episode17《蔽われたトイフェル》

 彼と再び会うことになったのは、帰国してから一週間後だった。お互い仕事の様子を見ながら、落ち着いたころに会うことに決めた。

 ありがたいことに、私は仕事で指名をしてもらうことが多くなった。さすがに先輩ほどではなかったが、それでも新人にしては珍しいことだったらしい。一人でプランを立てることもあって、家に仕事を持ち帰ることも増えた。

 遼太と会うことになっているのは週の半ばで、そのあとの週末に結婚式当日だった。スケジュールが被らなかったことが幸いだった。

 私が夜遅く指名してもらったカップルの式プランを考えていると、スマートフォンに着信が入った。相手は遼太だった。


『電話したい』


 驚いた。ただでさえ遼太からメッセージが届くことが滅多にない中で、電話がしたいとは何かあったのだろうか。少し心配になって電話をかけた。

 数回のコールの後、カチャという音が聞こえ、そのあとに声がした。


「もしもし」


 その一言だけで私は何かを感じた気がした。心がぞわっとした。まるで、知らない誰か、または得体の知れない闇と会話をしているようだった。

 いつもより低く聞こえるその声に嫌な予感がしながらも、私は問うた。


「電話したいなんて、どうしたの?」


 そう尋ねるのが今は正解だと思った。私が彼から何かを悟ったように、彼にも何か悟られてしまう危険を感じて、私は明るい声を出した。心配はされたくなかった。

 私の問いから数秒が経って、「もしもし」と声をかけそうになったとき、彼が言った。


「声が聞きたかっただけ」


 そう言った瞬間、少しだけ遼太の声が柔らかくなった。もし暗い声のままだったら、本当にそう思っているのか疑っていたところだ。

 私のことを思いながらメッセージを送ってくれたと分かると、無性に嬉しくて、鼓動が速まった。


「そう? じゃあ、羊でも数えようか?」


 私はその場に寝転がりながら、ほんの少し茶化して言った。しかし、遼太の反応は無かった。心配になって彼の名前を呼んだ。すると、私と同じような茶化す声がした。


「お願いしても?」


 あの時の遼太だ。悪戯いたずらっぽく笑う遼太が目の前にいる錯覚を起こした。

 冗談が通じていないのだと思い、私は急いで弁明した。


「え、あの、今のは冗談だったんですけど……」


 私の戸惑った声を聞くと、遼太は笑った。


「分かってるよ。……あのさ」


 特に用が無さそうな話し方をしていたのに、急に遼太は話題を作った。先ほどまでとは声音が全く異なっていて、その差に気を惹かれた。もしかしたら、小さな間が雰囲気を作ったのかもしれない。

 私はただ、彼が何かを切り出すのを待った。きっと私にも彼にも何の影響もない世間話だろうが、最初に彼が言ったように、私の声を聞かせてあげられるのなら充分かなとも思った。


「−−やっぱり、何でもない」


 とても長く感じられる時間の末、遼太は過去の間違いを消そうとするかのように言った。私は何を聞かれてもいいように返答を考えていたのだが、彼から質問をキャンセルされてしまうとは予想していなかった。

 隠し事をされている気分になって、今度は私から問いかけた。


「気になるじゃん、なんなの? ね、教えて」


 しかし、電話越しに聞こえるのは、遼太の吐息ばかりだった。なぜ教えてくれないのかは疑問だったが、今は言えない理由でもあるんだろうと無理矢理に納得することにした。

 「仕方ない」と割り切ることにしたその瞬間、再び彼の声が聞こえた。


「次会った時に言う。必ず」


 遼太の声には強い決意がこもっていて、何がそんなに彼を駆り立てているのか気になった。彼の物言いから、うっすらと焦りを感じた。

 それ以上は踏み込んで聞いてはいけない気がした。会った時に教えてくれるという約束になったのに、ここで聞くのはタブーを犯しているように思えた。


「分かった、絶対だよ。私、気になってるんだから」


 私が口を尖らせながら言うと、遼太は優しく「あぁ、必ず」と答えた。教えてもらえることになったにも関わらず、遼太に秘密には触れられない自分が悔しかった。それ以上に、すぐには教えてもらえない自分に嫌気がさし始めた。

 遼太は声音を変えて言った。


「じゃあ、今日はこれで。急に電話して悪かった」


 突然の別れはさっぱりしたものだった。私も、「あ、うん」と咄嗟に返事をしてしまった。そして、電話は切れた。

 スマートフォンのスピーカーからはプーップーッと電話の切断音が聞こえていた。

 「好きだよ」でも「愛してるよ」でも「もっと話したい」でも、何でも言えばよかった。

 声が聞きたいと思っていたのは、私の方だった。

 じきにスマートフォンの画面がスリープになり、電話の切断音も途切れた。真っ暗になった画面に映るのは、今にも泣きそうな私の顔だった。

 なぜ泣きそうなのかは、自問自答するまでもなかった。くだらない問いだった。

 先ほどのように「仕方ない」と割り切ることはできなかった。

 目の前の机に広がった紙面を見て、何とも思えなかった。羨ましい気持ちも、嫉妬の気持ちさえもなく、私の心はスリープ画面になったスマートフォンのようだった。

 仕事を続ける気力も失せてしまい、私は机の上を散らかしたままベッドに入った。そして、遼太のことをぼうっと考えながら、いつの間にか眠りに就いていた。

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