第1話「食試処」その1

  第1話「食試処」

   *

 ガラス越しに夜景が流れていく。黒々しい夜の世界の中で色とりどりの光が浮かんでは消える。タクシーの窓に映り込む景色はガラスに付いた水滴が街明かりをぼやかせて、キラキラと光の粒となって輝いていた。

 目に写る街の光はまったく現実感がなく、逆に手を伸ばせば届くのではないかさえ思う。小乃浦正志には、きを放つ街灯が融けたばかりの飴細工に見えて独り苦笑した。

「結局は料理かよ」

 タクシーの社内そう呟いた彼に、運転手も同乗者も聞こえなかったのか何も返さなかった。

 なにわ橋駅から黒塗りのタクシーを拾い、揺られること数分。後部座席で和服の女性と並び座っていた小乃浦正志は、過ぎ去る信号機の明かりを目で追っていた。その間、小乃浦の女性の間に会話はなく、先程の呟きも車の走行音にかき消されて重たい空気に包まれていた。逆に、雨天特有のタイヤが水を跳ねる音が社内に妙に響き、耳にこびりついてた。

 どうしてこうなったのだろう? という疑問は当然のように小乃浦正志の脳裏を駆け巡っていた。チラリと視線をやって後部座席の横に座る和服の女性の様子を窺って見るが、彼女は背筋の伸びた凜とした佇まいのまま目を伏せていた。

 確かに誘われたからタクシーに同乗したのは小乃浦の意思ではあったが、事前の説明は何もなく、「兎に角、一緒に行きましょか」という女性の言葉押し切られ、タクシーに飛び乗ったのだった。

 和服の女性の余りに自信に溢れた誘いの言葉に押し切られた形であるが、彼の心中では、なぜ? どうして? 何が? どうするんだ? と疑問符ばかりが飛び交って、正常な判断を阻害していた。

 説明をしてくれなければ付いて行かない、と突っぱねればよかったのかもしれないし、今からでも詳しい話を和服の女性に求めればいいのだが、なぜかしら何の躊躇も見せない女性の立ち居振る舞いが、小乃浦に踏ん切りを付かせなかった。

 また信号機を超えた。小乃浦がさりげなく確かめていたタクシーの道程は御堂筋を下って行ったところまでは追えていたが、いくつか細い通りを曲がり、一方通行を迂回するために大回りしたところで、正確な場所までは判断つかなくなっていた。それでも梅田からはそう遠くない、大阪環状線の内側であることは確かだった。小乃浦も大阪で暮らして長い。その土地勘から船場せんばの周辺から東に幾本か入った区画であることだけはわかった。

「あ、その角で止めてください」

 和服の女性は目を伏せていたのに、外の様子はしっかりと把握していたのだろう。その声にタクシー運転手はウィンカーを出して車を寄せた。

 手早く千代田袋から取り出されてたICカードで支払いを済ませた和服の女性は、一瞬、小乃浦に目配せしたかと思うと、さっさと車を降りてしまう。スムーズなキャッシュレス決済が和服姿とは不釣り合いにも思えたが、確かに和服で小銭をじゃらじゃらと持ち歩くのも煩わしいのであろう。そこは見た目通りの若々しい発想に感じた。

 そんな和服の女性に言われるがまま付いて来てしまった小乃浦は、今更ながらその女性の後を追って良いものかと、遅まきながらの躊躇ためらいを覚えた。だが既にタクシーの支払いは終わり、運転手が小乃浦が降りるのを無言の圧力で待っていた。仕方がない。その一言に尽き、小乃浦も降車するしかなかった。

 重たい衝撃音と共に勢いよくタクシーの扉が閉まる。その音が辺りに響くほどに、妙に静かに感じる路地だった。

 タクシーが停まっていたのは、大阪市内にしては閑散とした空気が漂う薄暗い暗い通りであった。左右に雑居ビルやマンションが建ち並ぶ様は、さすがに大阪の市内という街並みではあったが、なぜかしら人の気配が薄い。それは夜も更け始めた時間帯ということを考慮しても幾分寂しいものだった。繁華街はそれほど遠くないはずなのに通りを行き交う人影は見あたらず、外灯が静かにコンクリートとアスファルトを照らして、人工灯の光が水溜まりに反射していた。その水面は静かで、空から降りしきる雨はいつの間にか無視できる程度まで弱まっていた。

 小乃浦が先にタクシーを降りた女性の姿を探すと、小柄な和服の後ろ姿は、とある雑居ビルの入り口に消えようとしていた。小乃浦は慌ててそれを追う。

 そこは古めかしいコンクリート地剥き出しの雑居ビルだった。通りに面した地上階は錆止めを塗り直した不格好なシャッターが降りていて、テナントが入っているのかすら疑わしい。外装を見るに明らかに築数十年が経っているようで、あちこちに傷みが目立つ。その年輪を重ねたような建屋が醸し出す空気は、「レトロな」といえば聞こえが良いが昭和臭漂うもので、だからこそ和服の女性の立ち姿と相まって、映画のワンシーンにも思える風情があった。

 気圧された、と表現するのは少々大袈裟であったが、小乃浦は自然と唾を飲み込み、棒立ちになっていた。

「そこが目的地ですか? そこに行けば私の店の問題が解決するんですか?」

 思わず聞いた。オーナーシェフである小乃浦正志の経営するイタリアンレストランの客入りが悪い。それに悩んで酒に溺れていた小乃浦は、そう聞かされて和服の女性に付いてきたのだ。

 小乃浦は改めて目の前の雑居ビルを見上げた。建築当初はモダンビルディングと呼ばれたかもしれないが今では壁やら床やらには細かいヒビが走っていて、いつ再開発で取り壊されても不思議ではない。そんな印象を受けるビルに何があって小乃浦の悩みが解決するというのだろうか。一抹どころではない不安が膨れて行く小乃浦は、もう一度女性に声をかけようとした。その発声が喉から出るよりも先に、女性はビルの中へと消えた。

 慌てて女性を追う小乃浦。ビルの狭いエントランスに足を踏み入れると、初夏の空気が緩み、ひんやりとした空気が漂っていた。壁際に目をやれば、申し訳程度に付いている郵便受けがあったが、その錆の混じった金属地の箱には部屋番号以外の銘板もなく、二○一から四○四との数字だけが読み取れた。やはり真っ当にテナントが入っていないらしい。そのエントランスを照らす電灯もしばらく交換されていないのかチカチカと点滅して仄暗く、小乃浦の不安はさらに高まって頬を歪ませた。

「さあ、こちらです。足元に気ぃつけてください」

 和服の女性が注意を促す。わざと小乃浦の問いに答えていない印象を受ける。そして戸惑う小乃浦に構わず、女性は細く急なコンクリート階段を上がっていく。和服に草履では階段は昇りづらいように思えたが、慣れているのだろう、裾を乱さずにリズミカルな動きだった。

 やはり目的の場所は上階にあるらしい。小乃浦も後に付いて階段を上がるが、まだ酒が残っているのかその足取りは覚束ないものであった。

 結局このビルに何があるというのだろう。目的地を聞かずに女性に付いて来たのが普通に考えればおかしいと指摘されても仕方がないのだが、中之島の公園で女性に声をかけられて以来、どうにも予想外のことが立て続けに起こって、酒の入った小乃浦の思考では処理しきれるものではなかった。

「ええい、クソ! なんだってんだ」

 もう半分は諦めの気持ちが入っていた小乃浦も、一段一段力を込めて階段を上っていった。

 戸惑い、疑念、不安。様々な感情が小乃浦の心中を占めていた。なのに、死刑台への十三階段というわけでもないが、段を昇るにつれ、小乃浦は不思議な全く別の心地を覚えていた。

 この日、彼はやけ酒に溺れて酷く酔い潰れていたはずだった。いや、本当のことを言えば、自ら酔い潰れようとしていた。店の客入りがどうしても伸ばせない。もうすぐ運転資金も底をつく。もうどうにでもなれ、そんなやけくそな思いで自分を痛めつけようとしていたのだ。

 それなのに、今は誰ともしれない女性の後を追って、何があるかもわからぬビルに入っていく。どこに向かっているのだろう、と好奇心が湧くような真っ当な精神状態でもない。なのに不思議と女を無視して帰ってしまおうという気にもなれない。いや、単に酒で頭が回っていなかっただけと言われればそれまでなのだが。

 小乃浦が急な階段を昇りきると、和服の女性が扉の前で待っていた。最近塗装が塗り直されたのか、妙に光沢のある黒々とした金属の扉。このビルが建った頃からの代物なのだろうか、普段から使う扉にしては仰々しく重苦しい。小乃浦が追いついたのを見て、和服の女性はドアノブに手をかけた。先に鍵を開けた後だったのか、意外にすんなり、それでも軋んだ音を立てて扉は開いた。

 すっと風が抜けたようだった。扉の隙間から漏れ出る空気が小乃浦の頬を撫でる。ビルに入った時に感じた冷気とはまた違う、明確に空調の効いた爽やかな空気であった。

 扉の向こうには更に細い廊下が続いていた。階段を照らしていた薄暗い照明とは異なる人工的で無機質な白い明かりが廊下の奥から漏れていた。

 カチャリ、カチャリ、と小乃浦の前を行く女性の草履ぞうりが鳴る。

「こんばんわぁ。まだお仕事ですかぁ?」

 奥に見える灯りに向けて、和服の女が声をかけた。小乃浦に話しかけている時は標準語に近い言葉使いに思えたが、その言葉は京訛りにも思える独特のイントネーションが妙な旋律を感じさせるものであった。

 その挨拶に応えは返って来なかったが、和服の女は気にも留めずに奥に進む。後を追う小乃浦は知らぬ場所に来た気後れからか足が重かった。女はそれを「ささ、どうぞ奥に」と促した。

 灯りに向かって廊下を進めば、そこは殺風景な事務所であった。

 リノリウム張りの床に、吹き付けの天井からは電灯が垂れ下がっている。元々のビルの構造か、その天井は妙に高くてがらんどうとした印象を受けた。

 室内にあるものといえば、4つ並らびに島を作った事務所机と、壁面に据えられた本棚であった。その本棚に置かれているのは既成の書籍ではなく事務書類のファイリングがされているようであった。そして部屋の奥と手前をパーティションが隔てており、窓際には小さなテーブルを囲んでソファが並んでいた。どうやらそこは申し訳程度の応接スペースらしい。

 一見して事務所とわかる一室、目を引くものと言えば、応接スペースから見えるように設置されている壁掛けのテレビだ。音声は下げられ僅かにしか聞こえないが、誰も見ていないのに夜の報道番組が写っていた。

 その番組が放送されているのは二十二時台。さっきまで酒に酔ってぶらついていた小乃浦は、やっとにして今現在の時間帯を把握した。まだ終電には早いが、油断していると帰る電車がなくなるような際どい時間帯であった。番組が写っているのにその画面を視ている者はいない。電源を入れて垂れ流すだけ。室内にいる唯一の人間は事務机に座り、黙々とノートPCに向かって何やらタイピングをしていた。

 そう、和服の女が小乃浦正志を連れてきた事務所の中に一人の男がいた。先程、女性が声をかけた対象の相手であろうし、おそらくはこの男性と小乃浦を引き合わせるのが女の目的なのだろう。

 一体何者なのか、小乃浦は少し身構えて男を見据えた。

「やっぱり仕事しはってたんですね。たまには早よ帰りはったらどないですか」

 和服の女性がかけた言葉にノートPCに向かっている男は直ぐには反応しなかった。まるで無視するかの如く一心不乱にキーボードを叩いていた。だが女が黙々と返答を待っているのに気づいていたのか、わざとらしくエンターボタン鳴らして叩き、深い溜息を吐いて仕事の手を止めた。

「何か用か、珠洲すず? こんな時間に来られると後で散々文句言われるのはこっちなんだぞ」

「なんですか、その言い方は。せっかくお客さんを連れてきたのに」

『客?』

 その言葉は事務仕事をしていた男だけでなく小乃浦からも漏れていた。

「こいつが客なのか?」

「客ってなんですか?」

 それぞれ口々に言って、互いの反応に二人の男は揃って眉をひそめた。そうしてまた溜息を、今度は先程に比べても更に深い深い溜息を事務机に座っていた男が吐いた。

「また無理矢理連れてきたのか? 俺はそんなこと頼んだ覚えはないんだがね」

「まぁまぁ、話だけでも聞かせてもらいましょ。あきまへんか? ね、話だけならタダやないですか」

「珠洲、タダよりより怖いものはない、という金言についてどう思っているんだ?」

「え? タダは嬉しいでしょうに。みなさん群がりますよ? タイムセールとか皆さんお好きですやろ。まぁ、ウチは利益率とか客単価とか考えますけどぉ。それにウチの家訓は」

「『正当な労働には正当な報酬を』だろ? それがわかっていながら一銭にもならない客を連れてきてどうする」

 事務所にいた男と和服の女生徒のやりとりを黙って見守っていた小乃浦も、思わず怒気を漂わせて声を上げる。

「だから客ってなんですか? ここは何かの店なのですか? あと一銭にもならないって?」

 そうしてやっと事務机に座っていた男が立ち上がり、小乃浦達の方にやってきた。

 改めて小乃浦がその男の顔を見ると、随分と若い印象を受けた。小乃浦も店を持つオーナーシェフの身としてはかなり若い方であるとの自覚はあるが、その男も四十代ということはないだろう。歳の頃三十後半といったところ。頭は色素の薄い髪がボサボサで余り衛生的には見えないが、すらりと伸びた手足と整った背筋が妙に威圧感を出していた。しかしながら顔立ちは悪くない、というか平均的というか差して特徴はなく、どこのオフィスにでも居そうなサラリーマンと言われれば納得がいく。しかしだ、小乃浦の目を引いたのは男の服装、事務所に見える一室であれば会社員の制服たるYシャツが当然とも思えるが、男が来ていたのは紺のコックコートであったことだ。つまりは、目の前の男は小乃浦の同業者、料理人であることを示していた。

「はぁ、珠洲に何を言われて付いてきたのかは知らないが、ここは飲食のコンサル業を生業としている事務所だよ。あんた飲食店の経営者か何かかい?」

「……そういうことか。客引きに引っかかったってわけかい」

「あんたの立場ならそういう言葉が出るのは当然だろうが、うちは決して客引きをするような商売はしていない。それなりに顧客は付いている商売でね。珠洲が君に声をかけたのなら純然なるって奴だ。……だから余計に質が悪いだがね」

「何がですかぁ、質が悪いって。私はいっつも成生さんのお仕事のためを思うて」

「あ~はいはい。珠洲、コーヒーでも淹れてくれ。後はこっちで話をするから」

 あからさまなやっかい払いだったが、意外にも和服の女性は素直に従い事務所の奥の扉に消えていった。その奥は給湯室なのであろう。

「ま、なんだ。コーヒーぐらい出すから座ったらどうだ。別に今ここでコーヒー代をふんだくるようなマネはしないさ。一応、うちの商売上、味には拘る方でね。それなりの豆を使ったドリップさ。まぁ、おたくも酒が入っているようなんで、強制はしないがな。医者ならアルコールとカフェインは同時に摂るのはやめろ、って言うところだろうが俺は知らん」

「あんたの客になったら、後から目ん玉が飛び出るような請求が来るのかい?」

「ぼったくりのキャバじゃあるまいし。うちは真っ当なコンサル業だよ。成果報酬ってことにしているから、話をするだけでは料金は発生しない。その点も珠洲の言う通り、タダって言い方は間違っていない」

 言っている内容はともかく、その言い口は軽薄で、とても客商売をする人間の態度ではなかった。それはそのまま小乃浦を客とは思っていないという意識の表れなんだろう。

「どうやら本当に何の説明もなく連れて来られたようだな? 珠洲もたいがいにして欲しいもんだ」

 勧められて座るでもなし、棒立ちで押し黙る小乃浦の態度を見て、事情を全く把握していないと判断したのだろう。男は何度目になるか大きな溜息を吐いた。

「OK、OK。俺も鬼でも何でもない。まずは状況の確認をしよう。珠洲は俺が言うのもなんだが見た目は良いが、そのクセいつも突拍子もないことをしでかす奴だ。顔立ちが整っているからって鼻の下を伸ばしてたら碌なことがないからな。あんたも女には気をつけることだ。ただ、あいつはあいつなりに人助けのつもりであんたを連れてきたんだろう。だからあんたも色々と思うところはあるだろうが、ひとまずは、まぁ座りなよ。あんたみたいないい大人が門限を気にするわけでもないだろ?」

 なんとも言えない居心地の悪さは拭いきれないが、このまま踵を返すのは、今コーヒーを淹れているだろう珠洲と呼ばれている女性に悪い気がしたのかもしれない。小乃浦は仏頂面のまま、応接スペースのソファーに腰掛けた。

「さて、話をしよう。いや、なんだ、そんなに気構えないでほしい。料理は単純だ。『』 な、そうだろ? 兄弟Caro Cuoco

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