空席の青春

井守千尋

ハルキの通勤

県立峰ヶ原高校の最寄り、七里ヶ浜駅からJR鎌倉駅までは15分程度である。ハルキはいつも、3両目一番前のドアから乗車し、稲村ヶ崎で座る。そして、鎌倉駅で雑踏に混じりながら横須賀線ホームに上がり、すでに周りに人だらけの千葉行の電車に吸い込まれるのだ。とはいえ、このぎゅうぎゅう詰めからは隣の北鎌倉駅で解消される。下車する人間が多いというわけではなく、単にハルキが座席に座ることができるからである。しかも、毎日。


かつて峰ヶ原高校に通っていた6年前のこと。突然、周りの人の考えていることがわかるようになった。テレパシーの一種なのか、周囲が思っていることがみんな聞こえてくるようになった。ハルキは調子に乗って、クラスの人間関係を掌握しようとした。すると、日を追うごとにハルキに対する負の感情が聞こえてくるようになった。耳を塞いでも、無理やり押し寄せる罵詈雑言。それを語る当人は何食わぬ顔で接していたため、ストレスとなった。そして昼休みに嘔吐し貧血で倒れてしまった。


2ヶ月、通院した。

どうやら、医療的な観点で見ればハルキは健康らしい。しかし、噂程度の話だが、思春期症候群と呼ばれる症状に似ているというのだ。

時間が経てば自然と声は聞こえなくなるだろう。カウンセラーは気楽にと声をかけたが、時間が経たなくては治らないのだとハルキを苦しめた。

そこで、声を聞き流す訓練をはじめた。言うことと思うことが違うクラスメートたちとは極力関わらず、薄っぺらいつきあいだけをつつける。そんなうちに、人付き合いが希薄になっていった。声の数も、減っていった。


大学生になって、思わぬところで思春期症候群が役立つようになった。自宅から横浜市内のへの通学で、次の駅で下車する人間の声を意識して聞き出すと、必ず座って通学できるようになったのだ。この地味ながらとても便利な能力について、誰にも在学中話さなかった。また人間関係を壊しかねないからである。


就職して、都内まで1時間の通勤となった。それでも、初日から着席の通勤。だから、たいして辛いとも思わない。周りはわざわざハルキを気にするものでもないし、ハルキ自体も通勤電車の着席は慣れによるものだし、思春期症候群が終わってしまえばこのチートも終わるものだとわかっていた。


この日も、周りの声をシャットアウトして着席すると、目の前に立っていた小柄なスーツのOLと目が合う。残念、自分は品川まで降りないと教えたいが、そんなことを言ったら面倒だからと無視を決め込んだ。

翌日は別のドアから乗り込んだが、小柄なOLはやはりハルキの前に立ってこちらと目を合わせてきた。そういえば、この子は鎌倉から乗ってきた気がする。

明くる日。ハルキは鎌倉で横須賀線に乗るときに自分の斜め後ろにその小柄なOLが立っているのに気がついていた。また目の前に立たれても厄介だからと、わざと隣の北鎌倉で座らずに、2つ隣の大船で2人ならんで降りる二人組の前に陣取って、一席はOLに譲ってあげた。偶然なんだから、これで満足だろうと思う。一瞬彼女の心の声を聞いてみると、

『やった、ラッキー!』

とはしゃいでいた。


入社から2ヶ月は経っただろうか。帰りの電車は並行する東海道線の遅れにより横須賀線が大混雑となった。残業でクタクタなハルキは是が非でも座って帰りたいと、いつものように周りの声を聞こうとする。下車駅は、東戸塚、横浜、保土ヶ谷、逗子、鎌倉、武蔵小杉と多岐にわたっている中で、一人だけ隣の西大井という声が聞こえてきた。カーブで揺れる電車の勢いに任せ、サラリーマンの前に移動するハルキ。足場もおぼつかない中で4分後。きちんとサラリーマンは立ち上がり、入れ違いでハルキは座ることができた。さあ、眠って帰ろう。そう思った次の瞬間、

「また座ってる。一体どんな魔法なんだろう」

聞き覚えのある声が目の前からした。心の声でなく生の声。もみくちゃにされた小柄なOLが、悔しそうにこちらを見ていた。しかも、大きな手持ちカバンを網棚に上げることもできず疎まれた目線が集まっている。そういえば座る前に、大きな荷物を持った乗客を押しのけて座れるポジションに来たが、このOLだったかぁ、とため息が出た。こういうのはやりたくないのだが、初めてこちらからOLの方を見た。

「鎌倉まで持ちましょうか?」

返事をくれるよりも前に、10kg以上あるバッグが膝の上に載せられたのだ。

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