封印師の家系を継ぐもの

麻屋与志夫

封印師の家系を継ぐもの 第一話2007年、なにかがうごきだす

     


     


「このブラウンストンの建物は、混沌の上に架けられた橋なんだ。地獄の門と現世の境界とが連結するところなんだ。現世の天使である歩哨が部署について、地獄の軍勢を見張っている場所なんだ」

      『悪魔の見張り』 ジェフリイ・コンヴイッツ 高橋豊=訳


1 2007年鹿沼。なにかがうごきだす。


「あの橋……そのうち解体されるのよね」

 川端彩音の声は澄んだハイトーンで耳にこころよく響く。彩音は高架ブリッジの『幸橋』を見上げている。黒川でへだてられている国産繊維の東西の工場をつなぐ橋だった。女工さんたちの明るい未来をねがって名をつけられた幸橋だ。その橋もいまは、赤錆びて朽ち果てている。

 彩音は古風なうりざね顔をカワュクすこしかしげて、橋からさらに青空へと視線をはねあげた。空から降ってきた声かしら? どこからか声が聞こえた。だれかに呼びかけられたような気がした。

「どうしたの、彩音」

 かたわらにいる仲良しの尾河慶子が聞き返す。

「慶子、いまなにかいった」

「あら、どうして」

「高いところから声がふってきたようだった」

 彩音は慶子を見上げている。

「それって、わたしを朝からオチョクッテいるの」

 どうやら、慶子に誤解されてしまった。

 バスケ部のデヘンス慶子も東中学の同じクラス、2年生。175センチもある。まだ背はのびている。

「そんなんじゃないって。空から声が降ってきたと思ったのよ」

「わたしがスカイクラッパーだってこと。それって、わたしが半鐘泥棒だってこと」

 彩音は慶子のあまりに古典的な表現にケタケタケタと笑って応えた。超高層ビル。英語だけでもわかるわよ。半鐘に手が届くほど背が高い。超高層ビルのように起立している。

 白髪三千丈という誇張表現ではないが、これはもう英語のskyscraperのほうがベターね。

北関東は鹿沼。舟形盆地の初春の朝空はピーンとはりつめている。

 盆地にある街。北に古賀志山。西に岩山があるので雷鳴が反響する。とんでもない方角から聞こえてくることがある。いまも、春雷でも空で騒ぎたてのかと彩音は思った。

 彩音は立ち姿そのものが一幅の掛け軸になっている。この歳にして日本舞踊の名取、純日本的な美人なのだ。

 空から音が響いてくる。ときには四方から音源のわからないあいまいな音が聞こえる。

 だから、こだまかしら。だれかが高いところでヤホーと叫んだのかもしれない。と彩音は思った。とくにこの幸橋の下を通るときにはいつも耳鳴りがするのだった。

 日本髪をどうしても自毛で結いたい。校則違反なのだが、特別ゆるされている長い黒髪が朝風になびいている。

 まさに鹿沼川端流の舞手としての美少女だ。

「橋の下、歩くのコワイモノネ」

 慶子がからかわれているのではないと知って話題をもとにもどす。彩音の最初の問いかけに答える。

 橋には両サイドの昇り階段はない。

 彩音には幸橋を渡っている人影の記憶はない。幸橋は彩音の幼少のころからすでに渡れなくなっていた。

 東西の工場をむすぶ国産繊維専用のこの橋は黒川の上に架かっている。高架橋で階段を昇らないと渡れない。

 工場が縮小され、両側の階段がきり離された。いまは、なんの役にもたっていない。使用価値のない。トムソン橋だ。

 西工場と女子寮の跡地はヨーカドーになっていた。

 それもあまりに売上がのびないので撤退してしまった。

 いまは、ヨークベニマルとホームセンターVIVAになっている。

「垂れ下がっている鉄板が落ちてきたらケガをするわ」

「しょうがないわよ。百年モノの橋よ」

 鹿沼の幽霊橋。

 そのうちスクラップとなる運命の古い橋。

 鉄骨の橋げた。

 欄干。

 橋脚。

 どこもかしこも赤サビだらけ。

 それでも、鹿沼の全盛時代を思い出させる懐かしい橋。

 朝日に照らされている。黒川の河川敷きは冬の終りの雪がとけた。枯れ葦が川風にそよいでいる。

 凛とした川風が彩音と慶子の頬にここちよい。

 まだ、寒い朝があるが、春はそこまで来ている。

 図書館の駐輪場を横切る。

 まだ、時間が早いので、自転車は一台もない。

『川上澄生美術館』の前にでた。

 川上澄生の版画がいつでも展示されている日本で唯一つの美術館だ。明治時代の西洋館を模した赤レンガの建物だ。川上版画を立体化した風情がある。

 正面玄関に東中学校のオケラ部がせいぞろいした。

 横断幕を手にしている。

「ええ、これってなぁに」

 彩音はおどろく。

『川端彩音 川上澄生版画大賞 おめでとう』

 やだぁ、こんなドハデナカンゲイ会なんて。

 わたし、こまる。

 コッパズカシイよ。

 こんなの、聞いていないよ。

「サプライズ・パーテイよ。彩音、おめでとう」と慶子。

「彩音、おめでとう」

「おめでとう」

「ダブル受賞だね。版画大賞と県演劇祭の演技賞」

「彩音ちゃん。おめでとう」

 合奏の音が高鳴った。

 曲は校歌だぁ。

 てれちゃうな。

 バンとシンバルが彩音の耳元でひびいた。

 フラッシュがたかれた。

 彩音と慶子は逆光線のなかに立っている。

 写真部の長原洋平まできている。東中のパパラッチ。学校新聞のフトッチョのカメラマン。美少女のオッカケ。特に彩音の――。

 カメラのフラッシュがまばゆい。

 フラッシュ、が彩音の瞳をカッとあぶる。

 フラッシュ。フラッシュ。

「もう一枚」

 洋平から元気な声がとぶ。

 彩音は戸惑いながらも、ピースサインできめる。

 慶子がいつのまにか気をきかして脇に退いていた。

 フラッシュ。フラッシュ。フラッシュ。

 めまいがする。わたしおかしい。頭の中がチカチカする。どうかしちゃう。彩音は洋平の声を遠いところできいている。

 ふいに耳元でふたたびひびいたシンバルのひびき。

 バンという金属音が遠のく。

 余韻がプッンととぎれた。

 フラッシュに網膜を刺されて彩音の意識がゆらぐ。

 彩音に異変が生じていた。

 眩しいフラッシュ。金属音。

 光と音。あまり唐突な光とシンバルの音に現実の風景と音声が消えてしまった。

 このとき、彩音はなぜかいまはトムソンと化した幸い橋を見上げていた。

注。

●skyscraperとは超高層ビル、摩天楼。転じて「背の高い人」「セイタカノッポ」さんのことをいう。


2 ポインセチアの赤


ひとが落ちる。

幸橋から欄干をこえてひとが落ちる。

いまはひとが渡るはずのない橋。

ひとの姿があるわけのない橋。

その橋からひとが飛び降りようとしている。

止めなければ。

「やめて」

彩音は叫んでいる。はずだった。

金縛りにあって、彩音は動けない。

たいへんよ。ヒトガオチル。

でも、彩音の口はパクッと開いたままみたい。

橋にふいに現れた人影。娘だ。

国産繊維の女工さんだ。

彩音とおなじ年くらいの少女らしい。

モンペをはいている。

いまではテレビドラマでしかおめにかかれない服装だ。

昔のだいぶ古い服装をしている。

アイツに、また、噛まれるくらいなら死んだほうがいい。

そうだ、これはさきほど高い所から聞こえた声だ。

この声だった、と彩音は気づく。

まちがいない。

いま、橋の上にいる少女の声だ。

アイツに血を吸われるくらいなら、川に身を投げたほうがいい。

アイツに、また噛まれるとアイツの従者にされてしまう。

あのひとは、まだきていない。

あのひとは、まだこない。

純平さん。愛する彼の名を呼んだ。

早くきて。

早くきて。

約束の時間はもう過ぎている。


もういちど。もういちどだけでもいい。

会いたい。

会いたかったのに。

黒川に身を投げることは、わたしに許された最後の自由。

少女の想いが彩音にながれこんできた。

首筋のアイツに噛まれた傷がうずく。

でもすごい快感だった。

もういちど噛まれたい。

「ダメ。そんなこと思わないで」

彩音は夢中で少女に呼びかけた。

「ダメ。死なないで」

アイツにとりこまれる。

アイツとおなじに、わたしがなってしまう。

アイツとおなじ獣の顔になってしまう。

般若の顔になってしまうだろう。

少女の意識は混濁していた。

女のこらしく、じぶんが醜い顔にかわってしまうことを恐れていた。

死にたくない。

もういちど愛する純平に会いたい。

会えるだろうか。

さいごまで、迷っていた。

欄干をこえて少女が川に落ちていく…………。

首筋に血。ポインセチアの赤のような血が雪のように白い胸元までそめていた。

彩音はアアアッ。悲鳴をあげていた。

この距離から橋の上の出来事を目撃できるのはおかしい。

少女が等身大でみえているのもおかしい。

見ているんじゃない。感じているのだ。

少女になっているのだ。少女の意識とわたしの意識がシンクロしている。

わたしは、六角澄江。

わたしは澄江。いま死にます。

純平さん。

さようなら。

来世でまた逢いましょう。

岩手にいるおかあさん。

さようなら。ごめんなさい。

先立つことゆるしてください。

おかあさん。もういちど会いたかった。

純平さん。もういちど、会いたかった。

この幸橋の上であなたがくるのを待っていました。

いつまでも待っていたかった。

でも、アイツがそこまできている。

ごめんなさい。

あなた、ああ、わたし純平さん、わたし最後にあなたって呼びかけている。

あなた、あなた、あなた。

毎日、そう呼びかけていたかった。

毎日、いっしょにいたかった。

毎日、暮らしを共にしたかった。

この、鹿沼で生きていきたかった。

 

川の水が冷たい。

 

白日夢。それとも幻想かしらと彩音は思っている…………。

「彩音。どうしたの? 彩音」


注。女工、時代背景をあらわす場合は使用可。女性従業員のこと。


3 失神


 慶子やオケラ部の友だちが上から彩音をのぞきこんでいる。

「あら、わたしどうしたのかしら」

「失神したのよ」

「どうしたの、彩音。……貧血? 勉強のしすぎじゃないの」

 美術館のソファに横になっていた。

 耳元でシンバルがひびいた。フラッシュに目がくらんだ。そこまでは覚えている。鼓膜がやぶれたのではないか。それほどのショック。

 どうしてだろう。ほかのみんなは、なんともないのに。わたしだけが……?

そして、幸橋から身をなげる少女のマボロシを見た。あれは夢なんかじゃない。

たしかに起きたことだ。まちがいない。リアルすぎる映像だった。わが家の家系。鹿沼の語り部としての血に目覚めたのかもしれない。

 川端家は長寿の系譜だった。女系家族。その家で生まれ育った女は卒寿は全うする。

 江戸末期に百歳を超えて生きつづけた川端タキの例もある。そして、記憶力がすこぶるいい。鮮明に各時代の鹿沼の出来事を朗唱することができる。

 それでこそ、当主は代々鹿沼の稗田阿礼とさえいわれている。

「隣の図書館にいってみない」

 慶子をさそった。

「どうしたのよ。彩音。きゅうに朝から勉強したくなったの」

「調べたいことができたの」

「それって、やっぱ、勉強じゃん」

「ねねね、彩音がたのんでいるの、いこーよ」

「ゴメン。六面。七面鳥。とめてくれるな、彩音ちゃん。バスケの朝練、まっている」

 慶子は両手をあわせて謝るシグサで、オドケテイル。

 9時になった。図書館の開館の時間だ。平成になってからというもの、ハローワーク、商工会議所、情報センター、法務局の分室、文化交流館などが立ち並び、この国産繊維の女子寮の跡は、すっかり鹿沼の官庁街になった。歩道に人が群れる。街が活気づく。

 図書館の郷土資料室のパソコンには、ここ15年間の資料しかインプットされていなかった。司書のひとに幸橋から投身自殺した少女のことを調べたいのです。なんてこといいだせない。過去の新聞を調べるとしたら、どの時代までさかのぼるべきなのかわからない。それに時間の浪費。考えただけでも、ウザイ。とてもひとりで調べきれるものではない。

 だいいちあのイメージの中の六角澄江というネームの少女――モンペ姿からみてもかなりむかしの出来事だろう。

 こんなときは、家のおばあちゃんにかぎる。図書館が今宮町の旧市役所跡に、いや戦後中央小学校の片隅に町立として誕生したときから定年まで勤めあげたおばあちゃんだ。

 鹿沼の生き証人。鹿沼の語り部。稗田阿礼。とまでいわれている記憶力の天才だ。文美おばあちゃんに聞くのがいちばんだ。彩音は携帯をプッシュする。


4 資料室の怪


「彩音ね。それはわたしが母から聞いている。明治のおわりごろのことだよ。黒川の水がまだ滔々と流れていたころのことで、幸橋ができた年に失恋した女工さんが川に身を投げて死んでいるよ。ただね、それがどこの橋からなのかは、わからずじまいだったらしいの。そう、彩音が見たのなら、やはり幸橋からだったのね。渡り初めのすんだばかりの橋から会社の女工さんが身をなげたなんて発表できなかったのね。おめでとう。彩音もいよいよわたしの後継ぎができるときがきたのね。それから、相手の男、その娘とつきあっていたカレシも誰なのか、わからなったらしいの。そのころは、おおっぴらに男と女が逢びきできるような時代じゃなかったからね」

 逢びきときましたね。(アイビキ)――デートのことよね。逢びき…彩音は文美おばあちゃんの古いボキャについ、ニヤリとしてしまった。

 古いことばをつかう、鹿沼流の家元、舞踊家。元気なおばあちゃんが彩音は大好きだ。

「その娘さんの悲恋を小説に書いたひとがいいてね……えーと、そう林功。地元の文学青年よ。その小説は図書館の非公開資料室に保存してあるはずよ。わたしが勤めて間もないころ、どうして僕の本お図書館に並べてくれないのかってどなりこんできた青年がいたの。それが林さんで、あまりに過激な内容だったらしくて、それで……寄贈してもらった林さん本は一般の棚にならべられなかったのよ。わたしも読んでいないの。探してごらん」

 探してごらん、といわれても、コマッチャウナ――。

 非公開文書だったが、鹿沼の名誉市民。鹿沼の語り部。老人会会長の「お文美ばあさん」だ。かずかずの肩書のあるおばあちゃんの口添えがあった。特別に閲覧が許された。地下に非公開文書や御殿山遺跡から出た資料を保存してある部屋はあった。

 カビ臭い階段をひとりでおりた。まるでドブ川のなま臭いネバツク土の中に足をふみいれたみたいだ。どうしてこんなに古びた階段なの。地下二階ぶんくらいおりて扉があった。

 あずかってきたキーをさしこむ。

 地下室の内側からムアっと、すえた紙の匂いがしてきた。

彩音は立ち止まる。(わたしどうかしている。こんなに臭いに敏感だったの? もしかして、あの失神でなにか異様な感覚に目覚めたのかもしれない)

 でも、彩音を扉のところで立ち止らせたものは、その異臭ではなかった。ドブドロや魚の腐ったような臭いではなかった。

 暗闇だった。扉の向こう側に充満した闇だった。

 深い闇だった。彩音の侵入を拒絶する闇だった。

 彩音を押しもどそうとする闇の凶念がこりかたまっていた。

 その邪悪な闇をプッシュして彩音は部屋に踏みこんだ。

(どうして、ここはこんなに暗いの。それは地下室で明かりとりの窓もないのだから暗いのはあたりまえだけれど、なにかクラクラする。……アタマガイタクナッテキタ)

 闇が巨大な蛇のようにうねっている。闇がとぐろを巻き、そしてカマ首を上げて彩音をのみこもうとしている。アメリカのヘヴィメタルバンド「PANTERA」のアルバム「The Great Southern Trendkill」の邦題。「鎌首」を彩音はイメージしていた。

 暗がりの中で彩音を待ちうけているものがいた。モノのケだろうか。

(一般公開の清潔なカウンターで本の受け渡しをしている司書のお姉さんたちは、この部屋に踏みこんだことがあるのだろうか。ないだろう。一階の開架式の本棚しか知らないお姉さんたちは、本のもつ作者のもつ、霊力を信じられるだろうか。本は怖い。本を読むことも怖い。本の扉を開けることは、魔界の扉を開けることでもあるのよ)

 彩音は恐怖をまぎらわそうとしていた。ひとまず、モノローグの中に逃げこんだ。じぶんだけの考えに集中していると気がまぎれた。

 携帯を明かりとして壁のスイッチを探す。壁から、なまあたたかいぬるぬるした手がのびてきて、彩音の手首を握る。ことは、なかった。

 それは恐怖がもたらす幻覚だった。古い紙のかび臭い匂いがひときわ強くなる。この匂いだったのだ。彩音の嗅覚をちくちく刺激していたのは。本棚がゆれている。

 未公開資料室がひさしぶりの閲覧者を歓迎しているのだ。カタカタカタ。普通であったら感じることはできない。かすかなゆれ。恐怖と好奇心で神経を研ぎ澄ました彩音には、その音が感知できた。それどころか、肌で感じたその音で、さらに彩音の恐怖はふくれあがった。


5 噛まれる


 資料ナンバー21。段ボールには太いフエルトペンの文字でナンバーがふってあった。

 昭和21年。てことかしら。一番下の棚にその箱はあった。

 小冊子が何冊もむぞうさに入っていた。

「国産繊維/女工哀歌」林功著。

 そこに、彼女の名前があった。恐怖心と戦いながらも、探したかいがあった。

 

 女工哀歌より。

 六角澄江は地下の反省室から脱出した。この部屋に監禁された娘たちが怨念をこめて掘りぬいた脱出穴であった。その暗闇を通って澄江は逃亡している。足首まで水がきている。

 黒川がすぐそばを流れているからであろう。急がなければ。アイツが追いかけてくる。あんなヤツがいるなんて信じられないことであった。

 澄江はそれまで上沢寮監を怖がっていた。仲間も鬼寮監と影では言っていた。(あっ。文美おばあちゃんのお父さんのことが載っている)

澄江たちがサボタージをした時、廊下に正坐させて女工の背を竹刀で強打した。

 塀を乗り越えて夜遊びにでた女工を街まで捜しにいって、連れ帰った。厳しい竹刀の刑罰が科せられた。鬼のような人だ。誰もがそう思っていた。高いコンクリートの塀を構築するように、工場長に進言したのも寮監だ。澄江たちが塀を乗り越えて寮を抜け出せないように。

 ところが違っていた。澄江たち女工は寮監を誤解していた。澄江はそのことを身をもって体験した。

 高い塀は、夜遊びに出たり作業の辛さから逃亡を企てる紡績女工を阻止するためだけのものではなかった。

 外部から侵入する怪物から女工を守るためのものでもあったのだ。

 澄江はやっと塀のところまで辿り着いた。ロープを投げて、塀を乗り越えようとしていた。どうしても純平に会いたかった。寮監に見つかった。追われていた。その時だった。塀の上からアイツが飛び降りてきた。黒い影はガニ股で迫ってきた。歪んだ体型でギクシャクと両肩が揺れるような動作だった。

 それでいて素早い行動だ。生臭い異臭がした。むきだしの乱杭歯。長くせせり出た犬歯。鬼が出た。(吸血鬼のことだわ。このころはまだに鬼といっていたのね。それにしてもおばあちゃんのお父さん上沢寮監はずいぶん怖がられていたのね)

 寮監が「鬼め。退散しろ。うちのかわいい寮生に手をだすな」と叫んで鬼に切りつけた。竹刀ではなかった。木刀だった。澄江を追いかけて来た訳ではなかった。

 毎晩、上沢寮監は寮の庭を巡回して警戒していたのだ。鬼だと恐れられていた寮監は鬼ではなかった、鬼は塀の外にいた。寮監は女工を守護するために木刀を持って夜の警備をしていた。

 鬼は外部から侵入してきた。寮監は鬼の存在を知っていたのだ。

 あの時、寮監が来てくれなかったら、わたしはと澄江は思った。わたしは鬼に食い殺されていた。わたしが、助かったのは偶然ではなかった。毎晩、寮の敷地内を警戒して、巡回していた寮監がいたからだ。寮を抜け出す者がいなければ、鬼もみだりに襲ってはこなかったのだ。何も知らないわたしは、無防備にも塀の外にでようとした。純平さんに会いたくて。その行動が鬼を誘った。上沢寮監は鬼ではなかった。わたしたちの安全を守ってくれていた父のような人だったのだ。鬼はほかにいたのだ。

「逃げるんだ。澄江、逃げろ。地下の反省室に逃げ込め」

 寮の玄関よりも反省室への地下階段のほうが近かった。

 ガバッと澄江は鬼に襟首を噛まれた。激しい痛みに絶叫した。

「おれは鬼を倒す。こいつが生きていると澄江も鬼になってしまう。こいつはおれが倒す。澄江は反省室に逃げ込め」

 鬼がくぐもった声で吼えた。

鬼ににらまれて澄江は凍てついた。動けない。おれの餌になれ。人間の娘よ。おれが食らってやる。鬼の兇暴な目でにらまれた。動きがとれない。真紅の瞳から放射された光が澄江の網膜をやいた。 

 立ちすくんでいる澄江に鬼がにたにた笑いかける。笑えば笑うほど鬼の顔は怖くなる。見る者の生きる気力を萎えさせる。

「そうだ。そうだ。おれの餌になれ。おれに食われてしまえ」

 乱杭歯の暗い口腔に吸いこまれそうだ。


6 上澤寮監


 近寄って。こちらから「どうぞ食べてください」と身を投げだしたくなる。どうぞ食べてくださいと哀願したくなる。これも鬼の眼光の魔力のなせる技か。

 どうせ逃げられない。だったら、従順に鬼のいうことをきいたほうがいい。食べられてしまったほうがいい。そんなことを言ったらいけない。そうしたくなる。でもそう思いたくなる。この恐怖からはそうでもしないと、そう思わないと逃げられないのかもしれない。

 鬼の眼光と冷酷な笑いは、澄江に凄惨な恐怖心を叩きこんだ。白い歯の間からシュシュと吐きだされる臭い息。体がすくむ。目の前に白く尖った歯がせまってくる。金縛りにあったようで動けない。澄江は鬼の顎門から逃れようとした。

 犬歯が白く光っている。顎を音をたてて噛み合わせている。音をたてて威嚇して楽しんでいる。歯がガチガチ鳴っている。歯がカチカチ鳴っている。ガチガチカチカチ鳴っている。澄江を捕食することを楽しむように音をたてている。

 乱杭歯を剥きだして迫ってくる。上唇がめくれ涎をたらしながら澄江に迫る。唇をながい尖った舌でなめている。

「ああ、おいしそうな娘だ。さっそくいただくか」

鬼がニタニタ笑う。澄江は逃げながら首をそらした。その視線の遥か彼方に寮監の姿をとらえた。全速力でこちらへ走ってくる。上方を見た。鋭利な犬歯がもうすぐそこに迫っていた。恐怖で腰が抜けた。よたよたと大地に屈みこんだ。必死で後すさる。じりじりと歯が迫る。

 鬼は楽しんでいるのだ。鋭い牙がもう肌に触れている。赤い目がすぐそこにある。だめ。もう動けない。

「いゃあ。助けて。純平さん。助けて」

 そして噛まれてしまった。グサッときた。鬼の牙が襟首にくいこんだ。いままでのことが一瞬のことのように感じられる。たしかにそうだ。ほんの一瞬のできごとなのに、恐怖のため時間の観念がくるってしまつているのだ。

「鬼が出た」と思った瞬間にもう噛まれていたのだ。

「鬼め。退散しろ……」と寮監が叫んでいる。

「わたし純平さんと約束したの。純平さんと会いたい」

「二度噛まれたら終わりだ。反省室に逃げこめ」

 寮監が叫んでいるが、鬼に噛まれた恐怖でよく聞きとれない。なにを言われているのかよく理解できない。

「わたし純平さんと出会いの約束してるの。行かせて」

「ばか、男にはいつでも会える」

「わたし鬼に噛まれたこと伝えたい」

「だめだ。いまは逃げることだけ考えろ。鬼にまた噛まれたら終わりなんだ。鬼の仲間になってしまう。ヤツらに心まで奪われてしまう。反省室に逃げこめ。あそこなら、鬼神よけの太平山は大中寺を祀ってある。岩船山の孫太郎尊のお札がはってある。鬼避けの霊験あらたかなお寺さんだ。だから鬼もみだりに入れない。こいつはおれが斬る。たのむから、逃げてくれ」

「待っているの。純平さんが、わたしを待ってるの。会いたい」

「だめだ」

 上沢寮監が邪険に澄江を脇に突き飛ばした。

 まさにその時、鬼がいままで澄江のいたところをがばっと襲った。寮監の剣が鬼の胴をはらった。木刀とみせて、仕込み杖だった。いつのまに抜きはなったのか、月光に煌めく白刃が鬼の胴を斬った。

 固く締めてある工場の麻の梱包をたたいたような手応えだった。体に刃がたたない。いくら斬りこんでも、箸で叩いたくらいの効果しかない。鬼はじりじりと澄江に迫る。

 澄江はようやく状況を認めた。顔面蒼白で寮のほうへ後すさりする。ふらふらと一歩一歩薄氷を踏むように後すさりする。鬼が高く跳躍する。寮監の頭上を跳び越す。爛々とした眼光で澄江を見据える。獣のうめき声をあげて澄江に迫ってくる。

「おいしかった。娘、おまえの血はいい味がする」

 上沢にはただの呻き声にしかきこえない。

 血を吸われた澄江には恐怖のことばにきこえる。

 鬼は澄江に迫る。舌舐めずりしながら。ピチャピチャ!!

「もっと吸わせろ。もっと飲ませろ」

「逃げるんだ。逃げろ!!……おれは後からいく」


注。出会い――デートのこと。


7 澄江の死


 上沢寮監は澄江のまえに現れなかった。

 凄まじい戦いだった。空には雷鳴がとどろき、あたりの樹木は突風をうけ揺れ動いた。大地が鳴動し俄かに雹がふった。空一面にコウモリの群れが現れ上沢寮監に襲いかかった。上沢寮監はおのが甲源一刀流の秘術を尽くし、鬼もおのれの持つ能力のすべてを出し切って戦った。

 死闘は小半時も続いたが、女子寮からはだれも助けには出られなかった。いけばコウモリに襲われる。死が待っている。いとも簡単に殺されてしまう。食い殺されてしまう。

 ただただもう、窓にへばりついて震えていただけであった。黒い影が溶解していくのを目撃したような気がすると証言した。それは後の話だ。

 寮監が剣を突きだす。相手に杭でも打ち込むように白刃を突きだした。それだけしか見えなかった。雷雨に煙り寮監の敵の正体は見えなかった。倒れていたのは上沢寮監だけだった。

 澄江は逃亡の罪でそのまま反省室にいれられた。詰問されたが、なにも釈明しなかった。鬼に噛まれた襟首の傷も、鉤づめで付けられた背中の傷についても、乙女の羞恥心から隠し通した。(かわいそう。澄江さん、かわいそうと彩音は読みながら涙ぐむ)

 会いたい。純平さんに会いたい。澄江は反省室の抜け道を通って逃げだした。その地下道は拘束された女工が長いことかけて掘ったものだ。

 会いたい。純平さんに早く会いたい。幸橋で純平さんを待つ。少女たちが東から西の工場に渡る橋。高架橋。高い所に架かっている虹の橋だ。西から東の寮にもどる橋。また明日がある。明日は幸せになりますようと願いながら一日の労働から解放されて戻ってくる橋だ。少女たちの希望を支えている橋だ。

 あそこで、わたしは待つ。高いから純平さんが来るのが見える。

 早く来て純平さん。いつまでも待てないの。待っていられないの。純平さん、早く来て。わたしが鬼になるまえに会いたい。わたし鬼になるくらいなら、ここから投身自殺する。鬼の姿なんてあなたに見られたくない。わたしが鬼になるまえに来て。会いたい。


 平成の中学生の彩音からみても平易な文章だ。

 澄江の悲しみがよくわかる。

 どこが過激すぎると判断されて公開されなかつたのかしら?

 内容だってかわいい。いまのホラーの濃さとくらべたらかわいいものだ。

 地下の反省室があるなんて書いてあるからかしら。

 工場の過去の体質をとわれてはまずい。

 工場側からそうした批判のくるのを配慮したのだ。

 たぶんそんなところだ。時代は明治から大正にかけてのころだろう。

 これは小説なのだ。現実ではない。小説として読めばいいのに……。

 澄江の純平を恋する心だって、すごくよくわかる。

 ――鬼。

 吸血鬼に噛まれた澄江さんはどうしても恋人純平に会いたかったのだ。

 かわいそうな澄江。

 澄江は吸血鬼に追われていたのだ。

 死をもたらすストーカーにねらわれるようなものよね。

 吸血鬼なんてマジいるの!!

 逃げ切れず、純平にも会えなかった。

 わたしは澄江の残留思念をたしかにうけとったからね。

 わたしは目撃した。

 かわいそうに澄江は幸橋から黒川に身をなげたのだ。

 明治の悲恋。実話による小説なのだろう。

 こんなにかわいそうな愛をそだてていた少女がいた。

 恋人に会いたい。

 鬼となったら、恋人にもうしわけない。会えない。

 鹿沼でこんなにカレンな愛の形を結晶させていた。

 少女、六角澄江がいた。それを知ってわたし感激。

 上沢寮監は本名で書かれている。

 でも、相討ちというところはfictionだ。

 その場でdeathを向かえてはいない。

 死んでいればわたしがいまここにいない。

 だって、ここで上沢寮監として登場しているのは。

 まちがいなく、わたしの曾祖父、ひいおじいちゃんだ。

 文美バアチャンのお父さんのことだ。

 婿にきて、川端文也となった曾祖父だ。

 どこまでが事実で、どこがフイクションなのかわからない。

 鹿沼に吸血鬼がいたなんて!!

 マジ信じられる? 信じられない。

 吸血鬼なんて言葉のなかったMeiji eraの話だ。

 人狼なんて言葉もなかったのかしら。

 この町には犬飼村の狼伝説はある。狼神社だってある。

 オオカミには吸血鬼がよく変身するから。

 もしかして吸血鬼も???

 彩音はその小冊子をコピーした。


「今日のノルマを果たそうかね。彩音」

 文美は稽古場の中央に立っている。


8 泣き稽古


 文美はロウタケタ、艶やかな立ち姿を見せている。

 年を感じさせない。背筋だってシャンと伸びている。

 若やいだ姿だ。彩音と似ている。

 いや、彩音がおばあちゃん似なのだ。

 白装束だ。木綿の浴衣だ。

 まずしいし田舎町でほそぼそとつづけてきた鹿沼流の舞だ。

発表会でも……。派手な舞台衣装も、大小の道具もほとんど使わない。

ただひたすら舞い続ける。

 それも武道の演武のような激しい舞だ。

 第一ここはひいおじいちゃんの剣道場もかねていたのだ。

 剣道場であって、舞いの稽古もする場所だったのだ。

 それが、いまでは舞いのための舞台と練習場になっている。

日々の練習には冬でも浴衣だ。寒さなど感じない。うっすらと汗さえかく。

 舞台で舞うときはさすがに女巡礼の衣装を身につける。

(師範。いろいろ調べてきたこと、話したいよ)

 そんなわがまま、いえるわけがない。

 どんなことがあっても、たとえ親のお通夜の晩でも稽古はかかせない。

 一日休めば、とりかえすのに十日はかかる。

 まちがって舞えば、それも体が記憶する。

 絶対にまちがって舞わないように。

 下手なのはいい。不器用なのも、覚えのわるいのも許される。

「怠け心と、まちがいは許されませんよ」

 そう教えられてきた。

 ヨチヨチ歩きのころからだ。

 箸より舞扇を手にしたほうが早かった。

 その舞扇はほかの流派のものより長かった。すごく重かった。

 それだけははっきりと覚えている彩音だった。

 師範の教えは厳しい。

 教わっているときは、オバアチャンと呼びかけることすら許されない。

 ボロボロと涙をこぼしながら舞った。

 母もいない。父もいない。

 文美バアチャンと彩音だけの家族だ。

 あとは、だれもいない。二人だけで、ただひたすら広い稽古場で舞い続けた。

 それだけは、はっきりと覚えている。

 冬の広い稽古場、舞初めには寒くて鳥肌が立った。舞っているうちに汗ばんできた。汗は顔からも吹きだした。頬をつたった。

 これは汗? それとも涙。そんなことを思った。たぶんわたし泣いていた。稽古が辛くて泣いていた。

 あれは涙。その涙が乾くまで舞い続けた。覚えている。覚えているわ。

 あの過酷な稽古があったから、ようやくここまでこられた。


「四の段『散華』を復習しましょうね」

 文美が毅然とていった。

 古舞踊鹿沼流は:

 序の舞『鹿入り(かのいり)巡礼』 

 一段『風化』

 二段『嘆き』

 三段『胡蝶乱舞』

 四段『散華』

 終わりの舞『朽木倒し』

 がある。

 剣道の道場で舞うからというわけではないが、激しい舞だ。

 オシメをかっていたころからたっぷり修行した。

 あとは、朽木倒しを学ぶのみだ。

「彩音。いつもより勇ましく舞えましたね」

「そうですか。師範」

「おばあちゃんでいいのよ。彩音」


9 捕食


 やさしい。いつもより文美バアチャンの声がやさしくひびく。

「そうかい。彩音。その林さんの小説を読んだので、見えないものを意識して見ようという心が培われたのかね。だから舞にも厳しさがでたのだよ」

「オバアチャンの声はすごくやさしく聞こえる」

「そうかい。そうかい。うれしいことだね。いよいよ彩音に皆伝を授ける日が近いのかもしれないね」

 そういうと、文美は彩音と並んで仏壇に線香をあげた。

 リンをリン棒で軽く叩いた。

 川端家は浄土宗だ。「南無阿弥陀仏」をふたりで唱和する。

 リンの音がながくひびいていたが、ようやく途絶えた。

 それを待っていたように文美が彩音の顔をのぞきこんだ。

 慈しみに満ちた顔だった。

「じゃ、彩音あれが聞こえるかい」

 夕食の箸を休めて文美が彩音にやさしく尋ねた。

 シュワシュワと潮騒のような物音が夜の街にしている。

(えっ、こんな音をきくの、はじめて。これってなんなの)

 その幽かな気配にはさらに夜を暗くするようなイメージがあつた。

 いままで、彩音がまったく気づかなかった気配だ。

 鹿沼にずっと生きてきて――どうしてこの気配を感じられなかったのだろう。

「捕食動物がさまよっているのさ」

「補食。お腹がすいて夜食をコンビニに買いにいく人……のことじゃないよね」

「手偏だよ。プレデター」

 外来語の語彙も豊富な文美だ。

「やだぁ。それって人狼? それとも吸血鬼のこと」

 古くから人狼伝説のある町だ。北犬飼地区にいまも狼を祀った高寵神社がある。

 鬼――吸血鬼の出没に関しては林さんの小説を読んだばかりだ。

 夜の底を不気味なモノが動き回っている。

 ひたひたと……波が寄せてくるような音。

 なにかやわらかなものが、ひきずられているようだ。

 犬の吠え声もしない。

 夜の闇になにか潜んでいる。

 ふいに電話がなった。

「もしもし川端です」

 彩音がでたとたんに、プツンと切れた。

 彩音になら携帯にかかってくるはずだ。

「へんなの」

 怖いことを考えていたときだけに、彩音はゾクッと鳥肌だった。家の中まで冷気が入りこんできたようだ。部屋が急速に冷えた。

 築後二百年は経っている家だ。床面積だって、平屋で百坪以上ある。その広い家に彩音は文美バアチャンとふたりで住んでいる。

 その家が夜の闇のなかで、なにものかに狙われているようで彩音は怖かった。いままでにない感情だった。それから、なんども電話が鳴った。でると、ガチヤンときられてしまう。

「やだよ、もう出ないからね」


10 お母さん


 悪意をもったものが、その存在を示したいのだろうね。というのが文美の反応だった。その文美の言葉は、さらに彩音を不安にした。

(わたしが、見えていなかったものが、見えるようになったからかしら。険悪な気配を体感できるようになったからだ。なにものかが密やかにわたしたちを見張っている)

 彩音は寝つかれなかった。

「わたしたちが、いままで生きてきた鹿沼ではないみたい」

 彩音は演劇祭で主演をつとめた劇の『黒髪颪の吹く街で』のセリフを思い出していた。バサッと窓ガラスになにかぶち当たった。月の光が冷やかに窓を照らしていた。

 彩音は二階の寝床でおそるおそる起き上がった。深夜だ。窓をなにかがかさかさこすっている。窓があまりに広いのですぐには気づかなかった。その上部にコウモリがへばりついていた。眼が不気味に赤く光っている。

 声を上げたいのを必死でこらえた。

 その目をにらみつけた。コウモリがギーと鳴いた。尖った歯を剥いている。

 その夜、彩音は夢を見た。彩音は巡礼の旅をしていた。女巡礼になっていた。

 だが、それは、寺をまわる巡礼などでなかった。

 母を訪ねる巡礼だった。

 ただ、生きているよ。……とだけ文美バアチャンからは、いわれている。……まだ会ったことのない。母を探して。旅をしていた。

「彩音のお母さんとお父さんはどこにいるの」

 ヨチヨチ歩きができるようになった。言葉もかたことだが、話せるようになった。はじめて彩音が悲しみを表したのがその言葉だった。

 オバアチヤンの文美も悲しそうな顔をした。

 悲しそうでいまにも泣きだしそうな表情だった。

 彩音はその顔を見ると、さきに泣きだしてしまった。

 舞踊の稽古があまりにきついときは、母にあまえたかった。

 そんなときは、彩音は「お母さんは……」といつもおなじ質問を問いかけた。

 そして文美が応える。

「生きてるよ」

 イキテルヨ。

 イキテルヨ。

 木霊となってひびく。その声にさそわれた。彩音は歩きつづけた。雪が降っていた。彩音はいつしか、序の舞『鹿入り巡礼』を舞っていた。

 ここは那須野が原、那須野が原の外れ、鹿沼の里といわれてるぅぅぅぅ。謡が耳の底からわきあがってきた。渋く低い声だ。それがなぜか父の声に思われる。

 夢だからしかたがないことだが、巡礼は母になっている。

 彩音の心はその母と一体となって、雪の原をさまよっている。

「お母さん。お母さん」

 呼びかけても返事はない。


11 クサビの的


 彩音の心は母の背にぴったりとはりついている。

 わたしは母におぶってもらったことがあるのかしら。

 夢の中でさびしく考えている。

 前方に、コウモリの姿が現れる。

 窓にぶち当たってきた。

 コウモリだ。

 母にもコウモリは見えている。

「闘うんだよ、彩音」

 母はわたしのことを感じていた。わたしが背中にいることをわかっていた。コウモリの群れに囲まれていた。コウモリに取り囲まれている。

 母だけではなかった。彩音も……だ。いやちがう。歴代の鹿沼川端流の舞手だ。

 彩音は歴代の舞手の心と同化していた。彩音はじぶんが、寝ている姿を上から見下ろしている。

 夢だ。

 これは夢だ。

 夢の中では、昔からの鹿沼流の舞手たちが、雪を背景にまっている。

 美しい。

 ご先祖様が辛苦して磨き上げた鹿沼流の舞。

 その激しい動きある舞を習得できる。

 代々の師範たちとわたしは繫がりつつあるのだわ。

 やっと舞の奥義を身につけることができそうだ。

 伝統ある鹿沼流を継承する。

 うれしい。でもそれは、奥義を極めつくすための、旅の始まりなのだろう。

(この奥義を極めようと苦労しているわたしの姿、母に見てもらいたい。父に見てもらいたい。両親に会いたい)

 ああ、すべてはこれからなのだ。

 奥義を伝授されてもそれからが長い。

 一生修行なのだろう。

 朝鍛夕練に励まなければ。

 文美バアチャンを見ているとわかる。

 そんなふうに、彩音はうつらうつら夢を見ていた。コウモリがバサバサと窓ガラスを破って侵入してきた。彩音はじぶんの悲鳴で目が覚めた。

 窓にはコウモリなどいなかった。

 窓は破られていなかった。

 いや、これもまだ夢のうちなのだ。まだ夢を……見ている。

 バアチャンが皐の枝を細く裂いている。

 鹿沼の特産の皐の盆栽は庭にある。

 地植えもいれるとどれくらい皐があるのかわからない。

 外部から殺気が侵入してくるとこの皐の小枝が音を発するからと教わっている。

「それなぁに? なんなの」

 と、幼い彩音が文美に聞いている。日当たりのいい縁側にふたりはいる。皐の枝を鋭く尖らせた。束にして仏さまに供えている。

「なにしているの」

「こうして仏さまに、邪悪なものを倒せるように、おねがいしているのだよ」

「ジャアク? じゃ、あく……って、なあに」

 彩音は皐のクサビを投げる練習をしている。藁を祭り太鼓のように束ねた的に投げつける。一箇所に集中して命中させるのはむずかしい。

 夢の中なので、瞬く間に名人になっている。

 皐のクサビ投げが、ダーツにかわっている。慶子たちとみんなダーツを楽しんでいる。澄江も加わっている。どこからともなく、イメージの澄江があらわれた。夢だから、あまりシュールな出来事も、気にならない。

 澄江がいるためか? 的は吸血鬼だ。吸血鬼にかわっている。彩音の投じるダーツはことごと吸血鬼の心臓に突きささる。

 標的は絵ではなかった。生きた吸血鬼だ。吸血鬼が牙を剥いて彩音に迫る。襟首を噛まれそうになる。大きな悲鳴をあげる。

「お母さんたすけて!! バアチャンたすけて」

 こんどこそ、夢から覚めた。外は明るくなっていた。


12 語り部


 窓を開ける。

 庭にコウモリが落ちていた。皐のクサビを打ち込まれていた。

 オバアチャンだ。コウモリの鳴き声がうるさかった。彩音が怖がるといけないから、クサビを打ち込んで退治してくれたのだ。

 前にもこんなことがあったような気がする。既視感だ。デジャヴだ。いままでもオバアチャンは、陰ながらわたしを守ってきた。そうなのだ。それにわたしが気づかなかった。

 夢の中でもオバアチャンは彩音にいろいろなことを教えてくれる。夢でクサビの投げかたを教わった。いや、夢ではない。夢の世界ではない。あまりに厳しい鍛練をつづけてきた。

 だから、夢のように思いだしているのだ。

 辛さを楽しみにかえて記憶しているのだ。

 熱い味噌汁を飲む。体が温まった。文美はなにもいわない。だまって彩音をみつめ箸をはこんでいる。

 ふたりだけの川端家のいつもの朝餉だ。だが彩音には予感があった。なにかとんでもないことが起ころうとしている。これも、新しく花開いた能力なのかもしれない。文美は慈愛に満ちたやさしい顔でそんな彩音を眺めている。

 わたしが眠っている間も。オバアチャンはわたしを守り続けてきた。いろんなことが彩音にはわかってきた。

「彩音、むかしこの鹿沼地方にはこんなことがあったのだよ」

 朝食がすんでから、文美は孫娘に語りだす。

 鹿沼の語り部。彩音はこのオバアチャンの話が好きだ。

 お伽噺がわりにきいてきた。

 そして、それらを暗唱することも、彩音が継承しなければならない仕事だ。

このひとときが彩音はかぎりなく好きだ。だが今朝はすこし雰囲気がちがう。

「彩音も目にみえないものが感じられ、みえるように成長したのだから……歴史にはのっていない外典を伝えておく時期がきたみたいだね」

 文美が静かに語りだした。万葉集の東歌。

 下野安蘇の河原よ 石踏まず空ゆと来ぬよ 汝が心告れ

「これは、言葉どおり河原の石も踏まずに飛ぶことのできたコウモリのような男の歌だと思うのだよ。男は河原の石も踏まずに娘さんのところへ空から飛来したの……。吸血鬼はしばしばこの地方では、娘さんのところに甘いことをいって現れては、生き血を吸っていたのだよ。万葉のころだからね。鬼とよばれていたがね」


13 日光の忍び


 薄暗い古民家の囲炉裏を囲んで三人がいた。

 古い民家を移築したものではない。先祖の建てた家だ。それを手入れしながら質素に暮らしている。東照宮の建築にたずさわった大工が建てたものだといわれている。真偽のほどはわからない。

 東照宮の影護衛として、江戸城の御庭番であった祖先が移り住んだ場所だ。なにもかも、古い。そんな民家だ。なにもかも、囲炉裏のススに長年あぶられている。

黒ずんでいる。囲炉裏では太いマキが燃え尽きて炭になっている。

 ここ日光の山には春はまだ遠い。三人はかなり長い時間話しこんでいるようだ。

囲炉裏の上の天井には煤竹がつんである。何年も煙を吸いこんで、いい色に仕上がっている。自在鉤を吊るす綱には『弁慶』が括り付けてある。

 藁を筒状に束ねたものだ。そこへ燻製にする魚の串が刺してある。

 ふたりのかたわらにはドブロクの大徳利がでんと置いてある。

 五郎八茶碗にはなみなみとドブロクが注がれている。

 男のひとりは麻屋。

「どうしてもムリですか? 義父さん」

 男。赤沢玄斎。妻、美智子の父だ。そして、隣が母のサチ。

「術をつかうものは、ほとんど出払っている。忍法をよくするものも十指にみたない。さびしいものよ」

 日光は東照宮の裏山にあたる。赤沢という地名だ。庭の向こうを赤沢川が流れている。

「そうか。いよいよか」

 話が元にもどった。鹿沼が百年ぶりでどうやら吸血鬼の攻勢にあいそうだ。と報告がてら麻屋は助っ人の要請にきたのだ。

「そうか。いよいよか」

 玄斎がくりかえした。

『装道着物学院』で売りだしている道着をきている。新しいデザインの作務衣だ。

けっこう、新しいものが好きな老人なのだろう。

「途中の東武電車のなかでコウモリをみました」

 話の穂を継いだのは麻屋だ。

「えっ、コウモリが電車のなかにいたのですか」

 サチが驚いている。

 隣の車両との連結扉を開くと黒い影があった。

 コウモリは飛んではいなかった。貫通路のところで、パタパタ羽を動かしていた。それでも麻屋を脅かすには十分だった。そのままにしておいた。

「前の襲来から百年になるのか」

「御意」

 麻屋が古臭い言葉で丁寧に応えている。

「そのうち、飛び回りはじめました。ひとの大勢いる白昼の電車のなかを……。ヤッラ進化しているのでしょう」

「このハイテックの時代じゃからのう。なにが飛びだすかわからよ」

「助っ人はたのめませんか」

 話題がもどる。

「悪いが、わが家系もわたしの代で途絶えることになる」

「息子も娘もいるのに、だれも忍法の修行をきらってな」

「美智子は元気ですか? あの娘も学問一筋の娘だったから」

 麻屋は妻の実家を訪ねてきたのだった。

 五十年に一度あると口伝されてきた吸血鬼の里帰りを予感していた。

 とても、わたしひとりのナマクラな封印師ではだめだ。川端家の老婆文美と孫娘、彩音を守りきれないだろう。

「印をかけましたが、コウモリは平然と飛んでいました」

「やはりとてつもなく、進化しているな」

 玄斎がボソっという。


14 なぞ新任教師


 下忍のなんにんかは、内閣府の情報局員として世界の各地で任務についている。

呼び戻すことは、不可能とのことだった。それも若者はいない。

 東照宮をふくむ二社一寺と皇族の往還する例弊使街道を守護してきた野州勅忍。

「日光の忍びはわしの代で終わるだろう」

寂しく玄斎がいった。

ひさしぶりできたのだ。泊まっていけ。というのを麻屋は断った。

「栃木の机家に倅がいたな。連絡だけはつけておく。あまりあてにはしないでくれ」


 演劇部の部長、芳田美穂と副部長の深岩静香が彩音を呼びにきた。彩音は2年D組。3年生は受験勉強がある。ラストスパートをかけている。生徒会と各クラブ活動の運営はすでに2年生にゆだねられている。

「彩音、失神したんだって。いやらしい」

 教室に入ってくるなり美穂が彩音をオチョクル。

「エロ版画でもほっていたの」と静香。

「あんたら、なに想像してるの。それこそイヤラシイ耳年増ね。失神なんて、一条きららの読み過ぎじゃないの」

「耳年増? それって、どういう意味なの。解説してよ」

 彩音はニヤニヤわらっている。

「美術部もいいけれど……たまには美形みにこない」

「なにさ。美形って? ジャニーズジュニヤーみたいなイケメンでも転校してきたの」

「ザーンネン。転校生じゃなくて、転勤よ」

「新任の先生が、ながいこと不在だった演劇部の顧問になってくれたの。木村拓哉に似てるの」

 と静香が美穂の説明の足りないところを補う。

「わぁ、それっていくカチある。誘ってくれて、ありがとう」

「彩音は木村拓哉フアン。イケメンに弱いものね」

「いっそのこと、こんどこそ演劇部においでよ」

 姦しいこと。姦しいこと。美穂と静香と話しながら彩音は演劇部室に急ぐ。

 男子生徒とすれちがった。彩音を見る目がせっなく、憧れをこめて光かる。

 だれもが、彩音の美しさは認めている。美穂も静香も演劇をやるくらいだから美少女だ。ただ、彩音は古典的なうりざね顔をしている。

 日本の男の郷愁をさそうのだろう。日本舞踊の舞手としての名声もある。

 それでいて、彩音にはBFはいない。

 だれとでも気軽に話す。

「川端、演劇部に入るのか」

 などと声をかけられる。美穂し静香と歩いているからだろう。

「高校生になっても彩音ちゃんの劇や、舞踊の発表会観にいくからな」

 なんて声もかかる。彩音はその呼びかけに会釈で応じている。


15 ゆらぎ


 彩音はふと窓の外を見た。

 新築されたばかりの校舎の三階から見下ろす。

 校庭の隅には解体された古材が山積している。

 キャンパスの雪は日陰ではまだとけていない。

 鉄製の観音開きの校門に人影が差した。

 刀を手にした着流し、明治の壮士風の男が入ってくる。校門は殺伐とした事件が全国的に起きているので閉ざされたままだ。

 閉ざされた校門を男は入ってきた。煙りにでもなって、透けて侵入してきたのかしら。男の壮士風の服装も時代離れしている。おかしいし。男の周囲がまるで隈取りもされたようだ。

 風景が歪んでいる。陽炎のようにフレヤが立ち上ぼっている。

 彩音はまた〈ゆらぎ〉を感じた。そしてかるいめまい。また、わたしおかしい。

幻覚をみているのだ。こんなことが、しばしば起きるようだったらどうしよう。

 校庭には風花が渦をまいてふきつけてきた。

 一面の河原になった。葦が風花になびき波立つ白い波頭のようゆれている。

 なにさ、これって。

 ここはわたしたちの学校のグランドなのよー。

 彩音は悲鳴をあげた。

 逆行認識。

 時間を置換し、それによって明らかに過去に目を注ぎ、先だつ知識がないのに事件を体験または回顧し、あるいは自分自身の記憶にないのに正しい情報を手に入れること。逆行認識は、日常生活の中や、夢の中や、超心理学の教室の実験の中で自然発生的に起こる。巫女たちは、占いを立てる顧客にたいして答えを読むときにそれを用いる。「事後認識」とも呼ばれることもある。

 あれだ。逆行認識だ。アサヤ先生からわたされていたパンフレットの文面にあった。彩音は理解した。

 彩音がシンバルの音をきいて半覚醒状態におちいったときいて、アサヤ先生が教室の黒板の裏にある部屋から資料をプリントアウトしてきてくれた。

 彩音もわたしの跡継ぎができるようになったのね。

 と文美オバアチャンがよろこんだ理由がこれでわかった。わが家の才能って、こういうことだったのね。

 あらゆることを記憶しているうちに情報が過去と未来をつなぎ、稲妻みたいにヒラメクのだ。

       

16 演劇部


 また起きた。こういうことって、クセになるのかな。

 彩音は校庭を悠然と歩いてくる男の息づかいまで感知できる。

 この世にありえない存在がイメージとなって彩音の意識に立ち上がってくる。

「どこいくの、彩音?」

 背後から肩をたたかれた。

 摩天楼。慶子が彩音を見下ろしている。

「あら、わたしどうかしてた」

 また白日夢? 校庭に、人影はない。

 美穂と静も、いない。さきにいったらしい。

「いこう」

 彩音は慶子の手をひいてかけだした。演劇の部室は廊下の角を曲がれば、すぐそこだ。彩音の顔に不安のかげがある。なにかいやなことが起きそうな気配。とんでもないことが起きそうな予感。                  

 いかないほうがいい。

 ここからひきかえしたほうがいい。

 彩音は目をこらした。

 ノブをにぎっていた。

 すこし脂っぽい。

 すべる。開けないで。じぶんの手がノブをまわしている。

 おそるおそる扉を開いた。ドッと妖気がおそってくる。

 なにがいるの。

 なんだか変だ。

 部室といっても舞台装置まである。校舎が新築された。その機会に豪華な部屋になった。ただの部室ではない。ちょっとした、ミニシアターだ。

 創立当時から県下一といわれた演劇部だけのことはある。いまでも、作新学院に進学して、全国高校演劇大会で優勝の栄冠を勝ち取った卒業生が東中からは大勢でている。照明をあびて美剣士がたちまわりを演じている。

 明治の壮士風の男だ。洋服になっているがあの男だ。

「紹介するね。わたしたち演劇部の新しい顧問。上野学都先生」

「川端彩音、わたしたちが美術部からひきぬきかけている彩音です」

学都だって。さっきは木村拓哉に似ているといっていたのに。

 でもイケメンであることには変わりない。

 キャア。

 GACKTみたい。

 顔つるるんの、イケメンだぁ。

「川端? 上沢のまちがいとちがうかな」

 学都先生がじっと彩音をみつめている。

 彩音の背後にだれか立っているものがいるようだ。

「なにいってるのよガクト先生。この子は川端彩音。去年の秋の芸術祭で入賞したときの主役をこなした彩音よ」

 じっと恥ずかしいほど学都は彩音をみつめている。殺気さえ感じる。タケミツを手にしているからだけではない。じっさい、真剣がキラメキソウナ殺気がある。


17 change


上野学都先生。

校門を入ってきたあの着流しの明治の壮士?

名前にごまかされてはダメぇ。名前なんか人間につけられた符丁みたいなもの。

学都とというひびきから、ガクトを連想した。わたしって古い。やっぱこの先生、CHANGEのキムタクだぁ。総理を演じる前の、髪もじゃもじゃの先生だ。

そして、剣をたずさえていた男? でもある。

めまぐるしい変身。こんなことができるのは……。

彩音は、学都と目線をかわす。

「どうしたの、おふたりとも仇敵にめぐりあったようだわ。へんなの」

 学都先生より教科書を縦にしたくらい背のたかい慶子がふたりのあいだに割ってはいる。 

 学都の背後には荒涼たる河原の葦が茂っていた。空が暗くなった。なにか白いものが薄暗い空からおちてくる。風花だ。とめどもなく空からおちてくる雪の結晶

これは、背後のスクーリンに写しだされた映像? かしら……。

 それもある。でもそれだけではない。彩音は肌寒さまで感じている。

 彩音は美穂からわたされた舞扇で学都と立ち回りを演じている。

 剣を中段にかまえた学都と彩音の立ち回り。こんなシーン『黒髪颪の吹く街で』にはなかった。わたしなにしてるのかしら。と彩音は考えていた。

 切合いの型をみせる殺伐とした演技とというより、まさに演武。いや、演舞だ。妖しくも美しい立回りだ。

 そして……。だが……彩音には見えてきた。

 学都を操る影が……。

 学都にオオバアラップして、もうひとりの影が見えている。

 白い影にむかって彩音は念波をとばした。

 声にならない声で話しかけた。

 あなたのことは、よく夢で見てきた。

 あなたのことはよく知っている。

 雪が舞う。川音が遠のく。

「あなたは……帰ってきてはいけなかった」

 これって『男体颪の吹く街で』でのセリフじゃなかったかしら。

 彩音は県の芸術祭で演技賞をもらった。その時のセリフだ。彩音の心に、学都をあやつるモノの声がきこえている。

「なにをいうか、鹿沼の娘。この土地の鹿沼土はわれらの憩いの場所。われらの土だ。サツキ栽培に必要だからということからだけで、鹿沼土が日本全国に輸出されているとでもうぬぼれているのか。われらはひそかに、鹿沼土の土風呂をつくって、その棺の中で生きている。百年に一度の故郷参りは許されてもいいはずだ。いままでも、われらはひそかに、なんども帰ってきていたのだ」

 彩音は影に呼びかける。

 その影は、吸血鬼だ。


18 憑依


 まちがいない。爬虫類の外皮をした影だ。青黒い不気味な肌。学都先生はあの澄江の恋人であった純平らしい。純平の魂が学都に憑依している。なぜかそれがかってしまう。頭に直接ひびいてくる情報だ。

 みえないものが、みえる。経験していないことでも理解できる。わたし確実に変わりつつある。ご先祖様の能力に覚醒したのだ。さらに、純平の背後にだれかいる。

 吸血鬼だ。いや純平そのものも吸血鬼に見える。彩音は顔から血の気がうせる。

吸血鬼との接近遭遇は初体験だ。体の血が吸いとられていくような恐怖。彩音はがくがくふるえだした。吸血鬼に噛まれるまえから、これでは闘えない。

(わたしって、やっぱ、ふつうの女の子なのかしら)

 勇気を奮い起こして鱗状の体をした純平の背後のモノに念波をとばす。

「あなたは、林純平さんが、この鹿沼に怨念をもつのを利用するべきでなかった。この鹿沼は、そこに住むひとたちは、恋人澄江さんの敵と思いこんでいるのを煽るべきではなかった。あなたたちの帰還を歓迎する人は、もうこの土地にはいないはずよ。もどってきてはいけなかった」

「この土地にわたしたちが住むことは恐れられている。きらわれている。だが、わたしたちを心から恐れているものがまだいる。ということは、わたしの帰還を、わたしを待っていたものもいるのだ」

「そう、あんたらは、鹿沼の守護天使だとでもいうつもりなの。あんたらが、大量に鹿沼の土を買い取ってくれるからわたしたちが生きていけるとでもいいたいわけなの、吸血鬼さん」

「いうな。その名でよばれることは好かん」

「どこの田舎でも、故郷をでて外にいるひとの思いに、生まれ故郷を思う気持ちに故郷は、支えられているのよ。それが、鹿沼の場合はたまたま鹿沼土の購入という形であらわれただけよ」

「そんな、簡単なものではない。鹿沼は万葉の昔、可奴麻(か ぬ ま )と呼ばれていた頃からすでにして、われらが故郷だ」

 わたしって、なにいっているのかしら。これでは、ほとんど『男体颪の吹く街で』のセリフをしゃべっている感じだ。ちがうのは、あの劇中では、わたしのセリフはひさしぶりに帰郷した恋人に対するものだった。ここでは、話しかける相手が吸血鬼になっている。


19 レンフイルド純平

 

「もういい。でていくの、でていかないの。でていかないのなら、わたしにも、覚悟があるからね」

「むだだ」

「闘うというの」

「しかり」

「いくわよ。月にかわって、おしおきよ」

「セーラムーンのつもりか」

「アニメ見るの?」

「まあな」

「かわいい。でもゆるさない」

 傍らにひかえて、二人の会話に聞き入っていた上野学都に吸血鬼が場所を譲る。ぶれていた幻影が一つとなる。

「純平、おまえにまかせた」

 こんどは、純平と先生の姿が重なる。

「承知」

「先生、目をさまして。あなたの敵は、上沢寮監じゃない。わたしたち鹿沼に住むものではない」

 あなたは、わたしを上沢の姓を名乗るものとしてとらえた。それは、まちがっていない。先生の頭に直接、話しかける。純平に話しかける。   

 あなたは、先生! とりつかれている。

 RF吸血鬼となった純平にとりつかれている。

 純平。あなたは真正吸血鬼にだまされた。

 あなたの後ろにいる吸血鬼にだまされている。

 だまされているのよ。

 先生をあやつるのはやめて。

 おねがい。

 彩音は文美おばあちゃんの父が旧姓上沢文也だという情報を直接学都におくりこんだ。いまは先生と純平が一体となっている。上沢とよびかけられて、彩音は凄く懐かしいものを感じた。

 だいいち、あの事件があってからもう百年もたっているのよ。

「うそだあ」

 学都=純平が絶叫した。

「さあ、やっぱり相手は吸血鬼さんあなたよ。カムオン」

 純平をなんといってだましたの。出てきなさい。

 彩音は掌を上にむけた。4指を内側まげハリウッド映画のスターのように、手招きをした。

(いちど、コレやってみたかったの)

「吸血鬼さん。カムオン。さあ、いらっしゃいな」

「純平やるんだ。われらに敵なすスレイヤーだ」

「彩音。かってにセリフにアドリブいれないでよ」

 よかった、みんなにもわたしのセリフは聞こえているのだ。

 吸血鬼の姿は見えていない……。


注。

 真正吸血鬼。もともと吸血鬼として生まれたもの。数は少ない。

 真正吸血鬼に噛まれたRF。レンフイルド。仮性吸血鬼。吸血鬼の従者。

 スレイヤー=ハンター


20 舞扇


「彩音。彩音。彩音。どうしたの」

 慶子は声をかけようとした。

 声は、かけなかった。声をかけられる、雰囲気ではない。

「彩音、どうしたの? またなにかヤバイことが起きたの」

 慶子は彩音の心に話しかけた。ただじっと彩音を見つめているだけでは、不安でしかたがなかった。

 彩音は舞台で〈板つき〉のままだ。

 仁王立ちになったまま動かない。

 幕は上がって、劇は進行している。という仮定での立ちゲイコのはずなのに。

 ――彩音は動かない。舞台の中央で立ちすくんでいる。顔色が悪い。真っ青だ。

細面でやさやさした印象だ。だが、いざとなると、沈着剛毅な彩音が唇まで青白くしている。長い髪が風もないのにさっと横にながれている。時代劇でいえば、憎っくきカタキに会ったという顔をしている。はったと、あらぬ空間をにらんでいる。

 邪悪なものを目にしている感じだ。彩音の視線の先には……あんなところに、だれもいないのに。それとも上野先生のうしろに人影が……。彩音にだけは見えるの? 立ったまま動かない。活人画のようだ。

 慶子の前にいる彩音がどこか遠くにとんでしまった。上野先生を見ていない。その背後をにらんでいる。

 彩音の黒髪が揺れている。パッと広がる。

 右手に小太刀を水平にかまえている。

 目の高さに、柄を逆ににぎっている。

 カマキリの構えだ。

 いやなにも刃物は手にはしていない。

 舞扇だ。幻の小太刀のように、舞扇を目の高さにかまえている。大型のカッターナイフをもたせたい。いや、ほんものの抜き身の小太刀がいい。凛とした彩音の立ち姿を見て、ふとそう、慶子は思った。そんなヤバイことを思った。

 やだぁ、わたし危険なことかんがえている。

 彩音には舞扇が似合うのに。


21 鹿沼流の舞


 彩音に小太刀なんかもたせたくはない。

 慶子は物騒なことをイメージしている。

 自分が怖くなった。わたしまでどうかしちゃっている。彩音と慶子だけの秘密だ。彩音がそっと、わたしにだけ、教えてくれた。

 彩音は彫刻刀をあまり使わない。彩音は『鬼がおりた』と表現するのだという。

興がのるとカッターナイフひとつで版画を制作する。夢中になると、いちいち彫刻刀をかえることなど、マダルッコイ。

 すばやいカッタ―ナイフのうごき。

 鋭利な線。神業だ。

 版画板とナイフさえあれば……。

 またたくまに風景でも静物でも彫り上げてしまう。

 油絵を描くのも敏速果敢だ。はやい。絵の具が乾くのが待ちきれない。ぐいぐい絵の具を重ねていく。

 グラマンクのような濃密な色彩の絵をかきあげる。

 大作をすばやくしあげていく。

 あれは、おばあちゃん譲りの鹿沼流の舞の所作だ。

 絵筆をにぎって画布のまえで踊るように絵をしあげていく。

 彩音はまさに鹿沼流の舞い手だ。

 舞いの呼吸で動いてるのだ。

 あまり動きがはやすぎて息切れがする。

 普通の女の子ではきつすぎる。

 なかなか習得できない。静かな動きを基調とする日本舞踊からみれば異端ともいわれる。

 鹿沼流の舞踊は格闘技。といわれている。彩音の私生活は秘密のベールにおおわれている。友だちにはあまり知られていない。いや、彩音は友だちをつくるのにすごく控え目だ。みんなが声をかける。声をかけられれば、明るく応える。

 でも友だちを増やそうとはしない。誕生日のパーティなどひらかない。だいいち、彩音は友だちをあまり家に呼ばない。わたしだけかもしれない。いつでも、彩音の家をたずねることができるのは、と慶子は誇らしく思う。いつでも、彩音の家に自由にではいりできるのは……。わたしだけ。

 だって……幼稚園のときからの仲良しだ。

 彩音の家の武者門をくぐるのがすきだ。彩音の家はどこからどこまで古風な民家だ。タイムスリップをしたような気持ちにさせる家だ。

 

 彩音は鹿沼流の最後の、いまのところ後継者。

 その彩音の激しい舞の所作がはじまりそうだ。

 じっと上野先生とにらみあっている。

 フリーズ。

 静止。凍結。

 凍結が解凍したときが生死のわかれめ。

 血が凍りそうな緊迫。

 制止しないととんでもないことがおきる予感。

「彩音。カラオケでもいこう」

 演劇部の部長の美穂がこけた。

 副部長の静がこけた。

 ダッと片足をふみだした。

 体をかたむけるほどコケタものもいる。

 息をのんでいた。なにがおきたの……。

 舞台を見上げていた。なにがおきるの……。

 演劇部全員大コケの珍事をひきおこした当人の慶子は、マジで彩音の手をひくと部屋から逃げだした。


22 幽霊橋


「どうしょう。慶子ちゃん、わたしどうしたらいいの? 学都先生のうしろにもうひとりおなじ型のマボロシみちゃった」

「幽霊と闘おうとしてたのね」

「あれって吸血鬼だわ」

「吸血鬼縛にかかったのよ。吸血鬼はね、処女の血が好きなんだって、ひとにらみされると動けなくなるの。だから恍惚とよろこんで血を吸われているような表情になるのよ。動けなくなるって、ほんとなんだぁ」

「コワーイ話しー」

「ほんと怖くなってきたね」

 彩音と慶子は『アサヤ塾』に急いでいた。

 ふたりそろって、同時に、府中橋からトマソンの幸橋をみた。

 うそだ。幸橋をぞろぞろ女工が寮に帰っていく。慶子にそれが見える。

 宵やみがせまっていた。逢魔が時。

「彩音。わたしにも幽霊みえるよ」

「ほんと。どこ、どこ……」

 彩音はおどろいて、慶子に顔をよせる。

 慶子が右手、上流の幸橋をさしている。

「ほんとだ。おおぜいの女子従業員のヒトが橋をわたっている」 

 慶子のいうとおりだ。一日の労働から解放された、モンペ姿の少女たちが橋を渡っている。

 いまは両側の階段を切り離されている。

 トマソン橋。幽霊橋。ひとの通るはずのない橋。

 それなのに、ああ、女子従業員が集団で寮へ帰っていく。

「ほんとだぁ。慶子、すぅごい。わたしたちヤッパともだちでしょ」

 立ち直りがはやいのもふたりの明るい性格による。

 舞台での吸血鬼との接近遭遇。から立ち直った。

 ふたりはキキャハハとさわぎなからアサヤ塾の門を潜っていた。

 さっと顔に薄幕がかかった感じがした。

「そうか、感じたか」

 アサヤのオッチヤン先生が破顔する。

 無精髭をそったあとなのですっきりしている。

 いかにもうれしそうだ。

 もっとまめに、できれば毎日ひげをそってくれればいいのに。

 と彩音たちは思っている。

「センセイ、あれってなんなの」

 顔に感じた薄幕のようなものについてきいてみた。

「吸血鬼バリァだ」

 ダァッとこんどは彩音と慶子がコケタ。

 あまりのタイミングのよさ。

 吸血鬼の話しをしながらかけつけた塾だ。

 授業のはじまるまえにオッチャンの知恵をかりようとかけつけた塾だ。

 まけたぁ。

 ここにも異界をみることのできる存在がいたのだ。

「授業はうちの美智子さんにまかせよう。じっはな、彩音、文美さんがおいでだ」


23 帰還


 麻屋が彩音と慶子に話しかけ。

 ふたりは、先生の後から教室を奥に進む。黒板の横の壁をトンと先生が叩く。

「いよ、いよだよ、彩音。ヤツラの侵攻がはじまったよ」

 黒板の裏の隠し部屋。文美バアチャンがいた。

 めったに外出しない文美がいた。

 おおきなソフアにちょこんと、正座、おすわりをしていた。

 背筋をピンとのばしている。

 足をださず、畳にすわっている姿勢だ。

 和服で、だからもちろん足袋をはいている。

 カッコイイ。

 まだなにがなんだか、彩音にはわからない。

 話題が、どんどんゲームの世界におちていく。

「文音。百年ぶりの吸血鬼の侵攻がはじまったの」

「わたし……いないほうがいいみたい」

 と慶子が気を使う。

「ところがちがうようだ。幸橋を行き来する女工を幻視したってことは、慶子もこちら側の人間だってことだ。吸血鬼とたたかう資格がある。調べれば、先祖がどこかでわたしたちはつながっているはずだ」

「まずみえることが大切なのよ。慶子ちゃん」

 文美が自分の孫に呼びかけるように、優しくいう。

「この街は昔から吸血鬼の侵攻をうけてきたの。だから鹿沼と宇都宮の堺の長岡街道沿いに『百穴』という古墳があるだろう。大谷石と同じ凝灰岩に南向きに穴を穿って遺体を埋葬したのよ。日光が燦々と照りつける場所に住み、死んでからも日向に、太陽の光の下に埋葬してもらうのが万葉のころからのこの土地のひとたちのねがいだったの」

 死体が吸血鬼に汚染されていても、強すぎる紫外線にあたって再生できない。

「吸血鬼は日の光りをきらうからな」

 なんだか、社会科の勉強をしているようだ。

 飛鳥万葉の時代の話しがとびだしてきた。

 一般のひとには、みえないだけ。

 みえていないだけ。だから幸せなのだと、アサヤのオッチャンがいう。

「オッチャンなんて失礼よ、麻屋先生はね、わたしの子供くらいの年よ。それに……」

「いや、このままでいい」

 なにか言いかけた文美を麻屋が制してる。

「へんなの」

 みえること。

 そしてヤツらの動きを感じることが必要なんだ。と麻屋が話している。

 まるでこれでは講義だ、と彩音は思う。

 でも、吸血鬼の影はみえたがその微妙な動きまでは見切れなかった。


 翌日の夜。

 慶子の家。

「輸血用の血液パックがぬすまれたのよ」

 母がふいにいう。さりげない会話の調子なのだが、話の内容は怪しいものだった。夕食の会話にふさわしくない。


24 血


 慶子の母は上都賀病院の看護婦長だ。

 母と娘は血のしたたる国産のビーフステーキをほおばっている。

 母が婦長の顔で娘に話しかける。

 尾河家のおそい夕食。

 食事のとき、そんな話よしてよ。

 とは、慶子は今夜はいわなかった。

 娘のいやがる話題提供が趣味の母。

 あら今夜は、どうしたのかしら。

 という顔をしたものだ。

 母と、娘ひとり。

 親子ふたりだけの暮らしだ。

「それで?」

「さきききたい」

 慶子がぐっと食卓に体をのりだす。麻屋の話をきいていた。なにかいやな予感がした。

「警察できてしらべたのよ。そしたら……」

「そしたら……」

「みつかったの」

 がばっと、慶子が食卓に顔を伏せる。 

 ゴッンと音までした。

 なにせ長身。

 のっぽ。母の皿まで頭がとどいた。

 たべかけのステーキが宙に舞う。

 慶子がすばやく手をのばす。

 ステーキは慶子のフォークのさきにささる。

 そのままパクリ。

「ああ、わたしのステーキ、わたしのステーキが食べられちゃったぁ」

 母がおおぎょうに泣き声をあげる。

「わたしのあげるわよ」

 慶子がじぶんの皿を母の前に押し出す。

 それには、目もくれず。母が声をひくめる。

「ところがぁ。みんなからっぽ。飲んだらしいの」

「飲んだって、なにを?」

「きいてなかったの、血よ、パックのなかの血はみんなからっぽだったのよ」

 大量に血液が飲まれた。ぬすまれたパックはすべてからだったという。


 麻屋は彩音からわたされた『女工哀歌』を読んだ。

 女子寮の高い塀に面した角部屋である6号室は血の海に変転じていた。

 床の血をなにものかが啜ったあとがあった。それがなにものであるかは、この不可解な事件が解決をみなかったようにいまだにわかってはいない。六角澄江の幽霊がやったのにちがいない。という噂がたった。血を流していたが、娘たちは辛うじて失血死だけはまぬかれた。秋田や山形の親たちが泣きながらひきとっていった。

 麻屋は終章を読みおわった。

(吸血鬼は何人も、ヤッラガニンゲントシテダガ、いままでにも、帰って来ていたのだ)

 それが、どうしていまになって、また大勢、帰還してきたのだ。


25 妖気


 澄江の事件があってから百年になるからだろうか。

 鹿沼にひっそりと在住していた吸血鬼が活動を開始したのか。

 いずれにしても……。

 吸血鬼が百年にいちどの活動期に入ったのだろう。

 助っ人は頼めない。日光の忍びの助けはない。

 麻屋の予感が的中した。

 彼らはもう帰還している。

 わたしたちの知らないうちに……。

 知らない場所で活動を開始していた。

 

 文美。麻屋。彩音。

 未公開資料室。

 夜間だが図書館はまだにぎわっていた。

 図書館も9時閉館。

 時間を延長している。

 自習室も解放することになった。

 閉館間際なので受付けはしぶしぶキーをよこした。

 大先輩の文美がいるのでしかたないといったイヤーなかんじ。

 麻屋は地下の資料室に彩音が入ったとき、微動を感じた。

 という言葉に反応していた。なにかある。

 ほんとうにかすかに震動していたのかもしれない。彩音のふいの來室によろこんだものが、あるいは動揺したものがいる。そう判断するするのが正しい。

 だとしたら、そのポルターガイストを起こす存在がいる。確かにいる。

 はたせるかな、文美と彩音、麻屋の三人が階段を地下へ下りだした時点で微動は起きた。

「文音これは歓迎されていないの。拒否よ」

「そう、くるなという警告だな」

「わたしも、感じる」

 人の昇降はあまりないはずだ。

 彩音の能力が、RF純平との戦いでさらにレベルアップしている。

 なにしろ未公開資料室に通じる深い階段だ。

 コンクリートの階段にはすべり止めの金属がついている。

 それが錆びている。

 階段も朽ちかけている。

 ぼろぼろ崩れかけてる。

 金属を腐らせ、コンクリートを崩す妖気がこの地下にはある。

 そう思っただけで、足が竦む。

 この前地下への階段をひとりでおりたことが怖くなった。

 怖いもの知らずだった。

 知らないほど強いことはない、と反省する彩音。

 ドアの下の隙間からも妖気がふきだしている。

 彩音はいちど入室しているので――先導する。

 彩音は壁を探って照明のスイッチを入れた。


26 赤く光る眼


 明かりの中でなにか動いた。

 ゾーっとした。

 書架に映った彩音の影だった。

(じぶんの影に怯えるようでは、わたしもまだまだ修行がたりないわ)

 天井の明かりが点滅をくりかえしている。

 ジーっとうなっていた蛍光灯が消えてしまった。

 ジーっという音だけが天井でしている。

 獣が敵を威嚇するような音。

 歯と歯を擦り合わせているような音だ。 

 不気味な音だ。三人の入室は歓迎されていない。

 妖気が部屋にみちている。

 彩音にもわかる。

 明りはついているのに、書架の底辺には闇がタプタプとたまっている。彩音の足にからみつく。はいあがってくる闇。

 見えていないものが、彩音の歩行を拒み邪魔するように実体化してくるようだ。

 無数の小さな手が足元にからみつく。

 ひとりだったら、もうこれ以上は前には進めない。

 近くに麻屋先生と文美がいる。

 いちばん頼りになる味方。

 闇から受けている邪気、シヨックから立ち直ろうと彩音は大きな吐息をもらした。

 リラックス。リラックス。

 肩の力をぬいて。

 ところが、ホコリが舞い上がった。

 いくら彩音が肺活量があるといっても、これは過剰な反応だ。

 闇も神経過敏になっているのかもしれない。

 それとも……おもわぬ敵の侵攻によろこび、はしゃいでいるのか。

 視界がゆらいだ。

 一瞬だけだったが、赤く光る両眼に睨まれているような感じがした。

 幻覚だ。

 こんなことがあるわけがない、幻覚だわ。

「とりこまれるな。彩音、なにもいまのところは、みないほうがいい」

「キャ」

 衣をさくようなドハデな悲鳴。

 彩音は資料ナンバー21のダンボール箱をとりおとした。

 ウジ虫がぬらぬらともりあがってうごめいていている。

 腕をはいのぼってきた。体中にウジ虫がはいまわっている。

 恐怖の悪寒が広がった。

 彩音の顔が恐怖にひきつる。 

 たまらず、箱をとり落としたのだった。

「なんでもない。なにもいない。ワームでもいると思ったろう。こういうときの定番だからな」

 麻屋が箱をひろいあげ『女工哀歌』をとりだす。

「うそぅ。わたしたしかにみたよ。先生のいうとおり、ウジ虫がいっぱいいたの」

「彩音、落ち着いて。やつらの罠にはまっちゃだめ」

「うん、ふん、ふん、やっぱりな……」

 麻屋が……彩音を笑わせようとして漫画チックな声をだしている。

 彩音のコピーは本文だけだった。

 最後のページに取材ノート、がはさんであった。

 それを麻屋は読み出していた。

「林純平は、恋人澄江は上沢寮監に殺されたと思いこんだのだな。それで敵を討つため剣の修行にうちこんだ。その怨念につけこまれ吸血鬼に噛まれ、この鹿沼にもどって、澄江を探し、さまよいながらひとにあだなしているのだ」


 パンフレットには、わが林家の純平叔父さんに関する伝承に触発されてこの『女工哀歌』を著した。と、書いてある。         

「あわれなものね」

 文美がぼそっとつぶやく。

「曾祖父(ひいおじいちゃん)は、林純平にやられたの」


27 抜け穴


「婿にきてすぐ病死したのよ。わたしが母のお腹にいる間に亡くなってしまったの。女工さんを吸血鬼の襲撃から守るのに精魂尽き果て……。いまでいう過労死よ」

「かわいそう……」

「それでも、父は甲源一刀流の一子相伝の秘伝を母に伝授して死んでいったのよ。もともと、女が剣の道に励むことを快く思わなかった時代に、舞いの中にその剣の修行を秘めていた鹿沼流が、さらに剣道の演武を強化して取り入れ、いまの形になったのは、父のおかげなのだよ」

 ガクッと床がゆれた。

 立て揺れの直下型地震のような振動。

「くるぞ、こんどは幻覚ではないな」

 壁がどんどんなっている。

 ポルターガイスト。

 向こう側になにかいて、壁を叩いている。

 接近をこばんでいる。

 警告。近寄られることをこばんでいる存在がいる。

 壁に亀裂がはしる。

 裂け目から妖気がふきだす。

 彩音にも妖気がみえる。

 彩音は闘うたびに進化している。

 壁の細い亀裂から青紫色にふきだす毒気がみえる。

 小さな渦をまいて彩音の体にまといつく。

 いやな気分になる。

 胸のあたりにしこりができる。

 吐き気となってこみあげてくる。

「肩の力をぬくんのよ、彩音、あまり意識し過ぎると、まきこまれるからね」

 麻屋が壁をなでている。

 なにか探っている。

 壁の一部が小さく開く。

 ノブがついている。

 ノブをぐっとしたにおろす。

 壁の隅がきしみながら上部にずれていく。

「この壁のむこうにもうひとつ部屋があるのだ」

 部屋ではなかった。

 古い抜け穴のような洞窟がつづいている。

 コウモリが天井からびっしりと、ぶらさがっている。

 すごい数だ。何匹くらいいるのだろう。

 コウモリを刺激しないように静かにすすむ。

 天井のコウモリはかすかな動きにも反応しそうで怖かった。

 鼻をひくひくさせている。

 ときおり、いやな鳴き声をあげる。

 不愉快な声だ。

 彩音たちの気配をすでに感じて威嚇しているようだ。

 しめった黴臭いにおい。

 いやなにおいがふきつける。

 彩音が顔をしかめる。


28 コウモリ


 足元にはコウモリのフンがおちている。

 床がザラザラするほどたまっている。

 乾ききっていないフンねばつく。

 歩くたびにベタベタとした感触が足底からはいのぼってくる。

 コウモリは飛び立とうとするかのように羽をひろげた。

 パタパタ羽を振動させている。

 いまにもとびかかってきそうだ。

 彩音はギョッとして立ち止まる。

「怖かったら、ここでまっているといい。どうする彩音」

 彩音は背中のバックパックを両手で支える。

 ふたりの後を追う。 


29 吸われた。


 東中学3年、三木典子は九門ゼミナールを後にした。

 いつもは車でむかえにきてくれる母が風邪をひいている。 

 典子も白いおおきなサージャンマスクをしている。

 闇のなかでめだたないかしらと不安だった。

 この道は市の『クリーンセンター』の所長が行方不明になった場所だ。

 死体はあがらないのに、殺人事件とみなされている。

 事件は解決したとはいえない。

 首謀格の産業廃棄物業者は自殺? してしまった。

 殺人を委託された男たちは逮捕され裁判にかけられた。

 でも死体は見つかっていない。

 死体を遺棄したという群馬県の山中からはなにも見つかっていない。

 この道を選ばなければよかった。

 いまさらもどるわけにはいかない。

 だれかに見られている。

 ゼミナールをでたときから、だれかにつけられている。

 だれかに見られている。

 ストーカー? かしら。

 怖いわ。

 もう、家はすぐそこだ。

 走れば5分とかからない。

 でも、走れば、見えていない存在に気づいたことになる。

 つけてきているものを刺激する。

 わたしって、おかしい。

 確かにだれかにつけられていると思いこんでいる。

 だれもいない。

 いない。あたりを見回してもだれもいない。

 いないわよね。こころのなかで自問自答した。

「いや、いますよ」

 闇の中から、白い腕がのびてきた。

 からだは、電柱のかげに潜ませている。

 スルスルと白い蛍光塗料でも塗ったような腕がながぁ―くのびてくる。

 その闇から息づかいが聞こえてくる。

 ひとの呼吸にしては間のびしている。

 寒くもないのに、呼気が白く見える。

 生臭いにおいがする。腐った肉のようなにおいだ。

 ひとの呼吸てはない。

 低いうなり声だ。

 獣の気配がする。

 典子は動けない。

 ポカンと口をあけてその白い腕を見ていた。

 腕が典子を捕らえようとしてさらにのびてきた。

 近づくにしたがって、腕の色が緑色にかわった。

 ゴツゴツともりあがって、鱗のようになった。

 典子は恐怖で声もでない。

 やはり遠回りをすればよかった。

 この道は避ければよかった。

 時間はかかっても……。

 明るい街灯の立ち並ぶお大通りにすればよかった。

 ひんやりとした腕、死人のような冷たい腕が典子の喉元にかかった。

 声がでない。

 声をだして、助けを呼んでもまわりにはだれもいない。

 

 孝子は悲鳴をあげた。

 お酒を飲み過ぎている。

 こんなに、遅くなるつもりではなかった。

 久し振りで会った友だちとの女子会でつい飲みすぎた。

 口のなかがねばい。

 カラオケパブからの帰りだった。

 白い腕がのびてきた。

 街灯のなかに男の姿がうかびあがった。

 夜が暗く重い。

 今夜も春の雪になるかもしれないと思った。

「孝子ちゃんはもう雪はみられないの。うふ、うふふふ」

 男が不気味に笑った。

 どうして、どうしてなの? わたしの名前しっているの。もしかしてストーカー??

 孝子は恐怖の叫び声をあげた。でまわりには、家はまばらだ。

 口元が赤く爛れているようにみえる。

 男から冷気がふきだしている。

 体が凍えてしまいそだ。

 そして、孝子は気づいた。

 これは寒さなんかではない。

 わたしは恐怖で動けなくなっているのだ。

 金縛りにあったように、身動きできないでい。

 冷や汗が背中をながれている。

 ガクガクとふるえていた。

 ああ、もうだめだ。

 わたし恐怖で発狂しちゃう。

 ケタケタ笑っているのは孝子じしんの声だった。

 顎がガクガク鳴っている。

 そして孝子はこの世で最後の悲鳴をあげた。 


「どうして夜遊びするの。夜、歩き回る子は、わるい子なんだよ」

 ゲーセンからとびたしたところで篠子はよびとめられた。

 少年課の婦警? 

「ぶー、はずれ」

 毒々しい青。

 鮫肌。

 もりあがっている。

 鱗みたい。

 口元が赤い。

 まるでいまあそんでいた吸血鬼ゲームみたい。

 血を吸ったみたい。赤い。

「ピンポン。こんどはアッタリー。篠子ちゃん血も吸わせてぇ」

 篠子は逃げる。

 夜の街を恐怖におののきながら逃げる。

 こんなことなら、母のいいつけを守ってひとりで留守いしていればよかった。

 後悔先に立たず。

 だれもいない。だれもたすけてくれるひとはいな。

 無人の街。まるで、セガのゲームの世界。

THE HOUSE OF THE DEAD の世界に迷い込んだみたい。

 でも、これは現実だ。

 こんなに……息切れがする。

 動悸が激しすぎる。

 どうしたら、アイツを消去できるの。

 消去、できるの? 

 わたしは、わるい子。

 わるい子だった。

 おかあさん、助けてぇ。

 これからはいい子になります。

 でももうおそい。

 ズルッとわたしの血が吸われている。


30 腐乱


 九門ゼミナールから帰りの典子。

 カラオケパブからでてきた孝子。

 ゲーセンで遊び狂っていた篠子。

 首筋におぞましいものがおしつけられた。

 唇。

 つめたい。

 ぐさっと牙がうちこまれた。

 三人の娘の断末魔の悲鳴をきいたものはいない。

 ズルッズルッとなにかを引き摺る音。

 なにか、やわらかなものが舗道を引き摺られている音。

 そんな音を聞いたものもいない。

 今夜も春の雪になりそうだ。

 いやに、冷えこんでいる。

 シャッターが下ろされている。

 どこの家もはやく雨戸をとじている。

 玄関にカギがかけられている。

 いや冷えこむだけではない。

 なにか、怖いいものがこの夜の底を歩き回っている。


「聞けたか」

「悲鳴でしたね」

「わたしにも聞こえたよ」

 彩音は麻屋と文美の後ろから声をかける。

 すくなくとも、彼女たちの悲鳴を感知したものがここにいた。

 この地下室では時間の流れがおかしい。

 すごく早くそれも過去にさかのぼったり、未来に向かったり、止まってしまったりするようだ。

 恐怖の源をみきわめようとする三人は、地下の資料室をぬけて地下道を歩いていた。

 周囲の壁がゆれている。

 彩音がはじめて資料室をおとずれたときもこの微動が起きた。

「歓迎されているわけではなさそうだな」

「わたしもそう思います。先生これは……」

「むこうさんも、武者震いしてるんだろうよ」

「わたしもそう思います」

「なによ、おばあちゃんもセンセも。ふたりでもりあがっちゃって。わたしにもわかるように、説明して」

「あれはなにかしらね」

 文美がのんびりという。

「鉄格子があるから、ここは国産繊維の地下室だ。折檻部屋のあとかな」

「まさか、そんなきついことは、やらなかったでしょう。反省室よ」

「反省室に鉄格子をはめるかね」

 のぞきこむと、すみのほうに布切れが積み上げられていた。

 布切れではなかった。

 婦人用の洋服であったものだ。

 布の陰に白い……骨。

 骨だ。

 そして、まだ骨になりきっていないおぞましい腐乱死体。


31 彩音、戦う


 ウジ虫がざわざわと波打つっている。

 すさまじい悪臭。

 吐き気がする。

 彩音は吐く。

 苦いものがこみあげてきた。

 なんども、吐いた。

 天井のコウモリがいつしかさらに数をました。

 興奮している。

 侵入者に気づき。

 ときおり羽音をたてる。

 このコウモリの大群におそわれたら……。

 どう防いだらいいのか。

「くるわよ。彩音、あれを準備して」

 彩音は構えた。

 舞台で学都とむかいあったときのように。

 だが、このたびは……。

 長めの皐の楔を。

 逆手にかまえた。

 あのとき。

 演劇部員が。

 演武とみなした。

 素舞を。

 披露。

 するわけではない。

 こんどはまちがいなく手に武器となるクサビをもっている。

 目の前に白い霧がわく。

 ねばつくような、いやなかんじの霧。霧の中央が濃さます。彩音がみたものは、得体のしれない凝固する霧が、しだいに人に似た形になっていく現象だった。(なんなのよ、これはどうなっているの)

「リアル吸血鬼がきたよ、彩音、油断しないで」

 彩音は呼吸をとめた。意識してとめたわけではなかったが、ここには、確かに異様な雰囲気があるとヒリヒリしていた。それが、いよいよ吸血鬼の出現だと文美にいわれて、緊張が高まっていた。

 彩音は止めていた息を、スウッと絹糸のようにほそく口からはきだした。そして鼻から吸う。口から吐きだす。舞っているときの呼吸法だ。疑心暗鬼にトリツカレテいたが、リアル吸血鬼があらわれると文美にいわれて、かえって平静なこころがもどってきた。

 この薄闇は彩音にとっては、不安をもたらすものだが、吸血鬼にとっては忌避すべきものではない。

 むしろ、赤目を輝かせて自由に活動できるよろこばしい闇なのだ。

 霧のなかから、捕食した娘たちをかついだ実体をともなった、喜々とした吸血鬼があらわれた。

 ああ、ここは折檻室でも、反省室でもなかった。

 ここは吸血鬼の食料保存室だったのだ。

 文美がサツキ手裏剣をなげた。

「きさまら、スレイヤーだな」

「純平、遠慮なくこんどはあの娘からいただいちまえ」

 ふたり目の吸血鬼が純平をけしかける。

 いつも純平に影のようにつきまとっていたヤツだ。

 これでは、演劇部の舞台での再現だ。

 でも、こうしてはっきりとその実体をみるのは、はじめてだ。

「このひとなのかい? 新任の先生というのは、レインフイルドだね。澄江さんの逢引の相手。澄江さんの敵と、わたしの父をつけねらっていた林純平さんよ。女工哀歌の功さんの叔父さん。とんでもない誤解からみずから吸血鬼に噛まれた哀れな男」

 さすがは語り部、文美。敵の正体を見破っていた。

「やはり、上沢寮監につながる家のものか」

「彩音の初仕事よ。澄江さんにもいい功徳になるわ」

「いくわよ」

 彩音もすっかりその気になっている。

 わたしの鹿沼は、わたしが守る。

 鹿沼はわたしが守る。わたしたち鹿沼のギャルの敵。娘の血を好んで吸う悪鬼。コウモリの排泄物のにおいを漂わせているイヤなヤッ。

 わたしたちの美しい鹿沼を吸血鬼の血でよごすわけにはいかないのよ。

 彩音の仕込まれた鹿沼流の舞踊は闘いの所作を秘めたものだった。

 序の舞い『鹿の入り巡礼』昔鹿沼の里に迷い込んだ女巡礼が土地の悪霊とたたかう舞いだ。

 酔拳のように。

 ふらつく。

 じつは八重垣流の小太刀の技を秘めている。

 油断させておいて、か弱い女が確実に相手を倒せる技。

 敵の首筋を攻める技だ。

 踊るように戦えばいい。

 吸血鬼の鉤爪をかわせれば、こちらの勝利だ。

 すきをみて鹿沼で栽培されている刺す木、サツキのクサビを打ちこむのだ。サツキ手裏剣を投げるのだ。

 吸血鬼は激こうした。彩音は一歩さがった。そしてさらに一歩。「許さないわよ」

 吸血鬼は歯をガクガク噛みあわせて彩音をおどす。

 威嚇する。

 心理攻撃に長けたヤツだ。

 人間が闇や、威嚇に弱いのをよくしっている。

 彩音が二歩退いた距離を一気に詰めて来る。

 跳躍したように見えたときには、もう遅かった。

 吸血鬼の鋭い牙が彩音の首筋を噛み裂いた。

 彩音は激痛のあまりくらくらと倒れることはなかった。

 噛みつかれた。

 ――という感覚、それ事態も、吸血鬼の目くらまし心理を惑わす攻撃だった。



32 100年の恋


 彩音はバック・パックにジャランというほどクサビをもってきていた。

 数本左手に握り、右手のクサビで吸血鬼の喉元を攻め抜く。

 まさに美しい彩音の舞いだ。

 まさに、古流鹿沼流の舞だ。

 だが、いまの彩音は美剣士。

 吸血鬼ハンター美少女彩音。

 右手に構えた楔で吸血鬼の心臓をねらう。

 文美は朱鞘の脇差しを背中にしのばせていた。

 カマキリのように構えて斬りこむ。

 とても、老婆とはおもえない。

「江月照松風吹 永夜清宵何所為」(かうげつてらししようふうふくえいやせいせうなんのししよゐぞ )

 オッチヤンが呪文をとなえている。

 純平の動きが鈍くなる。

 江月照らし松風吹く 永夜清宵何の所為ぞ

 吸血鬼呪縛を朗々と声詠する。

 この地方。

 大平山曹洞宗大中寺の開祖。

 快庵禅師(くわいあんぜんじ)のこした証道の歌。

 禅師は食人鬼と化した『青頭巾』と戦った。

 そのときに唱えた証道の歌だ。

 いつしか吸血鬼を封じる呪文となった。

 麻屋先生は……。

 と文美おばあちゃんがいいかけたことばの意味を。

 いま彩音は悟った。

 封印師だったのだ。

 鹿沼に仇なす邪気を封印することができるのだ。

「いまだ。彩音」

 彩音はトンと床をける。かるがると純平の肩にとびのる。

 彩音は純平の頭に制服からとったブルーのスカーフをまきつける。

 青頭巾にみたてたのだ。

 仮性吸血鬼の純平の胸に、澄江の哀れをおもえばクサビを打ちこむことはできなかった。

 青いスカーフ、青頭巾のうえから頭頂をぽんとたたく。

「澄江さんが、幸橋でまっているわよ」

「澄江」

 純平が悲哀にみちた声をはりあげた。

「そうよ。あなたをまちつづけていたのよ」

「ウソダ……」

「解封、封印された澄江の魂よ。よみがえれ」

 吸血鬼になるまえであったが、澄江はともかく噛まれている。

 明治の封印師によって封印されているはずだ。

 それが百年の年月を経てほころびかけている。

 彩音はその綻び目から澄江を垣間見たのだ。

 と麻屋は推察した。

 はたせるかな、中空に幸橋が浮かぶ。   

 澄江が純平を見た。

 純平を見て、呼びかける。

 澄江が純平に声をかけた。

 懐かしい、恋しい純平に声をかけた。

 純平さんはやくきて。

 アイツに血をすわれるくらいなら川に身を投げたほうがいい。

 アイツに、また、噛まれるくらいなら死んだほうがいい。

 純平さん、もういちど会いたかった。

 あなた、ああ、純平さん、わたし最後にあなたって呼びかけている。

「あなた、あなた」毎日、そう呼びかけたかった。

 あなたと結婚して、鹿沼のひとに奥さんと呼ばれたかった。

 この異境の地で子どもを産んで育てたかった。

「純平さん……」

「ダマサレテイタ。ダマサレテイタ。澄江はおれを幸橋でまっていた……」

「純平」

「澄江」

 青白いフレイヤーが立ち上ぼった。

 純平の魂だ。

 よかった。

 タマシイまでは吸血鬼になっていなかった。

 純平の澄江を思う気持ち。

 澄江の純平を恋い焦がれる想い。

 合体した。

 いつまでも、いつまでも一緒でいてね。

 彩音はふたりに祝福の念波を贈った。

 純平の、肉体は……さらさらと粉になった。

 消えた。

 だが、百年の恋が、これで、ここに添い遂げた。           

「鹿沼の土に養われたものたちが、生れ故郷に仇なすとは、作麼生何所為ぞ」

 残った2体の真正吸血鬼にむかって麻屋が一喝する。

 そもさんなんのしよゐぞ。

 吸血鬼捕縛の呪文。

 2体は動けない、たちすくんでいる。

 文美の剣と彩音のクサビが胸につき立った。

 心臓をサツキのクサビでえぐられた。

 純平のあとをおつって土くれとなり埃となってきえていった。


 注 青頭巾。上田秋成の「雨月物語」より。物語の舞台となっている大中寺のある太平山までは、鹿沼から車で30分くらいです。そのほんの目と鼻のところに新海誠監督の「秒速五センチメートル」で聖地とった「岩船」があります。さらに鹿沼にも是非おいでください新垣結衣主演「恋空」のあの観覧車があります。「戦国自衛隊」を書いた伝記小説の大家、半村良が終の棲家とした美しい街です。観覧車から見下ろす街は高層建築もなく古き良き時代をあらわす田舎町です。

    


33 輸血


 鹿沼消防署。

 緊急センターのブザーがなった。

 今夜はじめての救急車の出動指令がでた。

 出動要請地は『川上澄生美術館』の前庭。

 取り壊し寸前の幸橋のたもとだという。

 なんであんな場所に……。

 少女が三人も倒れていたのだ。

 そういえば。

 あの役立たずの橋の柱に。

 暴走族のスプレーペンテイングがある。

 なんどけしても性懲りもなく。

 ヤッラはドハデナ赤のアクリルスプレーで書く。

 吸皿鬼参上。

 真っ赤な髭文字がどくどくしい。

 凶念をおびているような文字。

 だれもが目撃している。

 まさか、あそこに本物の吸血鬼が現れたわけでもあるまい。

 吸血鬼があらわれるまいと判断した。

 だって、血という文字が、皿になっている。

 吸皿鬼。

 ジョークにもならない。

 血と皿も正確に覚えていないのか。

 はやくあの橋は壊されてしまえばいいのだ。

 コンクリート製の幅広の橋脚なくなれば。

 ラクガキをすることが、暴走族にはできなくなる。

 いくら消しても吸皿鬼参上などというストリートアートは後を絶たない。

 ごていねいに赤のスプレーで吸血鬼のおぞましいペインテングまで描いてあることもある。

 あのワルガキの、族のヤッラが女の子をまわしたのか。


 消防署から警察に連絡がはいった。

 警察のフロントでは帰りの遅い娘たちを案じて。

 三人の娘の親達が詰めかけていた。

 不安に顔を歪ませ、警官の後から街にとびだす。


「ああ、慶子。いま上都賀病院にむかってる。お母さんは夜勤?……]

「ここにいるわよ」

「至急輸血が必要なの。それも三人も」

「たいへんだぁ。血液たりないかもしれないよ」

「なにいってるの。信じられない。病院に血液の備蓄がないなんて、どういうこと」

 そこで。

 慶子は輸血用の血液のパックが盗まれた話を彩音にした。

「説明はあと。みんなの携帯にキンキュ集合かけるね」

 彩音はMMSを発信する。

 救急車のバックドアから彩音はとびだした。

 夜間だ。

 救急専用口から彩音は病院に走りこむ。

 だれもいない。

 出迎える者がいない。

 いくら夜間でも人気がなさすぎる。


 注 小説にでてくる「幸橋」は3年ほど前の黒川の洪水で流されてしまいました。残念です。「吸血鬼ハンター美少女彩音」が売れたらトマソンとなっていた「幸橋」ですが幻の聖地巡礼のデステネイションとして、再構築したいなんて、バカナことを考えているアサヤなのであります。ホント、バカですよね。


34 唇に血


 緊急患者を搬入する連絡は救急車からしてある。

 緊急車搬入口には赤いランプがついていた。

 自動ドアが開く。

 長い廊下のむこうから看護師がくる。

 白衣に黒のカーデガンをはおっている。

 ああ、よかった。

 看護師さんがきてくれた。

 これから先は、病院のスタッフに任せよう。

 つかれた。

 きょう一日、いろんなことがあり過ぎた。

 これで家に帰ってオバアチャンとゆっくり寝られる。

 だがそうはならなかった。

 なかなか近寄ってこない。

 看護師のようすがへんだ。

 なによ。

 こんなとき。

 なに、のんびり歩いてくるのよ。

 彩音はジレた。

 走りだした。

 廊下は走らないでください。

 文句を言うものはいない。

 彩音は走った。

 走った。

 背中でクサビがカタカタ音をたてている。

 看護師が歩くのを止めた。

 倒れた。

 看護師が倒れた。

 倒れた。

 こちらをむいている。

 口をOの字に開けている。

 救いをもとめるように。

 手をあげた。

 声を出そうとしている。声がでないらしい。

 なにかおかしい。おかしい。

 文音の背後からストレッチヤー。

 救急隊員が必死で……。

 血を吸われた犠牲者をのせたストレッチャーを押してくる。

 どかどかと靴音が高鳴る。

 それがぴたっととまった。

 彩音もみた。

 看護師の倒れた廊下の角を曲がって、でた。

 でたぁ。

 吸血鬼が。5人? もいる。

 ここにも、吸血鬼は侵攻していた。

 吸血鬼は彩音の目前に迫る。彩音は踏みとどまった。なにか嫌な感じだ。いままでのヤツよりてごわそうだ。

 吸血鬼はそこに、彩音がいることを意にかえさず、近寄ってくる。

 滑るような移動のしかただ。二本の足が人間同様あるのに、真っすぐにのびているだけだ。接近するときには、体ごと移動する。滑るようだ。とても、現実の動きとは思えない。

 さきほど倒してきたふたりと微妙にちがう。

 口元に真っ赤な血。

 赤く光る目。

 むきだしの鉤爪。

 のびきった犬歯、乱杭歯。

 鉤爪。犬歯。乱杭歯。

 三点セットはおなじだ。

 吸血鬼の三種の神器。

 だが、強そうだ。

 階級がさきほどのヤツよりも上みたいだ。

 

35 ゲーム


 彩音は唯一つの暗器、クサビを手裏剣としてなげる。

 なげるときに手首でひねりを加える。

 そうすると板壁くらいなら突き通る。

 吸血鬼の太腿にぐさりとつきささる。

 文美もくる。

「ムナサワギがしたので、彩音のあとをおいかけてきてよかった。アイツラ

 彩音と並んでクサビの連射をあびせる。

 吸血鬼はそれでも怯まない。

 ニタリニタリと近寄ってくる。

 じりじり迫ってくる。

 ざざっとおそわれるよりこわい。

 麻屋も参戦する。

 警備員もきた。

 警官も駆け付けた。

 ピストルを乱射する。

 吸血鬼のからだをつきぬける。

 あたっても、たおれない。

「コイツラ。火によわいのよ」

 彩音が鋭い声を彼女たちにとばす。

 携帯で呼び出された美穂と静。慶子たちにクサビを渡す。

 警官よりも、消防隊員よりもたよりになるダチ。

 だって、ゲーム世代だ。

 吸血鬼との闘いは日常茶飯事だ。

 吸血鬼をみてもまだその存在を信じられない。

 大人たちとはちがう。

 ゲーセンにいりびたりの子だっている。

 セガの〈死人の館〉攻略のベテランだ。

「たのしいな。ただでヴァーチャルゲームデキルノナンテカンゲキ」

 と美穂。 

 夢のゲーム機がついに完成したのだ。

 等身大全感覚没入可能型のヴァーチャル・リアリティの世界にいるのだ。

「キャ、立体映像だぁ。ステキィ」と静。

「なにいってるの。これは実戦なの」

「実戦ってなによ」

「リアルなの」

「やだぁ、彩音、英語使わないでよ」

「だからぁ、夢じゃないの。バァーチャルじゃないの。現実に起こっていることなの」

「いやぁ、こわい」

「バァカ」

 ほかの人達には、吸血鬼は超現実の世界の夜行性生物なのだ。

 この世にいるべきでない空想上の生物なのだ。

 異界がこの鹿沼の現実と混じりあってしまっているといっても理解できない。

 鹿沼のどこかに……ホコロビができている。

 鹿沼のどこかに通路が開いてしまった。

 そこから、異界のものたちが侵入してくるのだ。

「老婆ちゃん(ヴァーチャル)、バアチャンって呼んだかね」

 文美バアチャンがツツコミまでいれてくる。

 彩音はだまった。

 ただ闘うのみ。

 消防署のひとが紙で即席松明を作り吸血鬼に投げつける。           

 わたしが、コイッラ、火にヨワイのよ、といったことを信じてくれた。

 よかった。

 おとなが中学生のわたしのいうことを信じてくれた。

 フレキシブルな、柔軟な頭脳をもったおとながいた。

「あんたら、火を消すのがしごとですよね」

「消防士が火つけしていいのかよ」

 吸血鬼がたのしそうにニタニタ笑う。

「笑っていられるのも、いまのうちよ」

 美穂と静。演劇部員がクサビを槍襖のように構え、つっこんでいく。

 美穂の腕がのびる。

 吸血鬼のむねにぐさり。

 クサビをうちこむ。

「これって、ヤッパ、ゲームでしょ」

 塵となって消える吸血鬼。

「ヤッパ、ゲームでしょう」

 みんなで呪文をとなえる。

 ゲーム、ゲームといっていると恐怖が薄らぐ。


36 狼伝説


 吸血鬼の衣服に火が燃え移った。

 狂ったように跳ね回っている。

 声はださない。

 仲間の〈死の舞踏〉を目の当たりにした。

 悲鳴は上げない。さすがだ。

 あとの吸血鬼が後すさりする。

 彩音と美穂がその中の大きなヤッを追う。

 廊下の角まで追い詰めた。

 廊下の隅が不意にゆがんだ。

 直進はできないはずだ。

 変化が生じた。

 輝く広い廊下につながった。

 危険を感じて彩音が「とまって」と美穂に制止を命令する。

 この時、美穂の体が吸血鬼にかかえこまれた。

 そのまま白く輝く異界の通路へ吸い込まれた。

 彩音はなんのためらいもなく、あとを追った。

 後方で入り口が閉じた。


「だれだ」

 犬の遠吠えのような不気味な大声がした。

 暗闇の中で異臭がする。獣の臭い。

「これは驚いた。人狼回廊を渡ってきた人間はひさしぶりだ。なにものだ」

 闇がざわめいている。

 吸血鬼たちはみずからは人狼となのるのだろうか。

 ここは茂呂山(もろいやま)のあたりだろう。  

 なんとなく彩音にはわかっている。

 太古から黒川の侵蝕によって形成されてきた河川段丘。

 街の東側の台地。

 街よりも数十メートルは高い場所だ。

 崖が崩れないようにコンクリートで固められている。

 高くそびえるコクリートの崖は『地獄門』のように彩音には思われてきた。

 その場所の内部にいまいるのだと感知できた。

 この上の地上は、狼伝説のある犬飼地区だ。

 高寵神社。

 狼塚がある。

 玉藻の前を那須野が原まで追いつめた。

 犬飼びとの伝承が語り継がれている。

「返して。美穂を返して」

 必死で異空間に飛び込んだ。

 失神していたらしい。

 美穂の姿は薄れてきた闇の中にはない。

 墳墓らしい。

 大谷石で構築された地下の石造墳墓群が薄闇に広がっている。

 ここは地下の人狼の世界なのだ。

「わたしどうしてここにいるの? 美穂をどうしょうというの? わたしを演劇に誘ってくれた。演劇の楽しさを教えてくれた。マブダチの美穂をどうしょうっていうの」

「友だちのことより、じぶんのことを考えたらどうだ。もうじき、みんなもどってくるぞ。逃げなさい」

 どこからともなく声がする。わたしに危機を知らせてくれるものがいる。

 だれかしら。

 青白い靄が凝固して吸血鬼の形になっていく。

「ゲッ。吸血鬼」

「ちがう、おれは人狼だ」

「わたしには人狼も吸血鬼もおなじよ。あなたはだれ。だれなの? はっきりと姿をみせてぇ……」

 吸血鬼は帰還してきたのではない。こいつらここに、鹿沼のこの地下にすんでいたのだ。ここからハイデテ、鹿沼の女の子にワルサをしていたのだ。血をすったり、むさぼりくったりしていたのだ。行方不明になる人がいたのは全部コイツラのシワザだった。許せない。なんてことをしてきたの。わたし達の町を食い物にするなんて。許せない。

「これ以上の姿はない」

 のんびりと、人狼となのった若者が応えている。

「そうか。オマエ、キツネダナ。九尾のキツネの娘だな。だから回廊がぬけられたのだ」

 キツネといわれて彩音はドキっとした。

 思い当たることが沢山ある。

 阿倍清明の母は狐だった。

 そんな伝承がある時代。

 彩音の祖先は京都から流れてきた。

 諸国巡礼の旅をこの町で終焉とした。

 鹿沼流舞いの始祖の話だ。

 そんなことを聞いている。

 彩音に話しかけている声がとぎれた。

 明るくなった広間に墓石の影からさらに男がわいてでた。


37 美穂の危機


「なにぶっくさいっている」

 彩音は足下を見た。

 ごくあたりまえの、細いジーンズ。先のとがった靴。

 若者なのだろうと視線をはねあげた。

「ゲッ、吸血鬼」

「ちゃんと犬森タロウって名前がある」

 犬歯が誇らしげにニョキッとのびている。

 上顎からはみだした犬歯は下唇の外にとびだしている。

「おどろいたか娘」

「名前をおしえてくれたついでに、美穂をどこへつれていったのか教えてよ」

「おどろかないのか。おれは人狼。吸血鬼とも呼ばれている。人の血を吸うからな。人の肉をくらうからな」

「だから犬歯がながいのね」

「なぜ、おどろかぬ。おれは娘。おまえを餌食にすることもできるのだ」

 涎か犬歯のあいだからしたたっている。

「美穂をどこにやったの」

 応えは鉤爪だった。

 彩音がさっと舞扇をかまえた。

 バックパックからサツキ手裏剣をだしている余裕はない。

 腰の舞扇をぬいて素早く構えた。

「純平と戦ったという娘か。そのかまえ上沢の血をひくものというのはほんとうだな」

「ひいオジイチャンがそんなに有名だとはしらなかった」

「ぬかせ。あいつはニックキ対抗者。スレイヤーだ。……われらが敵を忘れるわけがないだろう」

(このひとたちも長く生きる種族なのだ。だから、むかしのことをいまのことにように話している)

「もういちどいうよ。美穂をここに連れてきなさい。そうすればおとなしく帰ってあげる」

「勇ましいこといえるのも、いまのうちだ。おねえちゃん。帰りは怖いってこと知らないとみえる」

 タロウがニタニタ笑っている。

「お隣りに現れたのはジロウさんかしら」

「ピンポン。よくわかったな」

 てんで話にならない。

 どこか釘がぬけているような会話になってしまう。

 彩音はいらだっていた。

 こうしている間にも美穂が危ない。

「だいいち、帰る道がわかるまい」

 タロウ、ジロウの人狼がニタニタ笑っている。

 狼面の吸血鬼だ。

 奇妙にゆがんだ空間。

 太陽の光でも蛍光灯の光りでもない明るさ。

 第一ここには、時間がないようだ。

 時間のソクバクから解き放たれた空間だ。

 足下はジメジメしている。

 鼻を刺す墓土の臭いだ。

 黒い土。

 関東ローム層の風化堆積物の土だ。

 水分を吸うと粘つく土となる。

 タロウがふたたびおそってきた。

 ジロウも真似る。

 それほどふたりの攻撃パターンは似通っている。

 両側からおそってきた。

 武器は鉤爪。

 激しい風圧だ。

 彩音の首筋を切り裂いた。

 しかし鉤爪の先に彩音はいない。

 フワッと跳んで3メエトルも後方に着地した。

「チエッ」

 タロウとジロウが同時に舌打ちをした。

 こいつらには個性がないのか。

 同じような攻撃。

 同じ舌打ち。

 息が臭いんだよ。

 あんたら。コウモリのフンのにおいがするよ。

 吸血鬼さん。

 芳香剤の入ったガムでもかんだら。

「彩音」

 美穂の声がした。

「彩音、助けて」


38 撃退


 美穂の悲鳴に彩音は戦慄した。

 襲われている。 

 美穂の命が危ない。美穂が血を吸われてしまう。どこにいるの。

「ミホ。みほ。美穂」

 彩音は声をたよりに走りだした。

叫びながら彩音は走った。 

 薄暗い空間を走る。広場にでる。

 墓地をぬける。

 くらいトンネルにまたはいる。

 複雑にいりくんでいる。

 彩音は走る。

「美穂、みほ、ミホ、美穂、どこなの?」 

 美穂……。

 恐怖がない、といったらウソになる。

 彩音は親友の美穂を助けたい。

 どんなことがあっても助けたい。

 彩音を走らせているのは友情だった。

 どんなことがあっても美穂を助けたい。

 そして、怒りだった。

 怒りが彩音の恐怖に打ち勝った。

 怒りが彩音を走らせていた。

 故郷鹿沼を蹂躙する吸血鬼集団にたいするはげしい怒りだった。

 親友美穂を餌食にしょうとする人狼集団にたいする怒りだ。

「美穂」


 病院では。

 シュシュシュと威嚇音をあげながら吸血鬼が後退する。

 倒された仲間をみすててホールをぬけ、フロントをでて夜の町に消えていった。

 残された吸血鬼はもえつきた。

 あとには悪臭だけがのこった。

 いやな臭い。

 くさった魚でもやいたような臭い。

 見せ場をつくってもらえなかった麻屋がぽつんと、それでも生徒たちのみごとなはたらきに満面笑みをうかべている。


 携帯の緊急連絡網で50名をこす献血者が待ち合いロビーに集合してきた。

 こんなときの携帯の連絡機能ってすさまじい。

 ぴちぴちの中学生。それも女生徒ばかりだ。

 献血。血液型を記されたそれぞれの胸の名札だってすごく役にたつ。

 血を提供するぴちぴちギヤルの群れをみたら、どこかにいる吸血鬼さんは、血のなみだこぼしてくやしがるだろう。


 慶子のママが婦長のカンロクをみせた。

 医師、看護婦をふくめて輸血の必要ある患者がともかく十名以上はいる。

 これからも、ふえるだろう。ベッドの下で、血をすわれたものがうめいているかもしれないのだ。

 病院の中をくまなくさがさなければ。

 みじめなのは警察官。

 鑑識は埃をかきあつめている。

 これらすべてを、みたものを信じられない彼らは、SFX、特撮の撮影現場に巻き込まれたのではないか。

 ドッキリカメラの再現ではないか。

 どこかにカメラがあるはずだ。

 気にしながら、悲しい捜査に血道をあげている。

 あせりで、目が赤くひかりだす。

 というのは、いいすぎだ。

 慶子ははたらく母をはじめてみた。うれしかった。

 どこかにいる父にみせたかった。

 こんなすばらしい妻と、どうして別れたの。ね、ね、どうして。

 彩音と美穂がいないことに慶子が気づいた。


39 純平


 慶子は青くなった。

 いままで一緒に戦っていた。

 彩音と美穂がいない。

どこにいってしまったのか。

     

 麻屋は『女工哀歌』を読んでいた。

 輸血をしなければならない犠牲者がおおい。

 病院には血を提供しようという生徒でゴッタかえしている。

 麻屋は一刻も早くこの吸血鬼、あるいは人狼の襲撃の実態を理解したい。

 待合室の椅子で読みだしていた。


 鹿沼の旧東大芦村の一部では死者を二度埋葬する習慣がある。

 民俗学者によって注目されたことがあった。

 仮りに埋葬してから、本葬をとりおこなうのだ。

 これは、早すぎた埋葬の為に死者が蘇ったという経験を村人がもった驚きからでた知恵だろう。

 それでなくても、この地方では、死んでからもいつまでも唇だけは色が失せなかった。

 あるいは、死んでも体が固くならなかった。

 などということが伝承としてのこっている。

 吸血鬼になりうる体質に恵まれている。

 

 林純平は澄江の死をきいて茫然としていた。

 気がつけば、すぐそばを黒川が流れていた。

 満々と水をたたえた川は流れていないように見えた。

 川の面は風にあおられて波がたっていた。

 波は川上にむかっているようにみた。

 流れていないというより、逆流しているように見えた。

 時間が逆行してくれればいい。

 どうして、澄江はおれを待ってくれなかったんだ。

 死ぬほどつらいことってどういうことなのだ。

 なにがあったのだ。

 虐待されていたのか。

 そんなことはない。

 この街の紡績工場にかぎって女工哀歌が現実のものとしては考えられない。

 この街のものは、東北の山村からきた娘たちを大切にしている。

 おれと結婚すれば澄江もこの街に住める。

 独身寮からでられるのだ。

 そして赤ん坊をうみ、育て、鹿沼に根を下ろすのだ。

 今少し、待っていてくれれば。

 それが実現となったのに。

 なぜだ。

 なぜ投身自殺などしてしまったのだ。

 なぜおれを待ってくれなかった。

 なぜだ。

 茅やすすきの群生をわけて男が現れた。

「澄江さんは、上沢寮監に乱暴された。あんたには会えないとこの川に身投げした」

「うそだ」

「寮監はそんなひとじゃない」

「ひいひい泣きながらいやかる娘をむりにいうことをきかせるのが、あの男の趣味

なのだよ」

「うそだ、上沢寮監はそんなことをするひとじゃない」

「それなら、それでいい。あいつの剣に勝つにはたいへんな努力が必要だ。その必要を感じたらいつでもわたしのところへおいで」

 男はやさしくいうと、柳の木陰に消えていった。


40 クノイチ


 男は吸血鬼だったのだ。

 おそらく、この後で、純平はすすんで吸血鬼に噛まれたのだ。

 澄江の敵、憎い上沢寮監を打つために吸血鬼となって、剣の修行に励んだのだ。麻屋はそう思った。

 過去に起きたことが……。

 吸血鬼の侵攻が……。

 100年たったいま……。

 またはじまっているのだ。


「先生。勉強してる場合じゃないよ。彩音と美穂がいないの」

「いつからいないことに気づいたのだ、慶子? むろんさがしてはみたんだろうな」

「携帯もうったよ。でもつながらないよ」と静か。

「あっあれみて」

 慶子がつけっぱなしになっている待合室のテレビをさした。


 彩音は美穂の声を頼りに奥に駆け込んだ。

 美穂が倒れている。

 彩音は夢中で美穂をだきおこす。

「そのまま走れ」

 さきほど、闇の中から話しかけてきた声がした。

 彩音は美穂の腕を肩にかえて走りだす。

 美穂を引きずっている感じだ。

 とてつもない害意が追いすがってくる。

 バッと行く手が白く発光する。

 かまわず飛び込む。

 ぬける。

 発光する空間を抜け出すと夜間照明されたイベント会場だった。

「美穂ここでまっていて。助けを呼んでくるからね」

 美穂を植え込みの奥に横たえる。

 彩音はさらに走りつづけた。


「先生たいへんだよ。彩音がテレビに映っている」

 慶子が目をまるくして叫ぶ。

 クノイチ「さすけ」の北関東予選鹿沼の会場だ。

 予選参加者が大勢おしかけたのだろう。

 夜更けの会場。

 茂呂山の鹿沼花木センターで今夜おこなわれている催しだ。

 でもこの病院からでは一キロちかく離れている。

 いままでいっしょに吸血鬼と戦っていた彩音がどうして、あんな遠くにいるのかと疑問がわいた。


 彩音は『倒連板』に跳ね上がった。

 軽々と渡っていく。

 それは最盛期のニジンスキーが舞台のはしからはしまで飛んでいるようだったといわれる跳躍に似ていた。

 ただしバレーではない。

 彩音の所作は日本舞踊のそれだ。

 鹿沼流の舞い手の優雅な動きだ。

 Gを感じさせない素早い歩行で進む。

「いかん。彩音は追われている。だれか車をだしてくれ」

 麻屋には彩音を遠巻きにした人狼の影が見えている。

「あたしが、バイクでいく」

「わたしも彼氏のバイクできてる」

 数人の友だちが病院のフロントから走りでる。

   

41 校長がおかしい


 彩音は『無情壁』にとりついた。

 なんなく征服する。

 実況アナが「飛び入りです。とびいりの、ノミネイトされていなかった少女が驚異の技を披露しています。さすが日光猿軍団の土地。伝説の猿軍……失礼しました伝説の日光忍軍、江戸村の模擬忍者ではなく、ほんとうに実在していた、クノイチはいまも綿々と日夜技を磨いているのかもしれません」

 アナは興奮している。

 彩音はクノイチにされてしまった。


 校長先生の両眼が赤光を放った。

「学都先生のかわりに新任の先生がくるのですか」

 という質問を彩音はのみこんだ。

 廊下ですれちがった。

 女生徒にはめっぽうやさしい。

 鹿沼中学の名物。

 宮部校長だ。

 直接質問してもしかられないだろう。

 声をだしかけた。

 目の光りが普通ではない。

 目が赤い。

 ぐぐっとちかよってくる。

 彩音はおどろいて見つめる。

 吐く息。

 肉食獣のなまぐさい臭い。

 険悪なムード。

 彩音は警戒モードにきりかえる。

 でも、聞いてみたい。

 でも、逃げなければ。

 気持ちが分かれた。

「彩音ちゃん。上野学都なんて先生はこの学校にいませんよ。はじめからそんな名前の先生はいません」

 わたしの名前しっている。

 超ヤバーイ。

 どうして?

 校長が彩音をみつめた。

 恐怖で体がすくんだ。

 ゾウッとした。

 まただ。校長までおかしい。

 いや、いちばんおかしいのは校長なのかもしれない。

 こちらの心をよむヒトが、またあらわれた。

 昨夜の事件でつかれている。消耗がはげしい。

 美穂は病室で眠りつづけている。

 美穂の意識はまだもどらない。

 どうなるの? 

 彩音はむしろ精神的な消耗がはげしくて立ち直れないでいる。

 じぶんに起きたこと。

 じぶんだけが経験したこと。

 じぶんだけの恐怖。

 人狼回廊をぬけてから経験したこと。

 まだ信じられないでいる。

 その恐怖が彩音をさいなむ。

 もう、いや。

 つかれたー。

 わたし、まだ闘えない。

 やだからね。

 すこし休みたいのに。

 また。

 へんなことにまきこまれるの。

 いや。


42 赤目


「もうじゅうぶんまきこまれているじゃないか。心配しないいで、校長室においで。校長先生と仲良くしよう」

 狼が小羊をみて、おいしそうだな、はやくたべたいなと涎たらすコミックそのままのいやらしい顔。吐く息がくさい。ほんとに涎たらしている。

「彩音ちゃんはきれいだね。きれいだね」

「たんま、たんま。あとでね。あとで」

 彩音は右手をあげて制止する。それ以上近寄らないで。

 異形のものにたいする、得体のしれない恐れ。

 逃げなければ。

 ヤバイ。タベラレチャウ。

 昨夜の病院での闘い。

「サスケ」会場での逃亡に疲れた体からは闘志が喪失している。

 逃げるのよ。彩音。

 じぶんを励まして、逃走にうつるのがやっとという感じだぁ。

 戦慄。恐怖。

 そして、不吉な予知。白日夢なんかじゃない。

 この街は、吸血鬼の大攻勢にあっている。

 吸血鬼が大量発生している。

 吸血鬼の怖いところは、だれでも吸血鬼にされてしまう可能性があるということだ。

 血液から血液へいくらでも伝播し、増殖することができる。

 さらに怖いことには血液の中でおきることなので、だれの目にもとまらないのだ。だれも気づかない。

 だれか他のひとにも、あるいはみんなに見えればいいのに。

 見えないから平気なのだわ。

 見えたらのんびりとひとの噂を交換するだけの携帯なんかもって、あそんでいられない。

 ほらあなたの横のヒト、あなたをたべたがっているわよ。

 胸さわぎがしていた。

 それが、現実となった。

 吸血鬼が学校にもうじゃうじゃいる。

 一夜にして、吸血鬼が大量発生したのだ。

 なんとかしてよ。

 彩音は廊下を2年D組の教室にむかって逃げながら叫びだしていた。

 それでなくてもおかしな校長だった。

「おれは日本一の校長だ」

 といつも豪語しているのだ。

 どこが日本一かというと、わからない。

 いっそのことと、わたしは人狼吸血鬼だ、くらいの告白してよ。

 彩音は教室の扉をおした。

 すごいいきおいだったので、みんながいっせいに文音を注視する。

 その目が赤い!! みんなの、振り返った目。

 ギラギラ、赤くひかっている。

 一番後ろの席までいく。慶子に話しかける。

 よかった。ここ正常な澄んだ目の慶子がいて。

 昨夜の労をねぎらってから、声を故意に低める。

「校長が冒されている」

「それってジョークよね」

 沈黙。

「ねね。彩音。それってたちの悪いジョークでしょう」

「ドウスル。アイフル。慶子」

「ああ、よかった。ヤッパ、ジョークだったのね」

 周囲の耳が気になった。

 ごまかしておいて、慶子を廊下につれだす。

「アサヤのオッチャンにメイルうって。それから静。赤い目でないひとも誘って」

「わたしは文美おばあちゃんに……」


43 花粉


 彩音の真剣な顔に慶子はうなずく。

 ふたりは校門を走り出た。

 学校からエスケープするところをだれかに見られても……。

 もうそんなこと気にしない。

 そんな、バアイじゃない。

 街が黄昏ている。

 いや、そんな時間ではない。

 だが、空気は蒼茫と暮れはじめている。

 おかしい。

 空を見上げる。彩音は理解した。

 鹿沼を有名にしたスギ花粉だけではない。

 コウモリのフンの粉末がまざったウイルスが漂っているのだ。

 そうにちがいない。

 空を見上げる。

 あの霧のなかだ。

 スギの花粉の中にコウモリのフンが混ざり合っているのだ。

 でなかったら、こんないやな臭いが街に漂っているわけがない。

 スギの花粉には臭いなんかないのだ。

 ゼッタイニマチガイナイ。

 あの霧とともに降って来ているのは……。

 いままでのスギ花粉ではない。

 チガウのだ。

 いままでのスギ、ヒノキの花粉の飛散量とは比較にならない。

 これは前の年に記録的な空梅雨と猛暑でスギの花芽が大量についたせいだとマス コミでは報じている。

 そんなことじゃない。

 あの花粉には、吸血鬼ウイルスが混ざっている。

 あれを吸いつづければ、人は人の血をすいたがるように変容してしまう。

 平気で人が人を殺せるようになる。

 ナイフで恩師を襲うことができるように頭がchangeしちゃう。

 怖いことだ。

 黒川の上流に白鳥が飛来してくるようになった。

 街の人は観光資源になる。

 と。

 よろこんでいる。

 その白鳥が死んだ。

 H5N1型ウイルスをまき散らしていなければいいのだが。

 もう手遅れなのかもしれない。

 もう、わたしたちに助かる道はないのかもしれない。

 彩音はすごく悲観的になっている。

 なんだか、もうみんなおかしくなっている。

 鹿沼だけではないのかもしれない。

 ナイフによる通り魔殺人がおおすぎる。

 ナイフは鉤爪。鉤爪は吸血鬼を連想する。

 花粉を吸うと。

 生きたまま火をつけたり、子どもを川に投げ込んだり出来るようになる。

 人をナイフで刺しても平気になる。怖いことだ。

 NPO花粉情報協会に報告したいくらいだ。

 今年のスギは全国的にも、ものすごい着花量だという。

 ここは鹿沼だ。日光杉並木に囲まれた街だ。

 スギ花粉は史上最高を記録している。

 鼻炎用の点鼻薬も飲み薬、マスクも在庫が足りないさわぎだ。

 でもちがうヨー。

 すくなくとも、この鹿沼ではただのスギ花粉の飛来ではない。

 吸血鬼、コウモリウイルスが混入した乾いた霧におそわれているのだ。

 ハンデミックだ。

 濃霧にさえぎられて太陽光線が街にとどかない。

 街を暗くしている。

 もう、彩音の好きなルネ・マグリットの絵のような澄んだ青空は見られないのかもしれない。

 彩音は走る。

 吸血鬼バリヤのはってあるアサヤ塾の敷地内に逃げ込めば安全だ。

 彩音に吸血鬼の食料保存室で嗅いだコウモリのフンの臭いがよみがえった。

 これは、この空を薄暗くするほど降っているのはコウモリのフンだ。

 まちがいない。

 この悪臭はいつものスギの花粉だけではない。

 鹿沼はいま乾季にはいって、空気が乾ききっている。

 いつものようにスギの花粉がとんでいる。

 ともかくスギ花粉症発見の土地なのだ。

 日光例幣使街道杉並木の花粉が分厚く飛んでいる季節だ。

 街の人はマスクをしているからこの悪臭に気づいていない。

 知らないことはいいことなのかもしれない。

 この世に生きるものがしぶんたちだけでないと知ってしまうと悪夢に悩まされる。

 これはちがうのよ。

 いままでのスギ花粉とちがうの。

 もうここまでくるとバイオ・ハザードだぁ。


44 机司登場


「彩音、なんだか怖い」

「わたしだって、慶子……怖いよ」

「彩音には怖いものないと思っていたのに」

 街が暗い。風も凪いでいる。

 街をいく人はマスクをしている。

 やぶれかぶれで、ノウマスクのひともいる。

 だれも赤い目をしている。

 いやらしい目でふたりの美少女をねめつけている。

 おいしそうだ。

 タベタイ。タベタイ……と目がぎらつく。

 赤くただれた目が迫ってくる。

 ふたりは走る。

 ジョークをとばす余裕などなくなっている。

 アサヤ塾まで距離が遠すぎる。

 バダっと羽音をたててコウモリがおそってくる。

 昼間なのに、薄闇がこの街の東地区をおおっているからなのだろう。

 パタパタと飛び交い彩音と慶子を狙っておそってくる。

 羽を激しく打ち合わせる。

 ギョギヨと動物のような鳴き声でおそってきた。

 鳴き騒ぎ、羽をばたつかせて、さらにコウフンする。

 皐の楔で追い払う。

 どこからわいてでたのかコウモリはいくら払っても追ってくる。

「彩音ちゃん、なに遊んでるの」

 パパラッチだ。フトッチョ洋平だ。

「洋平クン、おねがい、ジャンジャンとってぇ」

 いつもは被写体になるのをいやがる彩音の頼みだ。

 カシャカシャ洋平は薄闇の中でフラッシュをつけて写しまくる。

 コウモリは光りに弱い。

 さっと舞い上がる。鳥瞰している。

「いまよ。慶子。いっきに突破するわね」

 コウモリの排泄物の粉末化した大気のなかをふたりは、いや洋平が健気にもシャッターを切りながら追いかけてくる。

 すごくたのもしい。

 コウモリが頭上で鳴いている。

 羽をパタパタやっいるが、フラッシュの光りに目がくらんで三人には近付けないでいる。

 アサヤ塾はすぐそこだ。

 この府中橋をわたりきれば5分とかからない。

 ところが橋のむこうから吸血鬼が来る。

 みんなステロタイプではっきりとは分からない。

 でも都賀病院での闘いの場から逃げたヤツだ。

「こんどは逃げださないの」

 けなげにも、彩音が声をかける。

「いただきますよ。いだだきますよ」

「どうしてしつっこくわたしをおそうの」

「彩音、おまえが悪いんだ」

「吸血鬼が、気安く、わたしの名前いわないでくれる」

「おまえが、いちばん邪魔になる。マッサツせよ、とマスターの命令なのでね」

「鹿沼を完全制覇するには、おまえがジャマなの」

 吸血鬼が三方から迫ってくる。

「鍵爪の攻撃から身を守ってよ」

 慶子が洋平に注意する。

「どうしたんですか。ぼくにはなにも見えません」

「洋平、なにかごようかな」

 のんびりとした声がする。

「ありがたい、司センパイ」

「おまえなあ、緊急連絡もいいけど授業中はマズイヨ。二荒高校の授業はむずかしいんだ。先生も厳しい」

「ありがとう。こんなにはやくかけつけてくれて」

「鹿中のパパラッチから携帯にエジエンシーの連絡がはいれば、なにかおもしろいものをみたければ、おいでよってことだよな。洋平にさそわれれば、ぼくでなくてもかけつけるさ」

「女子生徒のシャワーシーンでもノゾけると期待したんだろう。このスケベ」

「ほらよ。これかけてみたら」

 といってなげてよこした特殊なサングラス。

 洋平は腰をぬかした。

 見えたのだ。

 彼にも吸血鬼の存在が見えたのだ。

「ななななんなんだ。コイツラどこからわいてでたんだ」

「バァカ。そんなんじゃないよ。だいいち彩音殿のまえだ」

 殿――古典的だ。

 こたえが、ワンポイントずれている。スケベといわれたことへの返事だ。

「ちゃんでいいわよ」

「これは、彩音殿に。二荒高剣道部主将、机司です」


45 鬼切り


 司が彩音に何か投げてよこした。

 彩音はあわてて右手で受け止めた。

 平凡な白鞘。でも舞扇みたい。

 脇差だ。

 逆手に構える。

 彩音の肘から少し出るくらい。

 一尺七、八寸。50センチはある。  

 それにしても。

 このノウテンキな司には吸血鬼を見る力はないのかしら。

 彩音が訝かった。

 吸血鬼が背後から司をおそった。

 キラっと司の右手が光った。

 どこに隠しもっていたのか!!

 白刃がきらめいた。

 吸血鬼が青い粘液をふきあげる。

 全身が泡立っている。

「彩音さん、抜いてみて」

「ちゃんでいいの」

 わたされた脇差し。

 抜きはなった彩音。

 眩く光る。

「とても、皐手裏剣だけで倒せる敵ではありません」

 なんでも知っている。頼もしいみかたがあらわれた。

 わたしより吸血鬼の知識があるみたい。

 彩音はうれしかった。

 司の芒洋とした顔がきびしくひきしまる。

 吸血鬼と戦う司。

 みていると、彩音の胸がきゅっと鳴った。

 美剣士机司。吸血鬼と剣の舞をみせている。

 コウモリと吸血鬼にかこまれた薄闇の中。

 彩音の顔が薄紅色に染まっていた。

「彩音のタイプね」

 これも不敵に慶子が彩音をからかう。

「いくわよ」

「いいわ。彩音、おもうぞんぶん舞ってよ」

 司が彩音の動きをじっと見守っている。・

「もっとはやく渡しとけばよかった。ゴメンヨ」

 鞘は、長すぎる舞扇の形に似せてある。

 仕込のある舞扇といったところだ。

 だか、まちがいなく白鞘の小太刀だった。

 握り締めた彩音の体に戦慄がはしった。

 まるで、ひさしぶりにあった恋人どうしがピピときたみたいだ。

 いやそんなものではない。からだに力がみちみちてきた。

抜きはなつ。

 眩く光る。

 青い光りをはなっている。

 彩音は体中のエネルギーを小刀の柄に集中した。

 エネルギーは破邪の気となって切っ先までみなぎった。

「それでいい。その集中力だ」

 吸血鬼が立ちすくむ。

「それは」

「わかりますか? 鹿沼は細川稲葉鍛治の鍛えた名刀『鬼切り』の一振り。吸血鬼さん。あなたたちの仲間が何人も切り倒されている伝説の技ものです」

 彩音は吸血鬼のふところにとびこんだ。

 さっと横になぐ。

 吸血鬼の腕がボトリと落ちた。


48 H5N1型?


 いまの大関教育長は麻屋の先輩だ。

 民間から起用された。

 建築会社の社長だ。

 教育委員会のある旧消防署あとはアサヤ塾からは目と鼻の距離だ。

 気さくに、とことこ歩いて大関はやってきた。

 そして、固まった。

「集団脱走。集団登校拒否。集団……」

 大関はあまりの生徒のおおさに絶句。

 なすすべもない。

 大関はあまりに現実ばなれした話しに絶句。

 対策を思いつかない。

 だいいち、一級建築士からたたきあげた社長だ。

 理系の頭だ。

 吸血鬼の存在はファンタジーの世界。

 理解できない。

「昨夜、都賀病院で共に闘った警察とフアイャマンがいるわ、あのひとたちにきてもらって……」

 彩音、慶子、静の3人が同時に叫ぶ。

「あの人達に、吸血鬼との接近遭遇体験を話してもらえばいいのよ。そうすれば、教育長の偉い先生も分かってくれるよ」


 学校閉鎖。

 市民は家の中に閉じこもっている。

 昼中は街に人影がまばらだ。

 太陽の直射をきらっている。

 紫外線にあたることを避けている。

 鳥インフルエンザ……。

 コウモリは鳥てすか?

 獣ですか? 

 鳥だとしたら、そのまま鳥インフルエンザでいいではないか。

 黒川の上流で白鳥が死んでいる。

 べつに解剖して調べなかった。

 今になって、H5N1型だったのではないか?

 人にも感染する新型のインフルエンザではないか?

 鳥インフルエンザなのだ。

 やはり、そうなのだ。

 喧々諤々。

 そんな議論を反復する愚をくりかえさないためにも、そのものズバリ。

『コウモリインフルエンザ』汚染地区。

「考えたものね? 行政にも知恵者がいるのね」

「おほん」


49 学校閉鎖


 彩音のイヤミに文美がせきばらいで反応した。

「なんだ、定年まで市の図書館にいた文美おばぁちゃんのアイデァだったの」

 すなおに、彩音はほめる。

 わたしのほうが、語感が古い。

 わたしは『コウモリ熱』なんていっていた。

 まさか、吸血鬼熱だ。

 なんていえないものね。

「まぁね」と文美が反り返る。

「わたしは、この街はおかしい。この街ではなにかが起きている。なにか街の影で、うごめいている。……と、警告してきた。妄想バカ……と、長いこといわれつづけてきたの。でも、妄想でしかいえないこともあるのよ。妄想にも真実はあるの」

 夕暮れるとコウモリが空一面に飛び交った。

 薄闇の空にコウモリが群れている。

 不気味な鳴き声を上げて夜空をさらに暗くする。

 どこから、このコウモリの大軍は現れたのだ。

 ひとびとは逃げまどう。新型のインフルエンザ、人にも感染する『トリインフルエンザ』にかかる恐怖で怖れ慄き、逃げまどう。罹病率も高い、死亡率も高い。噂が噂をよび、流言飛語で街を歩くモノがいない状態だ。

 怯えて家の中に閉じこもる。

 昼も夜も家の中で震えている。

 コウモリはフンをまきちらす。

 コウモリのまきちらすフンの悪臭が空から降ってきた。

 その強烈な臭いを嗅ぐと頭がくらくらする。

 その排泄物は、屋根や地面に降りそそいだ。

 太陽に炙られ乾燥し埃となって舞い上がる。

 街の東地区は隅々まで、埃まみれになった。

 ひとびとは気づきはじめていた。

 醜怪な存在にこの街は侵攻されている。

 この異臭を放つフンまじりの埃は……。

 ただごとではないと。

 この異物は、異形のものがいる証拠だと。

 それでも、どうすることもできなかった。

 大勢のひとがコウモリインフルエンザにかかってしまった。

 どこの家でも、ひとりは病人をかかえこんでいる。

 高熱がつづく。

 うなされる。

 ワイセツなことを。

 ワメキチラス。

 熱はなかなか下がらない。

 薬も効かない。

 ただ寝ているだけだ。

 青白く、日増しに衰弱していく。

 窓を密閉しても、埃だからどこからともなく部屋にしのびこむ。

 埃はまさに生きたウイルスを含んでいた。

 とりわけ、鹿沼中学の学区内。

 黒川の向こう岸。

 市の東側が罹病率が高かった。

 東に高い台地が連なる。

 その河川段丘の下を黒川が流れている。

 上昇気流がある。

 空気の淀みがほかの地区とちがうのかもしれない。

 こうもりの巣、発生源が鹿沼中の旧校舎にあるせいでもあった。

 廃材もまだ校庭の隅に山積みされている。

 生徒たちは、サージャンマスクをして予防に努めた。

 目はおおうわけにはいかない。

 赤目になった。

 赤くただれた眼からは涙が出た。

 とまらなかった。

 咳が出た。クシャミが出た。

 とまらなかった。

 そして。

 

 ついに学校閉鎖。


50 焼却


 翌日の栃木新聞。

 鹿沼中学校の特集記事で一面がうめられていた。

 鹿沼中学校で突然発生した奇病は『コウモリインフルエンザ』によるものと衛生当局によって断定された。

 たまたま春先で花粉アレルギーの蔓延する時期に校舎取り壊しで放置されていた古材に長年こびりつき、溜まっていたコウモリのフンが、スギ花粉と混ざりあってでた症状だ。

 ひとからひとに伝染する危険はない。

 ただ、目がはげしく充血し、赤目になるだけだ。

 健康的には弊害はでていない。

 また、古材はただちに焼却処分するので病気の感染が広がる心配はない。

「健康に弊害はない、なんてよく書けるね。どこの家でも、ねたきり病人かかえちゃって苦労しているのに。鼻水がでて、苦しくて勉強に集中できないで受験の三年生なんか、かわいそうだよね」

「街が正常に機能していないものね」

「へんなオジサンがヨダレたらして寄ってくるものね。いやだよね」

「だけどさぁ。糞(フン)。コウモリのフンと花粉。ダッテ、うまくまとめたわね。こんなのってフンフンゆって信じられないよね。彩音」

「だって、慶子。コウモリをだしたとこなんか意味シンよ」

「どうして、どうしてよ? 教えてぇ」

「ようく考えよう。コウモリは吸血鬼の変身した姿じゃん」

「あっそうか。気づかなかった。彩音んとこのおばあちゃんって、ヤッパスゴイワ」


 街をいく人がいない。

 ある朝起きてみたら、街から人が消えた。

 そんな感じだ。

 人が消えたわけではない。

 外にでるのが怖いのだ。

 家の中で不安に怯えているのだ。

 車は通っている。

 人が街を歩いていない。

 コウモリのフンがこびりついた廃材を焼却処分にした。

 それだけで、このインフルエンザをくいとめることができる。

 なんて、おかしい。

 夕ぐれるとパタパタと不吉な羽音がする。

 飛び交うコウモリがいる。

 校庭に山積みされた廃材は焼却した。

 校舎を消毒している保健所の職員の姿をテレビでみながら麻屋は思う。

 これで、吸血鬼熱を封じこめるとは当局も考えてはいないはずだ。

 これは、蚊によって媒介されるデボラ出血熱みたいなものかもしれない。

 コウモリは空を自由に羽ばたいているのだから始末に悪い。

 街のそこかしこにフンはおちている。

 もうおわりだ。

 このままほうっておけば、いずれこのわたしたちの愛する美しい鹿沼は死の街となってしまうだろう。

 ただ幸いなことに、黒川があるので、街の中心部西地区にはまだ発病しているものはいない。

 黒川の向こう側だけが危険地域だ。


51 地下通路


 学校はお休み。

 川の向こう側。

 東地区は。

 人間の頭に例えれば。

 脳コウソクで死にかけている。

 そのまだ死んでいないペナンブラ。

 周辺に生徒を避難させた。

 受験生は高校の入試がある。

 西と北の各中学に分散登校。

 受験が近付いているからと緊張などしない。

 授業中から携帯で友だちづくりに熱心だ。

 現代っ子だ。

 仲間がふえて大喜び。


 行政が報道陣の注視の中でどんな手をうっているのか。

 テレビでもみるほかにない。

 いま街でおきていることなのに。

 テレビで見た方が情報は確かだ。

 街の人の噂話より正確だ。


 元気をとりもどした彩音と慶子のコンビ。と麻屋は。

 あの地下の反省室にきていた。

 図書館の地下の洞窟にいた。

 文美はもっぱら行政のアドバイザーとして活躍している。

 今回の探索には不参加。


「どこかに、脱出口がある。女工哀歌にはノンフイクションの箇所がかなりある。読んだかぎりでは……このへんに……」

「どうして抜け道にこだわるの」

「吸血鬼がいまでもその道を自由にいききしている。このあたりの建物の地下がヤツラの地下街になっている恐れがある」

「そうだね、ヤツラの貯蔵室だってあった」

 そして、彩音はあの吸血鬼回廊をワープして。

 モロ山の地下の洞窟をさまよった経験を麻屋に伝える。

「そういうことだ。ヤッラはunder groundで活動しているのだ」

 麻屋は床をどんと強くふみしめた。

 反響音に耳を傾けている。

 ふいに、バサバサと羽音がおきる。

 地下道のどこからともなく、コウモリの群れがとびだす。

 三人はあわてて走りだす。

 狭い部屋にとびこむ。

 部屋にはガラクタがむぞうさにつまれている。

 調度品はどうみてもかなり古い。

 国産繊維が活発に稼働していたころのものらしい。

 物置として使っていたのだろう。

 扉にコウモリがぶちあたりギギっと鳴く。

 いやな鳴き声。


「せんせい。ここおかしい」

「どう、怪しいの、慶子」

 長身にまかせて、低い天井をさぐっていた慶子が叫ぶ。

「はやくして、扉がやぶられる」


注。 『モロ』という響は吸血鬼と関係があったと記憶しています。モロイ?

ペナンブラとは? ペナンブラ(Penumbra、半影帯)とは、血流量が低下している領域にあって細胞死を免れている部分を指し、速やかな血管再開通により梗塞への移行を阻止できると期待される部位である。


52 怨霊


「空気がふるえている感じ」

「はやく、逃げよう。コウモリに食いつかれるわ」

 なるほど。

 慶子がたたくと、ぶぁんとしたとらえどころのない音がする。

音が広がる感じだ。

「さがっているんだ」

 手近の木製の椅子の上にのる。

 デザインからしてかなり古い。

 ガラクタだ。

「先生の重みでこわれないかな」

 慶子がへらず口をきく。

 それでも椅子を押さえる。

 麻屋は、さすがに慶子よりうえに、ただし頭一つぶんだけ背が高くなる。

 麻屋と慶子が顔をみあわせている。

「せんせいのこと、仰ぎみたのはじめてだよ」

 コンクリートの天井とみえたのは、分厚い板だった。

 板をずらす。

 暗い穴が見える。

 上の階にでられた。

 三人は一段うえにあった洞窟を歩きだしていた。

「センセイ。どうして反省室にそんなにこだわるの」

「それはな、彩音、反省室にはなん年ものあいだ虐げられた紡績女工の恨みが残留思念となって残っているんだ」

「それがどうしたの」

「慶子な、それが吸血鬼を呼びよせていると思うのだ。虐待されたものは虐待した人を恨む」

「それが?」

「それが……」

「ふたりとも、気づかないのか。鹿沼の人たちが会社では上層部にいた。上役だった」

「女の子をいじめたのは、鹿沼の人。だから鹿沼の人が恨まれている」

「こんどのことは、かなり根が深い。明治、大正、昭和にわたる恨みが背後にあるとみた」

「そうか、鹿沼が恨まれているんだ。美しい街の底に過去の亡霊が生きていたのね」

 と彩音も納得する。

「そういうことだ。澄江さんと純平くんの純愛なんてめずらしいことだった。だからこうして、その話がいまも残ったのだ。語りつがれたのだ」


53 負のエネルギー


 慶子にもわかってきたようだ。

 マジな顔でおおきくうなずいている。

「だからその恨みのこもった反省室を再封印するか、思いきって亡霊を解放してやれば……」

 彩音と慶子が同時におなじことをいう。

「ふたりとも、だいぶわかってきたようだな。わたしたちは、吸血鬼との戦いに優位に立てる」

 だが心の片隅では……。

 麻屋は、反省室。

 などとは思っていなかった。

 拷問部屋だったろう。

 いや、そんなことはないだろう。

 物事を悪く考えすぎる。

 これも吸血鬼の影響を受けているのだ。

 とぶっそうな推理を否定する。

 歴史の中に消えてしまっている。

 ……残酷な話……。

 にも、目をむける必要はある。

 美しいものだけを見て生きていければ。

 こんなに幸せなことはない。

 

 吸血鬼は街の暗い部分からエネルギーを吸いとっているのだ。

 人を不幸にしている。

 その、負のエネルギーを食い物にしている。 

 恨み、嫉妬、貧困。を発生させている。

 さらに鹿沼に不幸をもたらそうとしている。

 すべて吸血鬼が画策している。

 ヤツラを滅ぼさなければ、平和な鹿沼にはもどれない。

「もう、幸橋の下のあたりよ」

「彩音も慶子も気づかないのか。このあたりはもう昔ほられた洞窟じゃないぞ」

 壁がよごれていない。

 まわりがコンクリートだ。

 どこかでさきほどコウモリにおそわれた階と合流している。

 おかしい。

 これは!!

 吸血鬼だけの通路が鹿沼の地下にできているのだ。

 下水路とうまくジョイントすれば吸血鬼は地下通路を利用していつでも、どこへでも出没することができる。

 これはたいへんなことだ。

 街を歩いていて悪臭におそわれることがある。

 すれちがった人が汚物ににおいがすることがある。

 あれは地下道から吸血鬼がでてきたときの臭いだろう。

「図書館から、隣の川上澄生美術館へ。そして……」

 地下道で街から街へつながっている。

 そんな考えが閃いた。

 閃いたからといって、安易にそれを生徒たちの前で口外するわけにはいかない。

 麻屋はふたりを制止した。

 話し声がする。

 どこかで人の話し声がしている。

 低い押し殺したような声。

 でも、まちがいなく人の声だ。

「どこから聞こえてくる……? 慶子。上のほうからかな? どうなんだ」

 麻屋が慶子を仰ぎみている。


54 牧場


「事後処理は市役所にまかせておけばいい」

「生徒たちは全部帰宅させたが、だいじょうぶだろうな」

「ほかのものに、人から人にはこの熱はうつらない。移す能力もないはずだ」

「生かさず、殺さず。ずっとわれわれの餌ですか」

「そういうこと。ヤッラどうしで精気をすいあったら、鮮度がおちるからな」

「おいしい精気を吸いおわったら、おいしい血を吸いましょう」

「たのしいな。たのいしな」

 だれがはなしているのか声がくぐもっているのでわからない。

 美術館のあたりだろうか。

 それに壁越しだ。

 麻屋はうしろのふたりにバックするように合図する。

 いつのまにか、吸血鬼の侵攻は市民のレベルまで浸透している。

 異界が現実の鹿沼と重なりあっている。

 人の精気を吸って生きているマインドバンパイヤが増殖していた。

 ひとがひとを差別する。

『お近所トラブル』がたえない。

 しまいには猟銃で隣の主婦を射殺する。

 吸血鬼よりも残酷なことを平然とやってのける。

 川に親友の子供を生きたまま投げ込む。

 学校でのいじめ。

 大人同士のいがみあい。

 苦しみ、悲しむ。

 苦しみや恐怖におののく人の精気は吸血鬼にとっては、最高のゴチソウだ。

 吸血鬼の侵攻が鹿沼を中心にして広がりつつある。

 精気を吸われても、吸血行為のようにドハデな、ひとの生死にかかわることもない。

 吸血だけを目的としない、マインドバンパイアが増えている。

 だから、いままで、だれにも気づかれなかったのだ。

「教室で平気で携帯かけまくる。携帯であそんだり、おかしいと思っていたんだ。制止しても、なにいわれているのかわからない。しかられていても、携帯から手をはなさない。数分おきにでかいあくびをする。精気をすわれていたんだな」

「そうか、うちの学校だけではないよね」

「汚染はひろがりつつある」

「ひょっとして、全国区」

「あるいはな……」

 麻屋はふたりを肯定する。

 だが、これほどひどいコウモリインフルエンザは鹿沼の東地区だけだ。

 それが、せめてもの救いだ。

 ここでこの地区だけでくいとめないと大変なことになる。

 全国にこんなインフルエンザが蔓延したら日本は破滅だ。

 核攻撃どころの被害ではなくなる。

 後ずさっていた慶子がドスッと壁にぶちあたる。

 壁がくるっと回転した。

 回転ドアになっていた。

「ヤバイよ。いまの音きかれたよ」

「どうしょう、彩音」

 慶子は泣き声を出した。

「あっ、ここが反省室だ」

 怨恨の渦がうねっている。

 麻屋は吸血鬼捕縛の呪文をとなえながら、部屋の隅から隅までゆっくりと歩く。

 渦の動きがうすらいでいくのを肌に感じる。



55 岩船山   


「わたしたちの祖先の仕打ちを許してくれ。やすらかな冥福を祈ります」

 女工さんたちをコキツカッタ、明治、大正の経営者にかわって、謝った。

 女工哀歌にあるようなことが事実だったとすれば、謝まるべきだ。

壁に大平山大中寺の札がびっしりとはってある。

 セピア色に色褪せている。

 それが新鮮な色にもどった。

 いま刷り上げられたような色だ。

 女工さんの死霊の怨念で汚されていたのに。

 麻屋の祈祷で、その御利益が回復したのだ。

 太平山に隣接した岩船山高勝寺の板札がうちつけてある。

 麻屋は祈りつづけた。

 足音が彼らが通りぬけてきた洞窟にひびく。

 近寄ってくる。

 複数のものだ。

 せまいのでエコーとなって聞こえる。

「気づかれたな」と麻屋。

 彩音が壁に耳を寄せた。

 いちど通りすぎた足音がもどってきた。

 有蹄類のようにどすどすと固い音がする。

 三人は袋のネズミだ。

 この部屋にはどこも出口がない。

 いま進んできたのが抜け道だ。

 延長された部分もある。

 閉鎖され、埋められてしまっている箇所もある。

 ともかくむかし掘られた穴だ。

 息苦しくなってきた。

 狭い部屋だ。

 換気がわるい。

 よどんでいた空気がさらによどむ。

「おっちやんセンセイ、なにやってるの」

 わざと慶子がおどけてきく。

 麻屋は板札をナイフで割っていた。

「紙札をからだにまきつけるんだ。これが楔がわりだ」

「わたしが皐の楔を忘れたから……。ゴメンナサイ」

 壁が外からどんどんたたかれた。

「はいってはこられないみたい」

 慶子も壁に耳をあてた。


56 霊験


 壁がビンビン震えている。

 すごい力だ。

 まさに人のものではない。

「招かれなければ入ってこられない。真正吸血鬼かもしれないな」

 空気がもたない。

 狭い空間だ。

 このまま閉じこもっているわけにはいかない。

 三人は意を決した。

 ソレっとかけ声かけて扉をおした。

 全身青い鱗におおわれた異形のものがいた。

 大きい。

 吸血鬼のボスか?

 大中寺の魔除けの札をからだにつけている。

 岩船山高勝寺の板札をこまかく裂いてつくったにわか楔をもっている。

 彩音が吸血鬼と向かいあった。

 健気だ。 

 いままでたおしてきた吸血鬼よりはるかにランクが上だ。

 目が赤くぎらぎら光っている。

 威嚇するように乱杭歯のあいだからシュシュっと息をはく。

 牙がさらにのびる。

 彩音は吸血鬼捕縛を高々と朗詠する。

 慶子も唱和する。

 彩音は吸血鬼の鉤爪をさけて、体をねじった。

 その姿勢から楔をとばす。優雅な舞いの姿だ。

「鹿沼流一段『風花』の舞い」

 と彩音が叫ぶ。

 みよ、楔は2本とも吸血鬼の胸につき刺さった。

 一体は倒した。

 皐の楔より霊験あらたかだ。

 それはそうだろう、岩船山は高勝寺の板札を裂いてつくつた楔だ。

 にわかづくりといえども、効果テキメンなのは、あたりまえだ。

「あんたのような不細工なヤツはナンニンいるのよ」

 風花が舞うように楔が吸血鬼みがけてとんでいく。

「ほざけ。小娘め。塾のジジイもシシャリでるな」

「これは、これは元教育長の神田先生。帰り咲きでもねらってるんですか」

「黙れ、もう鹿沼の教育界はわれわれのものだ」

 確かに、吸血鬼に神田の顔がオオバラップしている。

 もともと、犬歯が異常にながく吸血鬼面だったので気づかなかったのだ。

 麻屋の古い記憶の中でも、すでにこの神田は吸血鬼行為にふけっていた。

 校長時代に周り女教師にワイセツなふるまいをしていると評判が立っていた。

 元祖セクハラ校長だ。


57 悪臭


 教師仲間は外聞をはばかった。

 ひたかくしに隠してきたのだ。

 それをいいことに校長室でご乱行におよんでいた。

 神田が悪意にみちた顔で一歩前にふみだす。

 顔がそばに寄ってきた。

 息が臭い。

 ドブ泥のようだ。

 腐敗の臭いだ。

 そばにいるものを腐らせてしまうような臭いだ。

 乱杭歯をむきだした。

 さらに近づいてくる。

「その生徒をこちらにわたせ」

 吸血鬼の鉤爪がぐっとのびる。

 迫ってくる。

 楔が効かないのか??

 彩音はとびのく。

 慶子は背が高いうえにバスケの選手だ。

 習性おそるべし。

 ジャンプしたが上にしてしまった。

 頭を天井にうちつけた。

 痛みではいつくばる。

 その上を麻屋がとびこす。

 神田にまわしげりをかます。

 神田がふっとび壁に激突する。

「オッチャン。ヤルジャン」

「ドウダ。ゲンキガデタカ、彩音」

 これでもくらえ。

 彩音が慶子をかばいながら楔を吸血鬼のふとももにつきたてる。

 ジュっと緑の血がわきでる。

 鱗がケロイドとなって溶けだした。

 にわかづくりの楔が効果ありとみてとると、慶子は元気に起き上がる。

「こんどは、とびはねるなよ」

「わかってるわ」

 慶子が神田に楔をうちこむ。

 神田はぜんぜん怯まない。

 溶けた傷跡もふさがっている。

 いままで相手にしてきた吸血鬼とはパワーが違う。

 能力がはるかに上のランクだ。

 たった一人の神田に三人が圧倒された。

「だめだ、吸血鬼呪縛の呪文がきかない」

 麻屋の朗唱がとぎれる。

「そんなたわごとが、おれに通じると思っていたのか。あまくみられたものだな。



58 危機


 神田の背中に吸血鬼が群らがっている。

 後光のように神田の背後に控えている。

 いままでに倒してきた吸血鬼だ。

 恨みの視線で三人を威嚇する。

 慶子が絶叫する。

 胸を鉤爪で引き裂かれた。

 パッと血が飛び散った。

「慶子!!」

「痛いよ。彩音」

「今、コイツラを倒したら病院につれていくから。それより携帯いれて。バアチャン呼んで」

 慶子が痛みをこらえて、携帯を取り出す。

 バンと神田の足蹴が慶子の腕をヒットする。

 舞い上がった携帯を神田はキャッチした。

 粉々に握り潰す。

 恐ろしい握力だ。

「コイツをたおすだって。いってくれますね、彩音ちゃん。できるかな。できるかな」

 神田が不気味な哄笑を上げる。

 乱杭歯が青白く光って彩音に迫る。

「彩音ひけ。ひくんだ」

 ああ、なんとしたことか。

 いちど倒したはずの吸血鬼。

 背光となって神田のまわりに浮遊していたモノたちが実体化した。

 その数おおよそ12体。

 いやもっといるようだ。

「こんなのは、目くらましだ」

「そうかな。そうかな」

 復活した吸血鬼に麻屋はザクッと肩の肉をはぎ取られた。

「苦痛も……錯覚かな……、塾のクソ教師が。痛みはほんものだろう。血もでてますよ」

「オッチチヤン」

「心配するな。これきしの傷、なんてことはない」

 麻屋は肉をもがれたショックでおもわずよろけてしまった。

 よろけながらも麻屋は彩音と慶子を出口に向かわせた。

 無傷なのは、彩音だけだ。

 さすがに舞いで鍛えあげた反射神経だ。

 それは、彩音の本来そなえている能力なのだろう。

 舞うように体が動いている。

 動きながら、少しずつ退いている。

 吸血鬼にも鉤爪でとらえることができない。

 シュシュといらだっている。

 乱杭歯のあいだから。

 威嚇音が吐きだされる。

 喉をグルグルと鳴らす。

 彩音を包囲する。

 ジュワジュワっと。

 包囲網を。

 しぼりこんでくる。

「逃げられるかな」

 神田がうれしそうにニタニタ笑う。

「慶子。彩音。逃げるんだ。おれにかまわず逃げろ」

 彩音が叫ぶ。

「文美バアチャン」

 ……。

 彩音が叫ぶ。


59 死闘


「胸騒ぎがして、駆けつけてきたの」

 出口に文美がいる。

 穴の中にさしこむ外光を背に受けて!!

 文美の姿が浮かびあがった。

 司もいる。

 光を背景に文美と司が。

 シルエットとなっている。

 光の中にいる。

 ありがたい。

 これでなんとか戦える。

 文美は朱鞘のいつもの剣をたずさえている。

「彩音ちゃん。忘れ物」

 司が初めて会ったときのノリで『鬼切り』と舞扇をなげてよこす。

 形勢が逆転した。

 とはいかなかった。

 数からいっても吸血鬼のほうが多い。

 三倍近くいる。

 そして、こちらは無傷なのは、彩音と駆けつけてくれた文美と司の三人だ。


 戦いの場は河川敷に移る。

 吸血鬼の群れは彩音を取り囲んだ。

 半径三メートルの円陣の中に彩音は取り込まれた。

 吸血鬼の青白い鮫肌からはいやな臭いが発散している。

 腐敗臭が、カビ臭い湿った土の臭いが彩音の回りで渦を巻いていた。

 臭いだけで気が萎えてしまう。

 その渦がさっと彩音に流れよってくる。

 これなら、目をつぶるっていても敵の位置はわかる。

 そして、彩音の右手には、司から譲り受けた『鬼切り』がある。

 左手には使い慣れた舞扇。

 仕込みになっている。

 短剣が芯に潜ませてある。

 文美バアチャンも駆けつけてくれた。

 はやく決着をつけて、慶子と先生を病院につれていかなければ、そんなことを考 えたのが油断だった。

 ガバっと足首に吸血鬼退攻撃がきた。

 害意の流れは彩音の顔をねらうとみせて、体をふせ彼女の下半身をおそってきた。

 ジャンプした。

 かなり高く跳んだ。

 見切りがあまかった。

 敵はさらに餌にとびつく犬のようなかっこうで彩音の踵に鉤爪をかけた。

 想像を絶する痛みが彩音をおそった。

 なんとか、着地はしたものの片足では立ちあがれない。

 こういう痛みが慶子とオッチャンをおそったのだ。

 だから、あれほど剛毅なオッチャンも。

 強きの慶子も。

 戦意をうしなってしまったのだ。

 いや、闘う気力はあっても。

 体がゆうことをきかないのだ。

 彩音は着地と同時に鬼切りを下にきりさげた。

 稲妻のようなすばやさだ。

 敵の顔を削ぎおとした。

 彩音に、爪をたてたヤツだ。顔をソイデやった。

 ところが……瞬くまに、顔は再生した。ニャっといやな笑いをみせる。

「むだです。むだですよ」

 ニタニタ笑いながら彩音に迫る。


60 文美


 切ってもダメだ。

 緑の血を流すくらいだ。

 それも、すぐに止まってしまう。

 神田がいるからだ。

 街に永住した親バンパイアだ。

 神田が存在するかぎり、金太郎飴みたいに、どこを切っても元の状態になる。

 再生する。

 これでは戦いようがない。

 司も同じ戦いを挑んでいる。

「どうすればいいのよ」

 彩音は司に呼びかけた。

「司、わたしどう戦えばいいの? 負けたくない。負けたら、司とデートできないもの」

 おいつめられて、彩音は思わず叫んでいた。

「わたしやだからね。司とデートするまでは咬まれたくないもん」 

 司は彩音におそいかかろうとする敵を追い散らすのに必死だ。

 応えはもどってこない。

(もう、どうすればいいの)切ることはできる。

 倒すことができない。

 消滅させることができない。

 いままで戦ってき吸血鬼とは能力がケタはずれに上だ。

「どうすればいいの」

「彩音ちゃんがこの神田に食べられてしまえばいいのだよ」

「吸血鬼さん、じゃ、わたしをたべるまえに教えてくれる。わたしたちがいなくなったら、この鹿沼をどうする気なの」

「なんだ。そんなことか。じゃ教えてやるか。ここをおれたち人狼吸血鬼族の『牧場』にするのだ」

「牧場? それってどういうこと」

「この街のひとたちは、暗黒の生活のなかで、苦しみ、わかい娘は生き血をすわれる」

「娘たちの生き血を吸うのが目的なの」

「血を吸わないとわれわれは生きていけないのだ。この清流の川がなぜ黒川と呼ばれているか知らんだろう」

「知るわけないでしょう」

「血はなぁ、月の光で見ると黒く見えるのだ。太古からこの黒川のほとりでは若い娘の血が流されてきたんだ」

「それで黒川なの。許せない」

「おまえの血も流してやる」

 神田と彩音が話しているまに、文美が動いた。

 文美が彩音のまえに回りこんでくる。

 神田と彩音のあいだに割って入る。

 彩音を背後にかばう。               

「どけ。しわくちゃババア。ババアの血なんか飲めるか。そこどけ。かわいい孫娘の血を吸ってやる」

「あんたら隠れ吸血鬼にこの鹿沼をいいようにされてたまるものですか。ババアの剣を受けてみよ」

 文美が神田と真っ向からにらみあった。

「彩音」

 文美が腰をしなやかに落とすと相手を吸血鬼の胴を下から切り上げた。

 神田が彩音のほうに寄ってきた。

 彩音は足をひきずって逃げる。

「彩音。朽ち木倒しだよ」


61 一子相伝


『朽ち木倒し』

 鹿沼の里で温かくうけいれられた巡礼。

 彩音の遠い祖先。

 が……。

 土地の悪霊と刺しちがえて死ぬ。

 温かくうけいれてくれた里びとへの報恩。

 悪霊にしがみつく。

 おのがからだを犠牲とする。

 朽ち木が倒れるように悪霊とともに死ぬ。

 鹿沼流の『終りの舞い』はそう呼ばれていた。

 舞いの奥義がすべてこめられていた。

 降りしきる雪のなかに朽ち木のように伏す舞い手。

 話しには聞いているが彩音もまだ見たこともない。

「オバアチャン」

 なにいっているのかしら。

 ?????

 彩音が文美に呼びかけた。

「どうしたの」

 

 その瞬間だった。


 彩音に飛びかかろうとする神田に文美が優雅な舞いの仕種のまま、しがみついた。

 こうでもしないとコイツは倒せないのだよ。

 彩音よく見てね。

 文美の沈黙の声が彩音の頭に直接ひびいてきた。

 文美の白刃が神田の首につきささった。

 そのいきおいで、真一文字に切り裂いた。

 首から青い血が飛び散る。

 神田の首がくっとたれさがる。

 とどめ。

 とどめだよ。

 彩音。

彩音は必死で神田の心臓に『鬼切り』を差し込んだ。

 さしこんでおいて抉った。

 青い血が吹き出している。

「バアチャン」

「彩音、彩音がこの技をつかうのは百年早いからね」

 鹿沼の語り部。

 文美の背中に神田の鉤爪が突き通っていた。

 手術用のメスのように鋭い。

 鉤状に曲がっている。

 半月型の外側にもシャープな刃がついていた。

 こんなもので、突き刺されては、助かるわけがない。

 それを承知で文美は彩音のために神田にしがみついたのだ。

 

 吸血鬼は首を切り離す。

 心臓を抉る。

 

 それで消滅させることができるのだ。

 首を切られたのに文美の背中に生えた神田の腕は。

 鉤爪は、まだひくひく動いていた。

「バアチャン。死なないで。わたしをひとりにしないで」

 彩音の呼びかけに文美は応えられない。

 震える手で、赤い柄の刀を彩音のほうへさしだした。


『朽ち木倒し』だよ……。


 文美の最後の意識が彩音に流れ込んできた。

 いつもこの『朽ち木』の剣と『鬼切り』はもっているんだよ……。

 司は上沢の分家の男。仲よくしてね。

 彩音には、甲源一刀流の太刀筋を司の剣さばきに認めたときから、もしやという予感があった。

 ふたりで、この鹿沼を守って。

 それは彩音にとってはうれしい誓いだ。

 司といっしょにいられる。

 それが鬼と対立する守護師の務めだからね。

 故郷の自然を。

 鬼の蹂躙から。

 鬼に踏みにじられることから。

 ……守るために。

 彩音は生まれてきたのだから……ね……

 わたしはおまえと一緒……だよ。

 いつもいっしょにいるからね。

 それで、とぎれた。

 ながいこと彩音のそばに、いつもいた文美の意識がとぎれてしまった。

「バアチャン」

 文美をだきしめて、彩音は泣いていた。

 涙がとめどもなくほほを伝った。

 まだみたこともない父と母にかわって、幼いころから育ててくれた文美オバアチャン。

 彩音のそばを離れずいつも見守ってくれていたオバアチャン。

 それなのに、もう彩音の呼びかけに応えてくれない。

 鹿沼流の奥義『朽ち木倒し』を身を持って伝授してくれた。

 ありがたい舞の師範でもある。

「彩音ちゃん。これからぼくらの戦いがはじまるのだ」

 司が彩音の手をぐっとにぎった。

「文美さんは、体をはって、一子相伝の鹿沼流の奥義を伝えてくれたのだ」

「わかっているの。でもいまだけでいいから……泣かせて」

「涙が止まらないのよ」

 文美の体から温もりが消えていく。

 冷えていく文美を彩音はいつまでも抱きしめていた。



62 風鈴


 司が文美を抱え上げた。

 救急車を呼ぶまでもない。

 文美は息絶えていた。

「オバアチャン」

 彩音は文美の胸にすがって涙をはらはらとこぼしていた。

 涙はとめどもなくこぼれて、幼いころからの思い出とともに文美の胸に吸いこまれていくようだった。

 鹿沼流の家元、舞いの名手文美は舞いながらその最期をしめくくった。

 舞いながら死んでいけて本望だっただろう。

 彩音に終りの舞い『朽ち木倒し』を伝授できた。

 満足だったのだろう。

 いい死に顔をしていた。

「彩音ちゃん。本当の悲しみはこれからやってくる。ぼくが、これからは、いつもついているから。いやでも、彩音ちゃんのそばについているから」

「いやなわけナイデショウ」

 文美の亡骸が目のまえにある。

 こんなときなのに、彩音は動悸が高鳴った。

 こんなときだから、さらに泣きだしたいほどうれしかった。

 よかった。

 ひとりぼっちにならないですんだ。

 司がいる。

 麻屋のオッチャン先生。

 慶子。

 美穂。

 静。

 大勢の仲間がいる。

「オバアチャン。わたしがんばるからね。朽木倒し、たしかに受け継いだから。命がけでコノ技きわめていく。磨き上げていく。そしていつの日か、わたしの子どもに伝えるから。その子がわたしと司の間にできた子だといいな。司といっしょになりたい。結婚したい。オバアチャン。見守っていてね」


 宮部校長がすぐそこまできている。

 神田と談合していたのは、校長だった。

 楔はもうつきた。

 どうする。

 まさか、校長先生に斬りつけることはできない。

 どう戦うの。

 どうすれはいいのよ。

 赤目をしていただけの校長を鬼切りで切り倒すことはできない。

 あのひとたちは、感染症吸血鬼なのだ。        

 仮性吸血鬼だ。

 彩音と慶子はよろめきながら身をひく。

「きみたちうちの生徒だね。ここでなにしてるんだね」

 宮部の両眼から赤味が消えている。

 吸血鬼を倒したからだ。

 親バンパイアを葬ったからだ。

「きみはどのクラスの生徒なの」

 彩音をみる目がかぎりなくやさしい。

 彩音の名前も。

 今までに起きたことも。

 なにもかも記憶にないらしい。

 吸血鬼の呪いはとけていた。

 真正吸血鬼の神田を倒したからだ。


 文美の通夜。

 彩音だけになってしまった広すぎる家。

 鹿沼流の稽古場のある古い家が一門の通夜の客を迎えている。

 風鈴が風になっていた。

 南部鉄の風鈴だ。

 春なのに、冬の風鈴の趣がある。

 鹿沼は京都のように盆地にあるので、夏には風通しが悪く、多湿。

 冬は寒く風が強いのよ。

 いつまでも冬が残っている。

 春が来るのが遅いのよ。


 よく文美バアチャンがいっていた。

 風鈴が鳴っていた。

 風鈴の音がよくひびく夜だった。

 その風鈴を楽しむ文美はいま棺のなかだ。

 彩音は涙ぐんでいた。

 泣いていた。


63 風花


 ひとりぼっちになってしまった。

 でも師範の教えは守る。

 文美の教えは守る。

 これから舞の練習に励む。

 なにが起きても。

 練習は休まない。

 一日でも休めば、体の動きが鈍る。

 彩音は舞扇を手にしていた。

 廊下に出た。

 廊下の向かう先は、稽古場だ。

 通夜の晩でも舞う。

 それが文美バアチャンへのいちばんの供養になる。

 文音は広い廊下にただひとりだった。

 はやく司がきてくれないかな。

 お通夜に大勢のひとが集まってきた。

 さわさわと人の立ち騒ぐ気配がする。

 わが家をはじめて大勢の人がいっぱいにした。

「わたしにまかせてね」

 美智子先生が割烹着姿で全部采配をふってくれた。

 麻屋先生が通夜の客の応対はしてくれている。

 ご夫婦にすべてまかせた。

 彩音は廊下に立っていた。

 磨き込まれて黒光りする廊下だ。

 庭には風花が舞っていた。

 また春の雪になるのかしら。

 松をきらっていた。

 バアチャンは「まつ」という言葉がきらいだった。

 庭には、ナラやクヌギ、雑木林の風情がある。

 街中なのでさほど広くはない。

 それでも五百坪はある庭だ。

 樹木がいりくんでいる。

 見通しがきかない。

 どこまでも林がつづいている。

 無限の広がりを感じさせる。

 冬も終わったが、樹木が芽をふくのにはまだ早春の宵だ。

 風花がいっそうはげしく舞いだした。

 雪になるのかもしれない。

 屋敷林の奥から、人影が浮かび上がった。

 裏木戸からはいったのだろう。

 白いコートをきている。

 立ち姿がオバアャンに似ている。

 白い人形(ヒトガタ)の影が舞の所作をしている。

『風花』の舞だ。

 オバアチャンの精霊かもしれない。

 でも同じ舞の所作なのだが、どこかちがう気もする。剛毅な感じがない。

 フワッと風に舞う一片の雪のようにはかなく美しい。

 ちがう、どこかで警鐘がなっている。

 じぶんの鼓動がきゅうに高鳴った。

 ちがう、あのひとは戦っているのだ。

 風花の舞の所作だが右手がちがう。

 右手の動きはまさに目前の敵と戦っている。

 なにか武器を手にしている。

 うねるような害意が左右からその人に迫っている。


 彩音は庭に走りでた。


「文美バアチャン」

 文美――じっさいには、その場に存在することのない文美、その影ではなかった。

 文美をもっと若々しくした、それでいて文美だとみまがうほどよく似ている。

 とてもにわかには信じられないことだが、彩音は素直に信じることができた。

「おかあさん」

 彩音は低くこころのなかでつぶやいた

 いままでの彩音だったら感知できない。

 なにかイヤな気配がある。

「吸血鬼がいるのね」


64 涙の再会


 その人は振り返った。

 文美の若いときの写真とそっくりだ。

「彩音……」

 その人は舞ながら澄んだ声で呼び掛けてきた。

「こないで。バァンパイアよ」

 その声をきいただけで彩音は気づいた。

「おかあさん……おかあさん」

 そのひとは金属ムチを手にしていた。

 闇にとけこみ異形ものがうごめいていた。

「あんたら、なによ」

「あたらしく鹿沼を仕切ることになった稲本ってもんだ」

「あら、吸血鬼さんが自己紹介できるんだ」

「ヌカセ」

 闇のなかでザワッと殺気がふくれあがった。

 金属ムチがうなる。

「おかあさん、これ使ってみて」

 舞扇を投げる。わたしには、あれからかたときも放さない鬼切りがある。

「あっ。仕込み扇。皆伝をゆるされたのね」

 そのひとは、右手に舞扇。左手にムチを持った。

 両手を下げ八の字に構える。

 彩音は『鬼切り』を正眼にかまえた。

 稲元はひとりではなかった。

 黒い影が生臭い臭いをたてておそってくる。

 両手にムチと剣を手にして母が舞っている。

 剣のさきに、ムチのさきに鱗の皮膚をきりさかれた吸血鬼がいる。

 ヤツラの怒り狂った唸り声がする。

 稲本の腕が文音をおそう。

 鋼の腕だ。

 鋼の爪だ。

 見切ったはずだ。

 いや、完璧に見切った。

 鉤爪は文音の顔面すれすれまでとどく。

 なんという速さだ。

 なんという長さだ。

 パンチがゴムのように伸びてくる。

 そしてその先きには鋭い爪のナイフ。

 吸血鬼におそわれたときの痛みはまだ彩音の体にのこっている。

 ゾクっと恐怖が背筋を流れた。

 母のムチが稲本の腕を切り裂いた。

 その一撃が瞬時遅れていれば、彩音の顔は裂かれていた。

「油断しないで、超A級のバァンパイアよ」

「わかってるんだな」

「ペンタゴンの記録にあるほどのヤツよ」

「そうか、アンタはアメリカ国防局のVセクションのエージェントだな」

「彩音の母よ。文葉とおぼえてよ。これ以上まだやる気なの? けがではすまなくなるわよ」

「お母さん。ありがとう」

「礼はあとで、コイツラ、パワーアップしてるからね」


65 閃光弾


 なにが起こっているのか。

 はっきりしている。

 新たなバァンパアが現れたのだ。

 それもいままで鹿沼にいたものよりはるかに強い。

 外来種だ。

 いままでの人狼吸血鬼と外来種のバンパイアの襲撃を鹿沼はうけている。

 バァチャンの通夜だが稽古に励むつもりだった。

 いい稽古になる。

 稽古や練習なんかじゃない。

 実戦だ。

 いままで、彩音が倒してきたバァンパイアと微妙にちがっていた。

 さらに残忍な攻撃パターンだ。

 鉤爪も短剣のように長い。

 ふたりは、『風花』を舞いつづけた。

 空間に翻って敵を攻撃する。

 敵は上から攻撃には弱い。

 ジャンプ力はない。

 彩音の剣が幾つか敵の腕を削いだ。

 文葉の手にある舞扇『朽ち木』が敵を緑の粘液にする。

 それでも、吸血鬼はひるまない。

「文音。『嘆き』で攻撃よ」

 その一言でわかった。

 彩音は身を低くした。

 嘆き悲しみ大地に伏せるように舞う。

 二段の所作をとった。

 上からの攻撃に弱いということは下にも隙がある。

 吸血鬼は長身だ。

 上下からの立体的な攻撃には弱いはずだ。

 そうか、こんな攻めかたもあるのね。

 喉を切り裂く。

 首筋を攻める。

 心臓を突き刺す。

 そこだけに刃をむけてきた。

 すべて上半身に攻撃を集中してきた。

 低い位置から切り込む。

 こんな攻めかたがあったのだ。

 彩音の技がさらに進化した。

悪意でソソケ立つ吸血鬼、異質な生きモノを果敢に攻める。

肉体に傷を負わせても、傷口は瞬時に再生してしまう。

傷口はふさがってしまう。

こんな怪物はどう攻めればいいのか。

吸血鬼それじたいが恐怖だ。

彩音の技がついに進化した。

 敵がざわっく。

 やっと神田を倒した。

 バァチャンが命を捨てて『朽ち木倒し』で神田の首を切り落とした。

 そうか、首を切断すればいいのだ。

「どうして鹿沼にこだわるのよ」

「われらの性だ。それとも鹿沼土があるからかな。われらにとって、癒しの土だからな」

 稲本が吠えた。

 

 ヒュっと音がした。

 眩い光輝が庭に広がった。

 稲本の背後で吸血鬼の体が一瞬にして緑色になり、溶けた。

 廊下に通夜の客がそろっていた。

 拳銃を手にした人が凛々しく叫ぶ。

「閃光弾だ。紫外線効果がある。こんなものを日本で使いたくないが川端文美の通夜だ。引かなければ容赦はしないぞ」

 敵に退路をあたえている。


66 玉藻


 廊下に通夜の客が並んでいた。

 拍手でふたりを迎えてくれた。

「文葉さん、お帰りなさい」

 美智子先生が彩音のとなりの女性にやさしく声を掛けた。

「義母さんごぶさたしています」

「彩音。お父さんだ」

 麻屋先生のそばに拳銃を持った男のひとが立っていた。

「わたしの不肖の倅、源一郎だ」

 彩音はすべてを悟った。

 うれしかった。

 わたしはずっと父方の祖父母と文美オバァチャンに守られていたのだ。

 涙が頬を伝った。

 とめどもなくながれ落ちた。

 文葉と彩音は練習場の引き戸を開けた。

 左手を取手に、右手をその下のほうに添えて優雅に開ける。

 すでにして鹿沼流の舞がはじまっている。

「母への追悼をこめて四段『散華』を舞いましょう。彩音わたしと舞ってくれるわね」

 彩音はまた涙をこぼしてしまった。

 わたしはこんな泣き虫だったの。

 でも、これってうれし涙よ。


「仏となった母への供養かを兼ねて、ふたりで『散華』を舞わせてもらいます。わたしはやっとこの四段までしか習得できず逃げ出した不出来な娘でした。でも彩音が『朽ち木倒し』を伝授され流派が途絶えずにすみました。母、文美への追悼。『散華』……」


 稽古場に集まった一門のひとたちか一斉に謡だした。

『散華』は舞踊というより能にちかかった。

 まだ能とか舞踊とか別れるまえの素朴な所作がふくまれていた。


 可奴麻の里に華と散る。

 可奴麻の里に華と散る。

 蓮のはなびら撒き散らし。

 可奴麻の里を極楽浄土とするぞ、嬉しき。

 するぞ、嬉しき……

 日光は赤沢からかけつけた赤垣老夫妻が謡っている。

 ひい孫、彩音。娘の美智子の息子の嫁、文葉の舞に涙ぐむ。

 机司が彩音の美しさにうっとりと見入っている。

 麻屋が息子源一郎と謡っている。

 朗々とした謡に、このとき、謡曲ならざる高い顫音が混ざりこんできた。

 そしで稽古場の中央に黄金色の噴水のように光が吹き上がった。

 文葉と彩音、親子の舞と鹿沼流一門の『散華』の合唱にさそわれたようにその光の巨大な円錐形のなかに九尾の狐が現れた。

 玉藻の前、お后さまだ。

 再臨だ。再臨だ。

 黄金の狐はなにかいいたそうな人の形をとっが一瞬のことできえてしまった。

「まだ再臨の時期が熟していないのだ」

 赤沢玄斎が寂しそうにいった。

 しかし、文葉と彩音。川端家直系の女には「よく純血を守りとおしてくれました」という、玉藻の声がこころにひびいていた。


67 荼毘


「彩音を超A級の敵のいる鹿沼においておけないわ」

「それでなくても、苦労をかけっぱなしだ。しかし、よくきたえてくれたものだ」

 父、川端源一郎がバアチャンの棺に尊敬のまなざしをむける。

 ふいに現れた両親。

 彩音は嬉しくて涙ぐむ。

 期せずして家族会議になっていた。

「お父さんも、お母さんもわたしたちと東京にいきましょう。こんどVセクションの日本支部ができたの。わたしたちが、源一郎がチーフなの。みんなで、いっしょに住めるわ」

「美智子はたのむ。東京へ連れていってくれ。わたしは鹿沼に残る。お父さんはどうしますか」

「わしは、もう年だ。それに日光の山奥だ、ヤツラも手出しはすまい」

「わたしも鹿沼に残る」

 とくりかえして麻屋がいう。

「彩音や文葉の世話をしてやってくれ」

 と妻に毅然とした顔を向ける。

「あなたも……」

「わたしはながいことこの鹿沼のひとたちの世話になった。塾の教え子も大勢いる。鹿沼と運命をともにする覚悟だ」

 鹿沼に残り人狼との交配種であるこの鹿沼特産? の人狼吸血鬼や稲本たち外来種と一戦交える覚悟だ。それが麻屋のだした結論だ。


 文美の葬式をすませた午後。

 鹿沼中学の方角に古材をもやす煙りが見える。

 黒いもやもやとした煙が黒川の東岸をおおっている。

 巨大な爬虫類の鮫肌のように重なりあって渦をまいている。

 コウモリインフェルエンザがまだ蔓延していることには変わりはない。

 川の向こう側で、東地区で進行中のこの病気にたいして、ほかの地区のものはおどろくほど関心がない。

 猖獗をきわめる悪疫にまったく興味を示さない市民がいる。

 情報管理をされている。そとの世界にこころを開いていない。

 耳をすませば対岸の恐怖のざわめきが伝わってくるはずなのに。

 コウモリの糞のまじった異臭が鼻をつくはずなのに。

 じぶんたちの身に災禍がふりかかってくるまでそしらぬ顔で過ごしている。

 通夜がすみ、文美を荼毘にふした。

 焼き場の煙突から立ち上ぼった淡い煙。

 校庭から立ち上ぼる黒い煙。

 悲しみの淡い煙と悪意をふくんだ黒い煙。

 二つの煙が彩音のこころで渦巻いている。

 こころを清々しくする煙と邪悪なものをふくんだ煙を重ね合わせて、彩音は涙ぐんだ。

 わたしって、こんなにお涙系だったの。

 涙をこぼしてばかりいる。


68 裂け目


 あまりの環境の激変に彩音はパニクっている。


 親戚縁者。一門の者。みんなとそろっている。

 文美が『朽ち木倒し』で神田を倒した黒川の河川敷にきていた。

 彩音が流した花束が流れていく。

 川面を流れていく花束。

 

 オバアャンへの想いがこめられている。

 おばあちゃんが朽ち木を舞いながら去っていく。

 文美がほほえんでいる。

 お祖母ちゃん、さようなら。

 さようなら。

 

 わたし、この鹿沼を守るからね。

 吸血鬼が怖くて、みんな怯えている。

 わたしは負けないから。

 わたしは鹿沼の守護師。

 どんなことがあっても、鹿沼を吸血鬼から守りぬく。

 この美しい鹿沼を守ってみせる。

 わたしは、鹿沼の守護師。吸血鬼ハンター。

 

 吸血鬼を倒せる女。

 どなんことがあっても、鹿沼を吸血鬼の攻撃から守りぬく。

 この美しい鹿沼を守りぬいてみせる。

 文美祖母ちゃんの遺志をついで戦うから。

 いつまでも彩音のこと見守っていてね。

 

 涙がとまらない。

 

 お母さんとお父さんが帰ってきたのだって文美オバアチャンがそうしてくれたのだ。

 オバアチャンが両親を呼びよせてくれたのだ。

 黒川の流れに花束が揺れている。

 国産繊維の東工場から黒川に流れこむ川がある。

 その水門が開かれているので川面が渦をまいている。

 花束もその流れにのって渦巻いている。

 文美おばあちゃんが名残を惜しんでいる……。

 さらにさらに文音は悲しくなる。

「あっあれみて。彩音」

「なにが見えるのよ、慶子」

 幸橋の上の虚空で暗雲がうすれた。

 橋の上空に純平と澄江が手をつないでのぼっていく。

 洞窟からコウモリが現れた。

 彩音、慶子、麻屋をしつっこく追いまわしたコウモリの群れは純平と澄江に吸いこまれていく。

「あそこに、時の裂け目があるんだわ。異界との境界も」

「あの裂け目が閉じればすべて解決するの? もう、吸血鬼は入ってこられないの? だといいね。彩音」


69 人柱


 慶子に稲本というあらたな吸血鬼があらわれたことはまだ告げていない。

 純平と澄江。

 ふたりはそのまま虚空に消えていく。

「慶子。見える」

「見える。見えるよ。やっとふたりは一緒になれたのね」


「百年の恋か」

 麻屋は一歩前にでた。


「さようなら澄江さん」

「さようなら純平さん」

「純平くんと澄江さんが、ふたりが、仮性吸血鬼の悪霊をつれさってくれたのだ」

「でも、まだほんものの吸血鬼がのこっているわ。わたしたちにも見ることができないかもしれない吸血鬼があちこちの街に、残っているのよ」

「闘いはこれからだ」

 麻屋がしんみりという。


 幽霊橋も消えていく。

解体業者が作業にとりかかっていた。

 いままさに、幸橋を解体するための巨大なパワー・ボールが橋脚に一撃をあたえた。

 パワー・シャベルの鉄の爪が基礎をかためているコンクリートにくい込む。

 コンクリート粉砕機が激しく唸っている。

 橋が断末魔の悲鳴をあげている。

 建造には、かなりの月日がかかったことだろう。

 破壊は一日ですむはずだ。

 建築にはよろこびと期待があった。

 解体作業には悲しみだけが残る。

 もうもうと埃がたつ。

 その埃が立ち、空気を汚すのを防ぐためにホースで水が掛けられている。

 ぱっと広がった水の柱の先に虹が出ている。

 だが、みんなはそれが希望の虹でないことをしっている。

「古い鹿沼がこれでまたひとつなくなる」

 麻屋がつぶやく。

 このときだ。

 解体現場で音が途絶えた。

 シャベルの鉄の爪が。

 パワーボールが。

 粉砕機がとまった。

「なにか、あったのよ」


 彩音が走りだす。

 砕かれたコンクリートの橋柱の根元からなにか出た。夥しい白いモノ。

 白骨だ。

「人柱だ」

 麻屋が呻いた。


70 逆襲


 解体業者の人夫が恐怖のあまり手放したホース。

 河原の小石の上で蛇のようにのたうっている。

 白骨が飛び散り。

 わあわあわあと叫び声を上げている。

 白骨は人柱ではないだろう。

 とっさに人柱と叫んだがもっと古い。

 吸血鬼の犠牲になったものたちの骨だろう。

 川の流れを真っ赤に染めたというひとびとの骨だろう。

 だいいち明治の御世まで人柱の風習があったという話はきいていない。

 人夫は腰を抜かしている。

 恐怖のはげしさから動けない。

 白骨の山からは、どす黒い邪悪な霊的パワーが噴出した。

 橋の取り壊しにあって何百年も閉じ込められていた怨念のパワーが解放されてしまったのだ。

 虚空に吹きあがった凶念が空を暗くした。

 次元の裂け目が広がり、ああ純平と澄江の霊とともに消えていたコウモリが逆流してきたではないか。

 

 どこかで、稲本の冷笑がひびいている。

 

 逆流してきたコウモリはいぜんにもまして大群となって空を黒くおおってしまった。

 パタパタという邪悪な羽ばたきがする。

 空を飛ぶ唯一の哺乳類。

 コウモリ。

 血を吸うモノの変形の姿。

 作業員は黒い蜂球のようにコウモリにし吸い付かれてしまった。

 コウモリの塊のなかで作業員の断末魔の声がひびく。

 麻屋が消災吉祥陀羅尼をとなえだした。

 川のこちら側、街の西地区にバリアをはる。

 それしか手はない。

 長く高い霊的障壁をはって邪気をまきちらすコウモリの飛翔を阻む。

 とっさに麻屋が考えたのはそのことだった。

 河原ではコウモリが勝ち誇るように、ふたたび空にまいあがる。

 つぎなる生け贄をさがすレギオンだ。

 作業員は瞬く間に血を吸い尽くされた。

 干からびたミイラとなってしまった。

 コウモリには怨霊がのりうつった。

 攻撃的になっている。

 ノウマクサンマンダバァサルダボオタナンアバラテイ。

 神田との戦いの疲れ、通夜の不眠。

 思うように念が凝集しない。思わずよろけた。

「先生」

「バリヤははった」

 壊された橋の上空から飛び込んでくるコウモリの大群は余韻くすぶる東地区の方角に飛んでいく。

 河原にはだがまだかなりのコウモリが重なり合って飛んでいる。

 西岸に飛翔したコウモリは麻屋の念の壁にはばまれる。

 侵入してこられない。

 壁は透明だ。

 コウモリの顔がゆがむのがみえる。

 コウモリはこちらに侵入できない。

 何匹かはふるえながら、地面におちた。

 鹿沼の空が、もとの青さをとりもどしていたのに、いまは以前にもまして暗い。

 昼なのに、暗い。

 ほんのひとときの平和だった。

 

71 怨念


「純平さんや澄江さんの好意に甘えてはいけなかったのよ。この鹿沼はわたしたちで守らなければ。そうでしょう……おじいちゃん」

「はじめて、おじいちゃんと呼んでくれたな。彩音だがな、そういう考え方をわたしもいままでしてきたし、教えてきたが、この街に命をかけて守るべきものがあるのか。くやしいけれども、吸血鬼につけいれられるだけのわけがいまになってわかってきた。玉藻さまが朝廷の軍に追われて頼ってきたこの可奴麻の犬飼村の人たちがなにをした。頼られればそれだけの繋がりがあったのだからその信頼に応えるのが仁義だろうが。その犬飼の人たちがなにをした。かれらは人狼だった。心も体も血吸鬼だ」

「あまり犬飼のひとたちを責めないで。彩音のお友達もおおぜいいるのよ」

「悪い。ごめんよ、彩音。いまの犬飼の人たちはあのころの人ではない。旧犬飼の人たちはモロ山の大洞窟で生きながらえているのだろう」

「そうよ。そうよ。オオカミ筋の人たちはみんな排除されたって鹿沼の語り部文美オバアチャンがいっていた。だからいまの犬飼とは無関係よ」

「女たちがかれらの子どもをうんだ。みんな犯されてしまった。敵の子を生んで、育てて、母親になっても都にもどることを夢みていたにちがいない。玉藻さまが蘇ればこの街が滅びる。玉藻さまには古い怨念だけが存在しているだろうからな。人狼との交配種である人狼吸血鬼と玉藻さまの呪怨が衝突すれば、どうみてもわたしたちの生きる術は考えられない。わたしも源一郎や文葉さんたちとこの街から出よう。もつと早くそうするべきだったのだ。塾だって、東から進出してきた大型の予備校に滅ぼされる寸前だからな。いままで鹿沼のみんなと仲良く勉強してこられたのに残念だ。だが、時代がかわつた。それともこの鹿沼に残って滅びの道を選ぶか? どうする彩音」

 麻屋にはまだこの期に臨んで迷いがある。


 文美の葬儀をすませた。

 葬儀がすんだからみんなまた離れていく。

 彩音たちは、花束を黒川に流しにきていた。空が暗くなった。ただの黒雲ではない。ウイルスを含んだ雲だ。文音の好きなルネ・マグリットの絵のような澄んだ青空はもう見られない。

 コウモリインフルエンザが猖獗し、学校の皆も赤目が消えないだろう。

 吸血鬼に直接噛まれなくてもウイルスの侵攻で皆が疑似吸血鬼症に罹っている。


 赤い目をして、鼻水をたらして苦しむことからは逃げられない。

 文美の葬儀がおわって、平凡な田舎街の学校に生活が待っているはずだったのに。

 わたしは両親と東京に、あるいは世界中まわってヴァンパイアとたたかう道をえらぶには、はやすぎる。

 そして、祖先が命懸けで守ってきた鹿沼をアイッラにわたすことはできない。

 北犬飼地区にも仲良しの友だちが大勢いるのだ。鹿沼にも文美ばあちゃんの、鹿沼流のお弟子さんがおおぜいいるのだ。

 守護師としてのバァンパイアハンターとしての誇りが文音のこころに芽生えていた。

「やっぱ、わたしは、鹿沼にのこって先生とたたかうよ。先生とともにアイツラと戦うよ」

「だめだ、それだけは許せない、文葉や源一郎とこの街を出なさい」

「それじゃ、おじいちゃんいまいったこととちがうじゃない。出るの残るの」

 麻屋の言葉がいつになく厳しい。

 彩音にはそれがうれしかった。

 先生であって祖父だ。

 家にもどれば母と父がいる。

 その家でも異変に気づいていた。

「おかえり彩音。ぶじだったのね。いま迎えにでようとしていたの」

「みる間に空が暗くなったからな」

 と父の源一郎。


72 九牙


「バリアはいつまでもちますか」

「ながくて12時間だろう。それがすぎたら黒川の向こう岸、東地区だけではない。この舟形盆地全体がコウモリインフルエンザと杉花粉を含んだ黒い霧におおわれてしまうはずだ。一刻もはやく街を脱出したほうがいい」

「おとうさん、なんとかおとうさんたちの組織の力でならないの。……鹿沼の守護師として生きてきたのに。吸血鬼ハンターとして鹿沼で生きていきたいのに。彩音はいやだよ。わたし逃げたくない。友だちがおおぜいいるのよ」

「もう手遅れだろう。家がこちら側にある生徒だけしか助からない」

「慶子、おかあさん、呼ぶといいよ」

 彩音が慶子にいう。

「鹿沼をでるしかないわね」

「おかあさんまで。病院まで危険なの。消毒を徹底している病院まで危険なの。……そんなこといわないで」

「汚染されていな人とがどれくらい残っているか、わからないのよ」

「文葉のいうとおりだ。ここは鹿沼をでるしかないだろう」

「なにが鹿沼の守護師よ。わたしじぶんがはずかしいよ。麻屋先生なんとかならないの」

「個々の戦いなら負けはしない。だが敵はウエルスだ」

「ヘリで閃光弾をうちこんだらどうかしら。上空から火炎放射器をあの黒い霧にあびせてみたら」

「街も焼けてしまう。吸血鬼に支配されても全員死ぬわけではない。ほとんどの人はいままでどおり生きつづけていける。いままでと何の変わりもない生活を。ウエルスにおかされていることも知らずに生きつづけていくだろう」

 源一郎が悲痛な顔でいう。


「封印を逆に解いてみるか。どうして、それに気づかなかったのだ。玉藻さまはなかば覚醒している。再臨の準備はほとんどととのっているはずだ。みずからを封印した千年は経過している。わたしの力で(フオース)なんとか玉藻さまを召喚してみよう」

 麻屋が決然といいはなった。


 一同が稽古場に集まった。

「日あげ」が済んで帰り支度をしていた鹿沼流一門の女たちが全員文葉と彩音を中心に序の舞『鹿入り巡礼』を舞いだした。

 巡礼の姿は、可奴麻に逃げてきた玉藻の前を模したものであったのだろう。

 みずからを封印し、千年の眠りにつくために、この鹿沼の原野を尾裂山にむかって雪の中をさまよっていたのだ。

 床が微動する。

 麻屋が封印の呪文を逆に朗々と謡いあげている。

 微動がはげしくなる。

 床が地下から光りだした。

 光は黄金色の噴水となってわきあがった。

 昨夜のように、玉藻が現れた。

「わたしを呼んでいたのはあなたたちですか」

 光が川端家のすみずみまでいきわたった。

「呼び起こされるとは思わなかった。まだねていたかったのに」

 少女のようないたずらっぽい笑い。

 これが千年を閲した伝説の九牙の技を使う巫女、玉藻の前なのか。


73 九尾の騎士


 携帯が鳴った。

「彩音、助けにきて。静もいる。わたしたち演劇部の部室にいる」

 忘れてた。学校閉鎖がとけた。

 今日から、平常授業があったのだ。

「どうなっているの? 美穂、おちついて」

 美穂は面会謝絶の重体だったはずだ。

 いつのまに退院したのだろう。

「え、美穂が学校にいるの? わたしの母がした輸血がきいたんだわ」

 と彩音のところによってきて慶子がいう。

「街のオヤジたちが発情しちゃってるの。学校がおそわれてる。男の子もみんな赤い目になってる。女の子はレイプされてる。もう地獄、地獄だよ」

「慶子、いこう。学校がおそわれている。美穂も静もあぶない」

 授業を再開するのが早すぎたのだ。

「学校っていちばんわたしたちにとって安全なところじゃなかったの」

「彩音……」と玉藻がやさしく声をかける。

「わたしの乗り物を貸してあげる。あなたたちの一族がわたしの廟をまもり、一族の純血を守り通したことに感謝しているわ。こんどはわたしも後にはひかない」

 黄金色の噴水のなかから、九尾の狐が現れた。

「これなら、ふたりのれる。慶子いこう」

「わたしは母をたすけに病院にいく。病院は東地区に在るのよ。司くん、彩音といっしょにいってあげて」

「てれるな、白馬の騎士じゃなくて、九尾の騎士か」

「おゆき」

 玉藻が彩音と司をみてほほえみ、狐に命令をくだした。

 だが、玉藻は影となり、薄れかけている。

「わが一族のいちばんわかい武者ぶりね、ふたりの初陣のてだすけをするのよ」

あとのことばは九尾の狐にかけたものだった。

 声だけが残り、玉藻はまた消えてしまった。

 まだパワーが足りないようだ。

「美智子、文葉、わたしたちがもどったらすぐ出発できるように手配をたのむ」

 麻屋と源一郎が4駆に飛び乗った。

 司と彩音は九尾のキツネの背中にのって空を飛んだ。

 モロ山にある地下の大洞窟にワープしたときのような感じだ。

「そこ、動かないでよ美穂、いまそっちへむかっているから」

 校門のところに男がいた。

「彩音ちゃん、おじさんといいことしょう」

 門のところで、まるでまちぶせしていたみたいだ。

 股間をモッコリさせた酒屋の藤田だ。

「彼氏といっしょにどこへ行くのだ。おじさんといいことしょう」

 藤田には九尾の狐はみえないらしい。

 よだれをたらしている。好色な目を赤らめて追いすがってくる。

「斬」

 司が刀をきらめかせた。

 よだれをたらしたまま藤田の首が宙にとんだ。

 もう人間ではない。

 人ではない。

 吸血鬼への変身をはじめているものに情けはむようだった。


74 彩音と司


 校庭は暴徒。

 いや仮性吸血鬼となった街の人たちで埋められていた。

 阿鼻叫喚の庭の上空は。

 昼を暗くするコウモリが。

 重層的に群れていた。

 キュユと鳴きながら女生徒をおそっていた。

「源一郎、あれを」

「おう、先刻承知」

 源一郎が閃光弾を拳銃に装填した。

 上空のコウモリめがけてうちこんだ。

 あたりが眩い光でおおわれた。

 司と彩音をのせてきた。

 あの黄金色の九尾の狐が。

 閃光弾の光に誘われて。

 またも出現する。

 さらに光の輝度をましている。

「おのれ犬飼のものども。人狼め。いつの世も、男は獣。女をむさぼることしかできぬのか」

 狐に乗って玉藻が降臨した。

 玉藻と狐が一体となる。

 玉藻のものである九条の光が狐から校庭にとびちった。

 玉藻のものである光が闇の男達の体につきささった。

 光る体毛が針となってとび散ったのだ。

 光のなかでとびちった針のような黄金の毛がきらめいている。

 女生徒にのしかかっていた仮性吸血鬼がジューと音をたてて、溶けていく。

 玉藻には怨敵犬飼一族の狼男にみえるらしいが、むべなるかな。

 玉藻の時代には吸血鬼という概念はなかったのだ。

 コウモリがばたばたおちてくる。

 玉藻の光と閃光弾の効果だろう!!

 太陽の光が校庭にさす。

 ジュジュと煙をあげて吸血鬼になりたてのモノたちが溶けていく。

 闇が消え光がさす。

 やっと閃光弾でとりもどした光のなかを、稲本が悠然と近寄ってくる。

 光を浴びても平気でいる。

 両手を前につきだす。

 爪がは鋼の光をはなっている。

 彩音が剣を構える。

 司も剣を構える。

 稲本はふたりの若い剣士をにやにや眺めている。

 侮蔑をこめてみつめている。

 すぐにはおそってこない。

 どう料理するか。

 どうたべるか。

 たのしんでいるのだ。

 光がすこし薄らぐ。

 その瞬間黒いシルエットがふたりのまえで跳躍した。

 上から襲う気だ。

 害意に満ちみちた稲本の顔が頭上に迫る。

 ふたりは同時に同じ動作をした。

 仰向けに体を倒すと剣を垂直にたてた。

 司と彩音。

 ふたりの呼吸がぴったりとひとつになっている。それがうれしい彩音だ。

 牙をむきだした稲本がふたりの上で反転した。


75 低地に住むもの


 臭い吐息。

 悪臭だけが司の彩音にふりかかった。

 コウモリとなった稲本は飛び去った。

「われらが飼育を拒むというなら、やはりこの鹿沼はいったん滅びてもらうことになる。われらが牧場となって飼育されるのがいやなら、滅びるがいい」

 さすがにここで争うことの愚をさとったのだ。

 稲本の遠吠え。

 死人の肌のような。

 土気色に濁った空にこだました。

 でも負け犬の遠吠えなどではない。

 稲本にはそれだけの能力を備えているのだろう。

「この隙に噛まれていないものを全員助けだすのだ。そしてこの街を去れ。この低い場所にいたら上空のコウモリ花粉にやられるだけだ。うしろをふりかえらずにさっさとこの低地の街からさるのだ」と麻屋。

「お父さんは? ぼくらといきましょう」と源一郎。

「いやこの街と運命を共にする。このひとたちをみすてるわけにはいかない。覚悟はきまった。残るのはわたしひとりでいい。美智子も源一郎がつれていってくれ」

 源一郎が悲痛な顔で父を見ている。

「おれだけでいい。おれは吸血鬼に侵されたおおぜいの教え子の最後をみとってやる」

「おじいちゃん」

 校庭では悲鳴があがりつづけている。

 女生徒を凌辱するものたちの数はいっこうにへらない。      

「なくな、彩音」

「しばらくはまた闇ね……」

 黄金色の光のなかでかすかな気配がする。

 麻屋は狐にむかって祈る。

「玉藻さま一族のものをよろしくお導きください」

「あのとき九尾のちからを封印しなければ、あなたたちを苦しめないですんだのですね」

 狐の口をとおして玉藻の声が聞こえてくる。

 こんどは怯まない。

 戦いぬく。

 吸血鬼と黄金の狐。

 闇と光の戦いがいま再開された。

 玉藻の声が力強くひびく。

 高音でコーンというような狐の鳴き声にきける。

 だが鹿沼滅亡までのカウントダウンははじまっている。

 麻屋がはったバリヤ消滅まであと10時間。


76 明日の彩音


 その期限がきれれば、黒川の西岸の街全域もコウモリインフェルエンザは猖獗するだろう。その伝播を止める方法はない。

 彩音は演劇室に飛び込んだ。

 美穂と静が部屋に閉じこもっていた。

「はい、おまち。たすけにきたわよ」

「ありがとう。彩音ほんとにきてくれたんだ」

 静が泣いている。

「校庭のとめてある4駆動まで走るの。いい? あれに乗って脱出するのよ」

「いくわよ」

 静が泣き声だ。でもみんなに掛け声かけて廊下を走りだす。

 彩音はまだやつれている美穂の手をとって走る。

 殿を固めている。

「どうして病院からぬけだしてきたのよ。あそこは、ここよりもずっとあんぜんだったのに」

 彩音は異様な気配をかんじる。

 首筋に凶念が吹き掛けられる。

 ふりかえる。

 ああ、そこには美穂が。

 美穂が犬歯をのばして彩音をねらっていた。

 ぐぐっと犬歯がのびてくる。

 息が臭い。

 ガッと美穂の口がおおきく開く。

「斬」

 司が剣をひらめかせた。美穂の首が宙を飛ぶ。

 噛まれていた。あの衰弱は噛まれていたためのものだった。

「美穂!」

 悲痛な彩音の絶叫が校庭にひびいた。

 美穂の体はまだ立っている。

 学生服の中で美穂の体はぴくぴく蠢き脈打っている。

 まだ生のなごりの痙攣をつづけている。

 それなのに、服の下の肌に狼の剛毛が生えてた。

 美穂をこんな体にかえたヤツラがにくい。

 稲本だってこのままにしておくのはくやしい。

 彩音は万感の思いをこめて美穂の体をそっとだきしめた。

「さようなら、美穂……」

「彩音あのままではきみまで噛まれた。だから、だからぼくは……」

「いわないで。わかっているから」

 司の英断に彩音は愛を見た。

 司が行動にでてくれなかったら。

 彩音は美穂の歯牙にかけられていた。

 人狼吸血鬼になっていた美穂に噛まれていたはずだ。

 彩音は美穂を斬るために剣をふるえない。

 いちはやく、それを察して司が……その決断に文音は司の愛を感じた。

「司、ありがとう」

 美穂の体をそっとグランドに横たえた。

「さようなら、美穂。このままにしておいてゴメン」

 彩音と司に群衆が寄ってくる。唇から血をながしている。どうやら共食いをはじめているようだ。

「もうこれ以上はもたない」

「汚染されていない生徒はみんな車にのりこんだかしら」

「もうこれまでだ」

 ふたりは4駆動にむかってじりじり後退する。

 静たちが乗り込むまで車を守っていた麻屋のもとにかけつける。

「美穂が噛まれていたなんてわからなかった。ざんねんだったね」

 彩音を引き上げる。

 静がなぐさめる。

「見てたの」

 彩音はこのとき、じぶんが泣いているのにおどろいた。

「出発するぞ」

 父の声が運転席でした。

 車の後部扉に人狼吸血鬼が爪をたてている。

 人狼の吠え声がする。

 彩音はきっとその吠え声のするほうを見据えていた。

 そこに、彩音の故郷鹿沼がある。

 そこに、彩音をいままで育んでくれた鹿沼がある。

 軽い揺れが彩音の体に伝わってきた。

 車が発動した。

 わたしは文美バアチャンの遺志を継ぐ。

 この街にのこる。

 司とふたりでこの街でオジイチャンと人狼吸血鬼を倒す。

 この鹿沼を守る。

 守ってみせる。

 鹿沼が滅びるなんて。

 あまりに悲しすぎる。

 でも、だれもそれを許してはくれないだろう。

 わたしが、鹿沼に残ることは。

 だれも許してくれないだろう。

 それでも……のこりたい……。

 司と守ってみせる。

 でも、それをだれもよろこんでくれないだろう。

 彩音は司の肩に頬を寄せた。

 彩音と司を乗せてきた九尾の狐が猫のように小さくなっていた。彩音のひざにのっていた。狐は彩音を見上げている。文美バアチャンのやさしい視線を彩音は感じていた。

                                     完


注。

●skyscraperとは超高層ビル、摩天楼。転じて「背の高い人」「セイタカノッポ」さんのことをいいます。

●女工。差別用語だとしたらゴメンナサイ。

●彩音ちゃんを書き上げたあとで風邪を引いてしまった。

あとがきが書けなかった。

●この小説はまだまだ書くことがある。書きつづけていきます。

いつの日かまた彩音ちゃんと会ってください。

●ロッキー・ザ・ファイナルを見る。何度見ても感動する。

小説家の苦悩は絵にならない。

スポーツのように絵になる世界がうらやましい。

●「泳いでいるアヒルは足を見せない」

わたしの好きな格言だ。たぶんベトナムの諺だったと記憶している。

●外見的には淡々とキーをたたいている。心ではいろいろな葛藤がある。

それは人には見えない。絵にならない。

●ロッキーのように頑張らなければ

みずからを励ました。

●またすぐ作品を連載します。

よろしくおねがいします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

封印師の家系を継ぐもの 麻屋与志夫 @onime_001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ