第5話 別れ

 彼女との旅行から帰ってきた。帰宅途中、彼女はずっと助手席で眠っていた。自宅に着くともう昼前だった。助手席の彼女を呼び起こす。

「美咲さん、起きて。着いたよ」

「ん、ああ、ごめん。寝ちゃってた」

 彼女はドアをすり抜けて下車すると、いつも通り背後についてくる。部屋のドアを開けながら訊いてみる。

「楽しかった?」

「え、ああ、うん。楽しかったよ」

 なんだか様子が変だ。ぼうっとしている。寝起きだからか?

 部屋に入ると彼女は窓際に立った。やはりぼんやりしているように見える。少し気にしながらも、旅行のあれこれを片付けた。

 最後に衣服を洗濯機に突っ込んでいると、彼女がやって来て言った。

「ねえ、空良に連絡とれないかな?今から会いたいんだけど」

 なにやら違和感があったが、とりあえず気にせず返事をする。

「ああ、いいよ。あのキーホルダーも渡したいしね」

「ありがとう」

 そう言うとまた窓際へ行ってしまった。窓の外を眺める彼女にイヤなものを感じた。

「ねぇ、美咲さん」

 こちらを振り返った彼女は少し緊張しているように見えた。

「なに?」

「消えちゃうの?」

 彼女の顔から表情が消える。それから曖昧な表情を浮かべて首を振った。

「んーん。大丈夫。消えたりしないよ」

「ほんと?なにか隠してない?」

「ほんとだよ」

 彼女はそう言ったが、明らかに反応がおかしかった。なにか隠している。早いうちに突き止めないと、取り返しがつかなくなるのでは?そんな焦りを感じた。とは言え、彼女をきつく問い詰めるのが正しいことだとも思えなかった。

 空良はすぐに応答してくれた。今からでも会えると言う。彼女にそれを伝え、駐車場へ向かった。


「いらっしゃい、樹、美咲」

 空良は笑顔で出迎えてくれた。例のキーホルダーを渡す。

「昨日、美咲さんと旅行に行ったんだ。一泊二日だけど。で、これお土産」

「えー!そうなんだ。どれどれ」

 彼女が遠慮もなく言った。

「恋愛成就の御守りだってさ」

「ちょ、美咲さん?いや、やめてよ空良。そんなに睨まないで。美咲さんが選んだやつだからね?」

 空良はすぐに笑顔に戻って言った。

「ありがとう。次は変な男に引っ掛からないように気をつけるよ」

「えぇ…」

 隣で彼女は楽しそうに笑っている。まったく、空良とのことになると面白がりやがって。けれど彼女の言った通り、空良は全く気にしていないようだったので良しとする。

 部屋に座ってしばらく話していた。やっぱり彼女は窓際に座った。

「えー!樹、ちゃんと告白できたんだね。えらいえらい」

「掘り返されると恥ずかしいからやめて」

 彼女はニヤニヤしながら言う。

「同じ布団で寝たんだよー」

「ちょっと美咲さん?なんでそういうことだけピックアップするの」

「やるじゃん、樹」

 部屋には笑いが絶えなかった。彼女のことが気掛かりだったが、とりあえずは元気そうなので大丈夫だろうと思った。きっと、俺の思い過ごしだ。そう信じることにした。

 と、彼女が突然こちらを向いた。何を言われるかと思って緊張する。

「ごめん樹くん。ちょっとガールズトークしたいから、向こう行っててくれる?」

「えー。一体何の話するの?」

「いいから。樹くんのあれこれを元カノの空良に訊きたいんだよ。恥ずかしい思いする前に避難しといた方が身のためだよ?」

「あーもう。分かりましたよー」

 立ち上がって部屋を移動する。以前、彼女が壁をすり抜けて行った部屋だ。そこは空良の寝室だった。何もかもに見覚えがあった。ベッドに腰を掛ける。

 正直、とてもイヤな予感がした。彼女から目を離したくなかった。きっと彼女はなにか隠している。

 けれど彼女に話す気がないなら、俺はどうすることもできない。それに、彼女の意向は基本的に受け入れることにしていた。いつ彼女が消えてしまっても後悔しないために。それでも今は心配でならなかった。

 十五分ほど経っただろうか。時計を見ていなかったので正確な時間は分からないが、結構長い時間が経ったように思う。壁から彼女が現れる。

「お待たせ。下着漁ったりしてない?」

「するわけないでしょ、もう」

 笑って応える。彼女はいつも通りだった。ダメだ。今疑うようなマネをして、彼女を傷つけでもしたら、俺はきっと一生後悔する。それなら俺は、怖くても彼女を信じる方を選ぼう。

 部屋に戻ると、空良もいつも通りだった。それまで通りの穏やかさで会話が始まり、時間が流れていく。あっという間に夕方になった。

「あ、そろそろ帰るよ」

「うん。気をつけてね」

 今日は空良と玄関で別れた。ドアを閉める時、その目に涙が滲んでいたような気がしたのは、きっと気のせいだ。そう思い込む。


 部屋に戻ると、彼女はベッドに寝転がった。俺は構わず夕食を作り、座卓で食べた。彼女は寝転がったまま、こちらを眺めていた。その目はやけにやさしかった。

 洗い物を済ませ、入浴する。風呂を出ると、彼女はまた窓から空を眺めていた。日が短い。外はもう、すっかり暗くなっていた。

 俺の気配を察した彼女がこちらを振り向く。そして真面目な顔で近づいてくる。気圧されて後ずさりしそうになる。彼女はそのまま俺に抱きついた。俺も彼女の背中に腕を回す。

 腕の中で彼女は呟いた。

「ねぇ、樹くん。あの世って信じる?」

「前まではそうでもなかったけどね。美咲さんを見たから、今は結構信じてるよ」

「…そっか。よかった」

 彼女は俺から離れると、こちらを見て微笑んだ。少し俯き、それからまた顔を上げた。

「もう、寝ない?かなり早いけどさ。樹くんも、疲れたでしょ?」

「…そうだね」

 彼女は布団ではなくベッドに横になった。今日も一緒に寝てくれるらしい。灯りを消して、ベッドに潜り込む。少し狭いけど、彼女となら大した問題ではないだろう。

 彼女はこちらを向いた。俺の目を真っ直ぐに見てくる。そして、

「ありがとうね」

 と言った。

「…美咲さん」

「ん?」

「大好きです。あなたと出会えて、俺は幸せでした」

 無意識に過去形になっていた。予感はほぼ確信へと変わっていた。けれど、今彼女に泣きつくのは、何かが違うような気がした。彼女は驚いた表情を浮かべ、それからすぐに笑った。

「私も、大好きだよ。しつこいけど、いろいろありがとうね」

 それだけ言うと、彼女は背中を向けてしまった。

「…おやすみなさい」

「えぇ、おやすみなさい」

 彼女の声が微かに震えているのに、俺は気づいていた。「また明日」と言う勇気はなかった。胸騒ぎが収まらなかった。それでも体は疲れていたのか、眠気はすぐにやってきた。


 そして翌朝、七時前に目を覚ました。ベッドには、俺一人しかいなかった。

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