二度と、思い出せなくなる前に

hitoiki

1 夏の残り



 夜の十時に父親から電話があった。僕は暗いキッチンで夏の残りのそうめんを茹でていた。仕事から帰って服を脱いだばかりで、トランクスの他に何も身に着けていない。明りは換気扇横の裸電球だけ、リビングまで歩いて電気を点けるのが億劫だった。そうめんをザルにあけ、電子レンジの上で震え続ける電話を手に取る。

「ようやく出たか、夜分にすまん」父は言った。

「なに」と僕は言う。

「お前のいとこの千歌ちゃんいただろ。ちょっと今病院へ連れてかなきゃならん。男手がいる。今から来れないか」

「救急車は」僕は手に持ちかえて、そうめんに流していた水道を止めた。

「そういうんじゃないんだ。ただちょっと、暴れてて無理やりにでも連れ込まないと警察沙汰になりそうだ」

 警察沙汰、と父が切迫して言ったあたりで背筋が伸びた。従妹の千歌とはもう十年以上会っていない。

「もしもし」父が言う。

「はい」

「お前、いま家か?」

「そう。今帰ったところ」

「そうか、それは遅くまで仕事しているときに悪かった。でも、いまから何とか出てこれないか。そこから車で三十分もあれば着くと思う」

 僕は父親から聞いた住所を控えて、家を出た。そうめんは二、三口手づかみで食べて、後は袋に入れてゴミ箱に捨てた。腹は減っていなかったし、少しも美味しくなかった。





 父は千歌に出刃包丁で腕を切られて十三針縫う事になった。結局救急車が呼ばれ、千歌は統合失調症と診断された。一時入院することになったが、来週の水曜日には退院しなければならず、医師からはその間に家族のサポート体制を相談してほしいと申し伝えられた。

 父が腕を切られた時、僕は千歌をきつく睨んだ。胃袋がせり上がるくらいの憎しみを持って、千歌を見据えた。千歌は五秒ほど僕と目を合わせて何かを叫んだが、父の腕から激しい出血があると、途端に曖昧に笑って震えだした。父はすぐに救急に電話を掛けた。その間、僕は千歌を強く睨みつけていた。千歌は悪事をしらんぷりする悪童の様に首を振って笑みを浮かべるだけだった。美人な顔立ちなだけに、余計に愚かに見えた。


 病院の待合室で叔母さん――父の姉だ――は、僕が重症を負ったかのように謝っていた。長い髪を振り乱して何度もお辞儀をし、側にいた父親が所在なさそうにするほどだった。叔母が立ち去った後、父親は病院にほど近いバス停のベンチで無煙たばこを吸いつつ溜息を吐いた。

「なんだか、世の中には気の狂った人がたくさんいるみたいだなぁ。親族に金があっても、病室のベッドが足らんそうだ。この世の果てだよ」

「あの子退院したらどうするの」

「どうにもならん。姉さんとは親娘の折り合いが悪いし、また一人暮らしになるだろう。この入院中に良くなる事を願うしかない」

 もちろん、腕を切られた父が世話をする気になるとは思えない。

「俺もまだまだ働かにゃならん立場だし、お前も仕事が忙しそうだしな」父親は後退しきった頭頂部の肌を左手で掻いた。父は困るとよく頭頂部を掻く。

 僕は無言で俯く。バス停のベンチから、畑にかぼちゃが大きく実っているのが見える。

「ところでお前は大丈夫か、仕事はどうだ」しばらく経って、父が言った。

「何とか」僕は言った。

「同居してた彼女さんはどうなった」

「実家に介護で帰ってる。おばあさんが危ないらしいから」

「そうか、それは大変だな。でも何かあった時は親族が見てやるのが一番だ」

 実際には、彼女の祖母はまだそれほど危なくない。そんな事は父には言わない。





 金曜の夜、リビングのベッドにスーツのまま倒れ込み、カロリーメイトを齧る。部屋の灯りは点けていない。テーブルに置いた缶ビールの表面に、水滴が伝っていくのが見える。さっさと飲んで酔いたいのだけれど、とても動く気になれない。シャツを脱ぐことすらできそうにない。

 家に帰るとスマートフォンの画面は必ず伏せる。彼女が地元である九州の親戚や友人と楽しそうにしている写真が送られてくる。元気でいる様子を伝える事が恋人の役目と思っているらしかった。寝る前には何とか返信をする。それまでは決して見ない。しかし今日に限っては体が疲れ、精神が干からび過ぎている。知らない誰かが恋人と映っている写真なんて見たくもなかった。

 土曜日の朝になって彼女は心配の連絡をしてきた。心配という体を借りた、未返信への叱責だった。電話で三十分ほど話した後、スマートフォンをベッドに放り投げる。昨夜から置いたままのビールを開けて飲んだ。明るい場所で飲む温いビールは、どうしようもなくまずかった。

 

 父からの着信で目が覚めた。睡眠と目覚めを断続的に繰り返しただけの土曜日だった。

「千歌ちゃんが電話に出ないそうだ。大家さんからどうも異臭がすると苦情が来ている。まさかとは思うが万一ということもある。俺はいま神奈川に出張に出ていて行けないんだ。お前、行ってやれないか」

千歌が退院して二週間経っていた。


 アパートの大家に菓子折りを持って謝罪を兼ねた挨拶をした後、合い鍵を借りた。大家は総白髪の初老の女性で、非常に苦々しい表情で僕に応対した。表情を緩めたのは、僕の電話番号を控えた時だけだった。

 千歌の玄関のドアからは、かすかに異臭が漂っていた。インターフォンを押しても反応はない。鍵を挿して、玄関を勝手に開ける。腐敗臭と排泄物の混ざった匂いが立ち込めている。おびただしい数の小さな羽虫が飛び回っている。吐き気がした。

 千歌は生きていた。キッチンと冷蔵庫の角に背中を預けながら、日本酒にストローを差して涎を垂らしている。糞尿はそのまま垂れ流しになっている。キッチンには鍋に入った訳の分からない液体と、買ったまま放置されている鶏のもも肉が腐り切っていた。

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