星合ひ
IKAMAT
星合ひ
少女はかなり焦っていた。
荒ぶる気持ちを鎮めようと、何度も水で喉を潤したり、意味もなく立ったり、ボールペンをカチカチしたりしてみるが、一向に何も変わらない。しかも、刻一刻と問題は山積みになっていくばかりだ。
不味いと分かっていながら、何故手が動かせないのか。1ヶ月も前からそれが来る事は分かっていたのに、何故何もしなかったのか。今更ながら、自分の迂闊さには反吐が出る。
タイムリミットは、あと2日。
目の前が白み、頬に汗が一筋流れた。
―――期末試験が、迫っていた。
* * *
「だからあれだけ言ったじゃないか」
高校から1番近い、私立図書館。
そこの自習スペースで少女―――織笠橙子は頭を抱えていた。
「だ、だって先輩、先生がギリギリまで範囲を終わらせなくて――」
「なら、そこまでの内容はできるのか?」
「………」
「…勉強は計画的にしろと言っただろう」
「ごめんなさい!次からはちゃんとやりますから!どうかご慈悲を…勉強を教えて下さい…!」
「そのセリフを聞くのは5回目なんだが…」
先輩―――中村明彦が溜息を吐く。
「…仕方ない、今回が最後だからな」
「先輩…!」
「次こそ、計画的にやるんだぞ」
「はい!神に誓って!」
突っ伏していた机から勢いよく頭を上げた橙子は、鞄の奥底に眠っていた――授業中すらも開かれないので新品同様に綺麗な――教科書を取り出す。
付箋も、マーカーも、名前すらも書かれていないそれを見て、明彦に「お前な…」と再度溜息を吐かれるのだった。
* * *
ノートにあれこれ書き込む橙子の背後数メートル先で、同じ制服を着た女生徒2人がこそこそと話していた。
「ねぇ、あの子って…」
「隣のクラスの織笠さんじゃん」
「…やっぱり、あの噂って本当だったんだ」
「気味悪いよね」
「…なんであの子、1人で喋ってるの?」
* * *
「はぁ〜…疲れた…」
日の入りが遅くなった夏の夕方は、18時を過ぎてもまだ明るい。
文字を見すぎて気持ち悪い、計算ばかりしたせいで頭が痛いと愚痴る橙子は、図書館を出て数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
「?どうかし―――」
「あら、橙子ちゃん。こんにちは」
「叔母さん、こんにちは」
「今学校帰り?」
「うん。テスト前だから、図書館で勉強してたんだ。叔母さんは?」
「私は夕飯の買い物よ。雨降るかもって聞いてたから傘持ってきたんだけど、結局降らなかったから、荷物になっちゃったわ」
「商店街には駐車場がないもんね。明日は晴れるみたいだよ」
「あら、じゃあ明日は洗濯物をたくさん干さないとね。橙子ちゃん、いくら日がまだ出てるからって、遅い時間の女の子の一人歩きは危ないんだからね。気をつけて帰るのよ」
「…うん、じゃあね」
プラプラと手を振り、遠ざかっていく背中を見送った橙子は、背後をちらりと見やると、また前を向いて歩き出した。
「…なんだ?」
「…いや、やっぱり先輩は誰にも見えないんだなって思いまして」
「………そりゃそうだろうな」
「俺はもう、死んでるんだから」
そこには橙子以外、誰もいなかった。
* * *
「いやぁ先輩、家まで送ってってもらっちゃってすみません」
「いた所で物にも人にも触れないからあまり意味は無いけどな…お前が寄り道しないように見張ってるだけだ、親御さんが心配する」
「私は小学生か何かですか?」
橙子が口を引き攣らせる。
その様子を見た明彦が軽く吹き出した。
「面白い顔になってるぞ、こんな感じに」
「女子になんつー事を……ていうか、私は先輩が見えないっていつも言ってるじゃないですか」
「そういえばそうだったな」
「なんで声だけ聞こえるんでしょうね?先輩は、私が高校生になってすぐに交通事故で死んでしまいましたけど、身体がバラバラになったとか、遺体が行方不明とかそういう訳じゃないですもんね」
橙子が首を傾げる。
「私に霊感がないからとか?でも、先輩のご家族も友達もお坊さんも、先輩の声が聞こえてなかったみたいですし……どうやったら見えるようになるんでしょう?」
「さぁ…死んでからの事は俺にもよく分からん。目が覚めたら自分の葬式に参列してたんだからな」
「ギャン泣きしてたら急に背後から『どうした?』って聞かれてマジでビビったんですからね…先輩の声はするのに誰もいないし、周りには聞こえてないしでアレは軽くトラウマでしたよ」
「それは悪かったな」
「絶対悪いと思ってない…」
明彦を軽く睨みつけた橙子は、通学鞄を肩に掛け直すと、スカートのポケットから鍵を取り出す。
それをドアに差し込んで半回転させると、がちりという音が響いた。
「親御さん、今日はいないのか?」
「夜勤だそうです」
「そうか。戸締まりはしっかりして、夜ご飯は面倒くさがらずにちゃんと食べるんだぞ。あと、夜更かしはしないこと。それと―――」
「だから!私は小学生じゃないんですから大丈夫ですって!」
「む?そうか」
「全く……じゃ、先輩、また明日ー」
「あぁ、遅刻するなよ」
* * *
先輩は死んでからも尚、高校に通い続けている。
朝は8時半までに教室へ行き、昼は屋上で昼食をとる私と駄弁り、夜は自宅へ帰って(誰も先輩の事は見えないが)家族と過ごすそうだ。
誰にも見えないし、筆記用具にだって触れないのだから行く意味はないんじゃないか?と思い、理由を聞いたのだが、「高校生が高校へ行くのは当たり前だ」と言われた。真面目な先輩らしい解答だ。
「どうやったら見えるようになるか、か…」
ぼそ、と呟く。
私にしか先輩の声が聞こえない理由も、声は聞こえるのに姿が見えない理由も、そもそも先輩が幽霊として存在している理由も、何一つ分かってはいない。
死んだら天国か地獄へいくのではなかったのか。死人が皆幽霊になるのなら、日本中どころか世界中が幽霊塗れになっているのではないのだろうか。
私に霊感があればいいのか?先輩の霊力的なものが足りないとか?幽霊が見れる範囲は実は決まってるとか?
「ん〜…分からん」
こめかみを押さえながらソファに勢いよく沈む。
そのはずみで水気を含んだ髪からはぽたぽたと雫が落ち、じわりとジャージに染み込んでいく。
それをぼーっと見ていると、ある1つのアイデアが思い浮かんだ。
見れるようになる可能性は非常に高く、そして、失敗すれば後はない、非常に危険な賭け。
幸い今夜は実行に向いている。
道具も大体揃ってる。
残り、必要なものは私の意志だけ。
「やってみる価値アリ、だよね」
私はニッと笑ってソファから立ち上がった。
* * *
『―――――今日未明、15歳の高校1年の女子生徒が自宅で死亡しているのが見つかりました。警察は現場の状況などから自殺の可能性もあるとみて詳しく調べています。』
いつもの通学路を駆け抜けていた。
この身になってからというもの、身体中の機能も感覚も止まっていたはずなのに、心臓が嫌な音を立て始める。
あれは、あの顔は、
「織笠………?」
「やっと、先輩の顔が見れましたね」
泣きじゃくる母親、凄惨な現場に口元を押さえる警官たちを諸共せず、彼女はそこにいた。
血溜まりを踏みつけ、無邪気な笑顔で近寄る織笠は、そっと俺の手を握る。
薄れゆく意識の隅で、付けっぱなしのテレビから、なにか、きこえたような。
『――――――今日は全国的に晴天となり、過ごしやすいお天気になりそうです。七夕に晴れるのは3年ぶりになります。綺麗な天の川が見れるかもしれませんね』
星合ひ IKAMAT @IKAMAT
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