第六章 空の少年 森の少女 -3-

 何が起こったのかは判る。眼下でへたり込んでいる少年が、レイを撃ったのだ。しかし何故このようなことになったのか、リディアには理解わからなかった。

 倒れているレイを茫然と見ていた少年は、リディアの声に身体をビクリと震わせた。己に害なすものの所在を確認するのは、生きるものの本能だろうか。狂気と恐れの色を浮かべた顔が、驚愕に見開かれたリディアの目に飛び込んできた。

 少年と目が合ったリディアの中で、どす黒い感情がぞわりと蠢く。

 その波動を感じたのか、一瞬息を呑んだ少年は、弾かれたように立ち上がった。転がるように走り出す。

 リディアの瞳に蒼白い炎が揺らめいた。窓を乗り越えると、そのまま空中へと身を躍らせる。三階の高さから飛び降りたことになるが、特殊部隊員として鍛えられてきた彼女にとって、着地に失敗するような高さではない。

 彼女は訓練された身のこなしによって事もなく地上に降り立つと、逃げる少年を追いかけた。途中、倒れているレイのそばを通る。

 乱れた金髪の間から覗く彼の顔は、不自然に白い。上下するはずの胸はピクリともせず、石畳に広がりつづけていた赤い染みも、もうそれ以上大きくなる様子はない。

 彼はすでに息絶えている。

 リディアは瞬時にそう悟ったが、彼女の心の半分はそれを否定した。

 いや、まだ死んではいない。

 彼女は自分にそう言い聞かせた。レイが気がかりだったが、危険の排除と情報源の確保を最優先するよう習慣づけられている彼女は、後ろ髪を引かれる思いで彼を無視した。

 アパート前の脇道から、〈将軍通り〉へと出る。少年は〈大穴〉とは逆方向に向かっている。通りを歩く者は他にない。ここの住人たちの大半は、昼夜を問わず地下で活動するのを好む。また、夕べ通りを賑やかしていた〈新市街人ノイアー〉たちも、冒険に飽きてようやく自分たちの場所へと戻ったようだ。

 少年の姿を捉えたリディアは、通りの中央で立ち止まった。人工森林の方から流れてくる風が、彼女の赤い髪とたっぷりとしたスカートの裾をはためかせる。顔にまとわりつく髪を払おうともせず、彼女は手にした銃を構えた。

 ためらいもなくトリガーを引く。脇道ごとに枝分かれする風の流れが、発砲音を〈旧市街〉の隅々まで運んでいった。銃弾が逃亡者の大腿部を貫いた。少年がゆっくりと倒れる。二発目は不要だった。

 殺気をまとわせた狙撃手は、脚を押さえ苦痛に顔を歪めている少年に近寄った。そして威圧するように睨みつける。

「――!」

 見下ろされた少年は、さきほど初めて彼女と目を合わせた瞬間の恐怖を思い出した。痛みなど忘れ去り、声にならない悲鳴を洩らしながら、必死でリディアから逃れようといざる。だが、それこそ無駄な足掻きというものであった。

 少年がいくらも進まないうちに彼を追い詰めたリディアは、冷たい炎を宿した瞳を、涙の溜まった目で慈悲を乞う少年の上に落とした。

「おまえは……!」

 ふと、少年の顔がリディアの記憶を刺激した。まだ新しい記憶だ。そう、確か〈笛吹き男〉ラッテンフェンガーの行方を訪ね歩いていた若者だ。資料として入手した画像の中に、この顔があった。

 駅の防犯カメラが捉えた若者の姿と、いま自分を見上げている少年の姿が一致する。その拍子に、リディアの中で渦巻いていた疑問が口からこぼれた。

「どうして――」

 呟くようなリディアの声が呼び水となり、少年は失っていた声を取り戻した。

「〈フェンガー〉が……〈フェンガー〉が、レイを殺せって――。でないと連れて行ってやらないって……。だから俺のせいじゃない。俺のせいじゃ――」

 少年はリディアの怒りと憎しみの対象をそらそうと、必死で捲くし立てる。しかし彼がレイを撃ったのは間違いないのだ。余計な弁解はリディアを納得させるどころか、却って苛立たせた。

「〈フェンガー〉に言われただけなんだ。だから助けて……助け――っ」

「うるさい!」

 抑え続けていた感情がついに弾け、銃を掴んだ彼女の手を動かした。だが辛うじて残る〈狩人〉としての職業意識が、彼女の個人的な報復を思い止まらせた。殺してしまえば、貴重な情報源を失うことになるのだ。

「く……」

 〈機構〉への忠誠心に縛られているリディアは、再び怒りを抑え込むと、一旦少年の額につけた狙いを外した。代わりに腕を振り上げ、少年の頬めがけて打ち下ろす。動きを封じるためと、せめてもの腹いせだった。

 少年は声もなく地面に転がると、そのまま気を失った。

 少年の意識が当分回復しないことを確認してから、リディアはまとっていた殺気を散らした。そしてひとつ深呼吸してから、わずかな期待を込めて背後を振り返った。

 だが、レイは相変わらず横たわったままだった。

 のしかかろうとする現実と、それを撥ねつけようとする気持ちがせめぎ合う。

 足が知らずに動きはじめる。心の中では拒んでいるのに、自分の足は一歩また一歩と、横たわる者の方へと進んでゆく。

 彼女の意志に反して動いていた足は、彼の作った血溜まりが裸足を濡らしたところでやっと止まった。その冷たさは、彼女に無情な事実を突きつける。

「あ……」

 張りつめた糸が切れたように、リディアはその場に崩れ落ちた。

 ぺたりと座り込んだ彼女は、そっと手を伸ばして白すぎる男の頬に触れた。その肌はまだわずかに暖かったが、もはや彼女の知っている暖かさではなかった。

 彼の肌はもっと熱かった。こんな生温くはなかった。そう、触れ合った肌をも蕩けさせるほどに。

 突如溢れ出したレイに関する記憶と感情が、濁流となってリディアを襲った。彼の言葉、表情、匂い、温もり、それらに触れたとき覚えた気持ち――あらゆる感覚が、堰を切ったように流れ出す。

「――!」

 急流に呑み込まれることを恐れた彼女は、息絶えた男の首を抱き寄せ、それが氾濫する河に浮かぶ小舟であると言わんばかりに、ひしとしがみついた。

 だが彼女は、自分の生み出す感情の流れから逃れることができなかった。

 リディアの心が乾いた音を立てた。

「お母さん!?」

 遠くで声がし、いくつかの足音が近づいてくる。俄かに緊迫した空気が漂いはじめ、周囲が騒がしくなる。

 しかし鼓膜を震わせる音や、肌を撫でる空気の流れを、彼女はもう感じることはなかった。


 少女が戻ってきたとき、南駅はいつもより少しだけ騒がしかった。

 火事のあったマルティネス地区へ続く地下通路は、隔壁によって遮断されている。その前に〈機構軍〉兵が立ち、無表情な顔を通り行く人々に向けていた。

 片や通り過ぎる者たちの顔は、みな一様に「なぜ『ただの事故』に〈機構軍〉が出張ってくるのか」とばかりに胡散げだった。だが、その疑問を警備兵にぶつけようとする者はいない。ぶつけたところで、返事どころか片手で追い払われるのが目に見えているからだ。

 他人の個人的なことには無関心のハズリットも、社会的な動きには敏感だ。壁の向こうで何が行われているのか気になったが、一般人同様大人しく口をつぐんでいた。同行するヴァルトラントやレンツ少佐、そしてエビネ准尉が、隔壁の方を一瞥しただけで無関心を装っている。彼らがこの話題に触れようとしない以上、興味本位に首を突っ込むべきではない。

 やはり、これは単なる事故ではないのだ。きっと一般市民の知り及ばないところで、何かが起こりつつあるに違いない。

 世界が、極わずかな権力ちからある者たちによって変えられていく。力を持たない弱者は何も知らされず、先の見えない不安を抱えながら流されるしかない。

 普段あまり意識されることのない「力」を感じとったハズリットは、「知らされないこと」の恐怖を覚えた。それは彼女の中で燻っていた不安を煽り、彼女を落ち着かなくさせた。

 どうして、こんなにそわそわするんだろう。

 しかし少女が「そわそわ」の原因を突き止めようとしても判らなかった。とにかく帰りの飛行機に乗り込むころからずっと、妙な胸騒ぎに囚われているのだ。

 早く帰ってリディアの顔が見たい。

 帰路はずっとそのことばかり考えていた。何日も顔を合わせないことなどしょっちゅうなのに、今回はどうしてこんなに会いたくなるのか。彼女には不思議だった。

 ハズリットの帰宅までに全てを片づけておくと、リディアは言った。この旅が終わったとき、少女のもとに「母親」が戻ってくる。ハズリットのささやかな願いが叶うのだ。

 だから、もう少し明るい気分になっても良さそうなものなのに。

「ハズ?」

 自分の心理分析に没頭していた少女は、不意に顔を覗き込まれて我に返った。

「え?」

 きょとんとするハズリットに、気遣わしげな目を向けているヴァルトラントが言葉を重ねる。

「疲れた?」

 少年に不安を感じていることを気取られたのか、とハズリットは一瞬思ったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 少年は疲れた少女を励ますつもりなのか、心配そうな表情を笑顔に変えて言う。

「もうすぐハズんちだね。お母さんや管理人さん、ハズのこと待ってるだろうね。おみやげいっぱいあるから、きっと喜ぶよ。嬉しそうな顔見るの、楽しみだね」

「……そうね」

 曖昧に答えたハズリットは、少年の繰り出す言葉から逃れるように歩調を速めた。いまは彼のおしゃべりに付き合える余裕がない。以前のようにぶっきらぼうな返事をして、少年の顔を曇らせたくはなかった。

 と不意に、ハズリットはヴァルトラントによく思われたいと考えている自分に気づいた。これまで、他人からどう思われても気にしないようにしていた。なのにいま、ヴァルトラントに嫌われたくないと思う自分がいる。

 自分の中で何かが変わろうとしている。だが悪い変化ではないはずだ。

 それはレンツ夫妻やクラウスに対するものとは、また違う心境の変化だ。しかしハズリットは、困惑しながらもその変化を受け入れていた。

 エビネとふざけあっている少年の横顔に、ドキドキする。ヴァルトラントのくるくる変わる表情や笑顔は、彼女の中で燻っている不安を中和してくれるようだった。

 もうすぐうちへ着く。少年とクラウスがいれば大丈夫。何も心配することはないのだ。

 ハズリットはそう自分に言い聞かせながら、〈南部〉の繁華街を歩いた。

 少女と三人の「護衛」たちは、やがて〈旧市街〉へ続く通路に入った。薄暗い通路の向こうに、明るい光が見える。その光に向かって、少女たちは進んだ。

 光は一歩ごとに強くなり、通路を抜けた瞬間、進む者たちの目を眩ませた。束の間、視界が真っ白になる。

 そして再び色彩を取り戻したとき、目の前に〈光の広場〉リヒテンプラッツがあった。

「わぁ……」

「これは――」

 少女のボディガードを気取る少年と、荷物持ちの軍人二人が、その光景に息を呑んだ。

 広場は地下とは思えないほど明るかった。ガラス張りの天井から射し込む光が、筋となって穴の底を照らし出している。床はゴミが散乱し、空気中には埃が舞っている状態だったが、なぜか見る者を清々しい気分にさせた。

「なんか教会のドームにいるみたい。これなら〈光の広場〉リヒテンプラッツっていうのも理解わかるな」

 以前〈夜〉の〈光の広場〉リヒテンプラッツに訪れ、その名に納得しなかったヴァルトラントは、感慨深げに呟いた。

「でしょ?」

 少年を感心させることができて、ハズリットは得意になった。彼女は幾分明るい表情になっ地上を示す。

「〈外〉は森からの風が吹いてて、気持ちいいのよ」

「じゃ、〈外〉を歩こう!」

 風を感じるのが好きな少年はすぐさま応じ、手近な階段を上りはじめる。

「階段?」

 ヴァルトラントが階段を使うのを見たクラウスが、面食らったように声をあげた。

「なぜかこの穴、昇降機リフトがないんです」

「ウソだろ……」

 苦笑しながらハズリットが答えると、〈陸戦隊〉少佐はぞっとした顔になった。ぐるぐると折れ曲がる階段を、彼女のトランクを抱えて六階分近く上がらなくてはならないのだ。厳しい訓練にも耐えられるはずのクラウスだが、予定外の「トレーニング」は遠慮したいらしい。

 クラウスとエビネに自分の荷物を持ってもらっているハズリットは、思わず二人に詫びた。

「すみません」

「あ、いや、なんのこれしき!」

 軍人たちは気合いを入れると、トランクを担ぎ上げて、軽快な足取りで先行する少年に続いた。

 ほどなくして、元気はつらつの少年少女と軽く息を上がらせた軍人たちは、電気系統が壊れたままの気閘を抜けた。

 風が汗をかいた額を心地よく冷やす。

 クラウスたちが新鮮な空気で息を整えるのを待つ間、ハズリットとヴァルトラントは〈外〉の風景を見回した。

 クレーターの外縁リムに沿って深い森が横たわり、盆地内に絶えず新しい空気を供給している。

 〈大穴〉の北側に広がる空き地の向こうには、盆地を埋め尽くさんとする〈新市街〉が見える。この辺りは盆地の中心部に比べて若干高くなっているため、街の全景が見渡せた。

 〈北部ノルト〉と〈南部ズート〉を結ぶ〈中央大通りハウプトシュトラーセ〉と、東西に伸びる〈マイスター大通りシュトラーセ〉が十字を描き、幾重にも連なる同心円状の〈環状線リング〉が十字を繋ぐ。

 地上部の建物は比較的ゆったりとした間隔で並び、数区画ごとに緑を湛えた公園が配置されている。いずれも〈森の主〉ヴァルトマイスターという名に恥じず、〈機構〉の定めた割合より遥かに上回る面積の森を保持していた。

 もう開発前のクレーターを知る者はなく、ここが氷に覆われていたころの姿は、もはや電子図書館に残された記録アーカイブでしか窺い知ることはできない。そしていまの風景も、数十年後、数百年後はさらに変わっているのだろう。

 枯れることのない人工樹は全て「本物」に取り替えられ、樹々の吐息はクレーターから溢れ、カリストの空をも満たすだろう。

 そのとき、この寂れた〈旧市街〉も活気を取り戻しているだろうか。

 太陽の光に煌く新しい街並みを眺めていたハズリットは、遠い未来に想いを馳せた。

 だが不意にあがった少年の声が、ぼんやりと遠くを眺めていた彼女を現実に呼び戻した。

「ハズ、あれ管理人さんじゃない?」

 そう言って少年は〈将軍通り〉の出口を指差す。つられるように、ハズリットは少年の示す方に目を遣った。

 確かに管理人のマーゴ・ディズリーが歩いている。

 少女が彼女の姿を認めるのとほぼ同時に、大家も少女に気がついた。嬉しそうに白い歯を見せ、大きく手を振って少女の名を呼ぶ。

「ハズ!」

「ディスリーさん!」

 そうしてお互いが駆け出し、隔たれた距離を縮めあう。

 マーゴは大きく腕を広げて、飛びついてきた幼い少女を抱きしめた。抱きしめられた少女は、相変わらず染みついたマーゴの甘い焼き菓子の匂いを懐かしく思いながら、しばしその胸に顔を埋めた。

「お帰り、ハズ。〈ヴァルハラ〉は楽しかったかい?」

 熱烈な抱擁からハズリットを解放したマーゴは、今度は少女の顔を覗き込んで訊ねる。

「ええ。皆さんとてもよくしてくれたし、パーティも楽しかった!」

 ハズリットは管理人を心配させないよう、パーティでのアクシデントは伏せて答えた。それに「楽しかった」というのは、紛れもなく彼女の本心だ。厭なこともあったが、それ以上に素晴らしい体験と出逢いがあった。

「そりゃあ、よかったねぇ」

 少女の心からの返答に、マーゴは我事のように喜んだ。目を細めて何度もうなづく。

「おみやげもあるのよ。といっても、大したものじゃないけど」

 ハズリットは肩をすくめる。

「何を言ってるんだい。ハズがくれるものなら、何だって嬉しいに決まってるだろ」

 幼い少女の気遣いに、老管理人の目が潤みはじめた。そこへヴァルトラントが止めを刺す。

「ハズの天使姿、とっても可愛かったよ。ビデオとかスナップとか撮ってあるんで、あとでメディアに落としたのプレゼントするね」

「それは楽しみだねぇ!」

 少年も自分の胸元に抱き込みながら、マーゴは喜びの悲鳴をあげた。そしてそばで見守っている軍人たちに顔を向けると、感謝の気持ちを伝えた。

「よっぽど楽しかったんだろうね。この子のこんな顔は久しぶりだよ。本当に、本当にありがとう、エビネ准尉――と?」

 初対面のクラウスに戸惑うマーゴに、ハズリットはすかさず助け舟を出す。

「クラウス・レンツ少佐よ」

「――レンツ少佐」

 〈楽しき郷マグ・メル〉の管理人は感極まった様子でクラウスの手を取ると、何度も何度も感謝の言葉を述べた。

「あ、いや……こちらこそ、両親が彼女に迷惑かけてしまって」

 ハズリットに対する両親の執着ぶりを思い出したレンツ家の一人息子は、恐縮した様子で歯切れ悪く応える。だが感激の絶頂にあるマーゴの耳には入らなかったようだ。

「そうだ! これからご馳走作るから、よかったら食べてっておくれよ」

 世話好きの管理人は名案だとばかりに手を打つと、大きな空のバスケットを抱え直した。

「さあ、急いで買い物に行ってくるからね。ちゃんと待ってるんだよ。帰ったら承知しないからね!」

 半ば脅すように言いつけると、唖然とする者たちを残して去ろうとする。

 と、そのとき。

 何かが破裂するような音が、〈旧市街〉の空に響き渡った。

「あれは!」

 そう遠くないところから聞こえた音に、クラウスが逸早く反応する。だがまだ経験の乏しい士官には、それが何の音なのか判別できなかったようだ。

「何かがパンクしたような――」

 エビネ准尉が言いかけたところに、再び音が響く。今度は続けざまに数回。

 今度はさすがに、エビネも音の正体に気づいたらしい。顔色を変え、半信半疑に呟いた。

「銃声――?」

「あー。たまーに、どっかで手に入れた物騒な玩具をぶっ放すバカがいるのさ」

 長年〈旧市街〉に暮す老管理人はさほど驚いた様子もみせず、准尉の呟きをさらりと肯定した。苦笑して肩をすくめる彼女を、新米士官はおっかなそうな顔で見る。

「向こうの方か?」

 音源を探して巡らせたクラウスの首が、〈将軍通り〉に向けられたところで止まった。

「って、うちの方じゃないか!」

 ついさっき自分が歩いてきたところを示され、今度はマーゴも血相を変えた。そして彼女の言葉に、ハズリットの鼓動は飛び跳ねた。

 ここからだと通りの入口しか見えず、奥までは見通せない。銃声だけでは何が起こっているのか、そこに誰がいるのか判らなかった。

 薄れかけていた不安が再び濃くなり、彼女の小さな身体にまとわりつく。

 走っていって確認したい。確認しなければならない――そんな焦りと不吉な予感が、彼女を落ち着かなくさせる。

 そのとき少女は聞いた。母の声を。

「あ――」

 ハズリットが息を呑む。だが彼女が聞いたと思った声は、他の者には聞こえなかったらしい。反応したのは彼女一人だけだった。

「ハズ?」

「いえ、何でもないの……」

 心配そうに顔を覗き込む少年に、珍しく動揺した声を上げた少女は首を振った。銃声の原因にリディアが絡んでいるはずはない。ハズリットは懸命にそう思い込もうとした。

「とりあえず、警察に連絡しといた方がいいだろう。准尉――」

「はい、少佐」

 クラウスが促すと、エビネは携帯端末を取り出して回線を繋いだ。ほどなくオペレータが応答し、新米士官が状況説明をはじめる。

 ハズリットは他の者たちとともに、その様子をじっと見守った。だが先程とは違う少し低い破裂音が〈旧市街〉の空気を震わせると、弾かれたように〈将軍通り〉を振り返った。

「お母さんっ!」

 かすれる声で叫び、少女は駆け出した。もうじっとしていられなかった。

「ハズ!」

「そっちは危険だ!」

 背中にヴァルトラントとクラウスの制止する声が聞こえるが、止まるつもりは毛頭ない。とにかく自分の目で、何が起こっているのか確かめずにはいられなかった。

「待ちなさい、ハズリット!」

「ハズ、行っちゃダメだ!」

 少年と少佐が追いかけてくる。だが見かけによらず少女の足は早い。すぐに追いつかれることはなかった。

 とはいえ、全速で駆けてくる現役の戦士から逃れつづけることはやはりかなわず、少女は〈将軍通り〉に少し入ったところでとうとうクラウスに捕まってしまった。軽々と抱き上げられた少女の足が空を蹴る。

「離して!」

 ハズリットは彼から逃れようと激しく身を捩るが、非力な少女には屈強な戦士の腕を振り解くことはできない。

「一体、どうしたんだ!?」

 いつも冷静な少女が取り乱す様に、クラウスは困惑の声をあげる。ハズリットは彼への答えを悲痛な叫びに込めた。

「お母さんっ!」

「――っ?」

 クラウスはきょとんとした目で腕の中の少女を見、そしてゆっくりと首を回して彼女の見ているものを確かめた。

 一ブロック先に人影があった。赤い髪の女性が座り込み、誰かを膝の上に抱えている。

「リディア……」

 その女性がかつての婚約者だとすぐに判ったクラウスは、愕然とした面持ちで呟いた。

 彼の手から力が抜ける。その隙を衝いて、ハズリットは彼の腕からすり抜けた。脇目も振らず、がむしゃらに走る。再びクラウスとヴァルトラントが追ってきたが、もう少女を捕まえようとはしなかった。

 三人は一点を目指して走った。ところがあと数メートルというところで、突然壁にでもぶつかったように、全員が立ち止まった。

 ハズリットたちの侵入を遮る目に見えない壁が、そこにあった。それは外部からの干渉を拒まんとするリディアの気だ。その気に呑まれ、ハズリットたちはそれ以上進むことができなかった。

 ハズリットは一歩も動けないまま、血まみれの男を抱きしめている母を茫然と見ていた。クラウスも同じように元婚約者を見つめた。

 しかしヴァルトラントだけは、別のものに目を奪われていた。

 少年は石畳に広がる血溜まりに、その琥珀色の瞳を向けている。しかしその瞳は、彼の外側ではなく内側を見ていた。

 灰色の地面にべったりと塗りたくられた赤い色が、彼の混沌とした記憶をかき回す。少年はその渦巻く混沌に手を突っ込んで何かを引きずり出そうとしたが、別の自分がそうさせまいと押し止めていた。

 ヴァルトラントはエビネ准尉が来て声をかけるまで、彫像となってその場に立ち竦んでいた。

 だがハズリットは少年の異常な変化には気づかず、母親の姿を見つめるばかりだ。

 少女は驚いていた。

 リディアが泣いている。

 母親の伏せた目からぱたぱたと雫が落ち、すでに息絶えているらしい男の頬を濡らしていた。

 母が泣いているのを見たのは初めてだった。陽気なリディアは、いつも声を出して笑っていた。時折ふと哀しげな顔を見せることもあったが、涙を浮かべるようなことはなかった。

 その母が泣いている。

 嗚咽することなく静かに涙を流すリディアの顔は、穏やかだった。彼女は微笑みさえ浮かべ、慈しむように男のくすんだ金髪を撫でている。

 不意に、その長い金髪が先日地下鉄Uバーンで出逢った青年のものだと気づいて、ハズリットは目を瞠った。

 なぜ彼がここに? どうしてお母さんは彼のために泣いているの? あのときは、彼に敵意を向けていたというのに。

 まさか、お母さんが彼を!?

 いやそれは、彼女が涙を流す理由にはなりえない。

 母親に対する疑いとそれを否定する気持ちが、ハズリットの心を乱した。

 二人はどういう関係なのだろう。

 空転しそうになる頭に喝を入れて考えようとしたハズリットは、唐突に全てを悟った。

 リディアと青年の関係。そして二人と自分の関係を。

 自分に向けられた母の目は、ときどき別の誰かを見ていたことがある。それは恐らくこの青年だったのだろう。

 くすんだ金髪に、気が昂ぶると色の変わるみどりの瞳。地下鉄で会ったときは気づかなかったが、自分はこの青年によく似ている。

 その意味するところは――。

 物心ついたときから、彼女の心に影を落としていた疑問。ハズリットはようやく、その答えを掴んだ。

「お母さん……お母さん……」

 少女は母に呼びかけた。はじめは吐息に紛れるほど小さかったが、次第に大きくなり、最後には〈将軍通り〉に響き渡るほどになった。

「お母さんっ、お母さん――っ!」

 だがリディアは顔を上げようとはしなかった。ただ笑みを湛え、もう目覚めぬ青年だけを見つめている。その姿は、ハズリットが〈ヴァルハラ〉の教会で見た薄青の衣をまとった聖母の像に似ていた。

「お母さん……」

 母の心は、彼とともに逝ってしまった。

 ハズリットを喪失感が襲う。

 身体の中を冷たい風が吹き抜けていくのを感じながら、少女はうつつを捨てた母親をいつまでも見ていた。


 駆けつけてきたのは、警察ではなく〈機構軍〉だった。しかも都市警備隊ではなく、何か特殊な任務に就いているらしい部隊だった。

 彼らは少し離れたところで気を失っていた見知らぬ少年を見つけると、その身柄を拘束し、連れ去った。また頑として青年を離そうとしないリディアを眠らせ、〈とねりこの森〉エッシェンヴァルトにある医療施設へと搬送した。そして〈将軍通り〉と〈楽しき郷マグ・メル〉一帯を、マルティネス地区のように封鎖した。

 その後のことは、ハズリットも知らない。リディアのことで頭が一杯の少女には、他のことにまで気を遣う余裕などなかったのだ。

 リディアはなかなか目覚めなかった。ハズリットは眠る母親の枕元で、母が目を覚ますのをじっと待った。食事や睡眠も病室で摂った。

 その間病室にやってきたのは、クラウスと学会やパーティといった全ての予定をキャンセルして〈ヴァルハラ〉から飛んできたレンツ夫妻、そしてリディアの同僚だという男だけだった。

 ハズリットはその男を知っていた。よく家にやってきて、〈擬似現金バーカルテ〉を置いていく男だった。

 彼はジェイクと名乗り、母親の本当の仕事を知らなかった少女に、リディアがまだ〈機構軍〉に属し、極秘の任務に就いていたのだと告白した。これはその任務に関して起きた出来事なのだという。

 また、亡くなった青年はレイといい、長い間リディアが追っていた者であること、だが青年を死に追いやったのは彼女ではなく、彼の仲間であるらしいこと――などを、軍の機密に差し障りのない範囲で説明してくれた。

 しかしそれらの言葉は、ハズリットの耳を素通りするだけだった。ただ彼が帰り際に言ったひとことを除いて。

「リジはずっと彼を想っていた」

 それは、その後出生の秘密を知ることになった少女にとって、救いの言葉となった。また、母に起こった変化の原因を探る鍵ともなった。

 リディアは年が明ける直前に目を覚ました。

 いつもの朝と同じように布団の中で大きく伸びをした彼女は、傍らで愁眉を開いている娘に気づくと笑いかけ、そして言った。

「まあ、なんて顔してるの。お父さんはどうしたの?」

「え?」

 誰かの姿を求めて目を動かす母を、少女はまじまじと見つめた。

「お父さん――って?」

 怪訝さを隠し切れずに、ハズリットは恐る恐る訊ねる。するとリディアは苦笑しながら答えた。

「何とぼけたこと言ってるの。お父さんって言ったら、クラウスしかいないでしょ!」

「お母さん!?」

 リディアは自分の記憶を作り変えてしまった。

 軍医は、過度のストレスに耐え切れなくなったリディアが、自分を守るためにつらい記憶を消してしまったのだろうと言った。それほどにレイという青年に対するリディアの想いは深く、その喪失は彼女にとって重いものだったにちがいない。

 これまで彼女を苦しめていたものはなかったことにして、ずっと幸せに暮らしてきたのだという「新しい過去」を、リディアは作り出してしまったのだ。

 それはハズリットとクラウス、そしてレンツ夫妻に新たな難問を投げつける結果となった。

 彼らは本当の家族ではない。だがリディアの「新しい過去」の中では、彼女はクラウスと結婚し、ハズリットという娘を儲けたことになっている。そしてレンツ夫妻は、彼女の義父母だ。

 ハズリットたちは、リディアに真実を告げることはできなかった。いまそんなことをすれば、彼女の心は砕け散ってしまう。

 少女は悩んだ。どうするのが一番なのか、答えはすでに出ている。だが誰もその答えを言い出せずにいた。そうすることを望んでいるであろうレンツ夫妻でさえも、この件に関しては慎重だった。答えを出すのは夫妻ではなく、ハズリットとクラウスでなければならないからだ。

 そうと理解わかっていても、ハズリットは決めてしまうのが恐かった。決めることによって、彼女のこれからの人生は変わる。

 リディアのそばには居たい。そうすると、〈ディムナ・フィン〉への進学は諦めねばならない。それに〈森の精〉ヴァルトガイストの少年とも会えなくなるのは、少し寂しい気がした。

 残された時間が日一日と少なくなっていく。あと半月ほどでクラウスの休暇も終わり、レンツ一家は天王星へ旅立つ。ハズリットの焦りは、募る一方だった。

 だがそろそろ年越し休暇も終わろうかというある日、緊張した面持ちのクラウスがハズリットに声をかけた。

「少し散歩しないか?」

「……はい」

 いよいよ決断の時が来たのだ――とハズリットは悟り、言葉少なに応じた。

 少女と〈機構軍・陸戦隊〉の将校は、医療施設内の遊歩道を歩いた。

 あれから一度陽は沈み、また東の空へと戻ってきている。陽射しはまだ弱く頼りない。それでも軍医の許しを得た患者たちは、単調で退屈な入院生活に少しでも変化をつけようと、寒風を押して小道を散策していた。患っているとはいえ毎日たっぷり休養をとっている彼らは、憔悴しきった顔のハズリットとクラウスよりよほど血色もよく、元気そうに見えた。

 〈外〉へ出てしばらくの間、クラウスは無言だった。しかし遊歩道の外れ近くまで来て、すれ違う患者がほとんどいなくなると、おもむろに口を開いた。

「ハズリット」

「はい」

 まっすぐ前を向いたまま呼びかけたクラウスに、ハズリットも前方に目を据えたまま応えた。クラウスは一呼吸おいて、言葉を続ける。

「そろそろ決めなくてはならないと思うんだが……」

「そうですね」

 淡々とした口調で少女は同意した。

 しかし決断の前に知っておきたいことがあった。全てを知った上で、どうするか決めたかった。

 立ち止まったハズリットは、クラウスに向き直ると遥か頭上にある彼の顔を見上げた。

「その前に、聞いておきたいことがあります」

「……ああ、理解わかってる」

 クラウスの応えは、深い溜息とともに吐き出された。彼もそれなりに心の準備はしていたらしい。

 とはいうものの、やはり言い出し難いのか、制式のトレンチコートに身を包んだ〈陸戦隊〉少佐は、何度も言葉を選び直すために開きかけた口を閉じた。だが、元々言葉を飾ることが苦手な彼だ。結局、巧い言い回しが浮かばなかったらしく、思いついたことを、ぽつりぽつりと語りはじめた。

「リディアと私は、以前天王星で同じ部隊にいた。はじめは上司と部下の関係だったが、やがて結婚を約束する仲になった――」

 ハズリットは大きく息を吸い込んだ。しかしこれはある程度予測できた答えであり、呼吸を乱したのは驚きではなく「やっぱり」という思いからだった。

 少女は息を吐き出すと、黙って続きを促した。硬い表情のクラウスは、大きく首肯してから続けた。

「〈独立紛争〉は収束しつつあったものの、当時の天王星はまだ情勢が不安定で、あちこちで〈地球へ還る者〉によるテロや、独立派と〈連邦政府〉による戦闘が行われていた。特殊戦を得意とする私たちの部隊も、〈地球へ還る者〉たちの行動を封じるために、いろんな作戦に駆り出された。それこそ、息吐いきつく暇もなかったほどだ。それでもいつか、まとまった休暇がとれたら式を挙げようと、リディアと私は話し合っていた。そんな中、彼女はある作戦に参加した――」

 一旦言葉を切ったクラウスは、当時を思い出すのがつらそうに顔をしかめた。それでも溜息を一つ吐いてなんとか気を取り直し、彼の知っていることをありのまま少女に伝えようと努力した。

 作戦は、衛星ウンブリエルの宇宙港を占拠した〈地球へ還る者〉に近づき、連中を攪乱するというものだった。敵地へ潜入する役に一人の女性工作員が選ばれたが、それはリディアではなかった。

 だが初めに選ばれた女工作員は、作戦が始まってすぐ敵の凶弾によって命を落としてしまった。

 そのアクシデントによって、〈機構軍〉は急遽配役を変更せざるを得なくなった。作戦の性質上、腕が立つだけでなく機転が利き、なおかつ敵を油断させ惑わせることができる者が求められる。

 そこでリディアがその大役を引き継いだ。

 その結果、三ヶ月に及んだ宇宙港奪回作戦はなんとか成功を収め、リディアも無事帰還した。

「しかしリディアが戻ってすぐ、彼女が身籠っていることが判った」

「それが、私……」

「そう、君だ」

 衝撃的な内容にも拘わらず、クラウスの声は穏やかだった。一方、かすかに身体を震わせたハズリットの声は、動揺すまいとする意志に反してわずかにうわずった。

「そして『あの人』が、私のお父さん――」

「彼と君のDNA配列は一致した」

 クラウスは肯いた。

 これはジェイクの情報だ。彼は少女と青年のDNA鑑定の結果と、今回の作戦が始まる前にリディアが残した元婚約者への伝言を、クラウスだけに伝えていた。

 ジェイクはハズリットに真実を告げるのは酷だと言った。だがクラウスは、あえて彼の気遣いを無視した。ハズリットには知る権利がある。

「妊娠していると知ったリディアは、子供の父親は私ではないと言った。当時の鑑定からも、それははっきりしていた。私はてっきり、彼女が敵からの辱めを受けたのだと思った。しかし彼女は、それをも否定した。『これは自分が望んだことなのだ』と。そしてそれ以上、何も語ろうとはしなかった」

 かつて婚約者に裏切られた男は、悲しげな苦笑を浮かべて肩をすくめた。

 自分の父親とその素性を知った少女は、自分が何者であるのか口に出して確認する。

「じゃあ、私は〈地球へ還る者〉の子供なんだ」

 その言葉の意味が、ハズリットの肩に重く圧しかかる。その重みに耐えようと、少女はきつく目を閉じ、眉根を寄せた。

 その彼女の頭上に、怒りを含んだクラウスの声が降る。

「それは違う」

 一瞬身を竦ませたハズリットは、目を大きく見開いて再びクラウスを見上げた。

「違う」

 苛立たしげにもう一度言ったクラウスは、ゆっくりと腰を落として膝をついた。二人の目線が同じ高さになる。

 クラウスの眉間に刻まれた深いしわが、ふっと緩む。彼の青い瞳から怒りの色は失せ、穏やかな水面のように少女の姿を映していた。

「君はリディアの子だ。彼女が産んで、彼女が育てた」

 クラウスは言い聞かせるように、ゆっくりと囁く。

「そして私の子だ。君が生まれる瞬間を見守り、君のことを案じてきた」

「少佐……」

 息を呑んだ少女は、口の中で呟いた。

「君が生まれた瞬間、私は君を自分の子供として育てる決心をした。遺伝上の父親が誰かなんて関係なかった。リディアが望んで育んだ命だ。彼女の子なら愛せる自信があった」

 クラウスの言葉は本心からのものだ、とハズリットは理解わかった。彼の真摯なまなざしがそれ証明している。

 少女が自分の言葉を受け入れたと確認してから、少佐は続ける。

「君を安全な処で育てるために、私は両親のいる土星への転属を願い出た。承認されるとリディアと君を連れてすぐ土星へ飛び、両親に引き合わせた。もちろん彼らも賛成してくれた。だがしばらくして、リディアは君を連れて私たちのもとから去ってしまった」

 リジはずっと彼を想っていた――。

 ハズリットは「〈バーカルテ〉のおじさん」の言葉を思い出した。

 リディアは〈地球へ還る者〉である青年に、深い想いを抱いてしまったのだ。かといって、クラウスへの気持ちが失われたというわけでもなかったのだろう。

 恐らくリディアは、クラウスの好意に甘えながら彼を裏切り続けることができなかったのだ。だから独りでハズリットを育てながら、自分の罪を償おうとしたのだろう。

 母の苦しみの原因に触れたハズリットは、その苦しみが想像以上に大きなものだったのだと知って、胸が締めつけられた。

 もうリディアには苦しんでほしくない。彼女が心安らかでいられるのなら、自分はどんなことでもしてみせる。

 ハズリットのその想いを感じとったのか、クラウスもまた自分の決心を彼女に伝えた。

「リディアはいつか全てを思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。だがもし『その時』が来たとき、私は君だけにその重荷を背負わせるようなことはしたくない」

 彼の瞳には優しさと、全てを受け入れんとする強い意志の光があった。

「君は私の子供だ――ハズリット」

 かすかに微笑んだクラウスは、力強く宣言した。

 その瞬間、ハズリットは肩に重く圧しかかっていたものが取り除かれるのを感じた。分厚いカーテンを開けたときのように、胸の中にさっと光が射し込んできたような気がした。

 突如、少女の目頭が熱くなる。

「あ――」

 と声を上げたときには、大粒の涙が彼女の頬を伝い落ちていた。

 ハズリットは自分が涙を流していることに驚いた。そして、次々と溢れ出る涙をどうやって止めればいいのか解からずに動揺した。

 突然のことに、クラウスは目を丸くしている。思わずハズリットは、助けを求めるように彼に向かって手を伸ばした。

「おいで」

 クラウスは少女の身体を引き寄せると、彼女の頭を自分の肩に持たせかけた。ハズリットは彼の首に腕を回し、力一杯しがみついた。

 ついには嗚咽を堪えることもできなくなった少女は、数年ぶりに年相応の子供のように声を上げて泣いた。そして赤ん坊をあやすように叩くクラウスの手を背中に感じながら、自分の選ぶべきものをしっかりと抱きしめた。

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