まさかKanonの話から始まるとは思いませんでした。脱帽です。
(ちなみに泣きゲーと言えば、私は「加奈 〜いもうと〜」ですね)
なるほど、確かに成人指定の美少女ゲームの歴史が
ネット小説に関わっていたというの説には、頷けます。
2000年前後の流れでは、確かプレイヤー層も
純愛系と鬼畜陵辱系とに分かれており、
相容れない存在だったと認識しています。
純愛系では結ばれるヒロインは一人の事が多く、
鬼畜陵辱系では個別クリア後にハーレムルート等が多かったと記憶しています。
たしか前者である「君が望む永遠」においては、
ハーレムルートはバッドエンド扱いになっていましたね。
その後ハーレムが増えたのには、
ラブひなの大ヒットが陰にあったようにも思い出します。
懐かしい話です。
ウェブ小説と二次創作の歴史を振り返りつつ、創作に必要なことを教えてくれる納得の考察です。
書きたいから書く、手っ取り早いから書く、書きやすいから書く、評価されたいから書く、金欲しいから書く、何かにダメージを与えたいから書く。
理由はそれぞれありますが、作者が書く理由を選べる自由があるわけです。
テンプレだから書きたいんであって、テンプレしか書くことを許されないわけでではない。
テンプレで書こうという自由を認めるとそりゃ自由にみんなが書いてテンプレばっかりになる、スタージョンの法則のようにこの世の九割が屑ナノは避けられないので母数を増やせば名作も生まれる、母数は正義。
この論考は、創作の自由の話でもありますよね。
理由は何であれ、書きたいものを書き、読みたいものを読む、そのほうが名作も生まれて文化生活も豊かになる。金銭面でも豊かになれば作家が食えるようになって自由に書きたいものを書き、いいものが生まれてくれるはずです。
ネット文化もそうですが、創作に必要なものは自由だったのだと改めて教えていただきました。
いわゆる「なろう系」というものを完全に理解しているわけでは
ありませんが、近年の出版業界におけるそのジャンルの破壊力は
絶大であり、こういうものを書けない自分は書くべきではなかったし、
書いたものを評価してもらえないからと言って傷つくのは自己責任、
と思っていました。
でもなんだろう、この作品を読み終わって思ったのは、「自分は自分
でいいんじゃない?」ということでした。
「なろう」じゃないものを「なろう」と同等に世の中に浸透させるのは
恐らく一朝一夕には無理なのでしょう。あるべくして、世の願望の形
として「なろう」文化はできあがったのだとわかりました。
いつか「なろう」も歴史として語られる、そんな時代が来るんでしょう
かね。