episode18《狡い。反則。レッドカード。》

 日常生活にも仕事にも何の障壁がないまま、穏やかな日々が過ぎ、遼太とのデートの日を迎えた。

 しっかり睡眠をとっておこうと思っていたのだが、集合時間に遅れたらどうしようとか、予想以上に準備に戸惑ったらどうしようとか、杞憂としか思えないことばかりを考えていた。そのせいで、睡眠不足とまではいかないものの、早朝に目が覚めてしまった。

 まだ6時で、遼太との集合まで4時間もある。

 以前に電話ではぐらかされた『なんでもない』の内容がずっと気になっていた。本当になんでもないような話だったのか、それとも言おうとしたその瞬間に何か問題が起きて言えなくなったのか。ともかく、今日会った時にそれだけは絶対に尋ねようと企んでいる。

 4時間の間をなるべくいつも通り過ごして、いつも以上に服とメイクに気合いを入れて、デートに臨んだ。

 集合場所に指定されたのは、大通りから一本裏道に入った所にあるカフェだった。そのカフェを利用する人はおろか、その裏道を歩く人すらいなかった。きっと遼太は人の少ないところで話がしたいと思っていたのだ。そう考えると、今日はデートではなく真剣な人生相談のようにも思えてくる。

 外から店内をちらりと覗いてみると、奥のテーブルに遼太が座っているのが見えた。焦って腕時計で時間を確かめた。そして少しだけほっとした。まだ10時にはなっていなかった。しかし、これ以上待たせると悪いので店内に入ることにした。

 店員が決まった言葉をかけてきたので待ち合わせだと伝え、遼太がいるテーブルに向かった。私の足音に気づいたのか、遼太は落としていた目線を上げた。


「お待たせ」


 私がぎこちなく微笑むと、遼太も目を細めて「おう」と応えてくれた。『なんでもない』と言っていたことは絶対に聞こうと思いながら私は彼の向かいの椅子に腰掛けた。

 一息ついた頃に店員が、氷によってさらに冷えた水が入ったグラスを持って来た。


「ご注文はお決まりですか?」


 聞き取りやすい声で言った彼女に、私と遼太は同じアイスコーヒーを注文した。「かしこまりました」と下がって行った先で、店長らしき男性が無口そうな表情でコーヒーを作り始めるのが、遼太の肩越しに見えた。

 目の前の彼に目線を戻すと、遼太は頬杖をついて私を見つめていた。何だろうと思いながら水を飲んだ。それでも遼太の目線は私を捉えて外れない。耐え難くなって私は尋ねた。


「ずっと見てくるけど、私の顔なにか変?」


 もしかしたらここに来るまでに汗をかいたせいでメイクが崩れてしまっているのかと心配になった。不完全なメイクを見られるよりも、崩れたメイクを見られるほうが恥ずかしかった。

 しかし、遼太は私の心配は無駄とでも言いたげな顔をした。


「いいや、いつも以上に可愛いなと思って」


 そう言った彼に照れている様子は微塵も見受けられなかった。それが逆に私の赤面を誘った。返す言葉に困ったが、気合いを入れたメイクを褒めてくれるのはこの上なく嬉しかった。


「あ、ありがとう……」


 とりあえず感謝しておこう。今度は顔が赤いことが恥ずかしくなってきて、再び水をぐいっと飲んだ。あと一口で飲み干してしまいそうだ。

 私は照れた顔を元に戻しながら、今日の遼太はどんな遼太かなと考え始めていた。

 遼太には色々な顔がある。子どもっぽいところがあったり、無性に頼りたくなる雰囲気があったり、何を企んでいるのか分からなかったり、何に対しても悲観的であったり。それらの顔が何によってコントロールされているのか私には推測すら出来ない。

 今日の遼太は、私をからかってくる遼太かなと判断を下した。私の心拍数をどこまで上げに来るつもりなのか。

 自分勝手に邪推していると、遼太が真剣な眼差しで私を見た。彼の視線に気づき、私は勘ぐるのを中断させた。

 私が「どうしたの」と言いかける前に、遼太が口を開いた。


「あ、のさ」


 その途端、何も知らない軽快な口調で女性店員が割って入ってきた。


「失礼しまーす。アイスコーヒーになりまーす。ごゆっくりどうぞー」


 私と遼太は互いにぺこりと頭を下げるだけで反応した。

 何かを言い出そうとしていた遼太にとっては出鼻を挫かれた状態だろう。

 なんとなく雰囲気が乱れ、私は一口コーヒーを含んだ。それと同時に遼太も一口飲んだ。いや、一口どころではない。結構長い時間吸っていた。

 遼太のグラスの中身が半分まで減ったところで心配になって私は声をかけた。


「さっき言おうとしてたのって…なに?」


 私が切り出すと、遼太はやっとストローから口を離した。そして、咳払いをひとつした。


まどかは、さ、俺に聞きたいこととか、ない、の?」


 唐突な質問で驚いた。しかも、たどたどしい。何を気にしているのか、私にはさっぱり分からなかった。


「聞きたいことって、たとえば?」


 質問に質問で返すのも申し訳なかったが、私に心当たりは全くなかった。

 私が例を求めると、彼はさらに眉をひそめた。


「たとえば……。なんで俺が海外にいたのか、とか。なんで偽名で円に近づいたのか、とか」


 いざ言われると気になってくる。その場ではすごく気になって時間も忘れるくらいだったのに、今となっては過ぎたことであって深く考えるべきではないと、自分の中で排除されていた問題だった。

 考えを一周巡らせてから、じゃあ、と私が言うと、遼太は聞き漏らすまいと耳をこちらに少し傾けた。


「じゃあ、ネックレスをくれた理由、教えて」


 遼太は面食らった表情をした。まさかその質問が来るとは思っていなかったのだろう。しかし私にとっては、それが海外で一番気になっていたことなのだ。

 数秒間遼太はそのままの表情で固まっていたが、答える決心がいったのか真面目な表情になった。


「あれは、ただ単にプレゼントしたかっただけなんだ。ペリドットにしたのは、あの色が円に似合うって思ったから。メッセージカードが誕生日になってたのは、そのとき他の理由が思いつかなかっただけだ。今思えば、出会えた記念とか復縁できた記念とかでも良かったな」


 遼太は私の質問の正直に答えたあと、不意に横を向いた。そのとき、彼の耳が一瞬きらりと光った。視線の先も気になったが、私は無意識に尋ねていた。


「ね、遼太、ピアスしてる?」


 私からの問いにすぐ遼太は視線を戻した。そして、「ああ」と肯いた。


「俺もペリドットの。実は、ネックレス買ったときに、同じ石でピアスも買ったんだ。円と同じもの欲しくなってさ」


 そう言って髪をかきあげて右耳を覗かせる彼はとても色っぽかった。

 ほら、やっぱり。さっきまでは真面目だったのに、急に雰囲気を変える。そういうところがずるい。しかも、同じものが欲しいって。反則。レッドカード出しますよ。

 私は内なる気持ちを表には決して出さないようにして「へぇ」とだけ返した。

 一つ質問をしてみると、一度は自分で答えを作り上げたことについて再び疑問を持ち始めてしまった。

 もし遼太が休日に私と会う約束をした理由が、このような質問をさせるためだったら。そう考えると、一週間前の車内で素っ気ない態度だったのにも合点がいく。


「遼太、あのさ−−」


 私は一度は自己解決してしまったことをすべて、遼太に尋ねた。自分でも何個の質問をしたのかは覚えていない。でも、すべての質問に彼は真面目に、偽りなく、答えてくれた。

 話をしている内にお昼を回っていたらしく、私と遼太はそのままカフェでお昼ご飯を食べた。

 食べ終えると、遼太がすぐに席を立った。


「悪い、これから仕事なんだ。食事代は置いておく」


 遼太の言葉を聞いて、彼がどんな職業なのかを思い出した。

 本当は仕事が忙しいのに私との時間をいてくれたのかと思うと、なんだか申し訳なくなってくる。


「そっか、忙しいのに長話しちゃってごめんね、いってらっしゃい」


 私が寂しい思いを感じさせないように元気よく言うと、遼太は少し笑って頷いた。そして、店の出入り口まですたすたと歩いて行った。

 しかし、出る直前に足を止めた。最後まで彼を見送ろうと目で追っていた私は驚いて、余計に目が離せなくなった。

 遼太はくるりと身をひるがえし、また私の近くまで歩いて来た。それを私は見ているだけで何も言わなかった。

 気のせいでなければ、遼太の顔が少し赤い。


「昨日、電話で言ってた……」


 その一言で彼が何をしようとしてるのかを察することができた。それでも私は何も言わなかった。ただ頷くだけで反応した。

 彼の目が泳いでいる。


「その……」


 どんどん顔が赤くなっていく。

 あれ、もしかして。言いたいことが分かった気がする。

 そう思った途端、私の顔にも熱がいく感覚に気づいた。


「……俺には、円しかいないから。いつか、ちゃんと。……迎えに行くから。じゃ」


 一瞬何が起こったのか分からなくなった。もう目の前に遼太の姿はなく、店員が「ありがとうございましたぁ」と呑気に言っている瞬間だった。

 最高峰に心臓が騒いでいる。そんなに早く血液を体に送らなくても今は安定しているはずなのに。

 今はここで拍動を抑えるよりも、急いで家に帰った方がいいだろうと決断した。そして、今までにない速さで支払いを済ませ、帰宅した。

 家に着くとすぐに枕に顔をうずめ、遼太に言われた言葉を思い出した。

 その日は夕方になるまで、『迎えに行く』というフレーズが頭から離れなかった。

 やっぱり、ずるい。反則。レッドカードです。

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