昔の女
三津凛
第1話
道の向こうから、女が歩いてくる。ようやく夏の陽も落ちた頃であった。女の顔はよく見えない。
ようやくその輪郭が露わになる頃にわたしは、おや、と立ち止まった。
女は幸子にそっくりであった。
わたしと目が合うと、その女は奇妙に馴れ馴れしい声でわたしを呼んだ。
「大変お懐かしゅうございますね」
わたしは言葉が出ず、まだ立ち止まったままでいた。
「では行きましょうか」
まるで前から硬く約束してあったかのように女は言って、先に立って歩き出す。わたしは見えない糸に釣られるようにしてその後を着いて行った。
古い日本家屋に幸子にそっくりな女は入って行く。わたしも薄暗いその中へと着いて行った。
「お疲れでございましょう」
女はどこか哀しげに言ってわたしを座らせる。そして台所へ束の間消えた。
わたしはその後ろ姿を盗み見て、やはり幸子にそっくりだと思った。
幸子は若い頃に捨てた昔の女であった。顔と体の綺麗な女であった。それでもわたしは飽きて、幸子を捨てた。その後幸子がどうなったかは知らない。
あれから何十年も経っているのに、幸子には少しも老いたところがなかった。皺のない変に艶やかな肌の光が嘘のようで不気味であった。
他人の空似にしては、声色まで同じでわたしは本当に幸子なのかもしらん、と思った。
幸子のような女は仕込んでいたように夕飯を出し、わたしもまるで夫のようにそれを従順に食べた。
その後で幸子はわたしを布団へ誘った。なにをするかは分かった。
そこでわたしはふと気がついた。
あぁ、幸子にあったのと同じ脇腹にほくろがある。
「おまえの身体はこのほくろに向かって切り開かれる」
わたしは昔を思い出して、呟いた。
「真っ先に上がる北斗七星みたいなものだって、言っていたでしょう」
やっぱりこの女は幸子なのだ。
ようやくわたしは相手の女の瞳とまともに自分を合わせた気がした。
あぁ、そうだ。
あの時にむらむらとその気を起こした。そうして、子どもができた。いらなかった、うっとうしかった。
わたしは皺の寄った、使い古された札を何枚かだけ置いて逃げたのだ。
「大変お懐かしゅうございますね、あなた」
幸子の身体は蛇のように絡みつく。女の身体の最奥から、わたしめがけて獣が喰らいついてくる。
目が覚めて隣を見ると、誰もいなかった。なんの音も、匂いもしない。
腹も減っていた。布団が妙に冷たく湿っているように感じる。
全ては嘘のように思えた。
あの女は、いったい誰だったのだろう。本当に幸子だったのだろうか。
わたしはそうっと抜け出して、長い廊下を素足で歩いた。木目の軋む音すら恐ろしい。
玄関が見えてきた。わたしは急に人の気配を感じて振り返ろうとした。
その途端にいきなり女が後ろから首筋にかじりついてくる。
「この嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」
わたしは固まって、女の声の響くのをただ聞いていた。それからまた急に人の気配の消えたのを感じた。微かに震えながら振り返ると、背後はなんにもない、虚ろだった。
ただずっと、長い廊下と灯りの届かないほのかな闇が向こう側まで続いているだけである。
あたりは静かになっている。
月の明かりも、虫の音もなかった。
まだ女はどこかにいるような気がする。
ここにいてはいけない気がする。
でも身体が動かない。わたしは首を後ろにやったまま前を向けなかった。
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき。
廊下の闇の向こうから、静かに誰かがやってくる。
木目の軋みが大きくなって、次第に足音はこちらに向かってくるようだった。
わたしの身体はまだ、動かない。
ぼうっと、薄闇の向こうから浮かんだ淡く白い輪郭にわたしは呟いた。
「幸子」
おまえは死んだのかい。
そう言わないうちに、舌が落ちた。
身体は動かない。わたしは血の洪水に喉を詰まらせながらも立ち尽くしていた。
次第に女は、幸子は近づいてくる。
今度こそ、逃げられない。
身体は薄闇に溶けてあまり見えない。白い輪郭だけが浮かんで迫ってくる。
だが鼻の先まで迫ってきた巨大な顔は、知らない女の顔だった。
幸子とは似ても似つかない、見覚えのない女の顔だった。
ただわたしは、ここからは逃げられそうもなかった。
昔の女 三津凛 @mitsurin12
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