余生
三津凛
前編
「やっぱり田舎っちゃねぇ」
私は思わず呟いて、周りに人がいないのを慌てて確認した。お盆も過ぎて中途半端な平日と時間のおかげで人はまばらだった。
新幹線から在来線に乗り換えて色褪せたシートに座る。流れていく景色に目をやると、緑というのは目の醒める色なのだと思った。
実家や故郷に帰るという高揚感はあまりなかった。祖父は何年も前に亡くなっていたし、母も大学生の頃に亡くなった。田舎の一軒家には、母の妹の美智恵さんと祖母が居るだけだった。
田舎になるほどに、色んなものが緩慢になっていくみたいだ、と私は思った。電車の速度、発車ベル、人と時間の歩み。
そういうのって、嫌いじゃないけどたまにイライラとさせられる。
私は気遣いの分だけ詰め込んだお土産の束を入れたスーツケースを引きずりながら実家を目指す。
田舎の道をなんでもない平日にこうしてスーツケースを引っ張って歩くのは、なんだか働けるくせに無職な人間がパチンコ屋にでも行くのを見せつけているようで居心地が悪かった。
しばらく歩くと、青々とした稲から帽子がのぞいて、むっくりと人が背を伸ばした。思わず「あ」と声が出る。
「律っちゃんやん。今年もお盆ずらして帰ってきたんやね」
顔見知りのおじさんの馴れ馴れしさも、年々うっとうしくなってくる。
「はい。まぁ、仕事もカレンダー通りに休みがあるわけじゃないんでちょうどいいんですけどね」
「はぁ、なんの仕事しよーとね」
おじさん、去年も一昨年も全くおんなじやり取りしたとよ、いい加減にしてくれんかね。
文句を言いたいのを飲み込んで、私は全く同じように答えてやる。
「介護士ですよ」
「そうなんね、給料も安いやろーもん。大変やね、でも結婚したら相手の親御さんも看らないかんくなるやろうけん…そこはいいやろうけどねぇ」
あぁ、うるさいこの田舎者。
「…まぁ、そうですねぇ。じゃあ、また」
下げたくもない頭を下げて、振りたくもない手を振って私は別れた。
これ以上顔見知りにあって無駄話をぶつけられるのはいやだった。
走る必要のない道を走って行く。学生時代はすぐに見えてきたはずの家はなかなか見えてこなかった。
私の体力が落ちたからなのだろうか。
空には出来すぎた真っ白な入道雲がよく見る夏の絵葉書のように浮かんでいる。
アスファルトの続く道には人っ子ひとりいない。私だけが妖怪に追いかけられた昔話の小僧みたいに駆けていた。バカバカしくなって私は走るのをやめてしまった。
「仕事以外でこんな風に走るの、馬鹿らしいっちゃ」
思わず独り言を呟いて、私は振り返る。誰もいない。今年の夏は暑かった。40度なんて、気が狂っている。その中を走る私も大概だ。
今度はゆっくりと歩きながら、美智恵さんと祖母の住む実家へ向かった。家が見えてきた頃に、向こう側から人が歩いてきた。自然と足が止まる。目を凝らすまでもなく分かった。
私が口を開く前に向こうから叫ばれる。
「あぁ、やっぱり律っちゃんやんね!おかえりなさい。暑いやろうもん、早く入りんしゃい!」
美智恵さんは少し日に焼けた腕を晒して、大袈裟に手招きをした。
「今年の夏は暑かったやろうね、美智恵さん」
「…暑かったけど、律っちゃんとこよりかはマシやろうね、田舎やもん。新幹線は混んどらんかったね?」
「大丈夫やったよ。自由席でも座れたけん。休みが世間とズレるのもこういう時はいいね」
「あはは、そうやねぇ」
荷ほどきをしながら、私は美智恵さんととりとめもないことを話した。
「律っちゃん、日が落ちてからお母さんとこ墓参りに行こうか」
「そうやね…ばあちゃんも一緒に連れて行かないけんやろ」
「そうやねぇ、1人にはしとれんけん」
自分で祖母のことを出しておきながら、唇が重くなる。
「東京ばな奈っち、今こんな味があるとね。おばさん、知らんかったばい」
美智恵さんは渡したお土産に今さら目を剥いてくれる。おばさん、と言うには美智恵さんはまだ少し若い。母とは10も離れていたから、今年で39になる。その母は私が大学生の時に交通事故で亡くなった。元々母子家庭だった私はたった独り残されてしまった。母方の親戚で構ってくれたのは祖母と母の妹だった美智恵さんくらいだった。
「…ばあちゃんは、なんしよると?」
「今はね、寝とると。最近また昼夜逆転気味なんよ。よーう喋っとるわ、あの人」
美智恵さんは笑いながら言う。
「1人でみるのは大変やろうもん、施設とか考えとらんの」
私は視線を落として言う。
「大変やないっち、言ったら嘘になるけど…慣れたら可愛いもんばい。段々私のことも分からんくなってきとるみたいやけど、色んな人の名前が出てくるんよ。律っちゃんの名前も出てくるかな」
目が合うと美智恵さんは更に笑った。自分の母親が、自分のことを分からなくなっていくことを、たった2人きりのこの家の中でこんな風に受け止められるまでにどれくらいの葛藤があったのだろうと私は思った。
「…私もね、似たような仕事しとるやん」
「介護士やったっけ、でも律っちゃんとこは障がい者やなかったっけ?」
「うん、でも認知症が進んでいる人も中にはおるけね」
「そう」
「血の繋がらん、他人やけん普通に接することができるっちこの仕事してたら思うんよ、本当に。やけん、私は介護士やけど…ばあちゃんと向き合うのが少し怖いっち思う時があるっちゃね」
一昨年帰った時は何も感じなかった。祖母もまだ、私の方を見ていたような気がする。でも去年帰った時は明らかに私の方を見ていなかった。人は1年でこんなにも混濁するものなのかと、私は今さらながら慄然とした。それから、祖母のことを考えるのが怖くなった。
美智恵さんは淡々と聞きながら、また「ふふ」と笑った。
「私は律っちゃんのそういう素直なところが好きばい。まぁ、無理にばあちゃんと向き合う必要はないと思うよ…ばあちゃんの方は嬉しくて起きたら構ってくるかもしれんけど…。せっかく帰ってきたんやけ、考えんでいいことは考えんで、ゆっくりしていきんしゃい」
美智恵さんは立ち上がって、お土産を仏壇に持って行く。隣の和室には布団が敷いてあって、小さく膨らんでいる。そこに祖母が寝ていることは見なくても分かった。
私はそれから背を向けて、膝を抱えた。
「なんか、りんごでも剥こうか」
美智恵さんが戻ってくると、冷蔵庫を開けながらこちらを振り返った。
「ばあちゃんも食べるやろうか」
一緒に台所に立ちながら、自然と私は呟いた。
「歯がもうないけんねぇ。擦ったのを作っとこうか。律っちゃん起きたら試しに食べさせてやってん、喜ぶかもしれんばい」
私は手を止めて、美智恵さんを見る。
「私のこと、なんち言うかな」
「ふふ、それは分からんねえ。その時のばあちゃんの生きとる時代で変わってくるやろうねぇ」
「…生きとる時代ねぇ」
うまいこと言うな、と私は思った。そしてふと、美智恵さんは若い頃よく1人で海外に行って、日本に帰ってきた時は翻訳やアルバイトやらを細々としながらお金を貯めていたことを思い出した。
「元が学校の先生やった人やろ?これが厄介なんよ、同僚に気に入らん人がおったんやろうねえ、その人に間違えられると手がつけられるのよ。小林さんっちいう人らしいわ」
「へぇ…美智恵さん怒られたん?」
「怒られたなんて、可愛もんやないっちゃ。あはは」
私は笑う美智恵さんを眩しく眺めた。私はまだこんな風に変わってしまった祖母のことを受け止めきれない。不謹慎だけれど、このまま祖母が起きて来ずにこんな風に美智恵さんを通して祖母のことをずっと話していたい、と思った。
「…仕事の方はどうなん?」
美智恵さんは少し俯いて私の方を見下ろす。ほんの少し美智恵さんの方が背が高い。近くで見ると、美智恵さんは痩せたようだった。まだ若い頃、東南アジアを周回して帰ってきた頃に色黒で痩せていた美智恵さんを思い出す。
「ぶっちゃけ、お給料は安いけど仕事自体は好きばい…まぁ、やりがいはあるし利用者はなんだかんだ可愛いけん」
「そう言えるだけで立派やわ」
美智恵さんが頷きながら言う。
「美智恵さん、痩せたように見えるばい」
「そうかねぇ、今年は馬鹿暑かったけんそれもあるやろ」
「私ね、思い出したと」
「なにを?」
私は唇を開きかけて、やめた。
まだ祖父や母が生きていた頃、美智恵さんのことはどことなくタブーになっていた。美智恵さんも、あまりこの家には寄りついていなかったと思う。若い頃は定職にはつかず、海外ばかり回ってはたまに日本に帰ってきてアルバイトをして、また海外に行くことの繰り返しだった。
なぜか美智恵さんは私には絵葉書をよく送ってくれて、行ったことのない遠い国から届く短い手紙を私は楽しみをしていた。でも、祖父も母もそういう浮き草のような美智恵さんの生き方自体にはあまり興味がなかったように思う。男っ気の極端になかった美智恵さんの私生活の方について、あれこれ言い合っていたような気がする。腹の中に散った癌細胞の所在が、当人にとって触れられない話題であるのと同じように、美智恵さんの私生活については表向き誰もなにも聞かなかった。
それでも見えないところにある癌細胞みたいに、この家族の中でくすぶっていた。特に祖母ははっきりと言う人で、盆休みに合わせてインドネシアから帰って来た美智恵さんに一度だけ面と向かって「男でも女でもいいけん、誰かいい人を連れてきんしゃい。あんたもいい加減落ち着かんといかんばい!」と怒鳴った。
男でも女でもいい。その言葉に一瞬だけ空気が凍っていたことを思い出す。その後は母が割って入ってうやむやになってしまったように記憶している。
「なんね、急に黙って…気になるやん」
美智恵さんが先を促すように濡れた手で私の肩を触る。優しい重みだった。この古い空間は、嫌でも過去を引きずり出す。
私は思い出したことをそのまま言おうか、ごまかそうか迷った。
「みっちゃーん」
私が言う前に、大きな声が割って入ってきた。
「ばあちゃん起きたみたいやね」
美智恵さんが振り返って呟く。
「珍しく私の名前呼んどるばい」
嬉しそうに言いながら、美智恵さんは布団の敷かれた和室に向かった。
美智恵さんに促されるまま、擦りりんごを祖母に勧める。
「ばあちゃん、りんご擦ったとよ。食べる?」
「あー、ありがとねぇ。お姉ちゃん可愛いねぇ…眞理子ちゃんやんね、先生探しとったんよ」
私はそっと美智恵さんを窺う。
そのまま話しを合わせてあげて、と目だけで合図される。
「うん、眞理子。先生ごめんねぇ」
「いいといいと」
祖母はいくらか小さくなったようだった。それでもスプーンを握って、ひと匙ひと匙すくってりんごを口にやっている。食べ始めの子どもを眺めるような心地でその様子を私も美智恵さんも見守る。
まだはっきりとしていた頃の祖母は気が強くて、頭の切れる人だった。美智恵さんに一度だけ怒鳴っていた記憶の中の祖母はもういなかった。時折誰かが見えるのか、虚空に目をやって独り言を呟いている。
「ばあちゃんはいつもこんなんなんよ、慣れると面白いもんやけど」
美智恵さんが爪楊枝でりんごを一つ刺しながら言う。
「ばあちゃん、今誰が来とるんね」
「今はね、好子さんと鶴田さんが来とるんよ。あの人たちはいかんわ、文句ばっかり言っとる」
「まぁ、ばあちゃんの方が偉いんやけん話し聞いちゃってな」
祖母は嬉しそうに頷いて、また何か呟く。
私は美智恵さんと祖母の様子を代わる代わる眺めて、その自然な会話に不思議と緊張感が解れていく。
あるがまま、過去の一切が流れていく。
「面白いやろ、好子さんも鶴田さんもばあちゃんの同級生なんよ。もう大分前に亡くなった人たちやけどね」
私は黙ったまま、りんごを頬張った。
「ばあちゃんは本当によく人の名前覚えとるけん、びっくりするっちゃねぇ」
美智恵さんはおかしそうに笑いながら、ばあちゃんを見つめた。
悲哀も不安もない時間だけが、流れていく。
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