第3話
バイトで休みを取ったのは、祖父の家に行くつもりだったからだった。そういう意味では、本来の目的通りに使われたということになる。
七月の末に届いた暑中見舞いは、例年通り流麗な達筆で書かれ、そして例年にはなく、「是非一度、遊びに来なさい」と書き添えられていた。
その気になったのは、何故だったかよく覚えていない。
しかし、即座に電話をかけると、実直そうな祖父の声は、わずかに嬉しそうだった。
哲也は、ぼんやりとアルバムをめくっていた。
写真が好きだったのか、本棚から大量のアルバムが出てきた。すっかり変色した古いものから、先日の日付の見られるものまで。
その中で人々は、ゆっくりと、あるいは急激に、年を重ねていっていた。
祖父の字で「哲也 ○歳」と書かれた写真が所々にまぎれているのに驚く。そういえば、母が生きていた頃は毎年写真を撮っていた気がする、と思い出した。送っていたのか。
古い写真の中で、祖父は軍服を着ていた。
酷く異質な物を見た気がして、哲也は思わず手を止めた。
そして、思い出す。幼年時に見た光景を。
――祖父は、祈るような、悔いるような、「怖い」とさえ言える表情で、きつく目を閉じていた。
たまたまそれを目にした哲也は、声をかけることもできずただ、呆然とそれを見ていた。
今にして思えば、
それは、数十年前に帝国主義の日本が断末魔をあげた日だったのだから。
「…ああ」
ふと、呟く。
開け放たれた窓からは、あまりに元気な蝉の鳴き声が聞こえていた。だらだらとつけたままにしているラジオからは、どこかで聴いたことのある、穏やかな曲。
大学の教養でとった、世界史の講義。契機は、おそらくはそれだ。
話を聞こうと、そう思ったのではないはずだ。
そう思ったならば、哲也は、当時を詳しく知るための勉強をして、それから祖父に会おうとした。しかし哲也は、そんな対策はしていない。
哲也にとって、数十年前の日本は、ただ、現在があるのだからあったに違いないはずの、過去に過ぎない。
例えその一部が途切れていたところで、実質的な問題はないはずの、そんなもの。知識は乏しく、実感は欠片ほどもない。
しかしそれを、祖父達は生きていたのだ。
今の時間を、おそらくはいつか生まれて育つ誰かが、知らずに過ごすように。
ぴんぽーん
「…ッ、はい!」
なるべく丁寧にアルバムを膝から下ろして、廊下に出て突き当たりに急ぐ。
鍵をかけていない玄関には、高校か中学のものだろう、夏のセーラー服を着た少女が立っていた。
「え…と…?」
「あれ?」
お互いに、顔を見合わせて驚いたかおをする。
美人ではないが、きれいな子だと、哲也は思った。とても
いや問題はそれではなくてと、そっと自分に突っ込みを入れる。
「どちら様でしょうか?」
「あの、おじいちゃんは? ああ、あなたがお孫さん? 息子さんの方じゃないですよね、いくらなんでも」
「…祖父とお知り合いで?」
「はい。あ、ごめんなさい、私だけ一方的に。ええと、夏木姫野って言います。おじいちゃんとは、高校の地域実習で知り合ったんです。久々に学校に来たから、お
「――」
どうやら祖父と仲が良かったらしいこの少女が、まだその死を知らないことが、鈍い重みをもたらした。
祖父の友人や知人には全て連絡したつもりでいたが、まさか、こんな年少の友人がいるとは思ってもみなかった。
お土産と言うからには、旅行にでも出かけていたのだろう。
「祖父は――、昨日、葬式を」
「お葬式? 出かけて、って、昨日――」
言葉に出しての自問自答の途中で気付いたのか、動きが止まり、表情が固まる。コマ落としの映像を見ているようで、奇妙な感じがする。
「…亡くなられたんですか…?」
「ああ。急だったけど、多分苦しまなかっただろうって」
表情をこそげ落とし動きを止めた少女は、しかし数秒で時を取り戻した。
哲也を見つめる目は、心なしうるんでいるように見えたが、泣いてはいなかった。
「お線香――上げさせてもらって、いいですか」
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