11年目。
月庭一花
1
電車に揺られながら、窓の外を見つめていた。
冬の冴えた月の下に、ネオンがきらびやかに光っている。道路は渋滞しているのだろうか、のろのろと進む車列のテールランプが、ずっと赤いままだった。
満員電車の窓に押し付けられたまま、わたしは空を見上げた。街の明かりが眩しすぎて、星はほとんど見えない。月だけが浮かんでいる夜空。それはとても寂しげで、なんだかわたしみたいだな、と思った。
最近、あまりここには来ていなかった。
小さなアパートに灯るオレンジ色の電燈を見ながら、不意にそんなことを思う。鬱陶しくて再び切ってしまった髪は、肩口のあたりでさらさらと揺れる。毛先が首筋に触れると、自分の髪なのに少し冷たくて。吐き出した空気が、白く濁って夜空に溶けていく。去年リアからもらった腕時計を見ると、約束の時間を少し、過ぎていた。
ああ、そうだった。去年乾杯したときは、白ワインだった。なぜかふと思い出した。クリスマスの日、ふたりでお祝いしたのが遠い昔のように思える。どうして、忘れてしまっていたのだろう。
赤ワインのボトルをぶら下げて、少し錆の浮いた手すりを避けながら、ゆっくりと階段を上っていく。どうしてわたしは赤ワインを選んだのだろう。疲れが鉛のように体にこびりついていて、足取りは象のように重い。……けれど。
「あ、帰って来たっ。よく来たね、ヒジリちゃん」
「リア……」
玄関の扉がパッと開いて、おたまを片手に飛び出したのは、満面の笑みをたたえたリアだった。彼女は変わらない。何も変わらない。わたしが来訪したことを、絶対に見逃さないのだ。
天真爛漫で、屈託のないその笑顔を見ていると、不意に涙がこぼれそうになって、わたしはただいま、と言った。わたしたちの飼い猫である絹子が、玄関先まで出てきて、わたしの足に頭をこすりつけてきた。
「ヒジリちゃん随分遅かったんだね。わたしもね、今日ね、学童の子たちとね」
「待って。コートくらい脱がせてよ。相変わらずなんだから」
苦笑して、後手に玄関の扉を閉める。暖かい空気。やわらかな光。美味しそうな料理の匂い。
「ちょっと疲れた顔をしてるけど。お仕事大変なの?」
「そうね。……いい加減、慣れなきゃいけないとは思うんだけど」
今年の春。わたしは転職した。そして、自分がもうそれほど若くはないのだということを、思い知ることになった。
二十六、といえば、ひと昔前はクリスマスケーキの売れ残り、なんて言われていた。二十四、二十五を過ぎて、誰も見向きもしない、と。
わたしはコートを壁にかけながら、ちらりとリアを振り返った。エプロンをして、おたま片手に料理をしている姿は、いかにも楽しげで。溌剌としていて、若々しくて。まるで悩みなんて、何一つないようにさえ、思えてしまう。
わたしはそんな彼女に嫉妬していた。嫉妬していて、嫌な感情を彼女に抱いてしまう自分自身が許せなくて、……足が遠のいていた。
「ねえ、リア」
わたしはリアの背中に向かって、小さく声をかけた。
「あ、まだもうちょっとかかるから。ヒジリちゃんは絹子を遊ばせてて」
「リア」
「お腹すいちゃったの? でも、もうちょっと」
「……リアっ」
「な、何? 大きい声だしたらびっくりするでしょ?」
わたしは無言でリアに近づき、ぎゅっと、正面から、彼女のことを抱きしめた。
「わ、なっ? ちょ、ちょっとヒジリちゃん、料理中にそんなしたら、あ、あぶっ」
「わたしって、なんなのかしら」
「え、えぇ?」
わたしはどんな答えを期待していたんだろう。慌てふためくリアを見ていたら、なんだか自分が情けなくなってしまった。
「……ヒジリちゃん、泣いてるの?」
「泣いてない」
「そっか」
「そうよ」
リアの手が、わたしの髪を、優しく撫でた。まるで子供にするように。
「お疲れ様。今日はクリスマスでヒジリちゃんの誕生日だからね。去年と同じジンジャーのチキンソテーを作ったんだよ」
「……ありがと」
鼻をすすると、小さな何かが、わたし心を通り過ぎていった。去年と同じ。その言葉が、わたしの中の黒い塊を少しだけ溶かしていった。
そっと手をほどいて、わたしたちは離れた。目を合わせられなくて、足元の絹子を拾い上げる。にゃー、と鳴きながら。絹子はわたしの腕からするりと逃げていった。
「何か手伝うこと、ある?」
「うーん、そうだなぁ。あ、テーブルの上、拭いてくれる? さっきまで絹子がぺたぺた歩き回っていたから」
「……わかった」
リアは、気付いているんだろうか。わたしが苗字ではなくて、リア、と……名前で呼んでいることに。
アルコールティッシュでテーブルの上を拭く。リアの邪魔にならないようにオープナーを台所の引き出しから取り出して、ワインのコルクを開ける。それを見たリアが、これ、つまみにして、と言いながら、わたしの前に冷蔵庫から取り出したカットチーズを置いた。
「先に乾杯だけ、しちゃおうか」
「……料理ができるのを待つわよ」
「いいのいいの。わたしも料理しながら軽く飲むから」
「それじゃキッチンドリンカーじゃない」
「あはは、そうだねぇ。上手いこと言うねぇ」
リアは手際よく調理を進めていく。そしてふと、彼女だって今日は仕事だったんだ、と思った。
わたしのために、せっかくこうしてもてなしてくれているのに。わたしは、一体何をやっているんだろう。
「リア、一緒に料理しようよ」
「えー、狭いよ?」
「大丈夫よ。わたし、細いもの」
「……それって、わたしが太ってるみたいじゃん」
くすくす笑いながら、わたしは彼女の隣に立つ。わたしの手にしたボトルを見て、じゃあ、飲みながらお料理しちゃおっか、と。リアが笑う。
……彼女は何も変わらないように見える。でも、きっとそう見えるだけ。……変わらないものなんて、この世には何一つないのだもの。だから。
とくとくと。ワイングラスが赤く染まっていく。
情熱的な、真っ赤な色に。
「乾杯」
軽くグラスを持ち上げて、わたしたちは笑いあう。
今日、わたしが彼女よりも先に酔い潰れなかったら。
リアに、好きだって言おう。
11年目。 月庭一花 @alice02AA
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