後編

夕飯に冷やし中華を美智恵さんと作った。

規則的な包丁の音やガスの炎の揺らめき、湯の沸騰する気配に言いづらいこともこの雰囲気の中でなら言えそうな気がする。

「美智恵さん…若い時はよく海外に行っとったの、覚えとる?」

「あぁ、そうやったねぇ。懐かしい、若い頃は無茶やったけんねぇ。いい思い出ばい」

美智恵さんが目を細める。

「何ヶ国行ったと?」

「さぁ、数えたこともないけど…20くらいは軽く行っとる気がするねぇ」

「美智恵さん、よく絵葉書を送ってくれたやん。あれ、何気に楽しみにしとったとよ」

「そうなん?ついああいうの見つけると買っちゃうタチやけんねぇ。随分送った気がするばい」

「うん、私も随分もらった気がするばい」

美智恵さんはほんの少しだけ寂しそうな顔をした。

祖父母や母は美智恵さんのことを「あの子は浮き草だ」と陰で言っていたけれど、何にも縛られていない若い頃の美智恵さんは思春期の頃の私にとっては憧れでもあった。

今の歳になっても、美智恵さんには浮いた話しが一つもない。祖父も母もいないこの家でたった独りで、祖母と向き合っている今の美智恵さんのあり様が皮肉めいたものに思えた。

私は少し考えて聞いてみる。

「美智恵さん、そんなに色んな国を見て来たのなら…この田舎の中にずっといるのって…辛くないと?」

「…うーん、どうやろ。あんまり考えたことなかったねぇ」

美智恵さんは微妙な顔をして俯く。

「変なこと聞いてごめん」

「いいとよ。気にしとらんばい」

私たちはしばらく無言で台所に立っていた。

私はついでにもっと聞き辛いことを聞いてみようかと思った。

「美智恵さんは、誰か好きな人おらんと」

「急になんね、おらんおらん」

美智恵さんはからからと笑う。

「なんか、気になったと。昔から、美智恵さん浮いた話しなかったやんね」

「わざわざ言わんかっただけよ」

「そうなん」

「そうばい、あはは」

私は美智恵さんの淡々とした横顔を見る。

「じゃあ、どんな人と付き合って来たん?」

美智恵さんから笑みが消えて、生活音が鮮明になる。

「昔のことやけん、覚えとらんばい」

美智恵さんは抑揚のない声で言うと、それ以上の追求を拒むように包丁の音を響かせてきゅうりやハムを切る。

その音の響かせ方が、どことなく母のと同じ音なような気がする。

前にもこんな風に包丁の音を聞きながら、美智恵さんのことについて偶然聞いてしまったことがあった。

珍しく偏屈だった祖父が台所に上がり込んで、母と話していた。



美智恵は今度はどこに行っとるんか。


さぁ、スリランカに行くとか言っとらんかった?


あいつもよく分からんばい。


浮き草に何言っても無駄やけん、父さん。放っとくしかないやろうもん。


頭も悪くないし、顔も悪くないけん…結婚でもしてくれたら落ち着くやろうけどね。


いや、結婚はどうやろあの子は……。


なんね、なんか知っとるとか。


あの子は男に興味ないっち思うけど。結婚についてあんま言わん方がいいと思うばい、父さん。

母さんも怒鳴ったやろうもん。あれからあの子しばらく帰ってこんと思うばい。アジア一周してくるけんっち、いいよったやろ、あれは当てつけばい。


そうやったんか。


そうばい、あの子も強情やけん。でも律子にだけは向こうから絵葉書送っちょるみたいやけん……まるっきり何もないっちわけやないけど。

この際男でも女でもいいばい、母さんやないけど……。



そこから先は母がこちらを振り返る気配がしたので聞けなかった。それから帰国した美智恵さんのパスポート入れの中に航空券の束に紛れて、女性の写真が入れ込まれているのを私は見てしまった。

美智恵さんは男に興味がない。

浮き草のような暮らしぶりよりも、祖父母や母はそのことを重く思っていたようだった。

「律っちゃん、昔のことやけんね」

美智恵さんは半分は自分に言い聞かせるように呟いた。



夕飯を食べた後で、私と美智恵さんは祖母の手を引いて墓参りに行った。神も仏も信じていないのに、自然とこういう時は手を合わせようという気になれる。

「どこ行くとね」

「ばあちゃん、お墓参り行くとよ。旦那と娘に会いに行くと」

「あぁ、そうね」

祖母は分かったような、分かっていないような返事をする。


その時、生きている時代によってばあちゃんは変わる。


美智恵さんの言葉を思い出す。

その時代時代を、美智恵さんはどんな思いで受け止めて来たのだろう。他にそれを打ち明ける人もなく、淡々と独りきりで受け流せるものなのだろうか。私は不思議なほどに澄んで見える美智恵さんの横顔を眺めた。人工的な灯りの少ないせいか、肌の下の人格までも、掌の血管を太陽に透かすように見えて来そうな気配がする。

「今日はばあちゃん調子いいわ。怒ったり泣いたりせんけん」

「そうなん?」

「律っちゃんが来とるけん嬉しいんかもしれんばい。初孫やけんねぇ。私も結婚して子どもでもできればいくらか良かったかもしれんけどね」

私は何と言っていいか分からず、黙っていた。

美智恵さんは握った祖母の手を軽く振る。祖母の足取りは意外としっかりとしていた。私は軽く握ったままだった祖母の手を少しだけ強く握ってみた。

「なんねー、律っちゃん」

思いがけず祖母が呟いて、私はびっくりした。美智恵さんもびっくりしたのか驚いて祖母を見る。

「ばあちゃん、分かるとね」

「律っちゃんはどこにおるんやろうね、あの子は」

祖母は急に顔色を変えて美智恵さんの方を見る。

「ちゃんとおるよ、ばあちゃんの横に手を握ってくれとるけんね」

「あー、そうね」

言いながらも祖母は私の方は見なかった。いちいちこういうことに傷ついても仕方ないと分かってはいても、私は目には見えない柔らかな所に傷がついていくのを感じた。

「ばあちゃん、もうすぐじいちゃんのとこばい」

「じいちゃんね、あの人は修学旅行に行ったと、帰ってこんと」

「帰ってこんのね、それはいかんねぇ」

美智恵さんはあくまで自然に祖母の時代を受け流す。

私はただ静かに頷くことしかできなかった。

去年にも増して、祖母の混濁は酷くなっていた。まだ視線の合うような、私の時代と祖母の時代がほんの少しでも重なり合うような気配がしていた。今ではまるで重ならない。

お盆の終わった墓地には新しくなった花ばかりがあるだけで人影はなかった。私と美智恵さんは代わる代わる祖母を見ながら墓の掃除をして花を替え、線香を焚いた。

「私、なんか知らんけど昔から線香の匂い好きやったっちゃね」

「律っちゃんも変わっとるねぇ」

「美智恵さんに言われたくないばい」

私と美智恵さんが話している傍で、祖母がふと顔をあげる。私と美智恵さんも同時に祖母の方を向く。

「あー、赤ちゃんが産まれたばい」

私はあまり考え込まず祖母に聞いてみる。

「どんな赤ちゃんが産まれたんね」

「可愛い、律っちゃん、律っちゃんっちいうと。もうすぐそこに来とる」

私と美智恵さんは顔を見合わせる。

「今ばあちゃんの時代は、律っちゃんが産まれた時なんやね」

私は今までとは違った心地で、話し続ける祖母を眺めた。

全て忘れたわけではない。大切な人の記憶はちゃんと残っている。

生きている時代が、刻々と変わっていくだけ……。

「あー、じいちゃんが死んだ、死んだ」

祖母は頷きながら綺麗に手を合わせる。今度は祖父が亡くなった頃の時代に跳んだようだった。

線香の細い煙が、どこか頼りない幽霊のように夏の夜に消えていく。汗一粒膨らまない涼しい夜だった。

私と美智恵さんとは祖母の後ろで静かに手を合わせた。祖母の生きている時代の音を壊さないように、亡くなった人たちの無音に寄り添うように。



墓参りが終わると、また私と美智恵さんは祖母の手を引いて元来た道を戻っていく。祖母は相変わらず何か呟いていたが、調子は良さそうだった。

「今日はえらい調子いいねぇ。癇癪も起こさんし…律っちゃん、気に入られとるばい」

「そうなん?」

私たちが話していると、祖母が振り返って私の目を捕らえる。思いの外はっきりとした光がそこにあって私は驚いた。

「あー、お嬢さんにはおはぎやろうねぇ」

「ほら、気に入られとる」

「え?」

美智恵さんはくすくす笑う。

「ばあちゃんは気に入った人には、おはぎやろうねぇっち言うけんね」

私はふと昔を思い出す。

確かに、祖母は機嫌がいいときはよくおはぎを作って待っていた。

「ちゃんと、律っちゃんが帰って来たこともばあちゃんなりに分かっとるっちことやね」

「うん」

そこで一旦会話は途切れた。

祖母は時折笑いながら静かにゆっくり歩いていく。

「さっきね、律っちゃんが言っとったこと……」

「えっ?」

「ほら、若い頃色んな国に行ったりしたけんこんな田舎におると息が詰まるんやないかっち」

私は無言で頷く。

「辛い時期もあったけど、今のばあちゃんっちなんか子どもみたいやろ?」

「うん、まあ」

私と美智恵さんは祖母の方を見る。両手を引かれて嬉しそうにしている。

「なんかね、子どものおらん私が子どもに還ったばあちゃんを看る……そういうのでもいいんやないかなっち思ったと」

私は美智恵さんを見つめる。美智恵さんの表情は鮮明には分からない。

「私は結婚も出産もできんけんねえ」

「今からでも遅くないやろ?美智恵さん綺麗やし」

「あはは、私にその気がないけんね。これでいいと、これがいいと。大変なこともあるけど、私は幸せやけん」

美智恵さんは穏やかな声色で呟いた。

それから家に着くまでは、私と美智恵さんは何も話さなかった。

美智恵さんの朗らかさの理由が何となく分かったような気がした。綺麗事だけではこの先の人生を祖母のためだけに捧げる覚悟はできないだろうと思った。

美智恵さんは強い人だ。

その美智恵さんを産んだ祖母も強い人だった。

私はそういう家族の中に産まれたのだ。

家が見えてくると、美智恵さんは私に向かって呟いた。

「律っちゃんはやっと盆休みやねぇ。家着いたらアイスでもみんなで食べようか」

「食べるばい」

祖母が真っ先に手を挙げて、私と美智恵さんは笑い合った。

玄関を開けながら、美智恵さんは祖母の手を引いていく。

私は自然に祖母の手を離しながら、今まで歩いて来た道を振り返る。灯りのない、真っ暗な道だった。あの道を3人で歩いて来たことに不思議な感慨を覚える。昔は祖母に手を引かれて歩いていた道を、今度は私が手を引いて歩かせている。

大人になった、子どもになった。

私はようやく、祖母とほんの少し向き合えたのかもしれない。美智恵さんを通して。

「律っちゃん、はよ入らんね」

美智恵さんの声だけが聞こえる。

私は返事をして家に入る。自然に「ただいま」と唇が動く。

微かに甘い香りが漂うような気がした。


私の盆休みはまだ始まったばかりだった。

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余生 三津凛 @mitsurin12

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