幸せを願ってくれたあなたへ

村山 夏月

『お兄ちゃん』

 寝る前にあなたが読んでくれた物語を今も忘れることができない。

 毎晩、あなたは私の枕元に寝そべって前夜の続きを話してくれた。

 主人公は私で色々な世界を旅して、色んな人と出会って、色んな思いに駆られる素敵なお話。

 それをあなたは温かみのある優しい声で私に聞かせてくれた。

 朝の支度をして途中、いつも考えてしまう。今日はどんなお話をしてくれるのかな、と。

 寝ぼけたふわふわの頭の中はこれで一杯だから、よく忘れ物をしてしまうのだ。




 幼い頃、私は夜中に目が覚めてしまった。

 それは不気味なほど静かな夜だった。

 少し開いたカーテンの隙間から見える星はどこか頼りなさそうに瞬いている。

 ぼんやりと眺めていたらその時だ。突然、初めて聴く鳥の鳴き声に驚いてしまい、咄嗟とっさに布団の中へと隠れた。

 気持ちを落ち着かせるために無理矢理、まぶたを閉じて、夜が明けるのを待つことにした。

 しかし、意地悪なことに時はゆっくりとしか流れず、このまま永遠に朝が来ないのでは、と不安になってしまった。

 ベッドから出てパパとママの部屋に行けたら良かったが、小さい頃の私にはそんな勇気は持ち合わせていない。

 いつもは眠っている時間に起きている、この事実がまるで一方通行の道を逆行ぎゃっこうしている感覚で、今への居心地を悪くした。

 朝が迎えに来てくれるまで私はおびえながら夜を過ごした。

 恐怖から目を背けるように羊を数えてみたが、20匹以降の数がいくらやっても、思い浮かばず諦めてしまった。

 指人形で家族ごっこをしても、真っ暗な中だと何が何だかわからなくてつまらなくなった。

 他にも食べ物の名前をいくつ言えるか、挑戦したりしたがお腹が空く一方で時間は大して潰せなかった。

 これでも私なりに頑張って夜を過ごしたつもりだ。

 少しは明るくなっただろうと期待をしながら布団から顔を出す。

 しかし夜空は変わらず星たちを飾っていた。

 呆れた私は布団に潜り込んで、口を尖らせた。

「……夜のバカ」

 これが当時の精一杯の反抗だったのが、可愛らしくて笑ってしまう。

 その後も私はなかなか寝付けずに何度も寝返りをうった。

 すると、枕がぬるく濡れているのに気がついた。

 布団の中で体をむくりと起こし、そっと頬に触れる。

 指先に雫が伝たるくらい濡れてはいたが所々乾いた部分もあった。

 自分では気づかないうちに泣いていたんだ。そう思うとなんだか、気持ちが弱くなった。

 我慢していたつもりはないけれど、私は夜の孤独感と心細さが相まって、涙の栓が抜かれたようにわんわん、と泣いてしまった。

 その後も家族の誰かに、私を気づいてもらおうと声を上げて泣き続けた。

 すると隣からドアが開く音がして、廊下から軽い足音が近づいてくるのがわかった。

 私は泣き声を抑えてその足音に耳を澄ませる。私の部屋の前で音は止まった。

 私は布団から覗くように顔を出し、ドアを挟んだ先に立っている誰かを伺った。

 ドアノブがきしみながらゆっくりと回る。開かれるドアを期待と不安の混ざった気持ちで見つめた。

 突然、差し込む光のナイフは真っ暗な部屋を切り裂いて私を照らす。

 あまりに眩しくて、手で光を遮りながら誰かを確認する。

 月明かりを背にしたその人はまるでヒーローの登場シーンのようだった。

 目の焦点をうまく合わせると、そこに立っていたのは寝ぼけた目を擦っているお兄ちゃんだった。

 そして、私を認めたお兄ちゃんは不思議そうに訊いてきた。

「どうしたの? なんで泣いてるの?」

 私はしどろもどろな口調でさっきまでの出来事をお兄ちゃんに説明した。その間、お兄ちゃんは聞き取れる単語の一つ一つを理解するようにゆっくりと頷きながら聞いてくれた。

 すると、お兄ちゃんは枕元までゆっくりとした足取りで近づいて、慰めるように私の頭を優しく撫でた。

「怖かったね、けどもうお兄ちゃんが来たからには大丈夫だから泣かないで」

 その手から伝わる体温はとても温かく、孤独感や心細さをあっという間に溶かした。

 一安心した私はまた声を上げて泣いてしまった。

 その間もお兄ちゃんは何度も背中を優しくさすってくれた。時々、大丈夫だよ、と抱きしめてくれたりもした。

 しばらくして、泣き止んだ私にお兄ちゃんは何か思いついた顔で笑いかけた。

「そうだ、眠れないなら僕が何かお話を聞かせるよ」

「ほんとに?嬉しい!早く聞きたい!」

 急かすようにお兄ちゃんの裾を掴んで引っ張る。

「わかったよ、それじゃあ話すね。むかしむかし、空にかかる虹の根元には何があるのかを探しに行った子供達がいます……」とお話しは始まった。




 結末を聞く前に眠りに落ちてしまったが温かみのある優しい声を子守唄のように聞きながら眠ったその夜はすごく心地の良かった。

 次の日もまた次の日もお兄ちゃんは私のためにお話を聞かせてくれた。

 それからというもの、あんなに夜を怖がっていた私は、眠る時間が早くこないかと願うほどお兄ちゃんのお話にすっかり魅了されていた。

 今夜も「続きを聞かせて!」と言うとお兄ちゃんは私の大好きな笑顔で「よし、きた!」と快く受け入れて、私の枕元に寝そべった。

 私が主人公の、私の好きな人しか出てこないこの世界で、とっても大好きなお話を眠りにつくまでまた話してくれた。





 でもいつからか、あなたのお話は聞けなくなってしまった。





 家に居てもほとんど目を合わすことはなく、あなたの名前を呼ぶこともなくなってしまった。





 お互いにすれ違い、あなたと過ごす時間は失われたまま、私は今日、好きな人のとこへと嫁いでいく。





 久々に見えた彼の姿に、今日こそ言えなかった言葉を言いたくて、ウェディングドレスの裾を摘んだまま、ゆっくりと駆け出した。

 また、お兄ちゃんも私を見つけると人波を掻き分けながら少しずつ近づいてきた。

 2人は互いの糸を手繰たぐり寄せるように距離を縮める。

 そしてやっとの思いで出会った私達はぎこちない挨拶を済ませた後、呼吸を整えてから、少し間をおいて顔を向き合った。

 緊張に似た恥ずかしさをお互いに隠しきれず顔に出てしまっているのが兄妹らしくて私はつい笑ってしまった。

 すると、お兄ちゃんも私につられて自然と笑顔になっていった。

 久しぶりに見る私の大好きなお兄ちゃんの笑顔。

 それがとても嬉しくて今にも零れ落ちそうな涙を堪えて私はずっと言いたかった言葉を伝えた。






「お兄ちゃん、今までありがとう。」


「幸せになれよ」

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幸せを願ってくれたあなたへ 村山 夏月 @shiyuk_koi

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