(3)

 真面目な顔をしてわたあめを見つめる陸を、遼子は不思議そうに見やった。

「食べないの?」

「食べたいならあげる」

「怒ってるの?」

「そうじゃないけど」

 戸惑っているのだ、と言ったところで、その原因に果たして通じるものなのか。手持ち無沙汰に食べたわたあめは震えるほど甘く、小さな頃の自分はよくこんなものを喜んで買っていたなと、大して年齢も重ねていないのに過去へ思いを馳せてみたりもする。

 隣を見れば、遼子は既にたいらげてしまったようだ。昔と全く変わらない様子に、ふと、陸は聞いてみようという気になった。

「……ねえ、りっちゃん」

「ん?」

「りっちゃんは……その……」

 幽霊、あるいは死という言葉を使うのは躊躇われ、陸がなけなしの語彙から探していると、遼子は言葉を待たずに立ち上がった。

「りっくん、今度あれやろう」

 あれ、と鸚鵡返しに問うて視線を向けた陸は、背筋に氷が流れ込むような感覚に襲われた。示した先には金魚すくいがある。

「いいよ、俺ここにいるから」

「何でー? 一緒にやろうよ」

「一人で出来るよあんなの。俺がいなくてもやれるでしょ?」

「二人でやるから楽しいんじゃない」

 これまでどの屋台を巡っても無理強いをしなかった遼子が、初めて強情な態度を見せた。

「ね、行こう」

 手を掴まれそうになり、陸は咄嗟にそれを振り払った。自分でも加減を知らずに払ったため、遼子はたたらを踏んで後退し、陸は手に持っていたわたあめを取り落す。だが、それにも気づかないほど陸は動揺していた。わざわざ、陸を水へ近づけようとするこの「りっちゃん」は一体何なのだろう。そう思った途端、今まで様子を窺うだけだった怒りが瞬間的に口をついて出た。

「もうほっとけよ! どうして今更出てくるんだよ!」

 とにかく自分の気持ちを伝えたい一心で言葉を吐き出したものの、すっきりするどころか口に苦いものが残る。遼子はどんな顔で聞いただろうと表情を盗み見ると、彼女の顔からは感情というものの一切が消え失せていた。胃の底を冷たい手が撫で、陸は一歩、二歩と後ずさりし、それから逃げるように走り去った。

 既に亡くなった従姉、それだけで充分な脅威のはずが、屋台を巡る内に感覚が麻痺していたのだろうか。その顔から感情が失せた瞬間、まるで見知らぬ「何か」を前にしているような恐怖にかられたのである。それは「人」と形容するには得体の知れなさすぎる「何か」であった。

 どこをどう走り回ったのか、喧騒は遠く、提灯の明かりも届かない、家と家の間の路地で陸は膝に手をついて息を整えていた。全身から汗が吹きだし、ねばりつくような熱気が呼吸を整えようとする口から我先にと入り込む。陸は思わず咳き込んで尻餅をつき、そのまま座り込んだ。小学生の足と中学生男子の足では、こちらの方が早いに決まっている。そう思い込んで自分を安心させようとした陸の頬に、ひやりと冷たい物が触れる。

「……わぁっ!?」

 大声をあげて身を翻すと、そこには遼子が立っていた。額に大粒の汗を浮き上がらせ、二匹の金魚を入れたビニール袋を持っている。陸が目を丸くして金魚と遼子とを見比べていると、遼子は屈みこんでそれを差し出した。

「あげる」

 二匹の小さな金魚は狭い世界で悠々と泳いでいる。水に揺れる鰭が遠くの提灯の光を透かし、炎のように美しくひらめいていた。

「本当は二人でやりたかったんだけど。出来なかったから」

 先刻のような無表情ではない。だが、その顔に浮かんだ表情が何であるのか、陸には理解出来なかった。

 そこに有無を言わせぬものを感じた陸は、ごく自然な動作で金魚を受け取っていた。

 手の中にある、ごくわずかな水の世界。掌で触れてみるとほんのり冷たく、ビニール越しの水は柔らかかった。水の匂いも音もしないが、そこにあるのは紛れもなく、陸が恐怖し、忌避してきた水である。なのに、今はそこに泳ぐ金魚さえも愛らしいと思えていた。

 何故なのか自分でもわからないままに受け取ってしまった陸を通り過ぎ、遼子は祭とは反対方向へと歩き出す。

「りっくん、これで最後。海に行こう」

 陸はあえぐように海、と繰り返す。だが、その言葉に現実味はなかった。なぜなら、祭を催している神社から海までは車で二十分ほどの距離がある。陸の中でわずかに残っていた理性が知識を呼び起こすものの、現実は彼の理解を越える速度で動いていた。

 鼻が独特の匂いをとらえる。

「ほら、すぐそこだから」

 遼子に手をひかれ、陸の体はすんなり起き上がった。抵抗するという気さえ起きない。今、自分が立つ現実だけが明らかだと思っていたのに、一瞬でそれは陸を裏切ったのである。もはや信じられるものはなく、遼子の冷たい手の感触だけが確かな「現実」だった。

 家の間から出ると、そこは海岸沿いの道路だった。夜空には皿のような月が浮かび、海に点在する奇岩を白く縁取っている。

 車のない道路を渡り、等間隔で並ぶ街灯の明かりを辿るようにして無言で進む。陸は背中が粟立つのを感じた。しばらく磯が続き、その先に砂浜がある──短く広い砂浜だ。

 かつて二人が溺れ、そして遼子だけ命をもぎとられた海だと知るのに、時間はかからなかった。

 遼子の背中を陸は見つめた。彼女はぐんぐん進むのみで、いっこうに振り返らない。何かを決めた時、二つ上の従姉は何も言わず、自らの心に刻み付けるように黙り込む癖があった。懐かしい癖だ、と思うと同時に、遼子が決めた事を想像して、陸は慌ただしかった感情がふっと落ち着くのを感じた。

──迎えに来たんだ。

 二人で遊んでいたのに、一人だけ取り残されてしまったから。

 夢の中を進んでいるようだった。息を荒くして全力で走っているのに、風景の流れる速度は歩いている時のそれと何ら変わらない。体がどうしてか追いつかず、考えても打開策が見つからないまま、足はもつれていく。夢の中ではそれをもどかしく思い、イライラとする内に目が覚め、早鐘を打つ鼓動に驚くことがままあった。今はその逆だと陸は思った。体だけが先へ進み、心が振り落とされそうになっている。指先一つで掴まっているような状態は、陸が意図すれば簡単に手放せる。そしてその方が楽だと、本能的に知っていた。

 懐かしい癖、懐かしい顔、懐かしい声、懐かしい匂い──遠く離れていたものが一気に舞い戻ってきた。そちらに身を浸していれば何も恐れることはない。

 水を、と思いかけて陸はハッとした。

 遼子は歩く速度をわずかに緩めた。道路沿いの低い堤防が途中で切れ、砂浜へと降りる階段が見える。もう少し先へ行くと海水浴場へと降りる立派な階段があるのだが、陸たちはいつもここで降りていた。海水浴場の端で人も少なく、小さな子供が思いっきり遊ぶにはそこでも充分だったからである。だが、あの時こそ場所の選択を呪ったことは言うまでもない。助けに入る人の手もまた、少なかったのだ。

 遼子の足はそちらへ向かっている。歩道の真ん中を歩いていたのが堤防寄りになり、そして階段の入り口に足を踏み入れた。後に続いた陸の全身を、海からの風が強烈に叩きつける。まとわりつくような湿り気と潮の匂いをはらんだ風が、汗の滲んだ肌を一瞬で冷やした。

 そこで、陸の足は唐突に止まった。遼子はぐん、と抵抗する力に気づき、一段下がったところで振り返って不思議そうに問う。

「行かないの?」

 暗い海の表面で、月の光に反射した白波が鈍い光を放つ。遼子は海と陸を見比べて言った。

「綺麗だよ。行こうよ」

 遼子が引っ張るのに耐えるようにして、陸は反射的に堤防の角を掴んだ。明らかな抵抗だった。

 陸は海へと視線を転じた。目の前には心をざわつかせる巨大な水たまりがある。陸に恐怖を植え付けた張本人だ。神経をかきむしるような高い音に、細かな泡が生まれては弾けていく音が混じって耳を支配し、鼻を突くのはむせかえるような潮の匂いと膨大な水の匂いである。膝から力を奪い取るのには充分な役者が揃っていた。

 だが、今は違う。意識は清明、全身を支える力は確実に陸の支配下にある。

 陸は自分が何に恐怖していたのかを、ようやく知った。

「……行けない」

 乾いた喉を励まし、陸は呟いた。波の音にかき消されそうなほど小さな声だった。

「ごめん。そっちには行きたくない」

 後半の方になると声が震えた。陸の両目からはぽつぽつと涙の粒が零れ落ちていた。

 遼子は陸に向き直り、海を背後に従えて「何で?」と問う。先刻見た、あの表情を失った顔だった。だが、陸はもうそれを恐ろしいと思えなくなっていた。何故なら、彼女は既に死んだ身であると、はっきり理解したからである。

「……行けないよ、そっちには。あの時も俺、死にたくなかったんだ」

 陸の手を握る力が微かに強くなる。海風になぶられながら、陸はその場で踏ん張った。

「水がずっと怖くてしょうがなかった。水に入ったら死ぬかもしれないと思って、だけどりっちゃんに許してもらえる気もしてた。俺一人だけ戻ってきたから」

 あの時、遼子を助けられる可能性が全くなかったわけではない。どんな場合でも、可能性がゼロという事は限りなく少ないのである。陸は大きくなるにつれその現実に思い至り、ただ水が怖いだけと思っていた恐怖症の正体を徐々に見失っていった。

 陸が恐ろしかったのは水ではない。

 あの時、戻ってきてしまった自分。それをずっと、後悔していた。

 そして、その後悔に自分が応えられないことも。

 陸は初めて、遼子の手を自ら掴んだ。

「何となく、俺が死ねば上手くいくのかなとか思っていたかもしれない。でも、出来ないよ。俺、ここから自分がいなくなるのが怖いし、苦しいのも嫌だ」

 それを、と陸は言葉を続ける。誰に言うでもなく、遼子に言わなければならない言葉を陸はずっと抱えてきたような気がしていた。墓や位牌に言っても意味はない。そこに遼子がいないことは、手を合わせる本人が一番よく知っている。

「りっちゃんにだけ押し付けて、俺だけ助かって、本当にごめん。どれだけ謝っても足りないけど、本当に、本当にごめんね」

 陸は遼子から目を逸らさずに告げた。今、目の前にいる遼子は本当の遼子ではない。既にいなくなってしまった人なのだ。

 それが、何の力か目の前に現れてくれたのなら、「こちら」に残った陸は成すべき事を成さねばならない。もういない人への糸を辿る方法を、陸はずっと探していた。

 遼子は一瞬、陸の手を強く握りしめたが、ゆっくりとその手を離した。真っ赤にした目で見下ろす従弟を、遼子はにっこり笑って見上げる。

「良かった」

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