第6話 君につなぐ

 ベッドから降りて部屋中を探してみる。もしかしたらまた鏡にでも刺さっているのかもしれないと淡い期待を抱いて。が、数分でその期待は見事に裏切られる。


 彼女は、どこにもいなかった。なんの痕跡もなく、消えていた。


 驚きはしなかった。予想していたことだ。けれど、なぜだか力が抜けてしまって、立ち上がれなくなった。意外なのは涙が出なかったことだった。

 部屋の真ん中に座り込んだまま、しばらく動けないでいた。一時間が過ぎ、二時間が経っても、俺はそのまま固まっていた。窓の外は今日も快晴で、世界は何一つ変わっていなかった。

 沈黙を破ったのは着信音だった。座卓の上に置いてあったスマートフォンを確認する。空良からだった。彼女は「今から来て欲しい」とだけ告げて電話を切った。

 身支度をして家を出た。一人きりで乗る車は、酷く静かで広かった。


 チャイムを鳴らすと彼女はすぐに出てきてくれた。勧められるまま部屋に入った。彼女は一度寝室に入り、すぐに出てきた。右手に一枚の紙を持っていた。どうやらそれは、何の変哲もないコピー用紙のようだった。二つ折りにされていて、中は見えなかった。

 彼女はその紙をこちらに寄越し、静かに言った。

「いろいろ言いたいことあると思うけど、まずはそれ読んでみて」

 コピー用紙を広げてみる。小さく、丁寧な字が並んでいる。手紙だ。字は空良のものだったが、きっと彼女からの手紙だ。

 そこにはこうあった。


『樹くんへ

 やあやあ、樹くん。美咲です。空良に頼んでこれを書いてもらっています。君を仲間外れにしたことは、どうか許して欲しい。

 さて、樹くん。まずは、ごめんなさい。私は、明日には消えてしまいます。というのは、旅行から帰ってくる時に夢を見たからです。見たこともない真っ白な空間に立っていて、とても綺麗な声が聞こえました。女の人の声だったかな?とにかく、変な夢でした。そこで、私は明日消えてしまうと言われました。理由は、ようやく未練を全て消化したからだとのことです。おかしいよね?だって、未練はとっくに無かったはずなんだから。でもその人が言うには、私の最後の未練は「恋をすること」だったそうです。なんだかんだで純にフラれたのがキツかったのかな?まあとにかく、私は君に恋をして、たくさん笑わせてもらって。つまり、普通の女の子らしいことを楽しませてもらったわけです。で、もう十分だろうということで、私はこの世を去ることになるらしい。夢の中でも言い返すことはなくて、「ああ、そっか」って素直に受け入れちゃった。ほんとはもっとここに居たいのにね。私がそんな風に引き下がれたのにはわけがあります。

 この世界は生きている人のためにある。それを理解しました。私は、もうなにを残すこともできない。君に触れることも、抱きつくこともできない。見たでしょ?涙でさえ、どこにも届かない。

 それを知って、やっぱり生きているのは素晴らしいことだと思いました。生命とは、可能性そのものです。生きていると死んだ方がマシだと思うようなことにも出会うけれど、でも、それでも、死んだらそこでおしまいでした。

 だから、君には生きてて欲しいんだ。


 私はね、全部承知の上でした。こうして別れが来ることも、きっと互いを悲しませてしまうことも。それでも、君と居たいと願ってしまった。結局、それは叶わなかったけれど。

 それでも、この時間が無意味だったとは決して思わない。君は、本来私が知るはずのなかった恋を、教えてくれた。たくさん笑って、泣いた。私は、間違いなく幸せでした。君とのコミュニケーションはとても素敵でした。触れないから、もどかしくても言葉や表情で伝えるしかない。これほど素直で誠実なコミュニケーションもなかなか無いでしょう。私は、君の細かな表情まで見落とさないようにいつも君を注意深く見つめました。


 樹くん。

 初めて会ったとき、君は自殺しようとしてたね。私はそれを止めた。ただ、反射的に。

 今なら、少しは考え方を変えてもらえたかな?君の心の闇がどこにあるのか、最後まで訊けなかったけれど、どうかそうであることを願います。君が、自分の可能性をそんなに簡単に投げ捨ててしまわないことを。


 いま思えば運命だった。私は死んでいた。君は死のうとしていた。私がそれを止めた。私が、君につないだ。今では、そう思えてなりません。


 最後に。

 やっぱり私は、君が大好きだよ。やさしくて、思いやりがあって。君は天国を信じるかな?私は、信じてる。だから、もしまた会ったら、その時はずっと一緒に居よう。

 さようなら。短い間だったけど、今まで本当にありがとう。


「愛を込めて、美咲より」』


 それを読み終わった俺は、その場に立ち尽くした。それでも、不思議と涙は出てこない。ただ、頭がぼんやりして、あまり何も考えられない。

「美咲がね、昨日書いてくれって頼んできたの。樹にはどうしてもさよならって言えないから、手紙にするってさ。美咲らしいね」

「ああ」

 生返事を返した。これ以上はここに居られないと思った。空良に礼を言って、すぐに家へ帰った。


 ベッドに座り込む。ふと、ポケットにスマートフォンが入っていることに気づいて取り出す。写真フォルダーを開く。そこには、変な写真が二枚あった。どちらも俺だけが写っている。けれど、俺は左腕を伸ばしている。誰かに腕を回すように。

 顔を上げた。窓際にはもう誰も浮かんでいなかった。

 視界が滲んだ。胸が苦しい。もう、彼女はここにいない。実感した途端に、涙が溢れて止まらなくなった。


 一人きりの部屋に、慟哭が響いた。


 それから三日、大学も休んで部屋に引き篭もった。腹が空けば何か食べ、水を飲んだ。あとは、窓際に座って移りゆく空をじっと眺めていた。朝がきて、昼がきて、夜がきた。涙はもう、涸れてしまった。

 そしてその翌日。俺はまたあの崖にやってきた。あの時と全く同じ。違うのは、右手に持った花束くらいだった。今日も空は高く、青い。

 崖っぷちに立ってみる。少し足が竦む。ふざけてしゃがみこんでみたけれど、もう彼女は現れてくれなかった。

 青い海に向かって話しかける。独り言にはもうずいぶん慣れてしまった。

「美咲さん。手紙、ありがとう。美咲さんがいつかいなくなるなんて知ってたけど、でも、やっぱり俺は悲しかった。

 けど、あなたにはたくさんのことを教えてもらった。幽霊の哀しみ、生命とは何なのか。

 俺はね、ずっと人生がつまらなかったんだ。だから死のうとした。それだけなんだよ。笑えるでしょ?

 あなたと過ごして分かった。俺は、一日一日を蔑ろにしていた。明日は当然のようにやって来る。そう信じていた。けど、美咲さんと出会ってからは違った。明日には話せなくなるかもしれないと思うと、怖くなって。あなたが居る一日一日が、とても愛おしく思えた。ほんとは、そうやって生きていくべきなんだ。人はそんなに強くない。だからこそ、ちゃんと生きようと思って生きなきゃいけないんだ。あなたは、俺にそれを教えてくれた。

 ほんとは、今すぐにでもあなたのところに行きたい。けど、俺はもう自殺はしないことにするよ。美咲さんが俺につないでくれた。この生命を、終わりまでちゃんと抱えて生きていくよ。

 だから、美咲さん。天国でもちゃんと俺を見つけてよ?俺も頑張って探すからさ。そしてその時には、ちゃんと抱きあって、手をつないで、思い出話でもしよう。約束だよ?憶えててね。俺のこと、忘れないでね。

 さようなら、美咲さん。出会ってくれて、ありがとう」


 手に持っていた白い花束を、そっと海に投げた。花は加速しながら落下して、ふわりと水面に落ちた。空を見上げる。よく、彼女が窓越しに見上げていた空を。

 冷たい風が吹いた。いつかと同じように振り返ってみる。そこに半透明の笑顔が揺れていた、ような、気がした。

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君につなぐ 不朽林檎 @forget_me_not

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