溟海よりきたる

かんな

(1)

 遠くから誰かが呼んでいる。あれは誰の声なのか、懐かしい声のような気もするし、そうでないような気もする。

「……黄本!」

 耳の近くで声が炸裂し、陸は体をびくりとさせた。顔をあげると友人たちが心配そうな顔で見下ろしている。

「大丈夫か?」

 段々と現実の音が意識に滑り込んできて、陸はようやく状況を理解した。

 夏休みの午前、目の前にはフェンスで囲まれた市民プールがあり、子供たちの歓声が跳ね回っている。そこから漂う塩素の匂いと、水の気配に陸は我が身のことながらうんざりした。「また」だ。

 しゃがみ込んで近くなった地面は乾いた顔を向けている。醜態を晒さずに済んだことには安堵したが、心臓はまだうるさかった。背中には冷や汗が流れ、もったりとした暑い空気に反して手足の末端が冷えている。陸は膝に手をついて立ちあがり、「大丈夫」と言った。

「でもごめん、ちょっと気分悪いから、俺帰る」

「平気か?」

「うん。ごめん」

 心配そうな彼らを置いて、陸は足早にその場を去る。まるで逃げるような立ち去り方に、グループの一人が隣に聞いた。

「あいつ、どうしたの?」

「お前、吉小だっけ。じゃ、知らねえわ」

 別の少年が口を挟む。疑問符を点滅させていると、最初に問われた方が答えた。

「あいつ、小三の時に海で溺れたんだよ」

「あ、それで水が怖いとか?」

「プラス、その時一緒に溺れた子が死んだんだよな。確か、いとこ」

「え」

 少年は陸の去った方を見やる。既に姿はなかった。

「きっつー……」

「それから水が駄目になってさ。とにかく溜まってる水が全部駄目っぽい」

「風呂も?」

「洗面所の水も」

「……じゃ、なんで今日おれらとプール行くなんてしたのさ」

 彼らは視線を交わし、互いの中にあった答えを共有した。陸を誘った時も口にはしなかったが、彼らは暗にそれを狙っていた部分があった。

「俺らもう中ニだし。あいつ、ずっとどうにかしたいって思ってたんじゃねえかなって」




 初めはただ速いだけの歩みも、次第に駆け足となっていく。陸は空気の中をもがくように走り、自宅に着いてドアの鍵を閉めると、そのまま玄関に座り込んだ。全身が暑く、体中から汗が吹き出している。だが、さっきのような恐怖に由来するものではないため、落ち着くのも早かった。

 息が整うと立ち上がり、風呂場に向かう。玄関での音を聞きつけたらしい母親が顔を出した。

「おかえり。無理っぽい?」

 陸は頷いて前を通り過ぎる。その際、母親が「無理しない」と言って肩を叩いてくれた。

 脱衣所で汗まみれの服を脱ぎ捨て、風呂場に入る。多少、水の匂いが残っているが怖くはない。だが、浴槽の蓋を開けて見ようとは決して思わなかった。

 水のシャワーを頭から浴び、陸はその場に座り込む。火照った体を一気に冷やし、汗を洗い流してくれる。これを恐ろしいとは思わない。だが、陸は溜まった水が恐ろしい。

 それはもはや病的とも言える域で、プールは勿論お風呂に至るまで、果ては洗面所に溜めたささやかなものでも意識が飛ぶ有様だった。今でこそ自我を保てるようになったものの、当初は体が激しい拒否反応を起こし、痙攣や嘔吐を繰り返して周りの大人や友人までも不安にさせていた。

 彼らは得体の知れないものを見るような目で陸を見たが、陸の方こそ、その正体を教えてほしいくらいだった。

 恐怖の原因はわかる。小三の時の海での事故だ。あの時、陸は仲良くしていた従姉を亡くした。浅瀬で遊んでいたが沖に流され、彼女だけが此岸に戻ることが出来なかった。

 助けられた時に陸は従姉と十メートルも離されており、海に飲まれた従姉は見つからないまま葬儀は行われた。陸に非のない事は明らかで、どの大人も、従姉の両親でさえも彼を責めはしなかった。仮に亡くなったのが陸だったとしても、反応は同じだっただろう。

 当時は思い出せば思い出すほど涙が出て来たが、人の死とは日常に馴染まないものだ。日々の生活が悲しみを紛らわせ、時間が辛さを包み込む。摩耗するのではなく、その人の「不在」に慣れていくのだった。

 無論、法事には出席するし、彼岸や盆には墓参りにも行く。だが、それはほとんど神社やお寺に行くのと同じようなもので、あちらで見守ってくれているだろう人々に現状を報告するものだった。悲しみを確かめ、辛さを思い出す時期はとうに過ぎ、従姉の両親も陸との温度差はあれど悲嘆に溺れるような事はしなくなった。

 従姉が亡くなったのは悲しい。今でも、共に成長出来なかったことへの空虚感はある。しかし、陸の心を縛りつけて海の底へ引きずり込むほどのものではない。少なくとも、陸自身はそう考えている。だから、この恐怖が理解出来ない。

 風呂場から出ると、洗濯機の上には新しい服が揃えてあった。母親が出してくれたのだろう。陸は自分が着替えも何も用意せずに駆け込んだ事に気付く。

 タオルで頭を拭きつつ、中学二年生にもなってあの時から一歩も進めずにいる自分を思い知った。

「……」

 だから、決意を込めて友達の誘いに乗った。いつもなら陸は断るし、彼らも陸の抱えるものを知っているから声をかけない。だが、今回は何かが違った。二年生になったからだろうか。ランドセルをようやく置いたような一年生とは違う、一歩先の自分になれると、誰もが思った──陸自身も。

 体が落ち着くと思い出したように喉が渇き出す。リビングと続きの台所へ行き、冷蔵庫から作り置きの麦茶を出そうとした。そこで、陸は手が止まる。冷蔵庫の扉に貼られた小さなカレンダーに目が吸い寄せられた。

 そう、だから決意したのだ。もう変わろう、変わらなければと思った。

 陸は先週の土曜日、従姉の法事に出席したばかりだった。

 生きていれば彼女は高校生、大人への一歩をわずかに踏み出す年齢になるはずであった。




 やりたいと言うなら止めないよ、と、仕事から帰って夕飯の席についた父親は言った。元より強い言い方をしない父ではあるが、ことこの件に関してはその度合いが増している。助言が欲しくて尋ねたのにその言い方はないだろうと、陸は多少むっとしながらブリの照り焼きをつついた。

「知ってる」

「じゃ、いいじゃないか」

 何でもないような顔をして、父親はビールを飲んだ。大人にとってはささいな事かもしれないが、陸にとっては一生を左右するかもしれないのだ。その態度はないだろうと、皿に当たる箸の音が乱暴になっていく。

「うるさいよ」

 見咎めた母親が窘める。それも父親を庇っているように見えて余計腹立たしい。

「二人には関係ないもんね」

 吐き捨てるように言い、下を向いて食事に集中しているフリをする。

 向かいで父親がコップを置いた。

「お父さんたちがああしろ、こうしろって言っても、お前、多分聞かないだろう」

 怒るというより、どうしてそんな事を聞くのかとでも言いたげであった。そしてそれは真実の正中を見事に射抜いていた。

 父親の言うことは正しい。だけど、話を聞いてほしい。そういうもどかしさを大人はわかってくれない。

 沈黙を抗議とすることに決めた陸は黙々と食事を続ける。対する両親は今日あった事などを話しながら食事していた。あまりに対極的な風景に陸の方が惨めな気持ちになっている時、電話が鳴り響いて空気を両断する。

 口に入れていた物をビールで流し込み、父親が立って電話に駆け寄った。受話器を取って相手の名前を聞いた途端、身にまとっていた鎧を下ろして穏やかな口ぶりになる。

「陸」

 何となく電話の様子を窺っていた陸は顔を上げた。

「友達から」

「誰?」

「斉藤君」

 今日のプールを計画した友達である。わざわざ家の電話にかけてくるとは、どういうことだろうか。逃げ出すように帰った自分の姿が思い出され、いくぶん、気まずい思いを抱えながら電話に出た。

「はい」

『何だ、元気そうじゃん』

 あっけらかんとした物言いに陸はほっとする。そこに彼を責める色はなく、陸は胸をなでおろす。

「何でこっちにかけたんだよ」

『スマホ出ねえんだもん。メールしたのに返信ないし』

 そういえば、家に帰って駆け込むようにシャワーを浴びたはいいが、出かけるのに使ったバッグをどこに置いたのか記憶になかった。玄関で座り込んだところまでは覚えているが、以降、バッグに関する記憶がすっぽり抜けている。

 どこに置いたのかと辺りを見回すと、食事をしていた母親が陸に向かってある一点を指し示した。それはリビングの入り口であり、陸は斉藤に向かって「ちょっと待って」と言うと、受話器を置いてそちらに駆け寄った。そしてドアを開けると、玄関に続く薄暗い廊下の中で、壁にもたれかかるようにしてバッグが置かれている。無意識の内に自分で置いていたらしい。

 陸は自身の余裕のなさに溜め息をつき、バッグを掴みあげて中からスマートフォンを取り出す。そして着信履歴を確認しながらリビングに戻り、母親の責めるような視線から逃れるべく慌てて電話に戻った。

「ごめん、カバンに入れっぱなしだった」

 夕食を食べ始める一時間ほど前から、三回の着信がある。

『メール見て。それ見た方が話早い』

「ちょっと待って」

 受信メールの画面を開き、未読になっている斉藤からのメールを見つけた。

「祭?」

『そうそう。隣の駅の神社の』

「わざわざ?」

『だって、うちんところの公園のなんてしょぼくね? 出店少ないし、あってもつまんねえし』

「まあなー」

『だから行こうって。明日。行けるだろ?』

 相手の都合などお構いなしに話を進めるのが彼の困った所ではあるが、その強引さに救われる時もある。両親との意志の齟齬に悩む、今がそうだった。陸はごく自然に頷いていた。

「行く。何時集合?」

『向こうの駅に五時半。来るのは今日いた奴。じゃ、またな』

 また、と言って陸は電話を切る。スマートフォンをリビングのテーブルに置いて食卓に戻ると、重い空気の食事が再開した。この空気を作りだしたのは他でもない自分自身なのだと、一度離れて思い知る。

「お祭に行くの?」

 単語を拾って聞いていた母親が尋ねた。陸は頷き、冷えたご飯を口に入れる。

「お金は」

「小遣い残ってるからいい」

 今日のプールに使わなかった分が浮いていた。

 母親はそれ以上聞かず、用意していたようなセリフで「遅くならないようにしなさいよ」と言うだけだった。

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