだろう。これはある種の通過儀礼だったのだ。

深鈴は自分だけが選ばれたことに高揚感を覚える。

「お酒くらいは飲んだことあるやろうもん」

深鈴がゆで卵を飲み込んだのを見ると、真由子がすかさず唇にワンカップ大関を突きつける。

「酎ハイとかなら、あるけど……」

「洒落とるねぇ」

並びの良い歯列を見せながら、真由子が笑う。真由子は一気に大関を傾けて口に含む。ほんの少し顔をしかめはしたものの、喉を鳴らして飲み干す。

「半分深鈴は飲まんといけん」

厳しい口調で言われて、深鈴は素直にカップを受け取る。鼻先を近づけると嗅いだことのないような独特な匂いがする。

「消毒液みたいな匂いがする」

「あはは、言われてみればそんな匂いかもしれんね」

真由子は目だけは笑わず言った。

深鈴は諦めて一気に半分ほどの酒を飲み干した。喉が一気に熱くなり、その熱が胃の底に落ちていく。味はあまり分からなかった。

真由子は空になったワンカップ大関を献台に戻すと、何事もなかったように呟いた。

「もう遅いけん、帰ろうか」

深鈴は辺りを見渡す。黒い森は一層暗くなっていた。夜風に冷たいものが混じっている。広い神社の境内のどこかから、誰かが見ているような気がした。

こんなこと、本当にして良かったのだろうか。

深鈴の逡巡を、澄んだ水面の上から小魚の群れを見下ろすように真由子は見透かして嗤う。

「深鈴とは半身を分け合ったようなもんやけん。怖いものはないばい」

「うん」

脳の血管が熱で膨らむ。心臓がいつもより力を入れて脈を刻む。

真由子は先を歩いてすぐに見えなくなった。深鈴はうろ覚えな帰り道をぼんやりしながら歩いて行った。

夏の夜風にも、まだ昼間の熱が幾らかまぶされていた。



朝起きて目覚めると、世界に薄い膜が張っているような感じがした。昨夜飲んだワンカップ大関のせいなのか、真由子の凄みに当てられたのかは分からない。

いつものように制服を着る指先も、脱皮でもしたように自分のものだという感覚が薄かった。

「昨日は帰りが遅かったわね」

母が微かに咎めるような気配を滲ませて言う。

「真由子とちょっと話し込んでたから」

「あぁ……田辺さんとこの。仲良いの?」

「まぁ」

母はそれ以上何も言わなかった。母は権威に弱い。真由子の家はこの辺りの大地主だった。

「遅くなるのはいいけど、あんまり田辺さんに迷惑かけないようにしなさいね」

母はそれだけ言って、台所に引っ込んだ。



教室をくぐると、すでに真由子も琴美も里子も登校していた。麗子だけが来ていなかった。

「おはよう」

深鈴が声をかけると、さざ波のように遅れて返事が返ってくる。

たった4人のクラスに深鈴は横入りして来た異物だったが、真由子に気に入られたおかげでハブられたり虐められたりはなかった。

東京での苦い記憶がよみがえる。深鈴はリーダー格の女子に目をつけられて何かと虐められた。教科書を裂かれる段になってようやく父と母もおかしさに気づいた。わざわざ不便な田舎に父が転勤願いを出したのも半分は深鈴の学校生活が理由だった。

だがどこでも人柱というのは必要らしかった。

名前とは似ても似つかぬほどの太った不細工な麗子が汗を浮かべて教室をくぐった。両手には缶ジュースを4人分抱えている。

ここでの人柱は麗子だった。太っていてころころした、鈍臭くて不細工な女の子。

「サンキュー、麗子」

琴美が軽い声で笑う。

里子も調子を合わせて言う。

「あたし、コーラがいいとっちゃっ」

「深鈴はなんがいいと」

真由子が冷めた声で呟くと、皆自然とそちらを向く。まるで蛇に魅入られる蛙みたいに、固まってしまうのだ。

「私は三ツ矢サイダーでいいや」

麗子が卑屈な上目遣いで手を伸ばす。

私は笑ってそれを受け取る。悪いことをしている気がしないでもない。でも、陰で「豚まん」と嗤われている麗子の鈍臭さや不細工さを目の当たりにしていると、そうした良心も霧散してしまう。

人間の心は残酷だ。同じような扱いを過去にされたのだから、その痛みを忘れずに他の誰かに優しくすることなんて、そうできない。

そんな痛みはできるだけ早く忘れたい。一度誰かを痛ぶる快感を覚えてしまったら、そこから後には引けないものなのだ。

古い汗染みの浮いた草臥れた枕を気まぐれに蹴ったくって遊ぶような心地よさと麗子への虐めはよく似ていると思った。

麗子への陰湿な虐めはあるものの、おおむね深鈴と同級生たちは仲が良かった。



「今日は巳様神社に寄ってこうか」

真由子が帰り道に、命じるように呟いた。琴美も里子も麗子も、黙って頷く。

深鈴は昨夜の出来事を思い出す。

「巳様って、なんのこと?」

「巳様っち、十二支の巳、つまり蛇のことやな」

琴美がこめかみの汗を指で拭きながら言う。

「ご神体が蛇らしいけん、そう言っとる。巳様っち。正式な名前は別にあった気もするけど、昔からここの人はあそこの神社を巳様神社っちいいよる。江戸時代くらいからあるみたいばい」

里子が後を引き取って続ける。

「にしても、あの豚まんは遅いっちゃねぇ」

琴美が振り返って、麗子を嘲る。全員分の荷物を持たされて、ひいひい喘ぎながら追いかけてくる。深鈴は軽い背中に少しばかり罪悪感を覚えた。

「アイスでも食べたいね」

そこから気をそらすために、誰に言うともなく呟いた。真由子が横目で視線を合わせると、いきなり麗子に向かって叫んだ。

「麗子、アイス買って来てっちゃっ!溶かしたら許さんけんね!」

琴美と里子も囃し立てる。

「あそこの十字路の売店にあったやろうもん。ハーゲンダッツがいいばい!」

深鈴は自分の意味のない呟きがこんな風に現実化していくことを、信じられない思いで見ていた。東京の鈍色の空の下で小さく虐められていた自分が、まるで悪い夢だったように遠くに霞む。

真由子という、神様のような女の子の隣で深鈴は今なら麗子を手足のように動かせるのだ。

麗子は泣きそうになりながらも、文句は言わず、鞄だけ置いていくと馬のように駆け出して行った。

「あいつ、どんくらいで戻るやろうか」

琴美が真由子に向かって言うと、真由子は聞こえているはずなのにそれを無視した。琴美は里子と深鈴に視線をやると、気まずそうに地面を蹴った。

琴美にはどこか狐を思わせる小狡さと小物臭さがあった。里子は色の薄い和紙のようで、まるで実感のない女の子だった。麗子の次に立場が低いのはこの里子だった。

巳様神社に着くと、真由子や琴美、里子、深鈴は古いしめ縄のしてある杉の根元に腰を下ろす。麗子が帰ってくるまではまだ時間がかかりそうだった。

賽銭箱の前の献台には、真新しいゆで卵とお猪口が置いてあった。

「蛇だから、ゆで卵を置くんだ」

昨夜のことを思い出しながら、深鈴は納得した。卵を丸呑みする蛇を頭に思い浮かべながら、木立の陰に涼しく沈む境内を歩き回る。

琴美や里子は飽きたように脚を投げ出して、涼んでいる。

真由子がそっと近寄ってきて、囁く。

「昨日のこと、覚えとる?」

「うん」

まさか、皆の前でお供えものに手はつけないだろうと思いながらも、真由子の白い指先を深鈴は何度か盗み見る。

「ここ、いつもお供えしてあるの?」

「そうみたいやね。他にここには神様らしい神様もおらんけん」

真由子はそこで自嘲気味に笑った。

「暇つぶしに絵馬でも見る?」

「うん」

風が吹くたびに、楽器の音色のようにからからと虚ろな音を立てるそれが絵馬の集まりであることに深鈴はようやく気がついた。

ほとんどが日や雨に晒されて文字も分からなくなっていたが、いくつかは読み取ることができた。


家族が幸せでありますように。


みんなが健康でいれますように。


これ以上ないほど平凡な願いごとが、少し汚い文字で書かれていた。

「ここの神様はなんの神様なの?」

「さぁ、よく分からん」

真由子は目を逸らして言った。絵馬を裏返すと、碧眼の白い蛇がとぐろを巻いた絵が描いてあった。社務所も固く閉じられて、一体誰が管理しているのだろうと深鈴は不思議に思った。

「暇やなぁ、なんか面白いことでもしようか」

真由子があくび交じりに呟いて、制服のスカートのポケットから彫刻刀を取り出した。



琴美と里子は静かに真由子の手元を眺めていた。深鈴は少し離れて、しめ縄をした古い杉の幹が小さな彫刻刀で削られていくのを見ていた。

真由子の横顔と手元に畏れはない。歪な文字で、「豚まん」と彫られていく様を皆が黙って見守っていた。

琴美がひそひそ声で深鈴に耳打ちする。

「この杉は昔蛇神様が巻きついとったっちいう神木なんよ。それに彫刻刀立てられるのなんて、真由子しかおらんばい」

微かに琴美の唇は震えているように見えた。

「巳杉っちいうんよ」

いつの間にか里子までもが間近に寄って、耳打ちしてくる。

「蛇だから、巳杉ってこと?」

「そういうこと」

真由子はなんの躊躇いもな彫刻刀で、「豚まん」の文字をさらに鮮明に彫っていく。

不意に真由子は振り返る。

「麗子はアホみたいに怖がりやけんね。この巳杉には言い伝えがあるんよ。名前をここに彫られた人間は、巳様に血を吸われて殺されるっちね。脅すにはちょうどいいばい」

同じように日に晒されているはずなのに、真由子の肌は真っ白い。琴美や里子の小麦色など知らないようだった。

真由子にはあまり感情がないようだった。良心や罪悪感が欠けている。その冷たさにまとわりつく琴美や里子は、虚ろな夏の亡霊のようだった。

「でも、豚まんはあくまでニックネームでしょ。呪いも関係ないんじゃない?」

深鈴の言葉に真由子は束の間手を止める。琴美も里子もこちらを見る。

「深鈴、あんた変なところで真面目っちゃね。麗子には豚まんの方が本当の名前でちょうどいいとっちゃっ。むしろ麗子っちいう名前の方が借りもんやろう」

残酷に真由子は嘲笑う。

琴美も里子も調子を合わせる。

「豚まんは豚まんやけん」

そこでちょうど麗子が帰ってきた。頭から湯気でも出そうなほど、頰を染めてひいひいやって来る。

真由子は手を止めて、彫刻刀をしまった。琴美と里子もにやにやと笑う。麗子はようやく日陰に入ってひと息ついた表情をした。ふくふくと肉のついた掌には4個のハーゲンダッツがあった。それを当たり前のような顔をして真由子が受け取る。続いて琴美が取ろうとすると、

「あんたは深鈴の後やろうもん」

真由子が冷たい声色で刺すように言う。麗子が卑屈にその様を眺める。麗子の分のハーゲンダッツはない。

深鈴はできるだけ頰に色を浮かべないようにしてアイスを麗子の掌の中から受け取る。

真由子と深鈴が食べ始めた頃に、琴美も里子もアイスを受け取った。

麗子は空になった掌の冷たさを惜しむように、ふっくらした頰を両手で挟む。真由子はスプーン代わりの木のヘラを唇に加えたまま、麗子に向かって巳杉を指差す。

麗子がゆっくりと振り返る。

深鈴も琴美も里子もじっとその様子を眺める。

麗子は予想以上の反応をした。

紅くなった頰から色が消えて、膝から力が抜けてどすんと尻餅をつく。

真由子が笑って、溶けかけたアイスを掬う。

「だ、誰がこんなことしたん」

「誰も麗子の名前は書いとらんやん。ただ豚まんっち書いただけやん」

真由子は平気な顔で言う。琴美も里子も薄ら笑いを浮かべている。

「でも、でも」

麗子は立つことを忘れたように尻餅をついたまま狼狽える。

深鈴はその無様な横顔にかつての自分を見るような気がした。

喉元過ぎればなんとやら。

深鈴は冷たい甘味を飲み込みながら、まるで他人事のように麗子の悲劇を眺めた。

そのまま無言で皆はアイスを食べ始める。

その様子を見て、ついに麗子は泣き出した。

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