起爆装置
深海冴祈
本編
人は皆、起爆装置を持っている。
僕は引きつった笑みを浮かべながら、剣呑な空気を纏う両親の間に立っていた。
人は皆、起爆装置を持っている。
広い動物園の中、来園者達が起爆装置のボタンを押してしまわないか、僕は全神経を尖らせながら周囲に目を配る。空からは、夏の生温い雨が降り注いでいた。
漂う獣臭。肌にまとわりつく湿度。人工的に作られた小川を流れる水の音。溜め池から漂う生臭い水の臭い。セミの鳴き声に混じる普段聞き慣れない鳥の鳴き声。園内で販売されているトラ柄のレインコートを着た幼児。動物園のロゴが入った黄色の雨傘をさす大人……。
昨晩観たニュース番組での天気予報のマークは晴れマークだったのだが、昼食時前には雨が降り始めた。
母は持ってきていた晴雨兼用の小さな折りたたみ傘をさし、窮屈そうにトートバッグを肩に掛けている。父は雨の降り始め、「どうせすぐ止むだろう」と傘もささずに雨に濡れながら歩いていたのだが、雨はいつまで経っても止む気配はなく、結局、園内販売されている動物園のロゴが入った傘を買ってさしている。傘を買う前から母は不機嫌だったが、父が傘を買う時にはもっと不機嫌な顔をしながらその様子を黙って見ていた。すかさず僕は「その傘、かっこいいよね!」と、明るく無邪気な子どもを装って、あたかも羨ましそうに目を輝かせながら、微塵も思っていないことを吐いた。そうしないと、母の起爆装置のボタンが押されてしまうと思ったからだ。
人は皆、起爆装置を持っている。僕の父や母の怒りを爆発させる装置だ。
通行人がぶつかった。車が渋滞していた。店員の態度が最悪だった。仕事で嫌なことがあった……。それら全てが起爆装置のボタンを押す。爆発した怒りをぶつけられるのは僕だ。だから、起爆装置のボタンを誰も押さないように、僕は細心の注意を払う。
檻の中で、ライオンとジャガーは来園者達の視線など無視して、ぐっすり眠っていた。
トラは落ち尽きなく、檻の中の同じ場所を行ったり来たりを繰り返す。
傘を叩く雨粒の音。落ちた雨粒が葉を揺らす。靴に染みこむ雨水。歩く度に、中敷きが吸った水分を吐き出し、足裏を不快に濡らす。濡れる左半身。貼り付く髪と服。十歳の僕には、トラ柄のレインコートは少し小さく、かといって成長期に入ろうとしている僕に丁度いいサイズの新しい傘を買っても、あっという間にサイズが合わなくなる。母の小さな折りたたみ傘に、子どもとはいえ、二人も入れるわけもなく、父の傘に入れて貰っているのだが、父は僕も一緒に傘に入っていることなど意識していないのか、僕が体の半分以上を濡らしているというのに、父は自分の体に対して、まっすぐ真ん中に傘をさしていた。僕は傘の中にほとんど入れていなかった。夏の雨が僕をじっとり濡らす。
両生類が展示されている小屋に入った。そこで母は初めて僕が濡れていることに気付いた。起爆装置のボタンが押されようとしていた。僕は慌てて両親の目の前という演技の舞台にあがる。
「動物園楽しすぎて、色んな動物見ようとしてたら、こんなに濡れちゃった! 凄く楽しい! 連れてきてくれてありがとう!」
学校の発表会よりも心臓をバクバク鳴らしながら、父と母に向けて満面の笑みを浮かべる。両親の視線というスポットライトを浴びながら、濡れても平気な元気な子どもを演じた。ボタンが押されないためなら、嘘も吐けば、演技もする。
嘘つきは泥棒の始まり。
そんな言葉があるが、我が身の安全のために、泥棒の始まりだとかなんだとか、そんなものを気にしていられるわけがない。それが泥棒の始まりだろうが、僕にとっては起爆装置のボタンを押されないことの方が重要なのだ。
何より、嘘といってもどこまでが嘘なのか。どこまでの嘘が泥棒の始まりとなるのか。全くもって説得力のない言葉だ。
天動説が当たり前だった時代に、地球ではなく天が回るのだと説明した場合、それは嘘なのか。実際は地動説。回っているのは地球の方だ。今現在、真実だとされていることも、何かのきっかけで虚偽になる。嘘をついているつもりはなくても、嘘をついていることだってあるのだ。
母の起爆装置のボタンは押されなかったが、面倒くさそうに溜息を吐いた。濡れた僕を電車に乗せることを考えているのか、僕が後から風邪をひいてしまう可能性を考えているのか、はたまたその両方か……。
わざわざ休みの日を削って、お前のためにこうして動物園に連れてきてやっているというのに……。
僕を見つめる母の眼はそう語っていた。僕に対する煩わしさを露わにしていた。
「ちゃんといい子でいてよね」
母は淡々とした口調でそう吐いた。
「ちゃんと傘に入ってないから濡れるんだろうが。そんなことも分からないのか?」
父は呆れ果てた様子で僕の頭を拳で小突いた。僕の体は軽く
ちゃんとしなければ(でも、どうやって?)。いい子でいなければ。(両親にとって都合の)いい子でいなければ。
水槽の中では、オオサンショウウオが大きな体を茶色い岩のようにじっと静止させていた。
呼吸の度に顎の下を膨らませながら、一点を睨み続けているニホンヒキガエル。
アカハライモリは慌ただしく尾を動かし、水中を泳いでいる。
薄暗い小屋の中、入り口付近に展示されているオオサンショウウオの骨格だけが白く浮かび上がっていた。
両生類の小屋を出ると、雨は小雨になっていた。ホンドギツネの檻の前に来た。母が動物のプロフィールを読もうと一歩檻に近づくと、そこは舗装された道ではなく、大きな水たまりのできた砂利まじりの地面だった。母は水たまりの存在に気付かぬまま、そこに足を突っ込んだ。靴の中には水が入り込み、靴の表面には泥が付着した。母は声をあげるわけでもなく、ただただ不快感を全面に出した表情をして、自分の足下を見下ろしていた。
お前のせいだ、と母の背中が語っていた。
雨が降るのも、僕がびしょ濡れなのも、靴が濡れて汚れたことも、全部お前のせいだ。
言いようのない圧が来る。母から放たれる圧が僕を抑えつけ、頭痛を引き起こす。頭が痛い。棒で脳をかき混ぜられているように頭がグラグラする。巨大なペンチで左右の
しかし、動物園に連れてきてやったというのに、肝心な僕が体調悪くしていては、両親は更に不機嫌になる。今すぐに横たわりたくても、僕は両足を踏ん張り、笑顔を絶やさない。
動物園に行きたいなんて、僕は一度も言ったことはない。親と一緒に外出しても、楽しいことなど何もない。いつも以上に気を遣い、疲れ果てるだけだ。だから外出は嫌いだ。どこにも連れて行かなくていい。安全な場所でずっと眠っていたい。どこにも行きたくない。
歩いている内に雨は止み、太陽が雲から顔を出してきた。雨傘は不要になったが、夏の日差しが肌を突き刺す。母は晴雨兼用の折りたたみ傘を広げたまま歩いているが、父は直に日差しを浴びて、だらだら汗を流していた。僕は、首から上は暑いのに、濡れた服が貼り付いている箇所は寒く、体温調整が馬鹿になりそうだった。
クマタカは、暑い日差しを避けているのか、はたまたたまたまなのか、影となっている箇所の木の枝に止まっていた。猛禽類独特の芯の通った目付きで、周囲を見渡している。体の大きさは僕の片腕の長さはあるだろうか。突然、クマタカは羽を広げて、ばさりと向かい側の木の枝に飛び移った。普段見るハトやカラスと比べたら、迫力が全く違った。
雌雄問わず角があるというオナガゴーラル。暑いのか、簾のかかった屋根の下に伏せていた。こちらに視線を向けながら動かない。
ホンシュウジカの二蹄は互いに体を舐めあっていた。それは毛繕いなのか、もっと他の意味があるのか、僕には分からない。
赤橙の嘴に赤朽葉の体をしたアカショウビンは、地面に近い位置に配置された止まり木に留まっていた。体はこちらに向けていても、その顔は左右どちらかにしか向かず、僕とアカショウビンの目は一度も合うことはなかった。
ニホンツキノワグマの檻の中。ニホンツキノワグマは、木の枝や付近にある木製のオブジェクトに足をひっかけながら、壁をよじ登るが途中で足場がなくなってしまった。ニホンツキノワグマはのろのろ降り、近くの木製のオブジェクトの上に落ち着いた。
ニシゴリラは、梁の上に器用に横たわっていた。檻の端の方だったため、僕とは距離が遠く、ガラスの反射もあって、よく見えなかった。
ワオキツネザルはガラスのすぐ傍に座って、その長い尻尾を舐めていた。その姿を見た知らない幼女が、目をまん丸にする。
「ペロペロしてる! 美味しいんだね!」
傍にいる幼女の母親らしき女性に、ワオキツネザルを指差しながら笑顔を見せる幼女。
隣にいた僕の父が鼻で笑った。幼女の母親が僕の父を睨み、「次のとこ行こう」と、そそくさと幼女の手を引いて行ってしまった。
「美味しいわけがない」
父はまた鼻で笑った。母は無表情のまま黙っていた。楽しそうだった幼女とは対照的に、僕は動物園が楽しくなかった。
僕が俯いたまま歩いていると、アナウンスが入る。ゾウの食事を告げるアナウンスだった。
『もうすぐゾウさんのお食事タイムになります。ゾウさんはすぐに食べてしまうので、お早めにお越しください』
母は面倒臭そうな顔をした。
「お早めに、ですって」
怠そうに父を見遣る。父は溜息を吐いて、移動する人波について行った。
プールもあるゾウの檻につくと、既に人垣が出来上がっていた。僕よりも小さい子ども達は、父親に肩車をしてもらい、今か今かとゾウが食事をする瞬間を待っていた。僕の身長では、人々の足の隙間から檻の中にプールがあることが辛うじて確認できた程度で、他は何も見えなかった。
「見えるか?」
父が問うた。僕が、見えない、と答えれば、父は不機嫌になってしまうのではないかと怯えた。僕は咄嗟に返事ができなかった。
「見えるのか、見えないのか、どっちなのかと訊いてるんだ。さっさと答えろ」
苛立たしげな父の口調。見える、と答えようとした時、前にいた若い男女のカップルが、僕に気付いた。
濡れた髪や服がまだ乾いていない僕の姿に、一瞬息を呑むカノジョ。
「見えないよね? ごめんごめん」
謝りながら、優しそうな笑みを浮かべた。
「もっと前に行きな」
僕と両親が放つ空気に口を一文字にした後、カレシは真剣味を帯びた声色で言った。
「すみませ~ん。この子が見えないみたいなんで、通してもらえますか?」
カレシは前の人たちに声を掛けた。カノジョも一緒になって、「すみませ~ん」と声を出す。文句を言う人もいたが、振り返って僕の姿を認めた人たちは道を開けてくれた。
憐れまれた。
僕はそう思った。
僕の姿は、道を譲ってやりたくなるほどに憐れだったのだ。
それは、僕の心を鋭い爪で引き裂かれたような傷みが伴った。
僕は前へ進む前に両親の顔色を窺う。二人とも、眉を顰めて僕を見下ろしていた。
「ち、ちゃんと戻ってくるから。迷子にはならないから……」
両親の顔を見るのが怖くなり、目を逸らすと、逃げるように開けてもらった道を進んだ。
一番前まで着くと、今まさにゾウにスイカをあげる瞬間だった。ゾウはバレーボールサイズのスイカを一口に咥えると、そのまま噛み砕いた。砕けたスイカの破片を器用に鼻で回収し、口へと運ぶ。幼い子ども達の「すごーい!」という声がそこかしこから聞こえた。本当に、あっという間に終わったゾウの食事だった。
こんな一分にも満たないであろう食事の風景を僕に見せるために、一体何人に迷惑をかけてしまったのだろう……。
人垣がなくなっても、呆然とゾウを眺めていた僕の背後から影が差し込んだ。振り返ると、両親が立っていた。僕に向けられる目は、「お前が悪い」「迷惑ばかりかけやがって」「どうしていい子にできないんだ」と語っていた。
僕は喉に何かが詰まったような息苦しさを感じた……。
熱帯動物館に入った。ゆっくりと歩く大人のホウシャガメ。ホウシャガメの子どもは、大人と違って活発に歩き回り、歩く速度も速かった。それだけ、大人になると甲羅が重たくなるのだろうか、と僕は思った。
僕がボアコンストリクターを見ていると、七人か八人ぐらいの子ども達を連れた大年増がやってきた。
「ヘビだー!」「おっきー!」「こわーい!」
ボアコンストリクターを見て、子ども達がきゃっきゃ騒ぐ。
「毒あるよ! 毒、毒! あ~怖い!」
大年増は、そのでかい図体と同じぐらい大きな声量で子ども達に言った。
「毒あるんだって!」「きゃー!」「ヤバい! ヤバい!」「毒だ! 毒!」「逃げろー!」
子ども達は慌ただしく、他のヘビたちを見るでもなく、熱帯動物館を走って出て行ってしまった。大年増は「走らない!」と注意しながら、子ども達の後を追いかける。
毒のあるヘビには、毒がある旨がどこかに書かれているはずなのだが、ボアコンストリクターにはそういった説明書きはどこにもなかった。
「こいつ、毒があるんだってな」
父がボアコンストリクターを指差すと、母は悍ましいものを見ているかのように首をイヤイヤと振る。
「こんなに大きいのに、毒まであるなんて……。やっぱりヘビは危険ね」
ボアコンストリクターは何もしていない。毒も持っていない。なのに、どうしてそんな風に言われなきゃいけないんだ。
「ボアコンストリクターには、毒なんてないよ。だって、ここに書いてないもん」
僕は誤解を解こうと、両親の反論を恐れながらも勇気を出した。ボアコンストリクターが誤解されたまま放置されるのは、耐えられなかった。
父は、はあ? と眉間に皺を寄せた。
「書いてないだけだろう? さっきの人だって毒があるって言ってたんだ。それとも、お前はさっきの人を嘘つきだって言いたいのか? 最低だな、お前」
案の定、誤解を解くどころか、僕が悪者にされてしまった。傷ついた僕は俯く。
「さっきから楽しそうじゃないな。つまらないのか」
頭上から、父の声が降る。
……僕は顔を上げられなかった。見なくても、その空気が、その声が、「折角連れてきてやったのに」と語っていた。それを真っ正面から受け止められるほど、僕の心は安定したものではなかった。
「楽しいよ。疲れてきただけ……」
俯いたまま答えると、父は舌打ちした。
「じゃあ、もう帰るか? えぇっ?」
お前は
時々思う。僕の両親は、僕がボタンを押してしまうことを深く望んでいるのではないだろうか? 怒りを爆発させたいがために、僕にボタンを押させたくてたまらないのではないだろうか? 今だって、押せ! 押せ! と言っているようにしか聞こえない。
母を見た。母も押せ! 押せ! と言わんばかりの視線を僕に向けていた。
僕が起爆装置のボタンを押してしまい、家に帰った後、僕が両親から何をされ、何を言われるのかを想像した。それだけで、とても疲れた。
「帰るかって訊いてるんだ! 聞こえてるのか!」
首を誰かに絞められているかのように息苦しい。呼吸が上手くできない。咳が出てきた。僕の背後では、ボアコンストリクターが、ずるりと巨大なその身を動かした。
咳が止まらない。父が「わざと咳をするな!」と怒った。だが、僕の咳は止まらない。息ができない。立っていられない。
水筒をぶんぶん振り回す少年が熱帯動物館に入ってきた。遠心力で体を前後に揺らしながら歩いている。それが楽しいのか、少年はケラケラ笑っていた。少年の両親は、危ないとは言うものの、少年を無理に止めはしなかった。
少年の手から、水筒が離れた。前方へと猛スピードで飛んでいった水筒は、ボアコンストリクターの方向へと飛んでいった。水筒はガラスに衝突し、ビシッという音が聞こえた。
水筒が落ちる重い音。亀裂の入ったガラス。周囲は途端に静まりかえった。僕の咳だけが響いていた。毒のあるボアコンストリクターが出て来るのではないかと、僕以外の人間は一様に生唾を飲み込んだ。
数秒……しかし、体感的には一分以上は経過したかと思える時が流れた後、ガラスに亀裂が入っただけで、ボアコンストリクターが外に出る危険はないと判断した周囲に安堵の空気が流れた。
その時――
鋭い音と共に、ガラスが割れ落ちた。幸い、僕に破片は刺さらなかった。
息ができず、遠のく意識の中、僕はボアコンストリクターが父の体に巻き付いている姿を見た。締め上げられる父の隣で悲鳴をあげる母。僕と父を交互に見た後、走ってどこかへ行ってしまった。
ボアコンストリクターの体は父の顔まで巻き付いていた。ばたつく父の足は、どんどん力を無くしていく。そうしている内に、父の体が痙攣し始めた。失禁し、股間部分だけ色が濃くなった父のズボン。便も出てきたのか、大便の臭いまで漂いだす。あまりの悪臭に、僕は吐き気を催した。
嗚呼、これは夢だ。きっと夢だ。夏の暑さが見せる夢なのだ……。
ボアコンストリクターと目が合った。ボアコンストリクターが微笑んだような気がした。ヘビが笑うわけがないが、僕の目にはそう映った。僕はボアコンストリクターに微笑み返し、そのまま意識を手放したのだった……。
起爆装置 深海冴祈 @SakiFukami
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