姫椿喫茶店

椿叶

第1話

 人混みに流されながら、池袋駅の中を歩く。ぱんぱんにふくれあがった鞄が人にぶつかりそうで、それを避けるために抱えながら歩いているから、坂田茉莉はなんだか大きな宝物を抱えて、それを誰にも盗られないように慎重になっている人のようにも見えた。

 茉莉は待ち合わせの場所に向かっていた。待ち合わせは東口である。時計をちらりと見る。十時五分、待ち合わせの時間を五分過ぎていた。はあ、とため息をつく。早く来すぎたかな。どうせルナは来やしないんだから。

 どうにか東口にたどり着く。一口に東口と言っても広いから、実家の近くの駅のように、駅に集合としよう、と言ってすぐに合流できるわけではない。けれど、茉莉には待ち合わせている友達を見つけられる自信があった。その友人である田村ルナは、背が高い上に、髪の毛をど派手なピンクに染めているからだ。おまけに服装もいつも髪の毛に負けないくらいど派手だ。今は通勤通学の人たちで混んでいるわけではないのだから、見つけられない方がおかしい。きょろきょろと見回すけれど、どこにもそんな派手な人はいなかった。遅刻だ。今日も遅刻に決まっている。

 念のために――そんなことする必要は無いとはよく分かっている――東口の外に出てルナを探すことにした。外に出ると、強い日差しがさんさんと降り注いでいた。その眩しさに思わず目をつぶる。ゆっくりと目を開け、目が慣れるまで待って、茉莉はゆっくりと当たりを見回す。案の上の結果だった。

 茉莉は再びため息をついて、日陰に戻った。今ちょっと外に出ただけなのに、首や額に少し汗をかいている。真夏みたいな暑さだ。まだ七月のくせに。八月がこれ以上暑かったら日本人死んじまうぞ。

 とりあえず汗を拭こう。そのうち垂れてくるし。そう思ってタオルを鞄から取りだそうとして、やめた。三分の一ほどまで開けたファスナーを強引に閉める。このぱんぱんにふくれあがった鞄から薄っぺらのタオルを取り出して、また仕舞える気がしなかったのだ。鞄がこんなことになっているのは、鞄のサイズに見合わない程の荷物を中に入れているからではない。きちんと整理整頓がされていないからだ。家を出るときにはすっきりと収まっていたのだ、もちろん荷物が多いのは否定しないけれど、単にそのせいではないはずだ。

 やっぱり、もうちょっと早く切り上げなきゃいけなかったな。

 茉莉は電車でぎりぎりまで勉強していたのだった。電車に乗ってからおよそ四十分。大学から出された課題の問題をひたすら解いていた。あと池袋までどれくらい? ああ、これだけ時間あったらもうちょっと進められるかな。あともうちょっと、もうちょっと……。そうやっていたら、気がついたときにはもうほとんど池袋の目の前だった。それから大慌てで教科書と筆箱をしまった時には駅のホームに入っていて、スマホをポケットに押し込んだ時には電車のドアが開いていた。慌てて鞄のチャックを閉めた時には目の前にいた人はほとんど降りていた。池袋が終点だったけれど、次に乗る人たちが待っているのは分かっていたから、ちっとも心が落ち着かなかった。はやく降りなきゃ、と思ったのだった。何か電車に忘れていないだろうか。慌てているときほど何かを忘れるものだ。

 それにしても、課題が終わる気がしない。明明後日提出の課題も終わってなければ、明日提出の課題だって終わっていないのだ。

ねえ、ルナ。今日丸一日つぶしてようやく両方終わるっていうくらい時間掛かるんだよ、この課題。講義の予習も復習もしたいんだよ。なんでルナは「大丈夫でしょ、茉莉は頭いいんだから」の一言で済ませられるの? 私今日は行けないって散々言ったのに、どうして聞いてくれないの。

 昨日、ルナから電話が掛かってきたのだ。

『ねえねえ。明日買い物付き合って~』

『ごめん。課題が多くて』

 ここで諦めてくれればよかったのに、

『ええ、いいじゃん。平気だって一日くらい』

 ルナはあっさりとこんなことを言った。

『一日? せめて午後からにしてよ。そもそも課題大変だから無理だって。行けないよ』

『一人だと選べないの』

『何買う気なの』

『かれぴの誕プレ』

『ふざけないで。行けないってば』

『ねえお願い。茉莉のセンスを貸して。いいじゃん。大丈夫でしょ、茉莉は頭いいんだから』

 ああ、ルナは私が行くって言うまで諦めないつもりなのだ。いつものことだけど。断る方がよっぽど面倒くさい。そう思って私は、「分かった」と言ってしまったのである。大体なんだ、「かれぴ」って。彼氏って言え、彼氏と。彼氏を友達に自慢するなら別にそれでもいい。でも、人にものを頼むときにそういう言い方するってどうなの。少なくとも私にはしないで欲しい。

 その後、高校のときから仲の良い友達に電話をした。その友達はルナと中学の時の友達だった子だ。

『あらま、まりっち、まだ振り回されているのか』

『ほんとに勘弁して欲しい。今から断れないかなあ、急用入ったって』

『それはすごい怒るぞ。穏便にいきたいならやめときな』

『だよね』

『でもねえ、あたしそういうルナが怒ること十回くらいやったら、急に無視されるようになったよ。この話は前にしたか』

『うん。すごい大変だったんでしょ』

『当たり前。まあ、わざとやったけどね。おかげで縁切れて清々したよ。まりっちも縁切りたいならこれくらいしないとダメだと思うよ』

 私、それは出来ないな……。

 わかった、ありがとう。しばらく話してから電話を切った。

 ルナは自分勝手だ。こっちの都合なんか考えちゃいないんだ。まして、私たちに煙たがられていることになんて気がつくはずなんかない。距離を置くならこっちから置かないと。でもなあ、それも怖いんだよなあ。

 茉莉は右手の親指の爪を人差し指にぐりぐりと押しつけた。イライラしたときや、気持ちの整理がつかなくて、胸の内で感情がくすぶっている時のくせだ。爪が短いときはちょっと指が赤くなるくらいで済むけれど、爪が長い時は跡がはっきりと指に残る。高校の時は指が赤くなっているのがしょっちゅうあった。

 赤くなった人差し指を眺めながら、もういいや、いつ来るのか聞こうと思った。ラインしてみよう。

 スマホを取り出すと、ちょうどルナからラインがきたところだった。

『今起きた』

 は?

 ごめんね、というスタンプが送られてくる。

 は? ふざけるな。

 ルナの家から池袋まで二十分くらい。でも支度にやつは一時間以上絶対使う。化粧は絶対してくるだろうし。ああ、もう嫌。

『ふざけないで』

『なるべく急ぐから~』

 急ぐから? それまで待てというのか。昨日あれだけ時間ないって事伝えなかったっけ。何考えてんの、あんた。

 返信もしないで、スマホをポケットに押し込んだ。

 早足に歩き始める。駅を出て迷わずに進む。

 自分勝手にも程がある。自分さえよければいいの? 大体ルナはいつもそうだ。自分に都合が悪いことは人に押しつけるし、人を平気で傷つけるくせに、自分がちょっとでも傷つけられるとものすごく怒る。そのくせ、人にどう思われているかを察する力はすごく低くて、自分が人に嫌がられていることに気がつかない。そうしてどんどん周りの人に嫌われていくんだ。

 本当は私だって、お前のことなんか大っ嫌いだ!

 大通りを抜けて、人気の少ない細い道を歩いて行く。汗だくになりながら歩いて、目的のお店の看板が見えたときには涙が出そうになった。爪の食い込んだ指がじんじん痛む。

 姫椿喫茶店。どこか大正ロマンという言葉を思い起こさせる看板とお店の扉。

 乱暴に扉を開いたが、カランカランという鐘の音は乱暴な音にはならなかった。いつもとそんなに変わらない優しい音だった。

「あら、茉莉ちゃんじゃない」

 店主の姿を見た途端、茉莉の目からは大粒の涙が溢れ始めた。

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