(2)

 翌日は夕方が待ち遠しかった。前日の夕飯での空気が尾を引き、朝から昼に至るまで陸は母親と会話をほとんどしなかったのである。母親の方はいつものように声をかけていたが、かけられた本人はその瞬間に心の扉がぱたんと閉まるのを感じ、そっけない態度をとっていた。何が彼をそうさせるのかはわからなかったが、陸は母親の態度が子供に媚を売っているように見えて、嫌だったのである。ただ癇癪を起しているだけの子供に、大人がとる態度ではない。

 その「子供」が自分であることに苛立ちを覚え、陸はすっかり自分を持て余していた。

 だから、何にしても親と離れる時間が欲しかった。昼間はやる気もない夏休みの宿題をやると言って部屋にこもって漫画を読んだりして時間を潰し、昼食は黙々と食べ、午後は時計を気にしながらテレビの相手をしていた。テレビの内容など全く頭に入ってこず、何を見たのかもよくわからないまま五時近くなり、多少早いと思いつつも陸は駆け足で用意した。

 そして行ってきますの挨拶もそこそこに玄関に出た時、ずっと黙っていた母親が半日ぶりに息子へ声をかける。また気持ちが閉じるのを覚えながら振り向くと、母親は折りたたんだ千円札を差し出した。

「何があるかわからないから。一応持って行って、財布とは別の所にしまっておきなさい」

「いいよ。落としちゃうし」

「そのカバンの横にでも突っ込んでおけばいいでしょ。ちゃんと口閉じるんだから、落ちないわよ。いいから」

 横、と示した部分はジッパーでしっかり閉まるようになっている。自分よりも正確に把握出来ている母親に多少の苛立ちを覚えながら、陸は嫌々千円札を受け取ってこれ見よがしにしまいこみ、ジッパーを乱暴にしめた。

「いってきます」

 母親の顔を見ずに駆け出す。その背中へ母親は「気を付けて行ってくるんだよ」と声をかけたが、陸は振り返らなかった。




 早めに家を出たせいで、待ち合わせ場所には十分も前に着いてしまった。既に祭は始まっているらしく、取り付けたスピーカーからは微妙に音の濁ったお囃子が流れ、方々からいい匂いが漂う。駅前の小さな商店街の軒先には提灯が並び、黄昏時にあって明るい光を灯して日常とかけ離れた情景へと人を誘う。駅からも、そして町のあちこちからも多くの人が普段着や浴衣姿で同じ方向に向かって歩いていた。この先に神社があるのだ。

 母親と離れたからか、気持ちはすっきりしている。一方で、随分と半日をつまらないものにしてしまったと後悔した。早々に自分が素直になれば良かったのかと思い、帰ったら沢山話そうと決める。祭に来たのだから話題などそこら中に転がっている。

 スマートフォンの時計を確認すると待ち合わせの五分前、もうすぐ皆がやって来る頃だろう。後は楽しむだけだし、近づかないものの場所さえ把握出来れば予防線は張れる。金魚すくい、ヨーヨー釣りなど、水を使った遊びは屋台に多いのだ。だが、そればかりではないものに陸の関心はすっかり奪われて、恐怖心など感じる暇もなかった。

 しばらくしてメンバーが集まり始め、少し遅れて斉藤が走って改札を出てくる。

「おせーよ」

「お前、待たせた分、何かおごりな。おれたこ焼き」

「じゃ、おれ串焼きー」

 口々に勝手なことを言いながら、神社への道を歩き始める。陸は、友達とする悪ふざけがこんなにも楽しいものだとは思わず、いつも以上に笑って皆にまじった。

 神社が近づくにつれて、様々なものが存在を大きく主張するようになっていく。屋台は数珠並びに続くし、お店や商工会の名前が書かれた提灯はずらりと道を彩って夜を明るくする。次第に狭くなる道で色んな匂いの煙が方々から立ち上り、歓声や呼び込みの声は大きく響き、人と人の境界はあってないようなものになっていった。

「迷子になったら神社の入り口でメールな」

「ならねーよ」

 冗談とも言えない発案に、笑い声で他の友人たちが一斉に答えた。

 日が暮れたとはいえ、昼間にしっかり熱せられた地面からは熱気が立ち上る。加えて屋台の熱、人いきれとくれば眩暈がしそうな空気の密度であった。お陰でその合間にあるだろう金魚すくいなどの類を目にせず、醜態をさらさずにいられるのだが。

 途中でラムネを買い、溢れる泡に歓声をあげながら喉へ流し込む。冷たく、刺激と甘味に満ちたそれは、体にこもった熱を気持ちよく追い出してくれた。

 ふと、その時である。陸は誰かに呼ばれる声を聞いた。

「なに?」

 声をかけて振り返ると、斉藤がラムネを飲んだ体勢のまま陸を見る。そしてビンから口を離して「なんだよ」と答えた。

「今、呼んだ?」

「いや?」

 斉藤は自分の背後を振り返った。彼らがグループの最後尾であり、後ろに見知った顔はない。

「あっちじゃね?」

 斉藤が前方を指さすと、早々にラムネを飲み終えた友人たちは先を行き、彼らを呼んでいるところだった。次はたこ焼き屋に立ち寄るようである。先刻のおごる、おごらないの話を思い出して斉藤がぼやく横で、陸も残りのラムネを飲み干した。これだけの混雑なら聞き間違いもあるだろう。そう思って空になったビンを屋台の回収箱に入れようとした時、陸は箱の前でしゃがみこむ少女を見て、時間が止まるような錯覚に陥った。

「このビー玉、取り方知ってる?」

 あどけなく笑う彼女は陸よりも幼いようだった。黒髪を短く切り、白いシャツに七分丈のカーゴパンツ、足はビーチサンダルと軽装だが、耳の横で青い花のヘアピンが可愛らしく咲いている。

 陸はそのヘアピンをよく知っていた。

「……りっちゃん……」

 少女はにこりと笑った。

「ね、りっくん。知ってる?」

 あの時と変わらない姿、変わらない声で、死んだはずの従姉が微笑んでみせた瞬間、陸の意識は闇の中へ放り込まれた。




 耳の奥で海が鳴っている。妙な表現だがそうとしか言えず、実際にそうだった。貝を耳に当てた時と同じ音だと陸は思った。実際は海の音などではなく、筋肉が動く音や、血流の音が貝の中で大きく聞こえるだけである。それを教えてくれたのは二つ上の遼子という従姉だった。名前の頭文字が同じ音なので、彼らの親同士が「りっくん」「りっちゃん」と呼ぶのにならって、自然と彼ら自身もそう呼ぶようになった。

 ふう、と意識が表層に浮き上がるのを感じ、陸は自分が目を開いたと自覚するよりも先に覚醒した。次第に視界は明瞭になり、目に入る物の正体がわかるようになるにつれ、記憶も戻ってくる。

 自分は失神した──何かを見て――何を見たのか?

 どうやら横になっているらしく、耳を下にしているからあの音が聞こえるようだった。椅子にしては柔らかい、と首を巡らせた時、覗きこむようにして現れた少女の顔に、陸は声を上げて転げ落ちた。

 したたかに体を打ちながら恥も外聞もかなぐり捨て、四つん這いでその場から離れようとする。とにかく離れたい一心で体を動かすが、失神から起き上がったばかりの体は言う事を聞かない。せり上がってくる気持ちの悪さと戦いながら、もがくように手足を動かすが、ちっとも前に進んでいる感じはしなかった。まるで夢の中で走っているような、意識と体が噛みあわない感覚に似ている。

「良かった」

 真後ろで声が聞こえ、陸は弾かれたように振り向いた。遼子がしゃがみ込んで陸を見つめている。

 陸はあえぐように息をし、尻を引きずって後退した。よく見れば神社の裏手のようであり、人気も少ない。人々の声は遠く、何かが起こっても助けてくれる人はいない。

 うなじの辺りからすう、と体温が引いていくのがわかった。咄嗟に、陸はまずいと察する。いつもの「あれ」だった。水もないのにと思ったが、ほとんど原因とも言える人が目の前にいるのである。起こらない方がおかしな話だった。

 だが、ここで倒れるわけにはいかない。状況は既に常識から逸脱している。これ以上の非常識に陸の心身が耐えられるわけがなかった。

 逃げなければという思いと、重くなっていく体の間で鼓動ばかりがやけに大きく響いて聞こえる。目の前にいる遼子に聞こえるのではないかと思うほど大きな音であり、しかし、遼子は陸から視線を外して賑やかな方へ顔を向けた。

「りっくん、わたあめ食べた?」

 朦朧とし始めた意識の片隅で、目の前の幽霊は一体何を言っているのだろうと陸は思う。あるいは幻覚だったとしても暢気な話だ。

「行こう」

 地面についた陸の手を遼子は取った。逃げる間もなく掴まれた手の感覚に、陸の意識は一足飛びで現実へと駆け上がってくる。音が戻り、光が戻り、駆け足の呼吸は鼓動と足並みを揃えるようにして、自らの主人を落ち着かせた。

 遼子は陸を強引に立ちあがらせ、たたらを踏む陸を引っ張る。抵抗する力の失せた陸は、引っ張られるままに歩きながらも、自分の手を掴む遼子の手を注視せずにはいられなかった。

 その手は冷たく、まるで氷水の中にずっと浸していたのではないかと思うほどだった。

 祭に戻ってしまえば辺りは先刻と変わらない風景であった。遼子に続いて屋台を巡りながら、陸は斉藤たちの姿を探したが見当たらない。神社の入り口をそれとなく見ても、彼らの姿はなかった。あの冗談のような約束事は徹底されていないのかもしれず、彼らを見つけて助けてもらおうという策は旗色を一気に悪くした。

 陸がひそかに落胆していると、遼子が手を引っ張って射的をしようと言う。

「射的?」

「わなげでもいいけど」

「……いいよ。射的で」

 怖くないわけではないが、不思議と、陸は遼子に手を掴まれた瞬間から、やたらに恐ろしいとは思えなくなっていた。彼女の手の冷たさには「やっぱり」という妙な納得を覚えてしまったが、その感触は本物だったからである。幽霊のような霞の存在でも、ゾンビのような存在でもなかった。

 だから、屋台を覗くだけだった遼子が射的をしたいと言い出した時、陸は他人の反応を見る機会だと思ったのである。祭に紛れてしまえば人など簡単に埋もれてしまうが、屋台で店主と話せば否応なくその存在は浮き上がる。その時、遼子は一体どんな存在として見えるのかを知りたかった。そうすれば、彼女をどう扱うかの心構えも決まる。

 射的の屋台の主人は青年で、子供を相手にするのに慣れている様子だった。小さな子供が当たらないと言うと景品を少し前に出してやり、もう一発とねだられれば「仕方ないな」と言い、「誰にも言うなよ」と秘密めいた顔で弾を渡す。普通に遊びに来ていればきっと楽しかっただろうが、今はそれを言っても始まらない。大事な瞬間を見逃すまいと、屋台に駆け寄る遼子をじっと見つめた。

 遼子は気軽な様子で手の空いた青年に駆け寄る。

「一回お願いしまーす」

 陸は手に汗が滲み出るのを感じた。この至近距離で、溌剌とした彼女の声が聞こえないはずがない。どんな結果を望んでいるのか、陸にもわからなかった。

 青年の顔は迷いなく遼子を向き、その目に活気を宿して笑いかけた。

「いらっしゃい。彼女がやる? それとも彼氏?」



 陸は茫然として、手に持ったわたあめを見つめた。

 あれから遼子はわなげ、千本引、くじびきと屋台を遊び歩き、それに飽きると興味は食べ物へと向いた。たこ焼き、かき氷、りんご飴、チョコバナナとかなり傾いた好奇心に沿って屋台をはしごし、最初に話していたわたあめを買ったところで休憩よろしく、神社の階段に腰かけて今に至る。遼子は隣で嬉しそうに、わたあめをちぎりながら食べていた。

 どの屋台でも遼子が先導し、陸は後に続くだけだった。そしてどの主人も遼子の姿を認め、他の客に対するのと変わらない態度で二人を出迎えたのである。遼子は他人に見えているのだ。

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