(4)

 遼子は一段、階段を降りて陸から離れた。海風がいっそう強くなる。その中で、遼子は風にあおられることなく立っていた。

「もっと一緒に遊べると思ってたけど、私だけいなくなっちゃったから。りっくんどうしてるかなと思って」

 遼子は伸びをするように両手を天へ突きあげた。

「あー、楽しかったあ」

 大きく息を吐きながら言葉を紡ぎ、遼子は肩の力を抜く。そして、青い花のヘアピンを取り、陸に渡した。

「それ、お父さんとお母さんに渡しといて。あと」

 そう言って、陸の左手首にぶら下がった金魚入りのビニール袋を示した。

「金魚、大事にしてね」

 陸は両目に溜めきれないほどの涙が浮かぶのを感じた。

「うん」

「あと、お風呂には入れた方がいいよ。プールも」

「うん」

「じゃあね」

 うん、と頷いた陸に背を向け、遼子は階段を降りていく。金属製の階段が、彼女の足に合わせて乾いた音を風の中に響かせていた。

 数段降りた所で階段は折り返し、遼子は再び陸を見上げる。身を乗り出してこちらを見つめる陸に、遼子は笑って手を振った。かつて共に遊んだ帰り、陸を見送る時の彼女の姿がそこに重なる。今度は陸が見送る側だった。

 陸は空いた右手を振った。恐る恐る、ゆっくりと、その一振りごとに従姉との距離が広がるのを感じながら。

 そうだった、と陸は思う。遼子が死んでから、彼女は遠くの存在ではなくなっていた。死者は思えば側にいるというが、それとも違う。彼女の死は陸の日常へ深く浸透しすぎていた。

 水と共に。

 背中合わせにあった温もりが離れて行くような寂しさを感じながら、陸は手を振り続けた。遼子は昔のように手を振り、そして再び階段を降りはじめる。折り返した地点から遼子の姿は見えなくなり、陸は手を振った形のままその足音に耳を澄ませていた。かんかん、という軽快な音が段々と降りて行き、再び折り返す。また降りる音が数回聞こえた後、ふと、それは唐突に途切れた。

 突如として訪れた静寂が忍び寄り、波の打ち寄せる音が後からおっとり追いかけて存在を主張する。陸は緩慢な動作で手を下ろし、途切れた音の行方を追おうと身を乗り出した刹那、その肩を掴む手があった。

 途端に心臓が跳ね上がり、弾かれたように振り返ると、そこには陸以上に驚いた顔をして立つ青年の姿があった。

「……っくりしたー……」

 駆け足の心臓に体を震わせながら、陸は耳に戻る音の多さに驚く。道路には少ないながらも車が走り、先の海水浴場では夜の海で遊ぶ若者たちの歓声が響いている。時折聞こえる、弾けるような音は花火のようだ。合間には気の早い秋の虫と、まだ自分の領域とばかりに声を張り上げる蝉の鳴き声が聞こえ、静寂には程遠い夜の海の風景であった。

──自分はいったい、どこに行っていたんだろう。

 そう思うと背中に冷や汗が浮かび、陸は指先が冷たくなるのを感じた。

 そんな陸を見て怯えさせたと勘違いしたらしく、遊び帰りらしき青年は手を振って「何もしねえって」と強調した。後ろで覗きこむ友人たちが飛ばす野次を煩わしそうにはね除けると、陸から離れるようにして足の方向を変える。

「幽霊かと思ったら、ただのガキじゃねえか」

「おいへたれー」

「うっせ。どっちがだよ!」

 陸は後ろを振り返る。先刻、遼子と別れた階段があったが、それは彼女といた時とは比べものにならないほど朽ち果てていた。陸の視線に気づいた青年が教えてくれる。

「そこ壊れかけてんだよ。落ちて怪我したのもいるし」

「……すみません」

「なに、迷子」

「……いえ……大丈夫です。帰れます」

「おう」

 陸がありがとうございます、と頭を下げると、青年たちは口々に適当な事を言いながら立ち去っていった。

 賑やかな一団を見送り、陸は大きく息を吐く。そして再び、先刻の疑問を繰り返した。自分はいったい、どこに行っていたのだろう。

 幻のような、あるいは夢のような時間だった。ただ、それを夢とさせない物が陸の手の中にある。左手に提げた袋には金魚が踊り、右手を開けば青い花のヘアピンが鈍い光を放っていた。しかし、遼子の頭で輝いていたような新品ではなく、長い年月をかけて海水に洗われていたような、錆びついた代物へと変わり果てていた。

 そのざらついた感触もまた、夢の終わりを知らせるものだった。

 陸は鼻から大きく息を吸い込んだ。帰ろう。何もかも、やっと終わった。そしてやっと動き出せる。

 ヘアピンをバッグのポケットにしまい、ついでにスマートフォンを取り出す。友人たちとはぐれてかなりの時間が経っているはずだ。まずは連絡を取らなければ、と操作しようとするが、画面は黒いまま何の反応も見せない。電源ボタンを長押ししても同じことで、そこで陸は自身の粗忽さに思い至った。祭に来る前、充電をし忘れたのだった。これでは連絡の取りようがない。

 公衆電話でもあれば、と思ったが、自宅の周囲にさえ見なくなった物である。易々と見つけられるとも思えず、そうなると残された選択肢は歩くことだった。幸いなことに、神社のある駅までの道は覚えている。車で二十分、歩けばどれほどのものか考えるだけで嫌になったが、心は不思議と軽い。駅の近くまで行けば神社の場所もわかるし、皆とも合流出来るだろう。そう考えながら歩き始めた時、道の少し先で明るくなっている場所を見つけ、陸はほっとして駆け寄った。

 暗がりにほの白い光をたれ流す電話ボックスは、ともすれば怪談の舞台だが、今の陸にとっては救いの神である。使い方は母親から聞いていた。記憶を辿ってもたつきながら財布を取り出し、陸は文字通り固まった。

「……うそ」

 思わず小さな声がもれる。財布の中は一円玉が数枚残っているだけだった。振ってもどこを開いても、他にはない。

 記憶の中の小遣いの残りはもっとあったはずだった。だからいらないと言ったのだし、それに間違いはなかったはず、と考えて、財布を持った左手に視線が行く。そこに提げた金魚の袋が蛍光灯の光を白々と跳ね返し、小さな金魚が涼やかに尾びれを翻していた。

 陸は思わず吹き出し、電話ボックスの壁に寄りかかって笑った。

「……使ったのかよ……」

 遼子と共に祭を巡った夢のような時間。彼女と連れ立ち、遊んだ記憶は鮮明に思い出せるが、そういえばと思い至る。彼女がお金を持っているはずがない。

 夢まぼろしの物語によくある典型として人を騙していた──そんなことを遼子がやると思えなかった。どうしているかなと思っただけで、此岸までひょっこり顔を見せに来るような女の子なのだから。

 とは言え、遊ぶためには資金がいる。無断で従弟の小遣いを使う姿と、彼女が現れた時に感じた恐怖とが妙にちぐはぐで陸はとにかくおかしかった。

 目尻に浮かんだ涙を拭い、バッグの横のファスナーを開ける。母親とは凄まじい。何を予見していたのか、折り畳んだ千円が頼もしい姿を見せた。

 公衆電話が千円を吸い込む。

 誰に電話をし、誰にこのおかしな夜の話をしようかと、陸は決めていた。



 遠くから誰かが名前を呼んでいる。あれは誰の声なのか、懐かしい声のような気もするし、誰なのかも判別出来ない。

「……黄本!」

 陸は水から顔を出し、声のする方を見た。斉藤が隣に立っている。

「息平気なの?」

「あー……うん、なんか」

「なんかって、なんだそれ」

 怪訝そうに言われたが、陸は自分でも自分の変化に説明が出来なかった。

 市民プールは相変わらず賑わっていた。輪っか状のプールは人が泳ぐことで簡易的な流れるプールとなり、歓声があちこちで弾けている。一方、陸と斉藤のいる競泳用のプールは学校にある物よりもいくらか大きいだけの簡素な造りで、人も少ない。隅っこにいる分には誰の邪魔にもならなかった。

 陸は自分が身を浸している水を掬い取る。滑らかに零れ落ち、顔に塩素くさい水が跳ねた。だが、心は平静でいられる。

 あの祭の夜、斉藤たちから「陸がいない」と連絡を受け、父親は家を飛び出して探しに行き、母親は心当たりのある所へ片っ端から電話をかけていた。その内にかかってきた一本の電話が、暢気な息子の声だとわかると母親は声を張り上げて怒鳴りつけ、散々に叱った後に聞いた言葉が「お金がないので帰れないから、迎えにきてほしい」である。

 何を言っているのかわからない、どうしてそうなったのか、と矢継ぎ早の質問に陸は後で全部話すから、と母親をどうにか宥めて、父親による車の迎えを引き出すことに成功した。

 帰宅してからはまず斉藤たちに謝り、彼らと向かい終った後は、不審と不安がないまぜになった両親と向かい合った。

 それから、陸は自分が覚えていることを全て話し、錆びたヘアピンを見せた。

 二人が陸の言うことを全て信じたかはわからない。ただ、翌日すぐに遼子の両親へ連絡を取り、遼子の願い通り、ヘアピンは両親の手の中へ収まった。錆びたそれを大事そうに、二人で握りしめる姿が忘れられない。

 陸が自分の変化に気づいたのはその翌日であった。顔を洗おうと手に水を溜めた時、陸はふとそれが怖くないことに気づいたのである。ざわつくものがどこにもない。意識は清明、手足の力も抜けていない。

 今ならやれる、と斉藤に電話した。泳ぐ練習の手伝いをしてほしい、と告げた時、スマートフォンの向こうでは絶句していたが、深くは聞かずに承諾してくれたのが一昨日のこと、それから連日プールに出かけ、今は縁につかまりながら水中に顔をつけ、体を浮かすことまで出来るようになった。

「お前、本当は泳げんだな、多分」

「そうかなー」

「飲み込み早いもん。そこまで出来たら次、もう手え離してさ、こうやって浮かんでみ」

 斉藤は息を吸い込み、水に潜る。そして水中で足を抱えて丸くなった。支えをなくした体はゆらゆらと水の動きに翻弄され、ぐるんと一回転したところで手を解いて水面に顔を出す。

「やばかったら顔出しゃいいし。多分、大丈夫だと思うけど」

「うん」

 陸は斉藤がしてみせたようにやった。初め、足を抱えることには抵抗があったが、一度丸くなってしまうと不思議な安心感があった。

 揺りかごのような、腕の中のような、息を止めていることさえ忘れてしまうような水の温もり。

 微睡みそうになる目を、一回転して仰いだ空が押し開けた。

 光の筋の間に空が揺れている。水面越しの空は突き抜けるように青く、鮮やかに目を焼いた。陸はそっと瞼を閉じて水の流れに身を任せる。


 ……遠くから誰かが呼んでいた。それはこれまでの話。今はもう、囁きかけるのは水の音ばかり。

 それは、平成最後の夏のことだった。



終わり

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溟海よりきたる かんな @langsame

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