第4話

「麦茶でいい?」

「あ、お、お構いなく」

「冷蔵庫、片付けないといけないから。飲んでもらえると助かる」


 からんと、氷の音を立てて、夏木の前にコップを置く。やけに可愛らしいクマがえがかれたそれは、手前にあったから適当に引っぱり出しただけだった。

 それを見て、一瞬、少女の表情がゆるんで、そのまま、泣きそうに顔をゆがめてうつむいてしまう。

 哲也はそっと目をらして、少女の向こう側にある窓ガラス越しの風景を見遣る。祖父が日々眺めていただろう、景色が映る。


「――ごめんなさい」

「何が?」

「私より、あなたの方が」

「どう感じるかなんて、それぞれだ。比較するものじゃない」


 言ってから、無愛想だったかと軽く後悔する。それでも、口にした言葉は取り消せない。

 窓の外は賑やかで、耳に痛いほどに蝉の声が聞こえる。きっと、暑いだろう。しおれた草木から、湯気が上がっているような気がしてしまう。

 夏木は、しばらく黙っていたかと思うと、グラスを持ち上げて一息に飲み干した。直接見てはいなかった哲也だが、音から、そうと察する。


「あなたの方が、時間を共有するべきだった。私じゃなくて、あなたが」


 いぶかしげに目線を戻すと、少女は、真っ直ぐに見つめ返した。端に、涙がにじむ。

 それが一層、せいを感じさせた。


「おじいちゃんと話をしていたら、本当にしょっちゅう、あなたや、あなたのお父さんの話を聞きました。嬉しそうで誇らしそうで、だけど、かなしそうで。連絡だってろくにないけど、守れた数少ないものだって、言ってました」


 季節の便たよりだけ、律儀に送ってくる人だと思っていた。

 影の薄い、利益も不利益ももたらさない人。

 血が繋がっていると言われても、実感などほとんどなくて。


「戦争で、沢山のものをうしなって、喪わせて、だけど、守れたって、守れて良かったって言えるものだって。それは私じゃなくて、あなたがきくべきだったんです。だから――ごめんなさい」 


 少女は、そう言って頭を下げた。

 肩に掛かるくらいの髪が流れて、陽にけていないうなじが見える。それが、まぶしくて痛々しかった。


 蝉の声が、遠離とおざかる。


 この場所で、祖父と少女は何を語ったのだろう。全くの他人の二人が、ここで、何を感じたのだろう。

 それを知る権利は、哲也ではなく夏木にあり、謝られるいわれはない。

 ただ、羨ましくは感じた。

 哲也は、そんな時間をむざむざと放棄してしまっていたのだ。選ばないことで、選択していた。


 グラスを動かすと、からんと、氷がなった。少し溶けて、角が取れている。


「ありがとう」


 祖父が暮らした、見ただろう風景の中で、哲也は、知りもしないのに、わかったような気がした。


「今年、祖父からの暑中見舞いに、遊びに来ないかって一言添えてあった。あれは、夏木さんのおかげだったんだな」

「…私?」

「ああ」


 父も、祖父を嫌っていたわけではなかった。何かと反対された祖母でさえ、嫌いではなかっただろう。ただ少し臆病で、決定的に傷付くのが厭だったのだ。

 祖父も、同じだったのではないだろうか。

 その背を、話を聞いてくれた夏木が押してくれたのだと、何故か確信する。


「良ければ、祖父の話を聞かせてくれないか。何も知らないんだ。さっきアルバムを見たら、俺の写真が貼ってあって驚いた」

「でも、私」

「すぐじゃなくてもいい。明日はまだここにいるし、多分、またそのうちに来るから。迷惑なら、無理にとは言わない」


 鳴いていた蝉が、休憩を決め込んだのか、一匹、ぱたりと鳴き止んだ。


「――はい」


 少女が肯くと、それを追うように、蝉の声が鳴り響いた。

 まだ暑く、夏がどこまでも続きそうな、そんな時間が流れていた。


 それは、祖父の残した置き土産だったかもしれない。

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記憶の底 来条 恵夢 @raijyou

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