2 水と着信
4
警察に営業車の速度超過で捕まって二点しょっ引かれている時、僕は甲高く情けない声で得意先に詫びなくてはいけなかった。眼鏡で背の高い警官は早く電話を切るようせっついてきたし、高架の上を新幹線が通りがかって相手の購買担当とはうまく話しが通じなかった。致命的な納期遅延を取り返すチャンスが失われた。飛行機に乗せれば間に合うが、恐らくこちら側で航空運賃を負担することになるだろう。
会社に戻ると、別件での金型修正費の未払いや補用品の納入漏れが明らかになった。処理に追われたその日の夜の十時過ぎ、五十人分のデスクがあるオフィスで灯っている蛍光灯は三つだけだった。会議資料を印刷しようと席を立ったところで視界が真っ暗になった。景色が傾いていく感覚がし、倒れた時には痛覚がなかった。印刷枚数は九枚、と念じたところで意識は途切れた。
危ない気はしてたんだよ、と病室で父は言った。
「人と目を合わさない、口数が急に減る、白髪が増える。そういうやつはだいたい早晩潰れちまう」
僕は上半身を立てたベッドに上体預けながら、見舞いに来た父と話をした。父はスーツ姿で、若草色の扇子を仰いでいる。腕には高そうなグランドセイコーが巻かれている。
「有休は残ってるか?しばらく療養させてもらえ。会社ってのは急に一人くらい抜けてもなんだかんだ埋め合わせできるもんだ。ゆっくり休んでから、挽回すればいいんだ」
「戻る事を考えるとぞっとする」
「じゃあ考えるな」父は言った。
僕は父の言いつけを守れず、そのまま二日間体調を崩し続けた。病院から部屋に戻り、スマートフォンの電源を入れたのは倒れてから三日経ってからだった。彼女からの連絡の催促は十二件立て続けに来て、最後にはこう書かれていた。
『ちょっと距離を置かせてください。もう無理に返信しなくて大丈夫です。ゆっくり考えたいです。正直に話すと、こっちで幼馴染に告白されています。「どうしても」というなら、直接私と会って話をして下さい』
僕は返信をしなかった。距離を置きたいなら置けばいい。特に、「どうしても」の鍵カッコに腹が立った。事情を話せば向こうは謝るだろうが、許すのも癪だった。
自宅に戻り一度も電気を点けずに二日過ごした。休日明けの三日目の朝、会社に電話を入れた。会社はすでに、僕の休暇を一週間分取得していた。
「このまま辞めずにちゃんと出てこいよ」上司は言った。
また体調が悪くなる気がした。
何日かぶりに歯を磨きながら、特に美しくもないベランダからの景色を見た。室外機と蜘蛛の糸。一週間、と僕は思う。どこにも行きたくないし、誰にも会いたくない。
5
千歌のアパートの大家から連絡があった。僕はすぐにアパートへ車を走らせた。休暇の一日目の事だった。
二度目の菓子折りは受け取ってもらえなかった。次は立ち退きですからね、と大家は冷たく言った。僕は抹茶味のカステラを手に、千歌のアパートの階段を登った。
玄関のドアを開けると、やはり異臭がした。以前とは異なる腐敗臭と、同じような排泄物の匂い。前回は叔母に連絡して引き継いだけれど、その後どうなったかは知らない。大家は自分へ連絡してきたのだ。大方、叔母の対応が悪いのだろうと予想はついた。
千歌は同じようにキッチンと冷蔵庫の角でうずくまっていた。アルコールが日本酒から焼酎の1Lの紙パックに代わっている分だけ、タチが悪かった。それにしても吐き気がする。コバエが飛び回って腹立たしい。
コンビニでゴミ袋の束とコバエホイホイと殺虫剤、牛乳石鹸や日持ちする食料の諸々を買って部屋に戻った。玄関に入る前にマスクをする。
取り急ぎキッチンの上の腐敗した生肉や叔母が作ったであろう煮物の成れの果てをゴミ袋に突っ込む。防臭剤の封を切ってビーズを丸ごと袋にぶちまけてから、袋を三重にして口を閉じた。部屋の中はコンビニ弁当の空き容器や食べ残しの菓子パン(見たことのない黴が生えている)や訳の分からない雑誌や郵便物が散乱していた。あらゆる料金の督促状、近所にある公立大学のガイダンス冊子、それから精神疾患の新書本。時折部屋の外に出て新鮮な空気を補給しながら、ありとあらゆるゴミを捨てた。掃除機を押し入れから引っ張り出してコンセントに挿したが、電気は停められていた。試しにキッチンの蛇口をひねってみたところ、こちらは無事に蛇口から水がでた。そのあいだ、千歌は時折アルコールのストローを口にするほかは何の反応もしなかった。
僕は新しいスリッパを履いて千歌に近付き、白い錠剤を三粒と経口補水液のボトルを差し出した。
「すごく効く睡眠薬だ。嫌な事全部忘れられる。ちょっと危険な薬だけど、噛み砕いてこの液体で飲めば一発だ」
千歌は手を伸ばさなかった。ただただ虚ろな目で錠剤を見ている。口元に持っていくとかすかに口を開いたので、中に放り込むことにした。奥歯で、がり、と砕く音がする。ストローを経口補水液に差し替えて口元にあてがった。顔のつくりは美人なんだが、と僕は思う。
千歌は経口補水液を半分くらい休みなく飲み、涙を浮かべた。それから勢いの弱い嘔吐をした。ひどい悪臭がする。千歌はそのままうなだれて動かなくなった。
僕は千歌が顔を上げない事を確認してから、ポケットから乗り物用の酔い止めの紙箱を取り出す。パッケージには新幹線をバックに子供と両親が楽しそうに手を繋いでいるイラストが描かれている。被害妄想の強い女で良かった。
6
部屋中のゴミを拾い、キッチンのシンクを白いスポンジで磨きあげている間、僕は恋人の事を思い出した。彼女は同棲している間、一度も掃除をしてくれなかった。料理は彼女の、掃除は僕の分担というのがいつの間にか決まりごとになっていた。親切心から手伝っていたことが、いつの間にか当たり前になり、次には役割になってしまう。考えていると段々と苛立ちが増してきて、皿洗いをしているときに茶碗を割ってしまった。厄介なゴミが増えて余計に腹が立った。部屋は相変わらず臭かった。
あらかた部屋を片付け終えると、部屋には夕方の気配が漂ってきた。オレンジの柔らかな光が射しこむ部屋には、腐敗臭と殺虫剤の匂い、何よりも排泄物と吐瀉物の悪臭に満ちていた。僕は再び千歌に近付き、牛乳石鹸を持った手を腰に当てて見降ろす。千歌は薬をリバースした後、一度も目を覚ますことなく寝息を立てている。
意識を失った人の体はひどく重い。それに増して、服を脱がすのは恐ろしく手間がかかった。九月に入ったとはいえ浴室は蒸し暑い。こちらも服を脱いで作業に掛かった。千歌の服はあらゆる匂いと汚れに満ちており、二十歳そこそこの女の裸であっても全く欲情は湧かなかった。わき腹の肋骨が洗濯板のように波打ち、病的に痩せた胸や尻にはふくらみというものが無い。遠い星で暮らす無生殖の知的生命体みたいに見える。幸いにして水は生ぬるく、風邪をひかせる事はなさそうだ。
僕は千歌の頭を浴室の床や湯船にぶつけながら、髪も体も牛乳石鹸でまんべんなく洗った。自分の体も牛乳石鹸で洗い、シャワーで互いの体の泡を取り除く。千歌から匂いはしなくなった。
薄暗い脱衣所に横たわらせてバスタオルで千歌の体を拭く。僕は再び恋人を思い出す。彼女とのセックスが終わった後、良く互いの体を濡れたタオルで拭き合った。大抵は僕が彼女を最初に拭き、お礼として彼女が僕を拭いた。最後にセックスしたのは三カ月も前だった。彼女は幼馴染とセックスしただろうか。
適当な服を着せて、千歌をベッドに横たわらせた。千歌の体は相変わらず重かった。
すべての掃除が終わったのは夜の九時を回ったところだった。病み上がりに重労働が堪え、自分の意志で体を動かすのが辛くなってきた。仕方なく、まだ匂いの残る真っ暗な部屋で千歌の為に買ってきたシリアルを義務的に食べた。あまりに暗くなったのでスマートフォンのフラッシュを焚こうとポケットを探ったが、電話はポケットにも鞄にもなかった。どうやら自宅に忘れてきたらしい。いっそ着信を気にしなくていいのは気が楽かもしれない、と思うと今度は途端に眠気がやってきた。スコールのような唐突で激しい睡魔だった。
7
早朝に洗濯籠を持ってコインランドリーへ行き、半分眠りながらドラムの中で踊る洗濯物を眺めた。秋の始まりは穏やかに晴れ、店内には誰もいない。宙吊りのスピーカーから穏やかなジャズギターが流れている。部屋中に落ちていた千歌の服をとりあえず拾い集めてきたが、乾燥したものを畳むと籠から若干溢れる程度には嵩があった。乾きたての良い匂いがする。
部屋に戻ると千歌は起きていた。六畳一間の三分の一を占拠するベッドの上に腰掛けて、僕を睨みつけてくる。
「おはよう、気分は平気?」僕は努めて冷静に言った。
「どうしてこんな事するの。何か薬、飲ませたでしょう」千歌の声は戦慄しきっている。
「ただの酔い止めだよ。飲めば眠くなる」僕はポケットから酔い止めの薬箱を取り出し、千歌へ差し出す。
「頭が割れるように痛いの」空気がひり付くほどの絶叫だった。千歌は頭を押さえる。「寝ている間に服を脱がしたでしょう。着替えさせたって服が違うから分かるんだから」
「うんこまみれで、大家さんが怒っていたんだ」僕は面倒になって言った。
「最低」もう一度絶叫。「出てって」
僕は洗濯籠をすぐ足元に落とした。籠は横転し、せっかく畳んだ洗濯物は散乱してしまった。具合の悪い事に、千歌の下着がちょうど目に触れるところへ、はらりと広がった。千歌は両手を両肩にこすり付けた。下らなさすぎる、と僕は思う。
「電気とガスはさっきコンビニで払っといた。飯は三日分くらいはそこのコンビニ袋に入ってるよ。叔母さんと仲良くしてくれ」
「いらない。ど、毒が入っているんでしょう。持って行って」コンビニ袋を拾うと千歌は僕に投げつけた。「持ってけ」
僕は腕組みをして千歌を睨みつけた。千歌は真正面から、憎しみを込めて僕の視線を受け止める。どうやら本気で頭をおかしくしているようだった。千歌の目は潤み始めた。
「どうせ死に損ないのくせにと思っているんでしょう。助けてやったのにって」
急に情けないほどの懇願したトーンになった。振れ幅がすごい。
「生きていたくないから、あんな風にしてたに決まってんじゃん。何で助けるの」
「死にたいのか」
「生きていたくないのよ」千歌は立ちあがるとキッチンへ行き、包丁を取り出した。「殺してよ、そしたらもう周りに迷惑かけないでしょ。それが私にとって一番なの」
さっき毒だのなんだの言ってたのは言葉のあやなのだろうか。足の裏で何度か床を払った。本気で腹が立ってきた。
「死にたいなら、叔母さんの前で死んでやってくれ。もしくは、ちゃんと遺書を残して行方をくらまし、遺体が見つからない様にしろ。雪山に行ってクレパスに落ちてもいい、公海で渦潮に身を投げてもいい」
努めて低い声で、静かに話した。本当に怒りを伝えたければ、大声を上げる必要はない。僕は千歌に近付き、怯んでいる間に包丁を力づくで奪った。
「いいか、世の中には一生同じ部品を作り続けて暮らす人たちがいる。来る日も来る日も、同じネジの溝を切り続けて四十年過ごすんだ。ちょっと寸法が狂ったり、生産スピードが遅ければ厳しく叱責される。だんだん喜びや楽しみの感情がなくなって、それでも金の為には辞められないからどんどん偏狭な人間になっちまう。生きながらにして搾り取られていくんだ。そんな風になれなんて言わない。その若さで傷つきぶっている甘さに腹が立つって言ってるんだ」
僕は包丁をキッチンの流しに投げた。千歌は涙を浮かべながら、噛みしめた唇を震わせて僕を睨んでいる。僕は千歌から目を離さない様に後ずさって、すばやく玄関から出た。追撃されない様に早足でアパートの階段を降り、大家のいる小屋のポストに合い鍵を突っ込んで建物を後にした。
家に帰ると、忘れて行った電話に恋人からの着信履歴がしっかり残っていた。僕は朝から疲れ果てて面倒になり、折り返しをしなかった。ソファに寝そべり、レースのカーテンがまだらに描く天井の模様を見つめた。「傷つきぶっている甘さに腹が立つ」なんて、一体どの口が言うのだろう。甘えるなと言えるのは苦しみに屈しない人だけだ。そういう人はきっと恋人の着信を無視したりしない――それが別れ話に発展しようとも。
僕は言えるほど強くも偉くもない。全然ない。
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