ピンで止めたい記憶は、自分で決める
ちびまるフォイ
なにをしている時も、私のことを思い出して
その夫婦は近所でも有名なおしどり夫婦で、
地元じゃ負け知らずくらいふたりでひとつだった。
「あなた、ちょっといいかしら」
「どうしたんだい、ハニー」
「実は欲しいものがあるの」
夫は妻の言葉にぎくりと背筋が凍り、
広げていた子供新聞をとじて覚悟を決めた。
宝石か、家か、世界の半分か、あるいは――。
「記憶ピン止めが欲しいの」
「は?」
妻は持っていたタブレットを夫に見せた。
たいした額でもないので即購入してあげた。
「ハニー、改まって言うからびっくりしたじゃないか。
これくらいなら全然問題ないよ。どうしたんだい」
「たとえ少額でも、あなたに黙って何か買うのは抵抗があったの。
私たちは夫婦でしょ。隠し事はしたくないもの」
「ああ、ハニー。君はなんてすばらしい女性なんだ。
結婚当初に年齢を25歳サバよんでたことなんてもうどうでもいい!」
翌日、夫が仕事に行っている平日に記憶ピン止めが届いた。
箱を開けてみると、精密機械と読ませる気があるのかないのか
わからないほど細かい文字で書かれている説明書があった。
「これは無理ね」
妻は早々に諦めて夫の到着を待った。
夫が仕事から戻るとピン止めの使い方をレクチャーしてもらった。
「わかったかい、ハニー。これで自分のピン止めしたい記憶を止められるよ」
「ありがとう、ダーリン。あなたが機械に強くて本当によかったわ」
「機械には強いけど、君にはいつも骨抜きサ☆」
「あなたってたまにオヤジ臭い言い回しがあるわよね」
妻はさっそく教わった装置で記憶をピン止めすることにした。
昔のアルバムを開いて、夫と初めて出会った人の記憶を鮮明にしてからピン止めする。
すると、常に頭の隅に出会ったころのラブラブな日々が頭をよぎる。
「これがピン止めね、買ってよかった!」
頭にピン止めするようになってから夫婦の些細なケンカも減った。
今でこそサビれてしまったが、出会った当時の優しい夫をいつも頭の隅におけるので、怒りにくくなった。
妻はピン止めをすっかり気に入って、日替わりでいい思い出をピン止めしたり、
誰かに自分の体験を話す時にピン止めして、常に最前に記憶を置くようになった。
そんなある日。
「あなた、話があるの」
「え゛っ……?!」
夫は緊張で脇汗がほとばしり床を水浸しにしてしまった。
あらゆる悪い想像が頭の中を駆け巡る。
「……英会話教室に通いたいの」
「な、なぁんだ。そういうのか、びっくりしたよ。
なにかとてつもない借金とか、離婚とかかと思ったよ」
「そんなことするわけないじゃない。
私の頭の中の記憶の最前列にはいつもあなたがピン止めされているのよ」
「でもどうして急に英会話教室に?」
「専業主婦で家に長くいると時間を持て余してしまうの。
それに、何も資格がない自分というのがいやだったから」
「君のそういう向上心があるところ好きで結婚したんだよ。
英会話教室に行ってきなよ」
「ありがとうダーリン」
妻は英会話教室に通うようになった。
その上達ぶりはめざましいもので、あっという間にネイティブレベルまで上達した。
「いやぁ、君はまだ英会話教室を数日なのに
もうそんなにしゃべられるようになったなんて驚いたよ」
「実は裏技があるの。その日習ったことの記憶をピン止めしておくのよ。
そうすれば、何度も何度も同じ記憶が繰り返されて、自然と定着するの」
記憶をピン止めして、いつも頭の片隅にあれば
テレビを見ている時も、食事をしているときも、トイレにいるときも。
24時間常に頭の中に表示されているので自然と身につくというものだった。
「あなたも英会話の勉強してみたら? きっと仕事のためになるわよ」
「ああ、そうだね。そうしてみるよ。
でも夫婦で同じ場所はちょっと気恥ずかしいから別の場所で習ってみるよ」
「そう? それじゃ、私があなたの記憶ピン止めしてあげるわ」
「かまわないけど、一体どうして?」
「深い意味はないわ」
妻は夫の記憶の中からピン止めする記憶を選んだ。
夫は妻とは別の英会話教室に通うようになった。
しばらくして、夫が妻に泣きついてきた。
「ああ、ハニー!! お願いだ、ピン止めを解除してくれ!
これはピン止めした人にしか解除できないんだ!」
「あら、どうしたの?」
「ピン止めされた記憶が毎回思い出されるから、
とても授業に集中できないんだ!
授業に集中するためにはピン止めを解除してほしいんだ!」
「もちろんよ、ダーリン。でも教えてくれるかしら」
「なにかな、ハニー」
「女生徒が多くいる英会話教室で勉強するときに、
私の結婚式の思い出がピン止めされて不都合なことって何かしら?」
ピンで止めたい記憶は、自分で決める ちびまるフォイ @firestorage
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