第4話 思い出
目が覚めると、なぜか彼女の背中が見えた。俺は仰向けになっている。彼女が俺の上に座っている。正確には、俺の身体をすり抜けた状態で。まるで、
「あっ、起きた?見て見て、幽体離脱」
先に言われてしまった。やけにテンションが高いのは昨日の告白のせいなのか。分からないが、軽く笑って応える。
「斬新な一発ギャグだね」
「えー、なんか反応薄い」
彼女は不服そうだったが、こちらはもうすっかり彼女が幽霊であることに慣れてしまっている。驚けというほうが酷だろう。
今日も彼女が居る。確かにここに居る。とりあえずそれに安心する。
「じゃあ、支度するから待っててね」
「はーい」
俺に代わってベッドに寝転がった彼女を横目に支度を始める。鏡の前で歯を磨きながらぼうっと思う。
彼女と、あとどれくらい一緒に居られるだろう。考えたくはないが、つい考えてしまう。分かっている。それを承知で彼女に告白したのだ。
部屋に戻ると彼女はまだ寝転がっていた。隣に腰掛けると突然、身体をすり抜けて目の前に移動した。近距離で目を合わせてくる彼女に驚き、目を逸らした。
「へへ、ビックリした?」
「ビックリしたけど、なんかテンション高くない?」
「もー。一日一日を大事にしてくれるんじゃなかったの?」
ハッとする。そういうことか。彼女は俺に憂いを感じさせないように、また、いつ別れが来ても後悔のないように振る舞っているのだ。
ダメだな、俺は。まだ自覚が足りない。
「ごめん、そうだった。よし、じゃあ行こっか」
「うん」
玄関のドアを開けると一段と冷たくなった空気が頬を刺した。まだ冬と呼ぶには少し早いけれど、かなり寒くなってきた。今日もいい天気だ。
車中でも彼女はよく喋った。
「ねえ、今週末どこか連れてってよ」
「いいよ、どこがいい?」
「えーと、あ、山がいいな。できるだけ君と話したいし」
山か。ずいぶんアバウトだ。けれど確かに、人が多いような場所に連れていっても話ができないかもしれない。
「山?もっとオシャレなとこじゃなくていいの?」
「あー、うん。今はそっちの方が楽しそう」
「分かった。なら良さそうなところを探しとくよ」
大学に着いて車を降りると、さすがに彼女とは話せなくなった。が、彼女はこれまでよりも上機嫌で背後に浮かんでいた。授業中はいつも通り静かにしていた。
そのいじらしさにたまらなくなった俺は、休憩時間やちょっとした空き時間を徹底的に利用し、彼女と会話した。時には車に戻って、時には電話をするフリをして。
そんな風に平日が過ぎていく。彼女との穏やかな日々は、とても幸福なものだった。朝起きるたびに彼女を探し、その姿をみて安堵した。週末はすぐにやってきた。
金曜日の夜、俺は彼女と向かい合って座った。スマートフォンを座卓に置いて彼女に見せる。そこには、紅葉や川、滝などの自然が楽しめる観光スポットの写真が表示されている。ここからだと車で二時間ほどかかるが、それでも彼女の希望に添えるスポットのなかでは最も近い。
「紅葉はもう厳しいかもしれないけど、川沿いに遊歩道があって、なかなか気持ちのいいところみたいだよ」
「おおー、いいね」
「あとね」
画面を切り替えて再び彼女に見せる。それは旅館のホームページだった。
「ここね、星がすごく綺麗なんだって。だから、旅館も予約した。偶然、一部屋空いてて良かったよ」
「えー!わざわざそこまでしてくれたの?ありがとう!」
彼女は嬉しそうに笑った。もっとも、旅費が全て一人分で済むから、こんなマネができるのだが。喜んでもらえたみたいでなによりだ。
一瞬一瞬を大切にする。彼女をいつ失ってしまってもいいように。そう思えば、彼女と旅行をするのに躊躇いはなかった。できる限り彼女を笑わせて、俺も笑おう。
「もー、ほんとにいい子だねぇ君は。お姉ちゃんがヨシヨシしてあげよう」
彼女は俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。もちろん、彼女の手は俺の髪の毛をすり抜けている。けれど、そこに彼女の体温を感じたような気がした。
「だからなんでお姉ちゃんなの?…まあ、悪い気はしないけどさ」
「へへ、そうでしょう?」
「じゃあ、今日は早めに寝よっか」
「うん!」
彼女は上機嫌で頷くと、布団に寝転がった。俺も灯りを消して横になる。
そして翌朝。
「おはよー!あれ?まだおねむ?」
「今日はやけに早いね…」
彼女は朝から元気だった。時計を見ると七時。まだ明らかに早いけれど、出発が早いに越したことはないかもしれない。寝ぼけた頭を無理やり目覚めさせ、ベッドから降りる。
身支度をしていると、彼女の楽しそうなハミングが聞こえてくる。ここのところ彼女はご機嫌だ。
鏡の前で歯を磨いていると、彼女が後ろからやってきた。そのまま俺をすり抜けて進み、鏡に下半身をめり込ませる。鏡から上半身だけを出した彼女は、こちらを見て楽しそうに笑った。
「ねえねえ、向こうについたら何しよっか?」
「そういや考えてなかったね。とりあえず時間があるうちに遊歩道を歩いとこう。それと、旅館は五時から入れるから。向こうでやりたい事があれば聞いとくけど?」
彼女は少し考え込んで、首を振った。
「なんか思いつかない。とりあえず君とゆっくりできたらそれでいいかな」
「…ほんと、そういうところズルいよねぇ」
「え?どういうこと?」
「なんでもない」
口をゆすいで顔を洗い、服を着替える。彼女は相変わらず鏡に刺さったままだった。荷物をもう一度確認し、しっかりと戸締りをしてから部屋を出る。
車に乗り込むと彼女はいつも通り助手席に座った。そういえば車で移動することはできる。けれど大学では空気椅子しているところをよく見かける。まったく、よく分からない。けれど都合はいい。
車を出した。時刻はまだ八時。このままいくと少し早すぎる。理想では昼頃に向こうに着きたい。というわけで、一つ観光スポットを追加することにした。どうせ行き道にあるから問題はないだろう。
駐車場に車を停めて降りる。彼女は運転席側のドアをすり抜けて出てきた。一時間ほどで着いたのはそこそこ有名な城だった。いつでも来られたといえばそうなのだが、興味もなく、来たことはなかった。少し歩いて行くと大きな階段が見えた。それを登っていくと広場に出る。祭りの匂いがした。週末ということで人は結構多かったが、時間がまだ少し早いらしく、混雑しているというほどではない。左右にいくらかの屋台が並んでいて、さらに奥には城へと続く階段が見える。
朝食をとっていなかったことを思い出し、ここでなにか買い食いすることにした。
たこ焼きとフランクフルトを買った。近くの自販機でコーヒーを買い、それらを手に近くのベンチに座った。通路を挟んで向かい側には土産物屋が並んでいる。出入りする人々の顔にはどこか余裕があった。スマートフォンを取り出して耳にあてがい、彼女に話しかける。
「まったく、こうしないと話せないなんて不便だよね」
「ほんとにね。あ、たこ焼き美味しそう。私も食べたいなぁ」
彼女はそんなことを言ったが、もうその言葉に陰は感じられなかった。たこ焼きを一つ持ち上げ、「あーん」をやってみる。彼女は少し驚いた様子だったが、笑って口を開けた。たこ焼きは見事に半透明の彼女をすり抜けた。
「あぁ、もう。私があーんしたかったのに」
少し残念そうに言った。たこ焼きを自分の口に放り込む。熱い。飲み込むのを躊躇していると、隣りから「斬新な関節キスだね」と笑い声が聞こえた。
城の中も見学できるとのことだったので、俺たちは中に入った。様々な資料が展示されている。それらをチラチラと見ながら歩いていく。途中、彼女は鎧武者の中に入ってふざけていた。写真を撮ってみたけど、彼女は写らなかった。それを見て彼女は少し寂しげに笑った。
天守閣にも上ってみた。なかなかいい眺めだ。城から眺める現代の街並みには、どこか違和感を感じるが。こちらにやってくる人がとても小さく見える。
彼女は窓ガラスをすり抜けて外をふわふわと漂っている。しばらくして戻ってきた。
「すごく高い!君にも見せてあげたいな」
「遠慮しとくよ。怖くないの?」
「もう慣れちゃった」
そう言ってくるりと宙で回転してみせる。幸い天守閣には誰も居らず、気兼ねなく会話できた。
「そろそろ行こっか」
「うん」
城を出た。彼女は俺の肩にあごを乗せて、もといそう見えるような浮かび方をしてついてくる。楽しんでくれているようでなによりだ。
先ほど見かけた土産物屋に立ち寄ってみる。そこでオリジナルのフォトフレームを見つけ、ふと思いつく。そのフォトフレームを買ってから店を出た。
「美咲さん、写真撮ろう」
「え、でも私、写らないよ?」
「いいから」
城の門をバックに写真を撮れるスペースを探した。同じように写真を撮っている人たちが数人居る。幸い、まだ人はそこまで多くなかったから、すぐに場所は決まった。
自撮りする格好でスマートフォンを構える。彼女も左隣に入ってくる。不思議なことに、この段階では彼女はカメラに写っている。二人が画面に入ったのを確認して、彼女の背中に腕を回した。傍から見れば大層変なやつに見えることだろう。けれど構わない。写真に写らなくとも、ここに彼女が居たことを俺は知っている。彼女は一瞬驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻ってレンズの方を見た。シャッター音が鳴る。
そのままスマートフォンを耳にあてがう。
「せっかくだからさ。思い出が欲しいでしょう?」
「…うん。ありがとう」
彼女は少し恥ずかしそうに俯いた。
再び車に乗り込み、目的地を目指す。彼女はしばらく喋っていたが、急に静かになったかと思えば助手席で眠っていた。彼女の声が途絶えたことに驚いた俺は、隣で眠る彼女の寝顔にホッとする。
予想通り、それから一時間ほどで目的地に到着した。車を降りると木の匂いがした。普段感じることのない清涼な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。隣を見ると、彼女もそうしているらしかった。
「気持ちいいね」
「うん。あ、あれが遊歩道?」
彼女が指差す先には未舗装の細い道がある。川沿いに続いていて、すでに数人が歩いている。
「そ。まぁ、先に腹ごしらえしようよ」
「私は食べられないんですけどー」
彼女は笑った。つられて俺も笑う。空は高く、青い。こんな幸福がずっと続けばいいのになんて、本気で思ってしまう。
遊歩道とは反対側の道路に出る。ここから先は、道沿いに様々な店が点在している。この上に、今夜の宿もある。時刻は十二時。時間はたっぷりある。
少し歩いたところにあった飲食店に入る。小さいが立派な庭があり、池では鯉が優雅に泳いでいる。どうやら古民家を改築して作ったものらしく、畳の部屋に、低いテーブルがいくつか並んでいる。部屋の内外を仕切る障子が全て開け放たれており、とても開放的だ。奥の方には井戸が見えた。絵に描いたような田舎の家という感じだ。
出てきた店員はとても可愛らしい若い女性で、なんだか意外で驚いた。彼女も「おお、美人」なんて言っていた。蕎麦を頼んだ。キジ肉を使ったものらしく、今まで体験したことのない味わいがあった。部屋からは庭がよく見えた。モンシロチョウが一匹、池の縁を飛んでいた。彼女はテーブルを挟んで向かい側に座ってこちらを見ていた。
「美味しい?」
「ああ、すごく美味い。君にも食べさせたかった」
昼食を終え、先ほどの駐車場に戻った。遊歩道に入る。彼女は後ろを飛ぶのをやめ、隣を歩いてきた。彼女の歩幅に合わせつつ、土がむき出しの地面を歩く。季節的に当然といえば当然なのだが、遊歩道はとてもひんやりしていた。まだ紅葉は少し残っていた。
「そうそうこれこれ。こんなところに来たかったんだよ」
彼女は相変わらず上機嫌だ。先行者の姿がチラホラ見えるが、かなり距離があるので話していても気づかれはしないだろう。背後も同様だった。
「気に入ってもらえて良かったよ。ここなら気兼ねなく喋れるしね」
「うん!」
半透明の彼女と山道を歩く。この静けさは驚くほど彼女に似合っていた。途中、落ち葉が上から降ってきて俺の頭に乗っかった。同じように隣を歩く彼女には乗っからなかった。彼女はこちらを見て、少し困ったような顔で微笑んだ。
水の音が聞こえる。川が流れる音よりずっと大きい。そのまま歩き続けると、やがて滝が見えた。遊歩道から五メートルほど離れたところが滝壺になっていて、深緑の水が揺らめいている。
「ああ、これが噂の」
「そう。
話によるとこの土地の神様にまつわる伝説のなかで登場する滝らしい。そういうことに疎い俺にはよく分からなかったが、好きな人の間では結構有名だそうだ。ただ、知っているのは、
「この土地の伝説によるとね、ここで一緒に滝を見上げたカップルはずっと続くらしいよ」
冷たい風が吹いた。彼女はこちらを見て、いつもの曖昧な表情を浮かべて頷いた。それから嬉しそうに笑う。
「そっか。じゃあ、祈っておこう」
「うん。あ、ついでに写真撮ろ?」
城と同じ要領で、滝をバックに写真を撮った。
遊歩道はそのあとも十五分ほど続き、折り返しに入った。彼女と話していると時間はあっという間に過ぎていき、気づくと遊歩道の終わりが見えてきた。
「おー、ゴールだ!結構長かったねぇ」
「だね。…楽しかった?」
「ええ、とっても」
時計は午後三時を示していた。まだ宿へ向かうには早すぎる。そこで、土産物屋をウロウロして時間を潰す。この土地ならではの土産がたくさん並んでいて、退屈はしなかった。
「あ、そうだ。空良にお土産買って行こうか」
「そうだね。どれがいいかなぁ」
「あ、これなんてどう?」
彼女が指差したのは小さなキーホルダーだ。二羽の小鳥が向かい合った絵が小さな木片に描かれている。これも例の伝説にまつわるなにからしいが、恋愛成就のご利益があるとか。
彼女はニヤニヤして言う。
「樹くんのせいで恋人に困ってるでしょうからね」
「ちょ、本気で怒られそうなんだけど」
「大丈夫大丈夫。あの子なら笑ってくれるよ」
結局そのキーホルダーを買って店を出た。時刻は四時半になっていた。そろそろ頃合いだ。
車に乗り込み宿に向かった。着いたのは五時前だったので、少し車で時間を潰してから宿に入った。
ずいぶん丁寧な対応をしてもらい、二階の部屋に通された。案内人が去っていくと、彼女は浮かんだまま部屋のあちこちを見て回った。
「思ったより本格的だね」
「だねぇ。俺もこんなんだとは思わなかった」
一人部屋だし、そんなに高級なところでもないのだが。けれど、和室は一人で使うには十分に広い。窓際には椅子とテーブルが置かれ、くつろげるようになっている。窓の外を見ると、もうずいぶん暗くなってきていた。
「まだ夕食までは時間あるよ?どうする?」
彼女はしばらく考えてから言った。
「じゃあ、お喋りしよう。できるだけなんでもないような話を」
「なんでもないような」、か。その意味はなんとなく分かった。少し考えてから、彼女をからかってみることにした。
「美咲さんってほんと可愛いよね」
「えっ、ちょっと」
「長い黒髪も綺麗だし、手足も細くて長いし。病衣の上からでもスタイルいいのが分かるよ」
彼女はかなり動揺している。面白くなって続けた。
「あーあ、俺は幸せだね。こんな可愛い人と二人っきりだもん。滅多にあることじゃないよ」
彼女の頬が上気している。慌てて叫ぶように言った。
「ちょ、ちょっと止めてよ。どうして急に」
いつかの彼女と同じようにニヤニヤして応える。
「ごめん、からかってみた」
「…あー、そうですか!そんなことだと思った!」
頬を膨らませてそっぽを向いた彼女に近づく。これまた彼女がしてくれたみたいにくしゃくしゃと頭を撫でる。もちろん、そういうフリだけど。
「…そんなことで騙されないからね」
「ごめんごめん、反応が可愛かったから、つい。でも、美咲さんが可愛いっていうのはほんとだからね」
「ああもう、調子狂うようなこと言わないの!まったく。しかもスタイルいいとか、どこを見てるのかな君は?」
彼女はこちらに詰め寄って至近距離で睨んでくる。やがてその表情を弛緩させると、楽しそうに笑い始めた。俺も笑った。
「なんでもない」とはこういうことだろう。そうだろう、きっと。
夕食のために食事会場に向かった。料理はなかなか豪華で、彼女も俺も少し困惑した。そもそも、こういう場には慣れていないのだ。そこらの安いホテルならまだしも、旅館など数えるほどしか行ったことがないのだから。
「あー、美味しそう。幽霊ってやっぱり損だよねぇ」
彼女はそう言いながらも楽しそうに料理を眺めていた。
部屋に戻るとすぐに風呂に入った。服を脱いでシャワーを浴びる。と、背後に何やら気配を感じた。振り返ると、彼女が立っていた。
「お、なかなかいい体してるね」
「ちょっ、美咲さん?何してんの!」
とっさに股間を隠す俺を見て彼女は笑う。
「さっきの仕返しー。いいじゃん。人生最後にのぞきくらいさせてよ」
普通、性別が逆だと思うのだが。まあいい。とりあえず彼女を追い出す。彼女は不満げに「ケチー」と捨て台詞を吐いて出ていった。
風呂を上がると彼女は窓の外を眺めていた。その表情に見覚えがあった。いや、この光景にと言った方が適切だろうか。曖昧な表情で物思いにふける彼女を、背後から驚かせたことを思い出した。
なんとなく、ぎこちなさを感じていた。今を幸福だと思えば思うほど、胸のどこかが痛む。それはどうしようもなかった。彼女をからかったのは、そんな憂いを忘れたかったからだ。あるいは先ほどの彼女ののぞきも、同じことだったのかもしれない。
今度は普通に話しかける。
「…美咲さん」
彼女はくるりと振り向いた。その表情は、やはりどこか暗い。
「なぁに?」
「このまま一緒に居たいと思うのは、わがままでしょうか?」
彼女はなにも答えなかった。少し考えてから、
「星を見に行かない?せっかくだからさ」
と言った。言われるままに受付に鍵を預け、外に出た。
駐車場のすぐ横に、ちょっとした芝生のスペースがある。屋根付きのベンチがあることからも、休憩スペースとして設けられたものらしい。彼女は自分をそこに連れていく。
「うわぁ、やっぱり綺麗だねぇ」
彼女が空を見上げる。俺もそれに倣った。三日月が浮かんでいた。目を見張った。そこには満天の星空が広がっている。小さな砂粒のような光が、真っ暗な夜に煌めいていた。それはそれは見事だった。目を凝らして星が流れないかと期待したが、どうしても見つけられなかった。
「ねえ」
視線を戻すと彼女は自分のすぐ隣に来ていた。無人の静かな星空の下、俺たちは見つめ合った。
「私ね、こうなることが怖かった」
彼女は静かに話し始めた。なんとなく視線を外して前に向ける。暗くてよく見えない。
「未練を全部晴らした時、もういいって思ったの。本気で。ただ、純にフラれたのは辛かった。だって私、一途だったからさ。それ以外に恋をすることもなくて、恋愛に憧れたまま死んじゃったのが、なんかやるせなかった」
ちらりと隣を見ると、彼女は俯いていた。暗闇では、彼女はぼんやり光って見えた。
「でも、今更どうしようもないから諦めた。けど、なぜか成仏できなかった。そんなとき、君に告白された。正直、すごく嬉しかった。いま思えば、君のことだいぶ好きになってたんだろうなぁ。だって、離れられないとはいえ、見ず知らずの幽霊にここまでやさしくできる人なんて、君くらいしか知らないもの」
「…うん」
「それでさ、断るべきだと思ったんだ。自分のためにも、君のためにも。でもね、幸せになりたいって思っちゃった。それでいつか君に悲しい思いをさせることになっても、私が悲しくなるとしても」
頷く。
「分かるよ。俺もそうだったから」
「でね、君に好きって言っちゃった。もうキスどころか、手を繋ぐことさえできないのに。私は、夢みたいな幸せを願ってしまった」
彼女はそこで言葉を切った。感じられないはずの彼女の息遣いが、いまは感じられるように思えた。
「ねえ、私は、なにか悪いことをしたのかな?やっぱり、幽霊が幸せを望むなんて、馬鹿げたことだったのかな?」
彼女は泣いていた。静かに、声は出さずに。半透明な彼女の頬を涙が伝う。俺はそれを、拭ってあげることもできない。
誰が、彼女を責められるだろう?その祈りのような幸福を、誰が否定できるだろう?
罪悪感がこみ上げる。もし、俺が彼女に告白していなかったら?彼女にこんな思いをさせずに済んだろうに。
「ごめんね、やっぱり俺のせいだ」
「やめて!」
彼女は叫んだ。
「君のせいじゃない。大丈夫。全部分かっててこうしたんだから。だから、私が言いたいのは、…ただ、失うことが怖い。それだけ」
そこまで言ってから彼女は俺に抱きついた。もちろん、フリだけだ。やっぱり彼女に体温はなく、感触もない。匂いもしない。彼女の肩に腕を回す。誰もいないし、この暗闇の中で気にすることはないだろう。
どれくらいそうしていただろうか。寒気を感じて身震いした。それに気づいたのか、彼女は「入ろっか」と言った。素直に頷いて部屋に戻った。
勝手に部屋に敷かれていた布団に寝転がった。そして彼女に手招きした。
「おいで。一緒に寝よう」
おそらく彼女は寒さを感じないだろうし、少し浮かんで座るなんて芸当ができるくらいだから、布団は必要ないのかもしれない。ただ今は、彼女に触れていたかった。決して触れられはしないけれど。
彼女は嬉しそう笑ってこちらにやってきた。隣に彼女が寝てから掛け布団を被る。そこで、驚いた。彼女は掛け布団をすり抜けていない。試したことがなかったから知らなかったが、掛け布団は被れるらしい。やっぱりよく分からない。けれど今は間違いなく、俺たちは同じ布団で寝ていた。なんの違和感もなく。彼女も少し驚いた様子だった。まあ、こんな小さな奇跡はあってもいいだろう。
「ふふ、なんかドキドキするね」
「触れないのに?」
「うん。これだけで十分」
そのときの彼女は本当に幸せそうだった。こちらを向いて柔らかく微笑む。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
彼女は静かに目を閉じた。俺も目を閉じる。彼女に明日があることを祈りながら、眠りの底へ落ちていった。
翌朝、目を開けると目の前に彼女が居た。思わず安堵のため息が漏れる。良かった。今日もここに居る。
ため息に気づいたのか、彼女が目を覚ました。大きな瞳がゆっくり開く。
「ん、ああ、おはよう」
「おはよ、美咲さん」
その後は九時頃までゆっくりと過ごした。彼女と他愛のない話をしながら。窓越しの空は、今日も青かった。
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