第1話「食試処」その2
「くだらないな」
一瞬、本当に世界が停まったのかと感じた。その言葉の意味を
ゆっくりと息を吸う。小乃浦をこの事務所まで連れてきた和服の女性、先程簡素な自己紹介で
無意識に跳ね上がった自身の心音がうるさかったが、それを無理矢理に抑え込んで、小乃浦はテーブルを挟んで座る男を
「何ですって?」
聞き返す意味があるかは定かではない。しかし、もし聞き間違いであれば笑って済ませればいい。小乃浦は声を荒げ確認の問いを言い放つと、コーヒーカップに手を伸ばしてその黒々しい液体を喉に流し込んだ。
「いやいや、小乃浦さん、なかなかの熱弁でしたけど、本当にくだらない話だったよ」
『くだらない』とは何を意味する言葉なのだろうか。そう自身に問いかけ、ゆっくりと
目の前の男、成生悠一と名乗ったこの男は、小乃浦正志がが説明した店の窮状を、それにどれだけ苦心して対応してきたのか、その小乃浦の努力を価値がないと吐き捨てたのだ。
「お前に何がわかる!」
小乃浦は手にしていたマグカップをテーブルにたたき付けた。幸いに割れなかったのはカップが来客用に似合わず金属製であったためだが、褐色の液体がテーブルに飛散した。当の本人はそれに構わず
「あんたがコンサルティングすれば、儲かりますよってか! さっきからあんたの態度はなんだ! 人をおちょくっているのか!」
とまくし立てる。そんな荒い言葉は小乃浦正志も使いたくない。温厚とまではいかないが、料理人として真面目に修行を重ねてきた小乃浦にとって、そんな荒らい言葉を人に向けて放つなど滅多にないことだった。それほどに、目の前の男が放った言葉は小乃浦の琴線に触れるものであった。
「まぁまぁ。小乃浦さん。成生さんが横柄な態度は生まれつきやさかい。堪忍したってください」
小乃浦の怒りを少しでも紛らわせようとしたのか、天野部珠洲は必要以上にゆっくりとした口調だった。そして睨むように、成生に目配せをした。もっと言葉を選べ、というアイコンタクトなのだろう。当の成生悠一は気にも留めている様子もなく、ろくな反応はなかった。
成生悠二から話を聞くと言われ、小乃浦は乗り気はしなかったものの、折角にタクシーまで使って訪れた場所であったので話ぐらいならと、自身のイタリアンレストランの説明をした。それでも初対面の相手に何から何までひけらかすのは気が引けた。店名を伏せたり、店の立地を明言せずに、どんな店なのか、客入りはどれくらいなのかを簡素に述べただけだ。
そんな状況で『くだらない』と言われる筋合いはないと、小乃浦は声を荒げた。決して頭に血が昇って、ついカッとなってやったのではない。暴言を吐かれて憤りを覚える資格があると思える程度には、小乃浦正志は
「あー、はいはい。まぁ確かにあんたからしたら、気に入らない言葉だったかもしれないな。でも、ま、別に言い掛かりのつもりはないさ。それなりに『把握』はしたってことさ、あんたの話は実に的確だったよ」
「たったこれだけの説明で何わかった気になってんだ!」
店名や立地すら伏せて概要を説明しただけなのに、わかるわけがない。飲食店の経営というのはそんなに単純ではないとオーナーシェフとして大成していない小乃浦正志にだってわかる。味が悪くない店が潰れることなんて珍しくともなんともない。それがまさか自身の構えたレストランで起こるなんて想定はしていなかったが。
とはいえ、小乃浦正志にだってわかる。立地、資金繰り、ライバル店との距離。口コミの有無、様々な要因が重なって飲食店の経営状態は左右されるのだ。そう単純な話であるはずがない。
「そうかい? それなりに説明してもらったと思うけどね。まぁ、飲食業界も狭いからね。ごたごた説明してもらわなくても大体は察せるさ。
「は?」
聞き違いではない。ハッキリと瞭然と、自身を否定された。自分の料理人としての人生の否定と同然だ。小乃浦正志は自分の努力が無駄だったと言われれれば、結果論として店が流行らなかったからには受け入れるしかないと考えていた。しかし違う。自称料理コンサルタントと名乗る成生悠一は、小乃浦正志の努力が足りないと言ったのだ。
成生悠一にわかるはずがない。小乃浦正志がどれだけ人生を賭して料理人として生きているかを、毎日毎日小麦粉に向かい、納得のいくパスタに仕上がるまで切磋琢磨してきた修行の日々を。その自負、その一心が小乃浦の心を震え揺るがす。
小乃浦正志がこの夜得た結論は一つ。成生悠一と名乗る人物は信用に足らない。この人物と話をするだけ時間の無駄であると。
「帰る」
簡潔にそれだけ言うと、小乃浦は足早に事務所を出て行った。その心中に最早怒りはなかった。軽蔑にも似た冷たい感情だけが心を占め、その足取りに迷いはない。乱暴に扉を閉めて退出する音だけが事務所内に響いた。
残された二人からは彼を引き留める言葉はなく、事務所には、先程から音声を小さくして流され続けていたテレビの報道番組の音が僅かに聞こえていた。
「……」
「珠洲、あんまり睨むなよ。あまり目元をつり上げると歳を取ってから皺になるぞ」
「軽口を聞いても誤魔化されへんよ。成生さん、ええんですか? 依頼人になるかもしれん人やったんちゃいます? わざわざ怒らせる言い方せんでもよかったんちゃいますか?」
「自ら望まない相手をコンサルトなんて出来やしないさ。聞く耳持たない相手は放っておくしかないと判断したまで」
そう言い放つ成生悠一は、さっきの対応でまったく問題がないという態度で、応接スペースから事務机に戻り、早速にPC作業を始めてしまった。
「そんなんやから、いつも恵子さんに怒られるんですよ。『あの馬鹿弟は客商売をわかってない。いつまで料理人のつもりだ』って」
「俺は料理人だよ。今も昔も。引退した覚えはない」
「それは知っとりますけど、コンサル業もしてはるんやったら、客を掴む努力もされたらどうです?」
「今の小乃浦を、言葉巧みに騙してコンサルティングするってか? それこそ意味ないね。態度を見ればわかるだろ? まず、アイツは今までの自分の方針が悪いなんて欠片も思っていない、その自覚がないから人に助けを請うって考えが全く無いって見え見えだったろ? あれは珠洲は助けを求められて連れてきたんじゃないだろ? 助けすら求められてない強情さ、それを捨てられない限り、人のコンサルタントを受け入れる土壌がないんだよ。どれだけ改善案を提示してもそれを実践するのは本人なんだよ。本人のやる気。本人の努力がないと」
「それはまぁ、そうなんやろうけど……」
「なんだ。納得してない顔だな」
「なかなか面白い案件と思うて連れて来たんですけど」
「面白い……ね。天野部珠洲らしい言い方だが、人前ではよしなさい。仕事は見せ物じゃないって、君に言っても仕方がないか……」
珠洲は、成生の独り言にもとれる言葉を聞き流すと、自分で入れたもう冷め切ったコーヒーを啜った。砂糖を入れていたはずだが、さすがに苦みが勝って彼女の舌に絡み付いた。
「なら一度店に行ってくるか」
「店? あの人のお店ですか?」
成生の突然の提案に、天野部珠洲の声が色めきたった。それまでつまらさそうに表情を固めていた珠洲であったが、そういう成生の動きを待っていたかのように彼女は頬を緩め、えくぼが浮かんだ。
「ああ、彼は大層、自分のパスタに自信があるようだったからな。それを堪能してくればいい」
「でも、あのコノウラさん、店名とか言わんと帰りはりましたよ。コノウラって苗字だけで検索とかできるんですか?」
小乃浦正志と成生悠一の会話は、彼女ももちろん横で聞いていた。しかし、小乃浦が怒って出て行ったのは当然と思えるほどに成生が話を切ったので、詳細な情報は聞けていなかった。
「探す必要はないさ。『把握』しているよ。そもそもの話、オーナーシェフが新しく店を出したばかりのイタリアンレストラン自体、そんなに数がないからな」
「え? そうなんですか?」
「意外か? 難波や梅田ならともかく、普通の市街地にイタリアンレストランなんてほとんどないだろう? 関西圏でチェーン店を除けば、条件に合う店なんて数えるほどしかないんだよ。さっき言ったろ。飲食業界は狭いって。こちとらメジャーチェーン店の出店すらチェックしているんだ。新鋭の店なら尚更さ。コンサル事務所の情報量は甘く見てもらっちゃ困るね、君」
何やら鼻高々な自慢に聞こえる言い口であったものだから、成生の性格を知っている珠洲ですら顔を歪め、冷たい視線を返す。
「ま、それはともかくだ、彼の店の場所はわっている。そうだな、ランチがいい、それも土曜の。おそらくああいう輩のランチは特徴が如実に表れてるんじゃないかな」
「はあ」
わかっていると豪語する成生悠一に、珠洲はわざと聞き返しはしなかった。天野部珠洲は知っているのだ。彼が知ったかぶりや確度の低い予想で話を進める人物でないことを。
成生悠一の料理に関する知識と判断は、天野部珠洲が知る誰よりも信頼に値する。だからこそ、こうして社員でもないのに事務所に出入りして付きまとっているのだから。
「けど。やっぱり、面白いことになりそうやないですか」
その嫌みったらしい珠洲の言葉に、今度は成生悠一が眉を顰めるのだった。。
フレーバーテイスト 柳よしのり @yanagiyosinori
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