第六章 空の少年 森の少女 -4 epilogue-

 年越し休暇が明けても、ハズリットは登校してこなかった。

 あの日以降、彼女からの連絡はない。メールや通信を送っても、返事はなしのつぶてだ。

 それでもわずかではあったが、ハズリットの様子を知ることはできた。レンツ少佐と連絡を取り合っている父やエビネ准尉は伝えられる範囲で、また〈とねりこの森〉エッシェンヴァルトの級友たちは自分の親たちから知りえた情報をこっそり流してくれる。

 だが、それがヴァルトラントには不満だった。

 なぜ自分が人伝に彼女の様子を知らされなければならないのだ。どうしてハズリットはメールのひとつも寄越さないのか。

 人の死を目の当たりにしたハズリットの受けた衝撃と不安は、計り知れないものだろう。しかも自分の母親がその出来事に関係していたらしいとなれば、なおさらだ。

 彼女はそういった不安を、自分独りで抱え込むつもりなのか。不安だけでなく、愚痴でも怒りでも弱音でも、何でもいいから、気持ちをぶつけてほしい。

「もし本当のことを知って悲しかったり、つらかったりしたら、俺、いつでも力になるから」

 あの時と事情は異なれど、聖なる木の下での約束はいまでも有効だ。それを彼女は、単なる社交辞令としか受け取っていなかったのだろうか。

 〈ヴァルハラ〉での夜、ハズリットとの距離は一気に縮まった。彼女はこれまで他人に打ち明けることのなかった心の内を、大きなツリーを見ながら話してくれた。そのとき、彼女にとって自分は「ただの級友」以上の存在になったのだ。そうヴァルトラントは確信した。

 だが、それは早合点だったようだ。彼女の心を占める「ヴァルトラント」という少年の存在は、自分が感じたほど大きくなってはいないらしい。

 そう悟ったヴァルトラントは、独りで浮かれていた自分を愚かしく思い、自己嫌悪に陥った。

 いつもの彼なら、そんな気持ちを周りの者に気取られまいとしただろう。だが今回ばかりは、そうする余裕がなかった。

 少年の顔から笑みが消えた。常に前を見据えていた琥珀の瞳は輝きを失い、さまざまな話題が飛び出す口も固く閉ざされた。たまに開いても、出てくるのは辛辣な皮肉ばかりだ。

 その一番の被害者は、相棒のミルフィーユだ。

 ガニメデから戻った少年は、二週間ぶりに会う親友の変化にはじめは戸惑った様子を見せた。だが事情を知ると、以前と変わらない態度で接しようとしてくれた。

 しかしその気遣いがまた、ヴァルトラントには負担だった。

 いっそ派手に喧嘩でもすれば、少しはすっきりするかもしれない。そう思って、ヴァルトラントは相棒にしつこく絡んでみたりもした。が、こういうときの相棒は実に忍耐強い。困った顔をしながらも、ヴァルトラントの挑発をのらりくらりと躱してしまう。

 愛想を尽かして離れることもできるのに、ミルフィーユはつかず離れずの距離を保ってヴァルトラントの復活を待ってくれた。

 そんな相棒や、心配してくれる周囲の者たちに申し訳ない。このままじゃダメだ、と思うが、ヴァルトラントにはこの持て余す感情をどうすることもできなかった。

 やっぱり、もう一度会いに行ってみよう。

 もちろん、これまでにもハズリットに会うため、何度か〈とねりこの森〉エッシェンヴァルトまで行っている。しかしそのたびに面会を断られ、すごすごと引き返す結果となった。

 だがもう限界だ。

 今日ハズリットからの連絡がなければ、もう一度〈とねりこの森〉エッシェンヴァルトへ行く。そして何としてでも彼女に会う。

 朝、目覚めて一番にヴァルトラントはそう決心した。

 だが、まさかその決心が違う形で果たされることになるとは、このときの彼には知る由もなかったのだ。


「今日はハズ、来るといいね」

 〈ヴァルトマイスター〉北駅で、列車から降りたミルフィーユが話しかけてきた。受身でいることをやめたからか、今日のヴァルトラントの気持ちは少し軽い。車内での会話はなかったが、ミルフィーユは敏感にその変化を感じ取ったようだ。

 とはいえその口調は慎重だった。下手な突つき方をして、せっかく浮上した親友の気持ちをまた失速させたくはなかったのだろう。

「そうだな」

 と、ヴァルトラントはただひとことだけ返した。相棒の気遣いに応えるには、それで充分のはずだった。

 そしてその推測どおり、金髪の少年の頬が安堵したように緩んだ。だが調子に乗って無理に会話を続けるようなことはしない。

 二人は再び口を閉ざした。だが二人の間には、もう気まずい空気はなかった。そこにあるのは、気心の知れた者たちだからこそ共有できる安らかな沈黙だ。

 しかしその穏やかな時間も、そう長くは続かなかった。

「あ、ハーラルト、キーファ、クロル、おはよー!」

 〈とねりこの森〉エッシェンヴァルト線のホームから、級友たちが上がってくる。それをいち早くみつけたミルフィーユが、元気な声をかけた。澄んだボーイソプラノが、そう多くない通勤通学に急ぐ者たちの注意を引く。

「ここ、ここー!」

 ハーラルトたちが見つけやすいよう、ミルフィーユは大きく手を振った。ヴァルトラントも本調子ではなかったが、かすかに浮かべた笑みを友人たちに向けた。

 ところが彼らに気づいたハーラルトたちが返したのは、いつもの元気な朝の挨拶ではなかった。

 三人は揃って顔をひきつらせると、〈グレムリン〉たちへの応答はそっちのけで素早く目配せしあった。そしてなにやらお互いの意思が確認できると、ようやく〈グレムリン〉たちの方へと進みはじめた。

「どうしたの?」

 思い切り挙動不審な級友たちに、ミルフィーユが眉を顰める。

「いやっ、別にっ」

「お、おはよう〈グレムリン〉っ」

 ハーラルトたちは首を振った。その慌てぶりは、どう見ても「何もない」という態度ではない。しかもなぜか視線を泳がせて、〈グレムリン〉たちと目を合わそうとしない。

 ふとヴァルトラントの胸に、何かが引っかかった。

 ハーラルトたちは明らかに何か隠している。

 相棒も同じことを考えたようだ。疑りの目で級友たちをねめ回しながら、鋭く突っ込む。

「そお? なーんか、隠してるっぽいよ」

「なんも隠すよーなことなんてねーよ!」

 ハーラルトは一気に言い切ったが、その声はかすかに裏返っていた。動揺しているのは間違いない。

 その動揺をごまかすように、年上の級友は険しい顔を作ると声を張り上げた。

「ほら、早くしないと遅刻するぞっ!」

 くるりと背を向け歩き出す。キーファがそれに続いた。

 しかしクロルだけは〈グレムリン〉のそばにとどまり、逆ギレされて目を瞬かせている少年たちの様子を窺っていた。

「クロル?」

 物言いたげな目を向けるクロルに気づいて、ヴァルトラントは首を傾げた。

 数瞬の間、クロルはためらっていた。が、ひとつ深呼吸すると、意を決したとばかりに口を開いた。

「ヴァルティ、あのさ――」

「クロルーっ!」

 突然キーファの怒声が飛ぶ。

「何してんのっ。早く来る!」

 鬼軍曹も真っ青な大音声に、思わず〈グレムリン〉たちは首をすくめる。クロルも一瞬身を強張らせたが、すぐに立ち直ると果敢にも少女に挑んだ。

 〈とねりこの森〉エッシェンヴァルト作戦参謀エーブナー准将の息子は、反抗的な目で同特殊部隊司令の娘を見返した。そして振り絞るような声で訴える。

「だって、おかしいよ。ヴァルティが一番、ハズのこと心配してるのにさ」

 クロルの口から飛び出した名前に、ヴァルトラントはすかさず反応した。

「ハズがどうかしたの?」

「ばかクロル! あの娘の気持ちも考えなさいよ!」

 キーファは足早に戻ってくると、使命感に燃える少年の頭をはたいた。

 無視されたヴァルトラントが、少女に抗議する。

「叩かなくてもいいだろ」

 そう言ってキーファをひと睨みすると、ヴァルトラントは再びクロルへ視線を戻した。涙目で頭をさする少年を覗き込んで問い直す。

「で、ハズがどうしたって?」

「それが……」

 ヴァルトラントの隣で牙を剥く少女を恐れて、クロルは口ごもる。ヴァルトラントは二人の間に入って、少年の視界を遮った。わずかに口元を緩めてうなづきかける。その笑顔に励まされたクロルは、大きくうなづき返すと一気に吐き出した。

「彼女、天王星に行っちゃうんだ」

「え?」

 ヴァルトラントは目を瞬かせた。ハズリットが天王星へ行くという話は初耳だ。

「ハズは〈ディムナ・フィン〉に行くんだろ?」

 聞き返すヴァルトラントに、クロルは硬い顔で首を振る。

「ううん。事情はよく知らないけど、レンツ少佐と一緒に天王星に行くんだって」

「まさか!」

 俄かに信じられず、ヴァルトラントは級友の発言を突っぱねた。真偽を確かめようと、思わず背後のキーファを振り返る。

「さーね?」

 しかしキーファは、口を割ろうとしない。わざとらしくそっぽを向く彼女を、ヴァルトラントは唸り声を上げて睨みつけた。

 こうと決めたらてこでも動かない二人だ。闘いは持久戦の様相を呈した。

 が、そこへハーラルトが介入した。

「本当だ」

「ハーラルト!?」

 幼馴染に寝返られたキーファが愕然とする。反撃しようと息を吸い込んだ彼女を、ハーラルトは両手を上げて制した。

「キーファも、ヴァルティの気持ちを考えてやれよ」

「でも、あの娘がそう望――」

 キーファは言いかけるが、そのまま言葉を呑み込んだ。ハズリットとヴァルトラント、両方の気持ちを知る彼女は、苦しそうに顔を歪めた。

 そんな少女の肩を、ハーラルトはなだめるように軽く叩く。そしてヴァルトラントに真剣な表情を向けると、重々しい口調で告げた。

「彼女は今日、天王星に向けて、昼過ぎのシャトルでカリストを発つ」

「――!」

 ヴァルトラントの大きな目が、さらに見開かれた。呆然とハーラルトの顔を見つめる。

 いきなり殴られでもしたかのように、目の前がチカチカした。止まりかけた思考は、何度も同じことを考える。

 彼女が自分に黙って行ってしまうはずはない。そんなことは、絶対にない。

 そう信じ込むことで、少年は自分を保とうとした。しかし精神的な余裕を失った者は、つい悪い方へ考えてしまいがちだ。楽観主義のヴァルトラントでさえも、例外ではなかった。

 でもそれが本当だとしたら、彼女とはもう会えないかもしれない。

 そう思うと、少年は居ても立ってもいられなくなった。

「どこ?」

 掲示板の時計に目をやりながら、ヴァルトラントは呟く。

「え?」

 一瞬意味が解からず、ハーラルトはきょとんとなる。

「シャトルはどこから飛ぶんだよっ!?」

 なかなか答えが得られないことに、ヴァルトラントはもどかしくなって怒鳴った。

「あ、〈無限の森〉エーヴィヒヴァルト――」

 答えを最後まで聞かずに、ヴァルトラントは駆け出した。

「ヴァル!?」

「ヴァルティっ、いまからじゃ間に合わない!」

 相棒と級友たちの引き止める声が聞こえる。だが止まるつもりは当然ない。たとえ間に合わなかったとしても、何もせずにいるよりかはましだった。

 そのままホームを目指して階段を駆け下りる。ホームから発車のベルが聞こえていた。〈グレムリン〉たちの乗ってきた列車が、再び基地へ戻ろうとしているのだ。

 ヴァルトラントは残り数段を飛び降りると、一番近い車両へ飛び込んだ。その直後、ミルフィーユの声が聞こえた。

「ヴァル、待って!」

「ミルフィー!?」

 反射的に身を翻したヴァルトラントは、ドアの外に手を突き出した。閉まりかけたドアが、もう一度開く。その隙を衝いて、ミルフィーユが車内に転がり込んだ。

 息を弾ませながらミルフィーユは言う。

「基地へ、帰るんでしょ。だったら、助っ人が、要るんじゃないの?」

「ま……ね」

 ヴァルトラントも肩で息をしながら応える。

 〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトへ行くには、中央駅から出る都市間特急ICEに乗らなければならない。だが都市間特急では、シャトルの離陸に間に合わない可能性が高い。

 なら、リニアより早い乗り物で駆けつけるまでだ。それには〈森の精〉ヴァルトガイストへ戻る必要がある。

「で、具体的にどうするつもりなのさ?」

 座席に移るなり、早速ミルフィーユが「作戦会議」をはじめた。

 向かいの席に座ったヴァルトラントは、身を乗り出して相棒に顔を寄せた。来るときと同様、帰りも二人の他に乗客はなかったが、穏やかならぬ話だけに、自ずと声が潜められた。

〈菩提樹の森〉リンデンヴァルトみたいに、アラート機があればよかったんだけど……」

 残念そうな顔でヴァルトラントは呟いた。

 防空飛行隊のある〈菩提樹の森〉リンデンヴァルトには、常時発進態勢を整えた機体が用意されている。これならものの数分で発進可能だ。

 しかし〈森の精〉ヴァルトガイストは開発航空団だ。要撃の先陣は任されていないため、すぐに飛ばせる機体はない。

 となると、狙うのはこれから訓練に出る機体だ。

 ヴァルトラントの意図を瞬時に察したのか、ミルフィーユは素早く携帯端末を取り出し、今日の訓練スケジュールを調べはじめた。

「この時間だと、ちょうど〈月組〉のフライトの準備中だよ。今日は空中戦闘の訓練みたい。機動性重視の兵装なら有償荷重ペイロードはそう多くないだろうね。でも〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトまでの燃料は、外部タンクを抱えたとしてもギリギリじゃないかなぁ」

「パイロンに吊ってる兵装は捨てればいいし、燃料はコース取り次第だ。とにかく乗り込めさえすれば、後は何とかなる。問題は『乗り込むまで』だ。何とかして機体から人を遠ざけないと」

 正式な訓練としてではなく、ヴァルトラントの個人的な理由で〈機構軍〉の戦闘機を飛ばすことなど許されるはずがない。許可なく乗り込もうとした時点で、隊員たちに阻止されるのは必至だ。

「搭乗員たちはブリーフィングルームに閉じ込めるとして、後は点検作業中の整備士の目をどうやってそらせるか――」

「うーん……」

 目的達成の道は険しく、少年たちは腕組みをして唸りこんだ。基地に着くまでの三〇分間、頭を捻らせ続ける。が、結局「臨機応変に対処する」という答えしか出なかった。

 少年たちは「出たとこ勝負」の覚悟で、〈森の精〉ヴァルトガイストに突撃した。


 〈グレムリン〉たちは駅で基地内移動用のフロートバイクを借りると、司令部から西へ一・五キロメートルほど離れた運用区画へと急いだ。

 〈ハンガー横丁〉と呼ばれるこの一帯には、格納庫ハンガーや大小の整備工場が建ち並ぶ。その一角に、整備群本部と飛行群本部が共用する棟があった。その正面玄関から堂々と乗り込んだ少年たちは、何食わぬ顔で廊下を歩いた。

「やあ、〈グレムリン〉」

「おはようっ、伍長」

 普段と変わらぬ態度で、すれ違う隊員たちと挨拶を交わす。子供が「平日の朝」という時間に基地内を歩いていても、とやかく言う者はほとんどいなかった。なにしろ〈グレムリン〉たちは、しょっちゅう「自由休暇」をとっている。在宅学習で済ますことも少なくない。それが幸いしたのだろう。

 それでもいつ「企み」を見抜かれるかと思うと、さすがの〈グレムリン〉たちも、内心ドキドキものだったのだが。

「ふう……」

 忍び込んだロッカールームが無人であるのを確認すると、ヴァルトラントは思わず肩の力を抜いた。

 ミルフィーユとは途中から別行動だった。相棒は先に駐機場へ向かい、隊員たちの気をそらす工作をしてくれている。ヴァルトラントはその間に、フライトに必要なものを用意することになっていた。

 与えられた時間はあまりない。ヴァルトラントは壁際に並ぶロッカーの一つに歩み寄ると、鍵を開けて小さな箱を取り出した。中に収められた〈インプラント〉起動用の端末を摘み上げ、現在着けているピアスと取り替える。かすかな電子音とともに、耳の後ろに埋め込まれた〈インプラント〉本体が起動する。

 戦闘機、機動甲冑といった兵器は、扱い方をひとつ間違えると多大な損害をもたらす。操縦資格のない者がうっかり触って誤作動、などは言語道断。そういった事態を避けるために、〈機構軍〉の装備はそれぞれに対応した〈インプラント〉を装着した者しか操縦できないようになっている。つまり〈インプラント〉は操縦士の生体モニターであるだけでなく、装備を起動させるための認証キーでもあるのだ。

 これは有事においても利点があった。認証コードが解析できるまで利用できないということは、もし装備が敵の手に渡るようなことがあったとしても、「即、自軍の危機」とはなり難い。

「これでよし――っと」

 端末に続いて飛行服に着替えたヴァルトラントは、ロッカーの扉を閉じると、足元に置いてあったヘルメットと酸素マスク入りの雑嚢を掴んで出入り口へと向かった。

 扉を開けてもすぐには飛び出さず、そっと首だけを出して辺りを窺う。

 ところが――。

「この〈グレムリン〉は、こんなところで何をしているんだ」

 聞き慣れたバリトンの声がしたかと思うと、少年はいきなり襟首を掴まれた。

「わっ!?」

 突然のことに、ヴァルトラントは思わず悲鳴をあげた。確認せずとも声の主は判る。〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官だ。

「父ちゃん」

 ヴァルトラントが苦々しく呟いた。それに応えるように、首を押さえつけている手がわずかに緩められる。ヴァルトラントはゆっくりと身体を起こすと、怖い顔で睨んでいるウィルを見上げた。自分を見下ろす父の冷ややかな目は、「全てお見通しだ」と言っている。

 作戦は失敗だ――。

 ヴァルトラントは悟った。ウィルが感情を殺した目をするときは、本気で怒っているのだ。

 だがヴァルトラントの知る限りにおいて、父はいくら腹を立てていようとも、相手の言葉に耳を貸さなくなるようなことはなかった。

 少年はその点に一縷の望みをかけた。真正面から父の目を見据えると、声を振り絞って懇願する。

「お願いっ、〈ガイーヌ〉を貸――」

「遅かったな」

 言いかけたヴァルトラントの声に、ウィルの声が重なった。

「え――?」

 少年は一瞬聞き取れずに、目をぱちくりさせた。

 そんな息子の反応などお構いなしに、父は真剣な顔で言う。

「〈ムニン〉のショッピングモールに、新しくアイスクリーム屋ができたらしいんだが、ちょっと味見しに行かないか?」

 いままで冷たかったウィルの目が和み、いたずらっぽく細められた。

「父ちゃん……?」

 咄嗟に状況が理解わからず、ヴァルトラントは唖然と父親を見つめた。

 ニヤリ――とウィルが口の端を持ち上げた。

「行かないのか?」

「いく!」

 少年は顔を輝かせて、父の胸に飛び込んだ。


 三〇分後、〈機構軍〉の〈ガイーヌ〉型戦闘機〈パック〉は、巡航高度に達していた。

「機体をふらつかせるな。高度と速度を一定にして、計算した航路から一メートル以上外れるなよ」

 焦る気持ちを抑えながら操縦桿を握るヴァルトラントに、後部席のウィルが警告する。

「俺はアダルじゃないんだから、無茶言わないでよ!」

 全ての計器に目を配るのに忙しいヴァルトラントは、鬼教官の無情な指示に思わず悲鳴を上げた。

 戦闘機の燃費は恐ろしく悪い。〈森の精〉ヴァルトガイストから〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトまでの距離は、三〇〇〇キロ弱。〈ガイーヌ〉型機の最大航続距離いっぱいだ。普段なら安全のために途中で空中給油を受けるところだが、今回は時間的な余裕がない。何としてでも、無給油で飛び切らねばならなかった。

 そのため、機体の状態や気象予測に基づく航路の計算が、離陸直前まで綿密に行われた。だがその結果に従って機体を制御するのは、熟練者でも相当神経を使う仕事だ。それなりの訓練を受けているとはいえ、まだまだ半人前のヴァルトラントには荷が重い。

 しかし「〈思考する航空機フーギー・システム〉の開発に関わる少年の訓練飛行」という名目で、予定外の飛行計画をねじ込み航路を空けさせた以上、誰かに代わってもらうわけにはいかなかった。

 彼の航行記録は、即座に関係部署と〈航空隊〉司令部へ引き渡される。操縦者があらかじめ提出されていた訓練計画書と違っていれば、大問題となりかねない。

「大体さー」

 黙っていると余計なことを考えてしまって、却って集中できないことに気づいたヴァルトラントは、気を紛らわせるために会話を続けた。

「〈パック〉の離陸準備ができてたってことは、もっと前から知ってたってことだろ?」

 あえて「何を」とは言わない。それだけでも充分ウィルには通じるはずだ。すっ呆けるようなら、思い出させるまでだ。

 だがウィルはあっさりと認めた。

「まあな」

「だったら、どうしてすぐに教えてくれなかったんだよっ」

 少年は父をなじった。もっと早くに知っていれば、こんな風に気を揉むこともなかったのだから。

 しかしウィルは「息子の気など、どこ吹く風」とばかりに、あっけらかんと言い放つ。

「〈カリストの天才少女〉から、おまえには教えるなと言われたんでな。俺としては、可愛いお嬢さんの頼みを断るのは、ひじょーに心苦しい」

 ウィルの軽薄な言い草にはあえて反応せず、ヴァルトラントは詰問を続ける。

「じゃ、何で俺が〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトに行こうとするのを止めなかったのさ?」

「どうせおまえは、『行くな』と言っても聞かないだろう。だったら〈森の精〉ヴァルトガイストの『安全』を考えるべきだと思ったまでだ。そもそも彼女は、おまえに『言うな』とは言ったが、『訓練させるな』とは言わなかったからな」

 ウィルのニヤリとした気配が伝わってくる。現〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官は、故意に「曲解」するのがお得意だ。軍人として生き抜くためには、老獪にならざるを得ないのだろう。

 ヴァルトラントはそんな父に対し、呆れ半分と感嘆半分の声で「最高の賛辞」を贈る。

「最近の父ちゃん、ちょっとハフナー中将じーちゃんに似てきたよね」

「う……」

 何かが胸に刺さったらしく、ウィルは小さく呻くと、そのまま黙り込んでしまった。父をやり込めることに成功したヴァルトラントも、苦笑を洩らして口を閉じた。

 俄かに〈パック〉のエンジン音が狭いコクピットを満たす。眼前には黄昏の空が広がっている。〈森の精〉ヴァルトガイストを飛び立った時は眩いばかりの金色だった空は、〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトに近づくにつれ藍を帯びていく。

 目の端でその変化を捉えていたヴァルトラントは、おもむろに口を開いた。

「父ちゃん」

「んー?」

 ふて腐れていると思いきや、ウィルの返事はいつもと変わらなかった。鼻から抜けるような間延びした声は、息子の呼びかけを受け入れ、次の言葉を待つという意思表示だ。

 無視されなかったことに勇気づけられた少年は、思い切っていまの気持ちを声に出した。

「……ありがと」

 口の中で呟いただけだったが、〈インプラント〉はその声を洩らさず拾い、リンクされている他端末に伝える。

「どーいたしまして」

 一瞬遅れてウィルが応える。お茶らけた口調だったが、その裏には照れと苦笑、そして父親としての愛情が隠されていることに、ヴァルトラントは気づいていた。

 じんわりと胸の中が暖かくなっていく。いつの間にか焦りは消えていた。少年は無心となって、愛機を操り続けた。


「〈ハイムダル〉行き一五三便は、一〇分前から搭乗案内が始まっています」

 駐機スポットに収まった〈パック〉からの質問に、地上管制官が答えた。それを聞くなり、ヴァルトラントがコクピットから飛び出す。

「一五三便、待って! まだ離陸しないで!」

 〈インプラント〉が一五三便の機長ともリンクしていることを願って、ヴァルトラントは叫んだ。だが一五三便からのいらえはない。

 少年は〈ムニン〉の軍用区画を全力で駆けた。すれ違う将兵たちが、何事かと振り返る。

「こらぁっ、走るなーっ!」

 強面の軍曹ががなり立て、警備兵が施設の秩序を乱す者を排除しようと立ち塞がる。

 ヴァルトラントは伸びてくる手を巧みに躱しつつ、ひたすら一五三便の搭乗ゲートを目指した。

 そして――。

 少年は人込みの中から、ついに少女の姿を見つけた。

 ハズリットはリディアとレンツ少佐に促されて、ゲート前のベンチから立ち上がったところだった。淡い珊瑚色のワンピースに身を包み、大きな熊のぬいぐるみを大事そうに抱えた彼女は、何かを気にしてしきりと周囲に目を向けている。

「――!」

「ハズ!」

 ヴァルトラントが呼びかけるのと、ハズリットが彼に気づいたのは同時だった。

 次の瞬間、お互いがお互いのもとへと駆け寄る。

「ヴァルトラント……」

 目を瞠るハズリットの口から、戸惑いの声が洩れた。熊を抱える両腕に力がこもる。

 一方ヴァルトラントは、息が整うまで声を出すことができなかった。怒気を滲ませた琥珀の瞳で少女を睨みつけていた少年は、数回大きく肩で息をしてからようやく応える。

「〈ディムナ・フィン〉に行くって、言ったじゃないか!」

 彼の口から飛び出したのは、批難の言葉だった。だがこの発言に、少女に対する全ての気持ちが込められていた。

 ヴァルトラントの大声に、少女はびくりと身をすくめた。驚きと困惑、喜びと悲しみ、そして謝罪といった感情が、複雑な色となって少年を映す瞳を揺らす。

 しかしハズリットはすぐにいつもの冷静さを取り戻すと、淡々とした口調で答えた。

「あの時点ではそのつもりだった。でも事情が変わったの」

 そう言って彼女は、背後に目を向けた。

 レンツ親子とリディアが、心配そうにこちらを見ている。

 ヴァルトラントはふと、リディアの雰囲気が以前と違っていることに気づいた。前は死を覚悟した者特有の殺気立ったところがあったが、いまはない。遅れてやってきたウィルに声をかけられ朗らかな笑みを返すが、その顔つきは驚くほど柔和だ。ぴったりと寄り添うレンツ少佐に向ける目は、安らぎと彼への信頼に満ちている。

 リディアのことは、ヴァルトラントもある程度聞いていた。だが、まさかここまで変わってしまっていたとは思わなかった。これでは全くの別人だ。

 当惑した顔でリディアから視線を戻したヴァルトラントに、少女は語る。

「あの事件で、お母さんの心は壊れてしまった。元に戻るかどうかは判らない。でも現在いま判っているのは、お母さんには少佐が必要だということ。だから一緒に天王星へ行くべきなの。そして私には……お母さんが必要――」

 静かに、だがはっきりと、ハズリットは言い切った。

 これまで母親と過ごす時間がほとんどなかった少女が、その時間を埋め合わせたいと考えるのは、別におかしな話でもない。それはヴァルトラントにも理解わかる。だが頭では理解できても、感情はまた別だ。

「でも――っ」

 少年は物分りの悪い振りをして、首を振った。それを遮るように、ハズリットは続ける。

「勉強ならどこででもできる。天王星にも大学はあるし、通信学習という手もある。それに、博士や夫人もいる」

 そう言って、少女はわずかだが嬉しそうに口元を緩めた。彼女の学びたい分野の権威から、直に教授してもらえるのだ。これ以上の学習環境はないだろう。

 しかし少女は、それだけで満足するつもりはないようだ。緩めた口元を引き締め直すと、力強い目でヴァルトラントを見つめて宣言する。

「だからといって、〈ディムナ・フィン〉を諦めたわけじゃない。天王星の大学や博士から学ぶだけでは、知識が偏ってしまうかもしれないもの。そうならないためにも、〈ディムナ・フィン〉には行く。いつになるかは判らないけど、絶対に行く」

「ハズ……」

 ヴァルトラントはもう返す言葉がなかった。ハズリットの決意は固い。いまさら自分がとやかく言ってどうなるものでもないのだ。

 そもそも、初めから引き止めることなどできないのは理解わかっていた。ただ自分に黙って旅立とうとした彼女に、苛立ちをぶつけずには気がすまなかったのだ。

 少年は何かに負けたような気がして悔しかった。無性に腹が立った。でもそれは少女のせいではない。だから彼女に当たるのは間違っている。

 少年は自分を抑えようと努力した。ハズリットの顔が歪みはじめるなか、彼女の驚いたような声が聞こえる。

「泣いてるの?」

 ヴァルトラントは慌てて手袋をはめた手で顔を拭った。指先と掌の部分に染みができた。

「悪いかよ!」

 言い逃れするのは往生際が悪い。と、少年は開き直った。感情を抑える努力も空しく、少女に向かって言葉を叩きつける。

「友達が遠くへ行っちゃうってのに、悲しくないわけないだろっ」

「ヴァルトラント?」

 ハズリットは一瞬きょとんとなる。だがすぐに目元を和らげた。

「ありがとう。友達だと思ってくれて嬉しい」

 かすかな笑みを浮かべて、少女は呟いた。そして一呼吸おいて続ける。

「私、誰かとおしゃべりする楽しさや、会話が人との輪を広げるということを忘れてた。でも、ヴァルトラントがそれを思い出させてくれた。ヴァルトラントと話すようにならなかったら、レンツ博士や少佐、ミス・オーツ、シュッツ夫人、リタ、エビネ准尉、〈緑の館〉の人たちとも出会えなかった。そして『あの人』とも――」

 ハズリットは最後まで言うことなく言葉を切ると、抱えていたぬいぐるみに目を落とした。細い指先で熊の首元をそっとなぞる。

 ヴァルトラントが覗き込むと、そこには天使を象ったペンダントトップがあった。それを撫でる少女の目は、かすかに悲哀の色を帯びていた。

 少女の瞳と同じ色の石を抱くその天使が彼女にとってどういうものなのか、ヴァルトラントには判らない。ただ悲しそうに天使を見つめる少女が、彼を責めているのではないということは判った。

「だから、本当にありがとう」

 ヴァルトラントに視線を戻して、少女は締め括った。その目にはもう悲しげな色はない。

「ハズ――」

 そう応えるのが、ヴァルトラントには精一杯だった。かける言葉が見つからず、彼は喘ぐように大きく息を吸い込んだ。

 そこへ搭乗を急かすアナウンスが響く。

「行かなくちゃ」

 妙にさばさばした口調でハズリットは言った。しかしすぐには動かず、じっとヴァルトラントを見つめ続ける。ヴァルトラントも少女の姿を脳裏に焼きつけんとばかりに見つめ返した。

 不意に、ハズリットの手が動いた。

 小さな手は少年の喉元へ伸びると、飛行服の襟を掴んだ。

 え――?

 何が起こったのか、ヴァルトラントには判らなかった。

 突然襟を引っ張られて上体が傾いたかと思うと、次の瞬間くちびるに柔らかいものが触れていたのだ。

 遠くで喝采とレンツ少佐の絶叫が聞こえる。だがそれらはすぐ、自分の鼓動の音にかき消された。

 混乱による思考力と判断力の低下。それに伴う運動機能の麻痺。

 ハプニングへの対応には慣れているはずのヴァルトラントも、さすがにこの状況の対処方法は思い浮かばなかった。そのままの姿勢で、彫像のように固まる。

 そして一瞬とも、永遠とも思える時が過ぎ――くちびるを覆っていた温もりがゆっくりと離れはじめた。

 焦点が合わずにぼやけていた視界が、再び鮮明になる。まず初めに、目を閉じた少女の長いまつげが、目に飛び込んできた。続いて可愛らしい鼻とうっすら色づいた頬、そして着ている服と同じ珊瑚色の――。

 そこでようやく、ヴァルトラントは事態を把握した。急に顔が熱くなり、どぎまぎする。だが依然、身体は動けないままだ。瞼だけが激しく上下する。

 別に初めてというわけではない。挨拶のついでに、というのなら日常茶飯事だ。しかし、こんなにドキドキしたことは一度もない。

 いったい、どうしたというのだろう。

 いままで感じたことのない感覚に、ヴァルトラントは戸惑った。だがそれは決して不快なものではない。むしろ幸福感を伴う、甘く痺れるような感覚だ。

 少女のまつげがゆっくりと開く。彼女はかすかに黄味を帯びたみどりの瞳で少年を見上げると、照れたようにはにかんだ。そして囁くような声で告げる。

また会おうねアウフヴィーダーゼーエン

「――!」

 それは別れの言葉だった。だがヴァルトラントには、彼女の確認するような口調が再会の約束を求めているように聞こえた。

 ヴァルトラントはハズリットの言葉をじっくりと噛みしめてから、力強く肯いた。

「うん、絶対!」

「約束ね」

 少女も嬉しそうにうなづき返した。その顔には、はにかみでも微笑みでもない、満面の笑みが浮かんでいる。それは、ヴァルトラントが初めて見る彼女の「笑顔」だった。

 驚きに目を瞠った少年の胸に、じわじわと喜びが込み上げてくる。喜びはやがて「報われた」という気持ちに変わり、彼の心を満たした。

「じゃあ……」

 名残を惜しむように、ハズリットはゆっくりと後退りはじめた。それを見て、リディアとレンツ一家が歩み寄ってくる。

 挟むようにして並んだリディアと少佐に向かって、ハズリットは笑いかけた。少佐が少女の頭を優しく撫で、リディアがからかうように娘の頬をつつく。ハズリットは笑い声をあげて母親に抱きついた。三人は誰が見ても親子に見えた。

「では出発します、大佐」

よい旅をグーテライゼ、少佐。何か必要なものがあれば遠慮なく言ってくれ。すぐに手配する」

「ありがとうございます」

 レンツ少佐とウィルが挨拶を交わすかたわら、博士たちがヴァルトラントに声をかける。

「エビネ准尉にも、よろしく伝えてくださいね」

 レンツ夫人が涙ぐみながら言う。土星での生活が長かったからか、彼女は土星出身の准尉を身内のように感じていたらしい。

「はい、ちゃんと伝えます。博士たちもお元気で」

 ヴァルトラントは胸を張って請け負った。

「少年も達者でな。しっかり遊んで、立派な〈グレムリン〉になるんだぞ」

「言われなくても!」

 いたずらっぽく片目を瞑る博士に、ヴァルトラントは笑い声をあげた。ハズリットもクスクス笑いを洩らした。そして二人は、目を見交わして微笑みあった。

 ほどなく一通りの挨拶がすみ、ラムレイ母子とレンツ一家は搭乗口へと進みはじめた。ヴァルトラントもつられるように後に続く。が、さすがに改札の手前で係員に止められ、その場からボーディングブリッジの奥へと進む少女の後姿を見守った。

 ハズリットは振り返ることなく、まっすぐ前を向いてきびきびと歩く。生まれた処とはいえ、まるっきり未知の世界へ向かうのだ。慣れ親しんだ世界を離れる覚悟の表れなのだろう、とヴァルトラントは受け止めた。だからもう、いま一度振り返ってくれることを期待したり、引き止めるようなことはすまいと思った。

 ところが、一行が機内へと乗り込む直前、くるりとハズリットが振り返った。

「――!」

 少女は息を呑むヴァルトラントに向かって、大きく手を振る。そして叫んだ。

「約束よ!」

 ヴァルトラントもすかさず叫び返した。

「絶対に!」

 もう一度彼女と会う――絶対に。何が起ころうとも、またどんなに長い時間を経ることになったとしても、きっと会える。そして――。

 少年は自分に向けられた少女の笑顔を見て、そう確信した。



Das Ende

- Das Maedchen in der Wald - Die Reihe "Gremlin!" Episode 2

von 15.Apr. 2003 bis 28.Feb.2005 Hiro Fujimi

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森の少女 ふじみひろ @studiodragon

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