ハルキの退勤

鎌倉駅に到着すると、ハルキは小柄なOLとホームに降り立った。

「ありがとうございます」

「それじゃあ」

横須賀線の階段を降りて、江ノ電の改札をくぐる。緑色とクリーム色の電車が、ちょうどのんびりと入ってきた。この時間の江ノ電は、特に心の声を聴くこともなく、座ることができる。

「あれ」

振り返れば小柄のOLがハルキから目を逸らした。


「へえ、同じく七里ヶ浜なんですね」

空席の目立つ江ノ電で、彼女は隣に座った。

「もしかして、峰ヶ原高校で?」

「ええ。××年度卒業です」

「私が二つ上ですね」

ナツナ、とOLは名乗った。

「ハルキさんは、どうして毎日着席できるんですか?」

「次の駅で下りる人の声が聞こえるんです」

まさかあ、とナツナは言った。そうだよな、普通はこんなことを言って信じるわけがない。試しに、ナツナは何を考えているのかに耳を澄ませてみた。

『まさかあ』

それだけだった。ハルキのことを変だとか、気味が悪いとか、余計な感情などみじんもないようである。言っていることと考えていることが同じ。今どき、そういう人は珍しいなと思う。

「本当に聞こえるんですか?」

「ええ、学生の頃からあれこれ聞こえるんです。嘘を言っているわけではないのですが、誰も信じてくれなくて」

「学生の頃から……。もしかして思春期症候群? ……なんて」

ナツナの口からその言葉が出てくるとは思わず、驚いた。はい、ともいいえ、とも言えず、ドアが閉じる直前、長谷駅でホームに降り立った。ばんばん、としまったドアを叩きながら、ナツナが乗った江ノ電が走り去る。嫌だったのではない。単にびっくりしてしまったのだ。思春期症候群について知っている人がいた。それだけである意味恐怖だったのだ。


「おはようございます」

翌朝。七里ヶ浜駅に向かうと、ナツナが笑顔で手を降ってきた。


「私の会社は新橋なんです。ハルキさんとひと駅違いですね」

北鎌倉から横に並んで座ったハルキとナツナは、暇つぶしに雑談しながら通勤するようになった。

「思春期症候群は、高校生のときによく噂で聴きました。だから、私は信じます」

逐一ナツナの考えを確認するが、言っていることと考えていることは常に一致していた。二週間も経てば、愚痴を聞いたり会社の話をするようにもなった。ナツナは思ったことをなんでもすぱっ、と言ってしまう性格だからか、ハルキはほっとするのである。

毎日同じ電車の同じ位置に、二人並んで乗って、北鎌倉で別の二人組が下りるのと入れ違いに座るルーティンができてきたので、いつの間にか声を聴く機会がほとんどなくなっていた。帰りの時間が結構遅くなりがちで、空席を求めなくても空いていることが多かったからだ。

 その日も、品川で帰りの電車を待っていると、大勢のサラリーマンを乗せた横須賀線が入ってきた。ホームには人が溢れており、何が原因かはわからないが、これは帰るのが面倒だなあと思った。

「ハルキさん!」

ナツナの声がした。周りのスーツのサラリーマンに埋もれて、小さなOLが電車から降りてきた。そっちに気を取られてしまい、一本電車を遅らせることになってしまう。

「ごめんなさい、姿が見えたので」

「それだけですか?」

「いや……、楽に帰りたいなあ、って」

「やっぱりな」

次に来た電車も、同じくらいぎゅうぎゅうつめ。車端のドアのところにひとまず避難して空きそうなスペースを待つ。ひとまず、隣の西大井が近づいたところで、周囲の声を聞こうと耳を済ました。が。

「あれっ?」

声は聞こえない。意識を強めるが、変わらなかった。山手線方面からの客も乗ってきたことから、自分と壁のあいだにナツナがなんとかいる、というすし詰め状態になってしまった。

「どうしたんですか?」

「声が、聞こえなくなりました」


へとへとになりながら、鎌倉駅についた二人。江ノ電のホームも、結構混んでいたのでベンチに座って次の電車を待つことにした。

「本当に思春期症候群が治ったのであれば、それはとても良いことではないですか?」

「そうですね、でもなんで」

「私のおかげかな? なんて」

ナツナのおかげで、確かにすこし会話ができるようになった。人の真意を怖がることも減った。

「ハルキさん、私の考えていることを当ててみてください」

「いきなりですね。でも、今も声を聞くことができないのです。だから、当てられません」

数秒して、ナツナは思いっきりガッツポーズ。そして、いきなりハグしてきた。

「やった! やったよハルキさん」

「えっ!? え? なにが?」

「私の思春期症候群も治ったの! もう、思ったことなんでも口に出さなくなった!」

ナツナも、思春期症候群を患っている一人だった。だから、考えていることと、話すことが一緒だったのである。

「それは……、よかったですね」

ハルキからすれば、すこし残念だった。自分に対してすべてオープンだったナツナはもういなくなってしまったのだから。

「ハルキさん、好意、ですよ」

「え?」

ナツナは一言そう言うと、ベンチから立ち上がって行列にならんだ。ハルキも急いで、その隣にならぶ。お互いの心の空席が、今埋まったように思えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空席の青春 井守千尋 @igamichihiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ