愛憎の具体例

河條 てる

汚らしいこの世界

「なあ、俺と…結婚してくれないか?」


 精一杯の勇気を振り絞り、街頭に照らされた彼女にそう告げる。淡い桃色の口紅が可愛らしく、涼しげな白のワンピースは彼女の魅力を掻き立てる。黒の髪が棚引き、見開かれた眼が折原の方を向く。

 驚きに満ちたその目と折原の視線が交差した。突飛な求婚ではなかった。彼女、小原鈴香と彼は大学で共通の友達の紹介で知り合い、以来5年間恋仲として、しかもこの1年間は同棲までしている。自分達の家に向かう途中、まして今日は久しぶりのデートで雰囲気も決して悪いものではなかった。自分達のの生活が安定してきた確信もこれからの貯蓄も2人でささやかな幸せを謳歌できる程度にはあった。

 だから今日彼は1歩踏み出した。

 時間が止まってしまったようなとある住宅街の帰宅路に、彼等はふたりぼっち。ひぐらしの鳴き声だけが彼等の世界に時間の経過を教えた。


 一筋、彼女から涙が零れる。彼は成功を確信する。この日の為に数多の先輩に聞いた。曰く、女はプロポーズすると泣くことが多いわ、抱きしめるの忘れちゃだめよ輝一くん、いつもは苦笑いで流す食堂のおばちゃん達の話も真剣に聞いたのだ。


 少し前を歩いていた彼女を抱きしめようと、彼は歩み出す。


「ごめんなさい」


 予期せぬ言葉に頭がフリーズする。今、鈴香はなんと言った。たった一言、ごめんなさいが頭の中で反響する。結局、噛み砕くことも出来ずに、聞き返す。


「ごめんなさい…輝一…。私は貴方と結婚出来ない」


 2度目の拒絶にみっともなく、涙が溢れる。断られるなど、考えていなかったのだ。5年間交際を続け、この1年は同棲までして、今日だって2人でいつも通り、華美でも特別でもない平凡で幸せなデートだった。なのに。


「今は…今は出来ないだけ、だよな?」


 涙が流れているのに、誤魔化しきれないと言うのに、笑顔を必死に作る。

 彼女は淡い期待を裏切り首を横に振る。悲痛なその顔に、一層の困惑と一抹の怒りを確かに感じた。


「なんで?俺が何したの…?」


 分かっている。これは気持ち悪いうえにダサいし、かっこ悪いし、未練がましい。でも、彼女に結婚を断られた彼に形振り構っている余裕はないし、どうしても知りたかった。


 折原輝一。彼はこの質問を生涯悔いることとなる。


「私、お腹に違う人の…子供がいるの」



 ☩





「先生!!」


 その声で資料に向けていた集中が途切れる。制服で駆け寄るその生徒を一瞥し、意識を資料に戻した。


「ここは職員室だ。他の先生の迷惑になる。大声を出すならグラウンドに行け」


「ごめんなさーい。で、ここ、教えて」


 彼女はそう言って問題集を突き出してくる。その顔は喜色に染まっており、悩み抜いて解法を問うているようには見えなかった。とはいえ、勉学の質問を無下に扱うことは出来ず、ため息混じりに席を立った。隣の酒井先生は同情の眼差しを向けていた。


「…先に言おう、阿賀大学を目指すならこういった高い難易度の問題はまずでない。」


 そう言っても、彼女は微笑みを崩さない。職員室の前の自習スペースで隣合うのが彼女というのは少し前の彼女が聞けば恐らく気だるそうに嘲笑するのだろう。


「でも、これが出来るようになれば阿賀怖くないじゃん」


「否定はしない。ただ、一つを極める前に多くの基礎を固めなさい。古文、リスニング、数Ⅰ、この当たりが足を引っ張ってる今、物理に必死になるのは褒められたことじゃない」


「うん。だから物理はがっこーだけでやるようにしてる。その辺は家と塾で上手いことやってる」


「ならいいんだ」


 そこで話を切られたことが不服そうにこちらをジト目で見つめる。その程度で怯んでやるほど神経は繊細じゃない。


「これは確かに難しい。でも、一つ一つ別と考えて立式すれば少しずつ掴めてくる。まず、床の角度、反発係数を考慮したうえで、水平方向の速度ベクトルを考えると…」


 説明を始めると慌てて食い入るように自分の答案と問題集の模範解答、説明を見比べ、考えが及ばなかった点を探し始める。

 過去の素行は悪いし、今だって偶に注意を受ける。だが、一度目標を定めた彼女は実に教えがいのある、熱心な生徒だ。


 ☩


 つまらない話だ。


 私には12も歳が離れた姉がいた。

 幼い私を気遣い、私の面倒をよく見てくれたことを覚えている。

 ある時、姉は男の人を連れてきた。彼は身長が高く、少し目付きも悪かった。でも気さくで、コロコロ表情が変わり、面白くて優しい人だった。父と母も彼をいたく気に入っていた。もちろん、私も。


 ところが私が13歳の時、姉はなんの前触れも無く違う男の人を連れてきた。身長は彼よりは低かった。彼とは違って睨むような目ではなかった。彼のように百面相などせず、ずっとニコニコしていた。とても優しそうだけどとても、とても嫌いだった。


 その日の夜その男の人と同じ食卓を囲んだ。男の人の目の奥には何も無いように見えて、それでも笑顔を崩さないでいて、不快極まりなかった。その日は逃げ出すように早く寝た。そして、久方ぶりの父の怒号で夜中に目を覚ますのだった。


 それ以降しばらく姉を見ることは無くなった。


 4年後の高一の夏、私の家に再び姉が帰ってきた。小さな子供を連れて。姉は少しやつれていた。父は最初追い返そうとしたけど、その姿を見て、何も言えなくなってしまった。父母と姉の間に会話が起こることは無かった。そして、私の日常が狂って行った。


 段々と家に帰る時間が遅くなった。段々と派手な遊びが増えた。段々と家に居る時間が少なくなった。


 ちゃちな私はそれでも法を破る事も出来ず、親に毎日の様に叱られ、姉は目も合わせず、姉の子はただただ姉の影に隠れていた。


 高二の新任式で、忘れもしない彼を見た。物理の新任の教師として赴任したそうだ。この時テストの結果も芳しくない私は理系の落ちこぼれだった。ぶっちゃけ文系の方が楽だったけど、派手な友達の一人が理系に行くと言い出した時道ずれにされた。彼女には感謝しかない。


 物理の授業での彼はあの頃とは真逆で無表情に淡々と、でも分かり易く解説していた。


 彼は私を覚えていなかったし、小原鈴香の妹と気付いてはいなかった。それもそうだ、小学生の頃と、校則違反のメイク済みの今とでは顔も身体も全く違う。


 多分、私は彼の事が好きなのだ。小学生だったあの頃からずっと。あの陽だまりを求めている。失ってしまった陽だまりを。


 彼に積極的に接触した。彼に見放されないようにまた勉強を頑張った。あの頃の彼が惚れていた姉に少しでも近付こうと派手な事も控えた。


 陽だまりを遮った暗雲を疎ましく思った。


 暗雲を断ち切れるように私が風となろう。それでもダメならば、せめて彼が暗雲を霧散させる手助けをしよう。


 ☩


「……以上となります。何か質問はありますか?……それでは面談は終わりです。これからも頑張ってください。どうもありがとうございました」


 そう言って彼は立ち上がり、保護者と男子生徒に礼をする。少し母と子の間に認識の齟齬があったが、支障をきたす程では無いし、生徒は自分のビジョンをしっかり持っていた。良い面談と言えるものであった。


「先生、こんちはー」


 親子の退出を見送ると小原凛華が入ってきた。夏休みに行われるこの面談には相応しいとは言えない気の抜けた挨拶だった。


「こんにちは。保護者の方はどちらに?」


「あれ?お姉ちゃん?早く!」


 そう呼ばれて中に入ってきたのは小原鈴香、元恋人だった。少し気まずそうに目を逸らし、小さな声でよろしくお願いしますと呟いた。元気に溢れていた彼女は見る影もない。記憶の彼女より、少し痩せているし、顔も俯き気味だ。

 そんな彼女にこう告げた。











「どうぞおかけください。凛華さんも。立ったままでは面談になりません」


 彼女らはその言葉に戸惑いつつも、椅子を引いた。やはり、目は合わない。


「先生、お姉ちゃんと知り合いなの?」


 凛華はこちらを見た後、侮蔑を隠さず、何処か見下すように保護者として訪れた姉を見た。その瞳に怯える鈴香は別人のようだ。いや、瞳だけではない。彼の答えにもまた、怯えているようだった。


 エアコンの駆動音と蝉の声の不況和音がとても不快だった。


彼が口を開く。











「それは今面談に必要ですか?」


 彼の言葉に2人は唖然としていた。彼はそこで、凛華もまた、多少なりとも事情を知っていることを察した。彼は少し溜息を吐いた。


 意を決したように鈴香が口を開く。力のないその声は彼女の物と、彼は思えなかった。


「輝一…その……」


「保護者様の事情は凛華さんの進路に関係しておられるのでしょうか」


 彼は静かにそう問いかけた。驚く程優しい声音で。だが、鈴香と凛華には頑なな意思を感じさせた。


 拒絶


 これ以上関わるなと言う警告。


 面談はその後静かに進んだ。


 ☩


 思えば私達姉妹は揃って彼に甘えていたのだろう。彼の意思を鑑みる事なく、彼に接触し、尊厳を踏みにじり、傲慢にも復讐を焚き付けた。


 そりゃ、拒絶もされる。私の心は急激に冷めていった。彼への思慕が消えたのではない。自らの行いがまるでからだ。自分勝手に振舞っておいて、被害者気取って泣き目を見て、大切な何かを踏み付ける。


 ごめんなさい。私達は貴方に近付くべきじゃなかった。出会ってはいけなかった。もっと早く気づけば良かった。


 零れ落ちる涙に怒りを感じながら、嗚咽が漏れるその教室から離れていった。


 ☩


 どうしようもなく彼女、小原鈴香を愛していた。だけど裏切られた。その事実を思い起こす度に悔しくて悔しくて涙が零れ落ちる。


「おい…なんだよ。誰だよ!!お前!!」


 それだけならまだ良かった。自分が恥を晒しただけなら。彼女はやつれていた。左手の薬指に指輪などなかった。彼女は家族からも愛されていないようだった。


「ヒィッ!!やめろ、来るな!!」


 全てはこの男のせいだった。


 金槌を汚物に振り下ろした。


 グシャリと、全てが終わる音がした。

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