第2話
茉莉はカウンターの前に小さく座っていた。目の前に置いてある水はすでに空で、店主が水をつぎ足す。氷が涼やかな音を立てた。
茶色く柔らかい床と木で出来た机と椅子。橙色の柔らかい照明。さりげなく飾ってある花。この喫茶店の内装を見るといつも落ち着いた気分になる。ただ、今茉莉が落ち着いているのは内装のおかげというよりは、店主である柚木さつきのおかげであった。
さつきは二十代後半の美人で、穏やかな雰囲気を持つ女性である。この店を一人で経営している。料理ももちろんおいしいのだが、ここに来る客がこの店を好きになるのは、さつきの事が好きだからだ。みんなさつきの優しくて気さくな感じが好きなのだ。
「すみません、いきなり」
「いいのよ。それにしてもどうしたのよ」
茉莉は何があったのかおおまかに説明した。さつきは時折相槌を打ちながら、静かに聞いてくれた。その間も涙はぽろぽろと茉莉の頬を伝っていた。
「私、来るところ、ここしか思いつかなくて」
「そうなの。今他のお客さん誰もいないから、ゆっくりしていっていいからね。……何か飲む? ココアなんか飲むと落ち着くわよ」
さつきの気遣いがありがたい。
「それでお願いします」
「じゃ、ココアね。連くーん、ココア入れてくれる~?」
「連くん?」
「私のいとこ。最近お店手伝ってくれてるのよ。連太郎っていうの。あの子のココア、本当においしいの」
さつきがにこにこしていう。仲がいいんだろうな、と茉莉は思った。
「そうなんですか」
「ココアはサービスね。私のおごり」
「そんな、私が払います」
「いいのいいの。今誰も見てないからね、内緒よ」
さつきが人差し指を唇の前に当てる。それが十代の少女のように見えてなんだかおかしかった。
「ありがとうございます」
「いいのよ。よく来てくれるし」
さつきがにっこりと笑う。つられて、茉莉も少しだけ微笑んだ。
「私も学生の時苦労したわ、人間関係」
「さつきさんもなんですか?」
茉莉は驚いてさつきを見た。さつきが苦労しているのは想像が付かなかった。優しくて気が利いて、芯のある人。そんな人を誰が嫌うというのだろう。嫌われたり意地悪されたりなんて、そんなの、あり得ない。いやでも、人間関係に苦労するといっても、嫌われたり意地悪されたりすることに限らないか。気が合わない友達と一緒にいないといけないとか、それこそ茉莉みたいに理不尽に振り回されることだってある。
茉莉は首を傾げた。さつきの周りには彼女のようないい人しか集まらないのではないだろうか。類は友を呼ぶと言うし。違うのだろうか。
「あら、そう見えない?」
「だ、だってさつきさんすごいいい人だし……」
靴と靴をこすり合わせる。茶色い汚れが線になって伸びた。
「まさか、中学高校のときからこんな性格じゃないわよ。しかも今だってそんな『いい人』じゃないわ」
「えっ、信じられないです」
「そうかしら」
さつきが笑うと、厨房から少年が一人出てきた。
彼の歳は茉莉とそんなに変わらなそうだ。白いシャツに黒いズボン、茶色いエプロンを身につけている。背は高くすらりとしていて、黒い髪の毛はちょっとふわふわとしてた。ルナの好みだろうなあ、この人。
「姉さん、友達にこんなこと言われたって泣いて帰ってきたことあったもんね。りーちゃんがうんたらかんたらって」
「あら連くん」
湯気を立てているココアが目の前に置かれる。彼はにこりとして、「初めまして。柚木連太郎です」と言った。
「あ、ありがとうございます。坂田茉莉です」
「僕のココアは姉さんよりおいしいから」
一口飲むと、ココアの香りが口いっぱいに広がった。甘いけれど、決してしつこくない。
「残念ながらその通り。他の料理は負けないけれどね」
連太郎はそのうちそう言っていられないよ、と言う。さつきは「偉そうに言ってるんじゃないわよ」と連太郎を叩いた。本当の兄弟みたいだ。
「えっと、茉莉さん、大学生?」
「はい。大学一年です」
「僕も一緒だ。敬語使わなくていい?」
すでにため口じゃないか。
「いいですけど……」
「茉莉さんもため口でいいよ」
この人は気さくというよりは馴れ馴れしい。こういう人は嫌いではないけど、ルナのことを何となく思い出す。ルナはかなり馴れ馴れしいのだ。
思い返せば、ルナと初対面の時にも同じようなことを思っていた。高校に入学した頃、クラスで席がたまたま隣で、「よろしくね」なんて言っていた。そうしたら「お昼も一緒に食べようね」「一緒に帰ろ」「あたしたち友達だね」なんてことになっていて、気がついたときには高校の間ずっと付き合うことになっていた。本当は気の合う友達をちゃんと選ぶつもりだった。気の合わない友達と付き合い続けるのが辛いことは知っていたから。なのに、ルナの一人でいるとことを見られたくない、だとか、あたし友達たくさんいるの、だとかいう見栄のために茉莉は高校の間振り回されたのだ。とはいえ、やがてルナの自分勝手さが周りに知られるようになって、友達はだんだん減っていったのではあるけれど。
ルナがべったりくっついてきたから、一年のときはあまり友達ができなかった。部活のメンバーと、クラスに数人だけ。部活の子とはかなり仲が良かったけど、クラスの子は友達と呼んで良いのかすら分からないくらい付き合いは薄かった。当時ルナは友達がそれなりにいたから、その子たちとつるめばよかったのに、なぜか茉莉とつるみたがった。ルナがそっちに行ってくれれば、私は他の子ともっと仲良くなれたかもしれないのに。
あんたといるとすごい楽なの。気を遣わなくて良いから。ルナはそう言っていた。私は気を遣うんだけどな、ルナといると。
「どうかした?」
茉莉が考え込んでいるような顔でもしていたのか、連太郎は尋ねた。茉莉はカップを持ちながら答えた。
「いや、普通初対面の人にこんなことあっさり言うのかなって。おんなじ学校のおんなじクラスとかなら分かるけど」
「そう? 僕はいつもこんなんだよ。変?」
「私からしてみれば」
「そうなんだあ」
連太郎は大して気にしていなさそうだった。むしろさっきよりにこにこしていた。
「友達多いの?」
「どうしてそう思う?」
どう答えようか。
茉莉が迷っていると店の扉が開いて、鐘の音が響いた。弾かれたようにそちらを見ると、三人の客が中に入ってきたところだった。
「姉さん、そっちよろしく」
「え、でも……」
さつきが茉莉のことを見た。「茉莉ちゃんを置いていけないわ」という顔をしていた。申し訳ないと思うと同時に、心配してくれるのが嬉しくて、また涙が出そうになった。
「どうせ僕、飲み物しか入れられないんだから」
「何それ。普段お水出したりしているくせに」
さつきは微笑むと、「また後で来るね」と茉莉に言って、新しく来た客の方へ向かっていった。
「あのお客さん、ちょくちょく来るけど飲み物注文しないんだ。あの男の人は大体サンドイッチ。ちなみに食べ方がきれいじゃない」
連太郎がこっそりと言う。特に最後のほうは声が小さかった。
「よく見てるね。だから友達多いの?」
「あはは。だったらいいのにね。まず、友達が多いってところからハズレだ。僕は友達が少ないんだ」
「そうは見えない」
茉莉はすぐに言い返した。
多分だけど、この人は人間観察をよくやっている気がする。でないと、働いているときに細かく人のことを見ないのではないだろうか。
人のことをよく見ている人は、気が使える。気が使える人は好かれやすい。これは茉莉の今までの経験からきている持論だ。この持論が当てはまるなら、連太郎は友達が多いことになる。
「本当だよ。疑うんならツイッターのリア垢のフォロワー数でも教えようか」
「遠慮するよ。大体、何でツイッターのフォロワー数? ワケわかんない」
「僕の友達が自分の友達の多さを自慢するのに、ツイッターのフォロワー数見せてきたことがあるんだ。今それを真似しただけ」
「変なの」
「僕もそう思うよ」
「じゃあ何で真似したの」
「君ならおかしいと思うと思ったからだよ」
連太郎がくすくすと笑う。
試されたみたいでなんだか腹が立った。連太郎が何考えてるかよく分からない。わざと相手の心に引っかかる言い方をしている気がする。何のために? 分からない。
「怒らないでよ」
「そんなに怒ってない。……じゃあさ、何で友達少ないの」
連太郎を探ってやろう、どこか好奇心に似た反発が茉莉の中で膨らんだ。
「当ててみる?」
そういうところが腹立つんだって。
「連太郎くんが何考えてるのかよくわかんないから、無理」
「ええ、即答かあ」
「そもそも、初対面だし」
茉莉がぶっきらぼうに言う。連太郎はそれについては何も言わず、代わりにこう聞いた。
「あのさ、ちょっと聞いていい? 茉莉さんって初対面でこんなに喋るの?」
「……。喋らない」
言われるまで気がつかなかった。私、初対面の人にはこんなに話せない。しかもこんなぞんざいな話し方なんて、仲のいい友達でも相手を選んでるのに。大体、何でいきなりこんなこと聞くんだろう。
「僕の考えてること、分かんないかあ」
「さっきからそう言ってるじゃん」
「そうだったね。みんなそう言うよ」
何が言いたいんだか。
「クセなんだよね、こういう風に繕っちゃうの。そしたらさあ、高校のときちょっと気味悪がられたんだよね」
「それで友達が少ないんだ」
「うん」
どうしてそんなにあっさり頷けるんだろう。嫌みっぽい言い方もしたのに。
友達が少ないなんてことは、自慢できることではないだろう。友達が多ければ多いほどいいと思っているわけではないけれど、それでも少ないのは自慢にはならないはずだ。なのに、どうしてこんな風に堂々と肯定できるのだろう。
「中学の頃からだったかな。自分に自慢できるところが無くてね。表面だけ見栄っ張りっていうか、こう、自分の本質みたいなのを隠そうとしてたら、気がついたらこうなってた。でも、本たくさん読んでたり人間観察してたりしたおかげかな、人の気持ちにはそれなりに敏感だったんだよ」
連太郎はどこか遠くを見ていた。
「でもさ、相手からしてみたら、僕のことは分からないのに、自分は分かられているって感じなわけでしょ。みんな嫌がっちゃってさ」
「そう、なんだ」
「でも、僕は今そのことには悩んでない」
「何でよ」
茉莉の声は尖っていた。そしてそれを隠そうとしなかった。連太郎の開き直ったような言い方に苛立ったのだ。この胸にちくりと刺さるような感覚が、劣等感からくるものだと分かるまで少し時間が掛かった。
この人は対人関係に悩んでいたのから抜け出している。私はまだ中で苦しんでいるのに。うらやましいよ。
「自分は自分だって思うことにしたからだよ」
連太郎は笑った。
「簡単でしょ」
「簡単なもんか。信じられない」
「何度も言い聞かせたんだよ。自信が無くてもいいでしょ、僕は僕だよ。何も取り柄の無い僕の代わりはたくさんいるかもしれないけど、誰も僕にはなれない。僕は僕しかいない。友達が少なくたって、僕は僕。――ってね」
眉をひそめる茉莉を見て、連太郎は困った顔をした。
「納得いかないの?」
「私だって似たようなことやったよ」
「そうなの? 友達と縁を切って嫌われてもいい、それでも自分を認めよう。そう思った?」
「思えないんだよ。私には」
「どうして」
今度は連太郎が尋ねる番だった。その尋ね方は分からないから尋ねているのではなく、その先を催促しているような尋ね方だった。
「傷つけるのが嫌なんだよ。相手が誰であっても」
「優しいんだね」
「違うよ」
茉莉は吐き捨てるように言った。
「人を傷つけるようなことをする自分が嫌いなんだ」
ルナから離れるためには、ルナを傷つけなくてはならない。茉莉はそれが嫌だった。自分が誰かを傷つけることが嫌だった。自分がそういうことができる人だと認めたくないのだ。もしそれを認めてしまったら、自分の嫌いな人と一緒になってしまう気がした。だから、今まで縁が切れなかったのだ。
「他人を傷つけていなくても、自分を傷つけてるよね、それ。そもそも、人を傷つけずに一生を終えるの? それって出来るのかな」
穏やかな口調だった。とげとげしい言い方をする茉莉とは対照的だ。
「無理だよ。分かってて言ってるんだ、これでも。なるべく自分が自分を嫌いになることはしたくない」
「何をしても、君は君だよ」
ゆっくりと連太郎は言った。茉莉はうなだれて、小さな声で呟いた。
「……知ってるよ」
そうやって肯定できないから困ってるんじゃないの。やることは分かるけど。分かると肯定するは、違うでしょ。
「連太郎くんは強いね」
「そう見えるだけだよ」
連太郎が笑う。また胸にちくりと何かが刺さった気がした。
「ココアもう一杯貰える? 飲み終わっちゃった」
「ちょっと待っててね」
連太郎がココアを入れている間、茉莉はぼんやりと連太郎に言われたことを考えていた。
自分は自分、ねえ。私は今までちゃんと、言い聞かせていたかな……。
自分で言っていると、それはただの思い込みで、馬鹿みたいなことをしている気分になったことがある。確かその時にこう思ったはずだ。「誰かに言って欲しい」って。自分の言葉じゃないと信用できないから。他の人の言葉なら信じられるからって。
なあんだ、今連太郎が言ってくれたじゃないか。今日初めて会ったし、お互いのことも全然知らない。だけど連太郎は言ってくれたじゃないか。今まで言って欲しかった言葉を。
「はい、ココア」
目の前にカップが置かれる。
「ありがとう」
「二杯目いくとは、結構気に入った?」
「うん。おいしいよ」
カップを引き寄せて、茉莉は連太郎の方を見た。
「ありがとうね。すっきりした」
「え? どうしたの、改まって」
連太郎は明らかにたじろいでいた。茉莉の態度がさっきと違うのだから、仕方ない。
「ちょっと考えたら、なんかすっきりした。だからありがとう。それと、さっきはごめん。言い方、きつかったでしょ」
彼の言ったことが全てを解決するわけでもない。茉莉にとって正解とも限らない。だけど、今の茉莉の心は随分と落ち着いていた。それは連太郎のおかげだ。
「え、いや、別に……。むしろ何か、偉そうに言ってごめん……」
「ううん。ありがとう」
「いやあ、うん。――そ、そうだ。ルナさんとは連絡取れた? いつ来るのかな?」
「やっば。忘れてた」
時計を見ると、十二時近くになっていた。もうルナが来ていてもおかしくはない時間だ。慌ててスマホを取り出す。
「すっごい電話来てる。うわ、五分前についたみたいなんだけど、六回電話きてる」
「多いなあ」
「ちょっと電話してもいい?」
「もちろん」
電話をかけると、一コール目でルナは出た。
『ちょっとどこにいるの!?』
あまりの声量に思わずスマホを耳から遠ざけた。「声でか」と連太郎が苦笑いする。
『だいたい何で電話出ないの!? っていうかラインの返信もないし!』
「ごめんごめん」
『早くこっち来て!』
「どこにいるの」
『東口!』
「そこで待っててね。しばらくしたら行くから」
『しばらく!?』
茉莉は返事をせずに電話を切った。
「元はといえば、こっちが待たされたわけだし、ゆっくりココア飲んでから行ってもいいと思うの」
「はは、どうぞごゆっくり」
ココアを飲み終わるまで、連太郎とはしばらく話をした。大学の話や、趣味の話などなど。ルナのことが気にならないわけではなかったけれど、それでも他愛のない話をした。途中からさつきも混ざって、賑やかになった。
たっぷり十分は経ってから、茉莉は立ち上がった。
「今日はありがとう」
「うん。また来てね」
「来週も来ちゃうかも」
「楽しみだ」
茉莉が笑うと連太郎も笑った。
「さつきさん、今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ~。また来てね」
「はい」
代金を払って、茉莉は店の外に出た。夏らしい熱い空気が足下から這い上がってきて、思わずため息をつきかける。しかしそれを飲み込んで、連太郎とさつきに手を振った。それから、茉莉はゆっくりと歩き始めた。
誰に何と言われても、自分がどんな人でも、私は私。
姫椿喫茶店 椿叶 @kanaukanaudream
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