3 密室にひと束


 

 千歌が幼い頃のやり取りを思い出す。

 季節は夏で、親戚一同が祖父の家に集まっていた。僕は十一歳で、千歌は五歳だった。人をくすぐってじゃれ合う事を憶えた千歌は、僕に合うと必ず脇腹の辺りをくすぐってきた。その日も一時間くらい転げまわって笑い合ったあと、晩御飯に呼ばれて二人でごちそうが並ぶ和室へ走って行った。お刺身の舟盛りを見て二人で歓声を上げて、それが偶然ハモったのを憶えている。これ美味しいね、何の魚だろうねと言い合って、僕らは夢中で食べた。僕には兄弟がいなかったから、小さな従妹である千歌が可愛くて仕方なかった。それから十五年経った。僕は疲れ果てた退屈な社会人となり、千歌はアル中の精神疾患持ちになった。


 ソファの上で目覚めるとすでにリビングは暗がりの中にあった。夏からつけっぱなしの空調がひどく冷えた。

 冷蔵庫の食パンをレンジで十秒だけ温めて夕食を済ませていると、電話に着信があった。伏せたまま震えるスマートフォンを見ながら、美味しくもない食パンを口に運ぶ。食欲はなく、とても全て食べられそうにない。二十回までバイブが繰り返されて、やがて止まった。伏せていた画面をこちらに向ける。発信元は彼女だった。古くなった魚肉ソーセージを噛みながら、折り返し発進のアイコンの前で親指を浮かせるところまではいった。二十分近く画面を睨んだのち、ホームボタンを連打して放りだした。


 翌日の朝、電話の振動で目が覚める。僕はすぐに電話に手を伸ばし、応答した。

「もしもし」僕は言い、うまく声が出ない気がして咳払いをした。「もしもし」

相手は何も言わない。画面を改めてみると、掛けてきた相手は彼女ではなく、大家だった。「ほら、きちんと言いなさい。警察呼ぶわよ」と遠くで大家らしきの声が聞こえてきた。受話器のすぐ向こうで、んんん、と喉を鳴らす音がする。千歌だろうと察しがついた。

「朝早くからどうした」僕が言った。

「部屋を追い出されるから、迎えに来て」千歌が言った。

 千歌の声は無機質で義務的だった。中学校の社会の教科書読みを当てられた不良生徒みたいだった。

 何時に、どこでとちゃんと言いなさい、と再び大家らしき声。

「今日、私の家に」

 今日の今日で本当にこれるの?と大家らしき声は叱責する。

「どうして俺なんだ、叔母さんはどうした」

 千歌は電話の向こうではっきりとした深い溜息を吐いた。

「やっぱり迎えに来なくていい。行方をくらまして、見つからないようにする。それでいいんでしょ」

 電話はそれで切れてしまった。





 父と叔母さんの手前、迎えに行かない訳にはいかなかった。車で千歌のアパートへ向かう。車は中古で買った紺色をしたホンダの小型ミニバンだ。彼女と結婚することを視野に入れて、半年前に一括で買った。小さな車だが、一人で乗るには広すぎる。そう遠くないうちに下取りへ出して原付二輪にでも買い換える事になるかもしれない。


 良く晴れて空気の澄んだ朝だった。千歌は大家の小屋の前で、電話と財布だけ持って座っていた。幾分離れた位置で、白髪の大家は腕を組んで立っていた。

「一度病院で見てもらってください。叫んだり腐らせたり、たまったもんじゃないですよ。他の住人に迷惑が掛かりますから。それから、家賃。三か月分延滞しているんですが、払ってもらえるんでしょうね。お母様にそう伝えてくれませんか」

 大家の言い回しは気に障ったけれど、言い分は全て正論だった。僕はコンビニへ行ってすぐに金を降ろし、延滞分の家賃を建て替えて素直に詫びた。

「荷物はしばらく部屋に置いていてもいいですから、三カ月で退出して下さらない?それから、きっちりとハウスクリーニングもお願いしますね。見たところあなたはまともそうだから、きちんとやって下さるとは思うけど」

 大家は語気を弱めて溜息をついた。僕も気付かれない様に溜息を漏らした。


 千歌は小屋の扉の横でうずくまっていた。Tシャツにハーフパンツにサンダル。近所のコンビニにでも行くみたいだ。僕は横に立って千歌のつむじに向かった話しかけた。

「なぁ、家を出るんだったら、もう少し荷物を揃えたらどうだろう。着替えとか、歯ブラシとか化粧ポーチとか」

「どうでもいい、頭が痛い」ひどく不機嫌な言いぐさだった。

 僕はコンビニで段ボールの余りを幾つかもらい、大家に合い鍵を借りて、千歌の部屋に入った。

 一昨日整えた部屋は、局地的な竜巻が通ったかのように荒らされていた。足元で繊維質な何かを踏んづけたので急いで足をどけると、そこには一束の黒い髪の毛が落ちていた。若い女性の物ではないし、色が黒いので大家の物でもなさそうだ。


 僕は黙々と服や手短な荷物を段ボールに詰めて車に積んだ。

 誰にも何も話さなかった。


10


 作業が終わっても、千歌は小屋の前でうずくまったままだった。

「一応聞くけど、叔母さん宅には連れてかない方が良いんだよね」

 千歌は激しく首を振った。連れてかない方がいい。

「俺のアパートは2LDKで、今は空いてる部屋もある。大人しくしてくれるんなら、一時期は匿ってもいいけれど、それでいいか」

 千歌は縦にも横にも首を振らない。ただ立てた膝に腕を組んで、頭を突っ伏していた。

 そのまま五分が経ち、十分が経った。僕と千歌は小屋の前に並んで座ったまま、意地比べの様にして一言も発しなかった。僕にはまだ六日間も待つ時間がある。千歌にはこの後行く場所すらない。空は抜ける様な晴天だった。光の量は夏の最盛期と変わらないのに、空気の湿り気がまるで違う。こうして何もせず日向ぼっこをするのは、いつ振りだろうか。


 沈黙は三十分近く続いた。

「本当に、何もしてない?」千歌は顔を上げて正面を見た。

「何が?」僕は横目で千歌を見やりつつ、同じく正面を向いた。

「薬を飲ませた時、何にもしてないのって聞いてるの」

「する訳ない。俺はその時彼女と別れたばかりだったんだ。やる気になんてなれないよ」

 千歌はこちらを見て、複雑な表情をした。


 自宅へ向かう車中で、千歌は窓の外を見ながら僕に訊いてきた。

「一生ネジを作ってる人って、本当にいるの」

独り言のように思えたが、それは僕に対する質問だった。

「いる。一生ホースを作る人も、一生スポンジを作る人もいる。あらゆる部品はそうやって作られる」

「それって自分の事なの」

「違う。俺はお客さんから注文を受けて、作らせる側だ。無理難題を突き付けられて、無茶を聞いてもらう。板挟みにあう。色んなものを犠牲にしてモノを作ってお客さんに引き渡し、たくさんのお金をもらう。その分からほんのわずかが、俺の給料になる。それでこういうつまらない車を買う。残業中に倒れて救急車で運ばれて入院費を払う。せっかく溜めた貯金も、彼女と別れての使い道が無くなったりする」

「生きてる意味がないみたい」

「今のところ、全くその通りみたい」

 窓の外を眺めていた千歌が、ほんの少しだけ笑った気がした。



11



 自宅のあるアパートに車に寄せようとしたとき、僕は部屋の窓が開いている事に気付いた。すぐ裏の細い路地で、車中から千歌に自分の部屋の位置(二階の角部屋だ)を指し示そうとして、僕は言葉を途中で止めた。

つい二時間ほど前に部屋を出た時は間違いなく開けていた。クーラーのスイッチを切ってから窓を開けたから良く覚えている。もちろん玄関の鍵も閉めた。誰かがいるとしたら、それは一人しかいない。

 スマートフォンを見る。つい四十分ほど前に彼女から着信があった。ちょうど千歌の荷物を車に詰め込んでいる時で気付かなかったようだ。

 僕は停めかけた車を再び発進させた。

「どうしたの」千歌は訝しげにしている。

「彼女が来ている」

「別れたんじゃなかったの」

「別れたと思ってた。いや、ちゃんとした別れを言いに来たのかもしれない」

「どういう事」千歌は身を乗り出して不安そうに聞いてきた。こういう事は共感できるらしい。

「彼女とはここしばらくうまくいっていなくて、一か月前から無期限で九州の実家に帰ってた。彼女は地元愛も家族愛も強い。祖母は九十近くで、そろそろ介護の手がいる。その上、どうも地元の幼馴染に告白されたらしい」

 千歌はみるみる憐みを持った表情に変わっていった。美人なだけに、そういう表情をされると心底自分がみじめな存在に思えてくる。

「私、邪魔じゃない」千歌はわざとらしく冷たい声を出し、シートベルトを外した。「降りる」

「気を遣わなくていい。会いたくないんだ」

「こちらこそ気を使わなくて結構。彼女、九州から戻ってきたんじゃないの、ちゃんと話をするために」

「だったらしばらくこっちに居るだろう。彼女には色々と誤解があるんだよ。向こうは怒ってるし、俺も怒ってる。今は整理がついていない、こんな状況でまともに話せると思えない」

 僕はアクセルを踏んで、車を見られる前に発進してしまう。千歌は暴れてシフトやハンドルを掴みかかり、一悶着が巻き起こった。

「シートベルトを締めて」僕は言う。

「どこへ連れて行く気なの」千歌は強張った声で言った。

「どこにも行きたくないし、誰にも会いたくない」僕は怒鳴った。

 千歌はじっとこちらを見た。運転をしているので、表情までは分からない。いや、僕は千歌の顔を見ようとしていない。

 千歌は黙ってシートベルトを閉めた。たまらなく情けない気分になってきた。

「千歌ちゃんだってそうだろう」うろたえる様な声で、僕は言った。

 千歌は窓の外に目を背ける。かすかに震えているように見える。ほどなく再び千歌が顔を前に戻した時、千歌はクールな表情に戻っていた。

「千歌ちゃんて」千歌は鼻で笑った。「ちゃん、だって」

 僕は恥ずかしくなって苦笑いをし、ラジオの番組を探ってごまかした。千歌は顔を背けて、物思いにふけるように窓の外を見ている。僕はふと思い当たることがあった。

「もしかしてさ、君、俺の名前思い出せないんじゃないか」僕は訊いた。

「覚えてるよ」千歌は気に障ったように眉間にシワを寄せて、両手を組み合わせてダッシュボードに向けて伸びをした。

 僕は千歌の返事を待った。千歌は長い長い伸びを終えた。

「おさしみの人」千歌は言った。

 僕は千歌の顔を見て笑いかけた。千歌もこらえきれず吹き出して、僕らは互いに目を合わさないまま笑い合った。

「なんだか腹が減ってきたな。お刺身食べに行こうか」と僕は言った。

「ねえ、名前教えてくれないの」と千歌が言った。

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二度と、思い出せなくなる前に hitoiki @hitoiki_

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