甘い蜜はあなたの比喩

河條 てる

甘い蜜はあなたの比喩

 父はとても厳格な人だった。母は何時も父を立てていてあまり自分の意見を言わない人だった。兄は私なんかよりとても優秀で、けれど父とはそりの合わない少し自由な人だった。私はこの家で、存在すら希薄だった。


 だからだろうか。学校では居場所を求めた。兄ほどでは無いが勉強は出来たし、努力もした。スポーツだって恥をかかないように、不得手にも関わらず努力した。どうすれば綺麗になれるのか探求を欠かさなかった。


 気付けば私の周りには沢山の人が居た。嬉しくて堪らなかった。だから一層努力したし、学校が楽しくて仕方なかった。


 小中高と上がって行くにつれて、周りの人間がどんどん増えていくのを感じた。


「あまり、無理しちゃだめだよ」


 そう言った幼馴染もいた。だが、無理なんてしていない。寧ろこれを望んだのだ。この為に努力した。何ら支障はない。

 そう言い返しても、彼はいつものように気の抜けた笑顔でそーかそーかと決まって言うのだった。何の努力も知らない彼が腹立たしかったが、彼の周りにはだいたい同じ奴が2、3人だけ、たむろしていることを知っていた私は心のどこかで嘲っていたのだ。


 高校生2年生の時だった。文化祭の打ち上げ、その二次会。私の周りの中でもよく遊ぶ人達だけで夜中の23時頃まで続いたその会で雰囲気に身を任せた。この時に私は純潔を散らした。


 家に帰るとそれまでは辛うじて超えなかった一線を私が超えた事でとてつもない怒声を浴びた。感情のままに怒鳴る父とさめざめと泣く母を見て、ああ、ここに私の居場所はなかったんだと考えた。


 その後は無事そこそこいい大学の経済学部に入って、サークルでまた人の中心に立った。大学3年でとある先輩と付き合った。かなりのイケメンで、私は人生の幸せを噛み締めていた。


 そんな中だった。私は身ごもった。嘘だと思いたかった。確かに高校生よりはマシだ。でも、自分は学生だし、そんなつもりじゃなかった。感情のまま、大丈夫だろうなんて、安易な事を考えた自分を呪った。


 彼に打ち明けると堕ろせ、そう告げられた。これもまた嘘だと信じたかった。彼は私を愛してくれていると思っていた。きっとこれから頑張っていこうと優しい言葉をかけてくれると信じていた。


「俺だって就活で忙しいんだよ!!ガキなんて無理に決まってンだろ!!」


 そう言って私を突き飛ばした彼は酷く醜くて、子供のようだった。大学に行くと居場所はもうなかった。彼の仕業だ。すぐに気付いた。大方面白可笑しく私の事を伝えたのだろう。


 コンドームに切れ目を入れて妊娠。既成事実で結婚を迫ったメンヘラ女。


 あまりの馬鹿馬鹿しさに涙が出てきた。


 大学は休んで実家に帰った。あれだけ嫌って、居場所がないと感じた実家に私は救いを求めていた。


 事情を話すと父はあの日のように怒号を響かせた。母はまた、父の後ろで泣いていた。嗚呼、やっぱりここに居場所なんてなかった。段々と潤んで行く視界。反対に乾いていく私の心。2つは命を絶つことを勧める点で一致していた。


 その後家を飛び出した私は近くの廃ビルの屋上に駆け上がった。


 大した高さが無いせいで辺りを一望できるでもなく、つまらない私に似合った景色だった。


 柵を越えるのに躊躇はなかった。


 ただ己の愚かさと積み上げてきた物の価値の無さと、この世全てを憎んで死のうとした。


「言ったじゃないか。無理はするなって」


 その声は優しかった。振り返りはしなかった。誰か分かっていたし、決意が揺らいでしまうのが怖かった。


「君はね、頑張り屋さんだから。それでもってとっても甘え下手だからすぐ一人で泣いちゃうんだ」


 やめて。


「別に僕は君が死にたいなら止めないよ。僕はね、その柵の高さを知ってる。その柵の向こうの世界の恐ろしさを知ってる」


 お願い。


「世の中の人は勘違いしてるよね。辛いから自殺するんじゃないんだ。自殺するほど辛いんだ」


 もう…。


「でも今の君を僕は止めなきゃいけない。でないと僕は化けた君に怒られちゃうからね。お腹の子だけでもどうして救ってくれなかったんだって」


「やめてよ!!!知ってる、知ってるよ!!赤ちゃんを殺したくない!!でも親は反対!!相手も逃げた!!仕事にも就いてない!!どうしろってのよ!!!私に!!」


 やめてよ。完璧な私でいさせてよ。誰からも愛される私。こんな私は私じゃない。認めない。

 でも知ってる。私は底抜けに馬鹿で誰からも愛されてなくて。薄っぺらで、噂一つで飛んで行ってしまう小さな小さな存在。つなぎ止めてくれる人なんて誰も居ない。



「ねえ…教えてよ…。私が何を間違えたって言うのよ…」












「え?とりあえずその性格かな」


「は?」


 その言葉に呆然として苛立つのに少し時間が必要だった。彼は割と真面目な顔でこちらを見ていた。


「ははは。うん。怒るよね。知ってた。でもね、こればっかりは君が悪い。嘘だと思うならしっかり目を開いて、耳を傾けて。君の中で君はいつも被害者だ。そこをとやかく言うつもりはないけど」


 彼は微笑んでこちらを見た。


「思ってるより被害者にも味方はいるんだよ。例えば君の前に立つ良い男とかね」


 少しの苛立ちと悔しさと大きな嬉しさの中思い出した。


 こいつまあまあウザくて、底抜けに優しかったんだった。


 ☩


 あの後、家に帰ると事情を聞いた兄が家に帰っていた。父と母は頭を下げた。最初兄が説得したのかと思ったが、兄は何も言っていないと言った。


 初めてちゃんと向き合って家族と話したような気がした。父は意外と冗談を言う人だった。寧ろ母の方が現実的で厳格という印象を受けた。兄はお酒にとても弱くて泣き上戸で、戸惑った。


 家族という言葉の暖かさを初めて知った。


 家族の勧めで大学に戻った。途中、何度も何度も引き返そうとして、その度に彼の言葉が脳裏に浮かび上がった。


 大学に着くとサークルの皆が心配してくれた。声を掛けても心ここに在らずと言った様相で、ずっと心配していたらしかった。声を掛けて貰っていたのに気付かなかったと聞いて自分の被害妄想激しさに身悶えした。父のように死にたくなったと冗談抜かしたい気分だった。


 もちろん、噂を信じて冷罵される事もあった。嘲笑される事もあった。でも仲間がいれば怖くない、とかそんな寒いことは言わないけど、誰かさんが褒めてくれたように私の目と耳は都合がいいので、見えないし、聞こえなかった。


 ☩


「おっちゃん!!」


「お兄さんと呼べ、お兄さんと」


「ごめん、今日もお願い」


 いつものように私は頼んだ。彼は困った素振りもなく、任しとけって、と言った。その言葉は誰よりも心強かった。


「仕事、大変なんだ?就活も色々あって苦労したらしいけど、いい所なんだろ?なら頑張れよ。それが俺に対する1番の礼って奴だ」


 そう言うと彼ははにかんだ。最近になってやっと分かったけれど、彼も結構臆病だ。こういう本心を言った後、


「いやー今僕めっちゃいい事言ったわー」


 適当な事言ってはぐらかす。それは決して悪いことでも無い。私は彼の冗談が何時しか好きになっていた。とても心地好く思っていた。そして、その感情に蓋をしていた。



 あまりに烏滸がましい。それくらいの感性はあった。これ以上、彼に何を望むのだ。彼は私の命を救った。世界を変えた。子供を仕事の間見てくれた。給料が厳しい時、新作の味見だとか言って実家でやってるお店の料理を持たせてくれた。そんな彼にどうして自分と、自分を捨てた男との子と添い遂げてほしいなど言えるだろうか。

 彼を私の自分勝手に巻き込む訳にはいかなかった。これ以上迷惑はかけられなかった。



 ☩


「―――とか思ってたら流石に僕も怒るからね」


「だって…」


「あのね。その気が無い相手の子供を両親差し押して預かってると思う?」


「…」


「大体さ。迷惑かけたと思うなら寧ろ僕の願いを聞くべきでしょ。ていうか、迷惑云々言ってるってことはやぶさかでないってことだよね」


「………まあ」


「うわっ、声ちっさ!!何時もの自信はどこ行ったのさ」


「だって……」


「もうさ、もう1回はっきり言うからね」






 ああ、君は、あまりに甘い。


 私が彼なら、すぐに見放してる。

 貴方とは違ってこんな所が、私は愚かで汚い。

 なのに貴方はどうして。



「僕と結婚してくれないかい?」



 そんなにも甘い蜜をたらすのでしょう。

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