夕立ち

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 夕立を見ると思い出すことがある。八歳の同じ雨が降る夕方の夏だった。当時の俺は盆休みと言うこともあり、祖母の家に帰省した。


 父の実家は数歩先に山が見えて、虫が我が物顔でリビングを占拠するような田舎にある。比較して都会に住んでいるから、俺は祖母の家が好きだったし、祖母と祖父の関係も嫌いじゃなかった。夏になると、帰省が待ち遠しくなるほどだ。昼はそうめんを食べて、赤色のそうめんを探し出した。夜は父を連れて線香花火を嗜んだ。祖母は花火しているときの俺を見て、縁側で微笑ましく膝を立てていた。


 祖父母は俺に対して親切にしてくれていた。虫取りに行きたいと言えば麦わら帽子を被せ、虫除けスプレーを身体に振りまいた。そうめんに飽きたといえば俺を車に乗せて、近場の回転寿司に座らせてくれる。父も俺の自由奔放さに手を焼いていたが、子どものやることだからと一歩引いた目線でいた。でも、母親は俺を厳しく叱った。箸は綺麗に持ちなさい、外に出たら大声を上げない、相手には感謝を伝える。


 あの灰色で息苦しいマンションに住むときと同じように、変わらない目線で立っていた。父は実家に帰ると、『よくできた父親』を振る舞おうとして必死だった。母は俺に対して変わらなかった。裏で祖母からどんな冷遇されようが、強い人で居続けた。


 その日は夕立ちだった。ボール蹴りの最中に、空から雨を落とされてしまう。予定が変更され、実家に逃げ帰る。不満の心を引きずって、台所に踏み入れた。


 母は泣いていた。布を両目に被せて、肩を上下に揺する。決して笑っているように見えなかった。母の以外な一面をみて身体は縛られたように動かない。夕立ちが母の背中をよりいっそう悲壮にさせる。夕立をみるたびに、母の涙を思い出してしまう。俺は夕立が嫌いだった。



「お客さん。もう終点ですよ」



 俺はまどろむ瞳を押し上げ、肩に掛かる力を払いのけた。運転手と思わしき人の困惑した表情が視界に入る。横を向くと、車両の中は放課後の教室のように人の姿は居ない。静かな静粛だけが怖くなるほどたたずんでいる。


 どうやら、俺は電車の中で寝てしまっていた。



「すみません。今、起きます」


「あっ、落としましたよ」



 車掌は地面に落ちた定期を拾って渡す。



「学生さんなんだね。私姿だから分からなかったよ」


「いろいろありまして」



 いろいろって何だよ。俺の中で批判的な目が存在しており、それが俺のでまかせを冷笑した。人に笑われるのはたとえ自分であっても心の傷を広げてくる。


 俺はありがとうと口にしてから受け取る。右手の人差し指が同じところの指と当たった。年齢を感じさせるほどのシワがあった。人に触れたのはいつぶりだろう。


 俺は電車から逃げるように去った。



 定期にはミヤビ高校の三年生で、白石薫という名前が書かれている。右手に握りしめるのも邪魔になるから。ポケットにしまって、外の天気を伺った。



 鉛色の空が俺の頭上で暴れていて、迷惑な雨をこぼしている。外の景色は気分を落ち込ませるに十分だ。左手の腕時計は夕方を差している。



 携帯を開いてラインを開いた。そこに母の名前がないことを思い出し、舌打ちをする。携帯電話の電量は、通話するには心許ない。頭の中にある金額を計算し、ネットカフェへ泊まろうと決定させる。母にメールを打ち、浮かれる心を堪能した。俺は非日常を自ら踏み入れる。


 現在の駅にはネットカフェが様々に用意されている。その前に本屋へ立ち寄ろうと、興味本位で吸い寄せられた。


 駅前の本屋を来店し、店員のいらっしゃいませーが飛んでくる、そう予想していた。



「あれ、白石じゃん」


「へっ?」



 女性の店員はレジの前で指を差してくる。髪は金髪でピアス穴のある耳を晒していた。肌は日焼けした色で、瞳が蛇のように鋭い。



「桐嶋先輩?」


「久しぶりだなー!」



 桐嶋先輩は剣道部の先輩だ。中学の頃に在籍していた剣道部に、三年生の彼女がいた。女子からも人気者で誰からも愛されている。俺とは違った人種だった。そして、下に見て接したら拳が飛んでくるような危なっかしさは健在だ。



「あれ、お前どうしたの」


「電車乗り過ごしちゃいまして、夕立ち待ちです」


「あほじゃん。親呼べよ」


「あんまり気を遣いたくなくて、ネットカフェ行こうかな、と」


「だったら家まで送ってやるよ。今日は車で来ててさ」



 桐嶋先輩は年齢が下の後輩に優しく接してくれていた。何かあれば励まして、友達のことを心配する。人気の裏付けは計算されたものじゃなく、そういう星のもので生まれたのだ。



「先輩って、ここで働いているんですか」


「週五で810円。まあ、私でもできる仕事だなって思ったんだよ」


「先輩って本が好きでしたっけ」


「失礼だな。キャンキャンやアンアンは読むぞ」


「ハァ……」



 先輩は三十分後に仕事を終えるらしい。それまで、店内で暇を潰すことにした。自己啓発本コーナーに、話題作が並んでいて手に取る。本に人生を説いたら変人だろうか、自身の常識を照らし合わせながら影響を食らってしまう。


 知らない男性のビジネスを100ページ読んだ。すると、肩を叩かれ振り返る。私服姿の先輩が白い歯を見せた。



「行こうぜ」


「はい」



 先輩は俺のことを中学と同じように接してくれる。それが心地よくて甘えてしまいそうだった。



「お前ってさ。高校はどこにあるんだっけ」



 二人は本屋を出て、乾いた道を肩を寄せ合い進む。雨がひどく降るから人通りは少ない。



「○○です」


「野球強いところやん!」



 先輩は両手をスイングする。近くのコンビニでビニール傘を買って、コインパーキングに向かった。金額を払おうとしたら止められ、車に乗り込んだ。俺は助手席を促され、傘の水滴をドアを閉める前になくす。



「散らかってて悪いね」


「いえ、俺は助かりますから」



 ルームミラーに写真がつるされていた。目元は柔らかく頬はこけており、どこにでもいるような黒い髪の男性と、同じ金髪の先輩が肩を組んで並んでいる。



「私の彼氏だよ。これ」



 そこから写真のひもを取り外して、手元に回収される。


 先輩、人とつきあえたんですか。知りたくなかったという文字が頭の中でかすめて、消えていく。失礼な上から目線が唇の裏についた。俺は何に期待しているんだ。



「いやー、アイツも困った奴なんだ」



 車はエンジンがかかり発進する。車内は鍵を回された返事を振動でかえした。コインパーキングを出て、コンクリートの段差を踏む。



「アイツはメジャーデビューする夢があってさ。私が支えてやらないとダメなんだよ」



 先輩は身の上話を語りたがる。これは話を聞かないと止まらないだろうなと気付く。俺は彼女の話を真摯に聞くと耳を傾けた。



「どこで知り合ったんですか」


「友達の友達ってやつ。たまたま、男友達と話していたら彼が入ってきた。それで、私は彼と打ち解けたんだ」


「曲は聴いたんです?」



 車の画面を操作してスピーカーから曲が流れてくる。アルペジオとしんみりした声から始まり、ドラムの刻みからパンクロックのように盛り上がっていく。今時珍しいスリーコードが耳に残る。彼氏はスリーピースバンドに在籍して、手垢の付いた希望を歌っていた。



「良いだろ?」



 古いなと思った。



「良いですね」


「私だけが彼を理解しているんだ。だから、彼のために金銭を支えている」


「要求されるんですか?」


「要求って、ひどくないか」


「すみません」


「いや、正しい。要求、そうだな。金を貸している」



 先輩は要求という言葉を反復する。俺の纏めた発言が予想よりも深く突き刺さってしまう。言葉に気をつけないといけない、そう心に決めても明日には間違えてしまう。



「次第に金の要求は多くなっている。そのたび、本当に彼が好きなのかなって分からなくなる。何してんだろうって」


「先輩」


「悪い、変な話をした」



 夕立ち。母の弱音。俺の中で過去が駆け巡る。


 きっと先輩は壁打ちしたかっただけ。それでも、応えたかった。



「俺って夕立が嫌いなんですよ」



 助手席の窓は水滴がついている。上からなぞるにも届かない方に落ちていた。



「昔、外で遊んでいたら雨が降ってきて。それで、家に帰ったんです」



 なぜ、過去のことを話そうとしているのだろう。俺は場所に浮かされて口が滑る。これは他人の同情を買おうとしていると、客観視できても止まらなかった。



「そしたら、母が台所で泣いてました。俺は母の弱さを見てしまったんです。声を掛けられませんでした。母は、泣かないように我慢して、一気に吹き出したんです」


「それは、残酷な過去だな」


「先輩は、彼氏と話し合いました?」


「話せない」


「俺も母に話せなくて、親に連絡できませんでした。負担をかけるのが怖いんです」



 傘を足の間に挟んだ。取っ手を両手で回した。



「今日は、話してみようと思います」


「君は強いな」


「強くないです。ただ、雨のせいで気分がおかしくなっているだけです」


「私は、彼に言えないかも」


「俺に言えるから良いんじゃないですか?」


「無責任だな」



 車は右に曲がった。青信号は水滴で二つになる。先輩は水滴を横に追い出した。



 車内では三曲目にさしかかる。彼氏の曲は5曲収録のミニアルバムで、同じようにパンクロックを模範した曲が流れていた。どれも聞き覚えのあるフレーズに、真に迫らない歌詞は元カノのことを歌っている。



「雨、上がると良いな」


「そうですね」



 そこから、俺と先輩は健全な方に話を戻した。心の内を話し続けるのは危険だと、本能で察したからだ。俺たちは過去のように先輩と後輩だけど、背負いものが変わってしまった。それに順応しなければならず、過去に縋れば取り返しの付かないことになる。


 先輩は上っ面の話を永遠とする。おそらく、どうでも良い友達に話すような内容だろう。だから、俺も場つなぎの相槌をした。



「今日はありがとうございました」



 車は近くのコンビニで停車する。俺はそこから記憶を頼りに帰って行った。




 後日、本屋に訪れた。そこに先輩の姿はなかった。俺は再会しないと見越して、会話していた。だから、寂しさはない。


 今日も雨が降りそうだった。前の傘を持って、夏の夕方に帰る。どれだけ嫌でも。

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夕立ち 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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